第17章 平成7年 阪神大震災直後のルブラン号と難波-富山線夜行便から関越高速バス池袋-高岡線へ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「関越高速バス」池袋-高岡・氷見線、高速バス難波-富山線夜行便、夜行高速バス「ルブラン」号、、岡山空港リムジンバス、日本エアコミューター伊丹-岡山線】
 


平成7年2月の週末の話である。

西日が眩しく差しこむ岡山駅前は、真冬とは思えないほど、ぬくもりのある風が吹き渡っていた。
東日本から来た人間としては、羨ましいほどの温暖な気候である。
前夜に品川を発った夜行高速バス「ルブラン」号で、早朝にこの地へ降り立ったのだが、車内ではぐっすりと眠れたため、疲れは全く残っていなかった。


「ルブラン」号に乗るのは2回目である。
平成2年3月の開業当初は、京浜急行バスと両備バスが運行する「ルブラン」号、関東バスと下津井電鉄バスが運行する「ルミナス」号、小田急バスと中鉄バスが運行する「マスカット」号の3路線が、東京と岡山・倉敷の間にトリプルトラックとして同時に開業したことで、話題になった。

高速バスの開設がほぼ自由化された現在では、複数の高速バス事業者が同じ区間を結ぶ路線を開設して競合することなど珍しくなくなったが、その頃は、運輸省が出来るだけ競合を避けるよう参入事業者を調整してから免許を交付していたのである。
規制緩和の波が少しずつ押し寄せてきた時代であったのかもしれない。
 


今では中国JRバスの「京浜吉備ドリーム」号や、東北急行バスと両備バスの「ままかりライナー」など、更に複数の後発路線が加わって、一層賑やかなことになっている。
東京と岡山の間には、今や日本唯一の寝台特急列車となった「サンライズ」も走っており、それほど夜の移動人口が多いのだろうかと思ってしまう。

僕が「ルブラン」号に初乗りしたのは開業直後のことで、倉敷からの上り便だった。
「ルブラン」号の終点が品川で、当時の自宅に近かったことが最大の理由である。
自宅から便利なバスを選ぶという思考は、至極真っ当なことであろう。
 


一方で、同じ区間に再び乗るならば、違う事業者の路線を選びたいと思ってしまうのがマニアのマニアたる所以であるけれど、今回は、そうは問屋が卸さない理由があった。
この旅行は、岡山に住む知人に招かれたことがきっかけなのである。

その知人もバス好きで、

「両備バスが『ルブラン』を新車にしたんですよ。『ニューエアロクィーン』のプライベートカーテン付きですから、ぜひ、乗って来て下さい」

と、大変誇らしげに電話して来たので、「ルブラン」号に乗らない訳にはいかなくなった。
誰でも、地元のバスが豪華になるのは嬉しいことなのだ。

乗って来て下さいと言われても、なかなか容易なことではない。
長距離バスは、起終点の事業者が共同運行することが多い。
「ルブラン」号は両備バスと京浜急行バスが交互に走らせている。
京浜急行バスは車両を更新していなかったから、こちらの都合に合わせて予約を入れるだけでは、両備バスのニューエアロクィーンに巡り合う確率は2分の1である。
ところが、知人は張り切って両備バスの運行日を調べ上げ、それを元に日程まで調整してくれた。
内心、このような成り行きになるならば、1回目を他社の路線にすれば良かったと思っても、もう観念するしかない。

昭和63年に三菱ふそうから発売されたP-MS729S「エアロクィーン」は、折りからの高速バスの開業ラッシュと重なり、多くの事業者で採用されて、生産終了までに800台近くが販売されたベストセラーである。
昭和の終わりから平成の初めにかけて、丸みを帯びた前面と2つの大型灯が印象的な、パンダのようなフロントマスクのバスを見かけた方は多いと思う。

平成4年にフルモデルチェンジされたのがU-MS821Pで、通称『ニューエアロクィーン』と呼ばれていた。
どことなく可愛げがあった旧タイプと対照的に、前照灯が細くなり、精悍なフロントマスクになっていた。
エンジンは国内最大級のV型8気筒・排気量2万cc、馬力は400PSに引き上げられている。
355PSだった旧エアロクィーンが4速までシフトダウンしていた東名高速の箱根越えを、5速もしくは6速のままで、時速100kmを保ちながら余裕で登っていける、という話も耳にした。
昭和40年頃に開発された国鉄「東名ハイウェイバス」の出力が、230~320PSであったことを考えれば、隔世の感がある。
 


今回は、僕にとって初めてのニューエアロクィーン体験であった。
車両のことには疎い僕だけれども、実際に乗ってみれば、新品だから清潔で、高出力を生かした走りは滑らかで、乗り心地が上々であることくらいは分かる。
新車に乗ることが、嬉しくない訳がない。
大いにくつろぎながら、快適な一夜を過ごすことができた。

知人のお薦めの個室カーテンとは、横3列の各座席ごとに、通路のカーテンで隣りと隔ててしまうものである。
今でこそ大抵の夜行バスに備わっているが、当時では珍しい設備だったから、心ひそかに楽しみにしていた。
ところが、この夜はカーテンレールの上に巻き上げられたまま、どの席の乗客も使おうとしなかったから、僕もついつい遠慮して、結局未使用のままで朝を迎えた。
夜行高速バスは、消灯時間以降は車内がほぼ真っ暗になるから、個室カーテンを使わなくても、それほど眠りが妨げられるわけではない。

岡山駅前に迎えに来てくれた知人に感想を聞かれ、カーテンを使うことなく終わった話をすると、

「ええ?そんなあ」

と、我が事のように残念がっていた。
 


前置きが長くなってしまったが、特急バスで宇野まで往復するなど大いに楽しい1日を過ごし、岡山駅へ戻ってきたところから、今回の話は始まる。

これから北陸を回って、翌日の夕方までに東京へ戻ろうと思う。
北陸に、これといった用事があるわけではない。
単に、平成6年12月に開業したばかりの「関越高速バス 池袋-高岡・氷見線」に乗ってみたかっただけのことである。

北陸を発着する高速バスの新路線に乗るため、岡山への旅行のついでを利用するとは、正常な人間の発想ではないと思われるであろう。
それでも、岡山からいったん東京へ戻って出直して来るよりも時間の節約になるし、移動距離が短くて済む。
これだけ交通機関が発達した現代では、決して難しくはない筈である。

だが、この時ばかりは、果たして目論み通りに事が運ぶのかどうか、全く覚束なかった。
 

$†ごんたのつれづれ旅日記†


1ヶ月前の1月17日午前5時46分、M7.2・最大震度7という巨大地震が阪神地域と淡路島を襲った。
阪神大震災である。
眠っていた街は、僅か10秒の揺れで一瞬のうちに壊滅した。
近代建築物はもろくも崩れ落ち、火災が家々をなめ尽くして、6000名もの尊い生命が犠牲になったのである。

震源地に近い兵庫県南部は様々な幹線交通機関が集中しているため、震災によって、日本の東西交通は長期に渡って完全に寸断された。
高架橋が崩落した山陽新幹線をはじめとするJRや私鉄の鉄道網、高速道路や幹線国道が軒並み不通となり、関西国際空港が連絡橋の不通で一時孤立化、神戸港も埠頭が沈下して港湾施設が破壊されるなど、阪神地域の交通網はずたずたになってしまった。

太平洋ベルト地帯を貫く大動脈が麻痺したことで、京阪神のみならず、日本の経済・流通機能は危機に直面した。
残された幹線交通機関である航空機に旅客が殺到し、多数の臨時便を運航しても、なお座席が不足した。
貨物輸送を担うトラックも、代替ルートとなった日本海側の国道や四国・紀伊半島などのフェリー港に溢れ、いつ目的地に到着できるのか見当もつかない有様だった。



そのような惨々たる状況の中で、バス輸送が脚光を浴びたことは見逃せない。
日本が戦後初めて遭遇した都市型の震災において、地域輸送や都市間輸送でバスが果たした役割は計り知れなかった。
特に、線路が破壊されて不通が長引くJR、阪急、阪神、山陽、神戸電鉄などの代替輸送に膨大な数のバスが投入され、道路の損傷や渋滞に悩まされながらも懸命の地域輸送が行われている様子は、連日マスコミでも取り上げられていた。
北海道から九州まで、路線バスや観光バスの種別を問わず、全国の事業者が車両を送り込んで、地域輸送を支援したのである。


震災発生当初は、同地域を通る高速バスもことごとく運休した。
神戸発着路線のみならず、首都圏や名古屋発着の西日本方面路線、関西発着の各方面路線など、120近い高速路線が、震災当日に運転を見合わせている。
例えば、鳥取発大阪行き山陰特急バスは、震災当日も運行を試みたが、道路の破壊と渋滞に阻まれて、第1便は大幅に遅延したあげく、午後1時に宝塚市内で引き返した。

しかし、復旧が長引く新幹線に代わる輸送手段として、運輸省から要請があったことも手伝って、道路事情の改善を待たずに、定期高速バスは早々と運行を再開した。


中でも、「ルブラン」号は、震災の翌日、1月18日出発便から運行を再開したのである。
東京を出て、東名・名神高速から北陸自動車道に回り、日本海側の国道を経て舞鶴自動車道・陰陽連絡道へと大きく迂回するため、大幅に遅延して、到着が夕方になった日もあったという。
長時間運転に備えて運転手を3人乗務させた日もあり、人件費・燃料費・高速料金等がかさんで採算がとれるかどうかも危ぶまれたが、公共交通機関としての使命感から、果敢に運行再開に踏み切ったのである。
この話を聞いた時には、バス事業者の心意気を感じて胸が熱くなった。
 


四国内各地から名古屋・東京方面を結ぶ夜行バス4路線も、1月20日から運転を再開するなど、「ルブラン」号に倣い迂回路を開拓して運行を再開した路線は多い。
ただし、大変な遅れが予想されたので、この時点で運行を再開した路線のほとんどが夜行バスだった。

「所要時間は、ちょっと予想がつきかねます」(名古屋-高知線「オリーブ」号の運行事業者)

と、慣れない道ゆえの混乱が続いたが、各社とも実績を重ねながらルートを研究し、数日後には、

「少しでも流れている道を探してきましたので、今では5時間以内の遅れで運行できます」(「ルブラン」号運行事業者)

と胸を張る事業者も見受けられたのである。

当時の岡山発着の高速バスは、中国自動車道福崎JCTから播但連絡自動車道に乗り換え、姫路東JCTで、部分開通だった山陽自動車道に入り、更にブルーハイウェイで岡山入りする経路が、本来の正規ルートだった。

吹田ICと西宮北ICの間で不通になっていた中国道が全線復旧したのは、震災から10日後の1月27日である。
開通の当日は、久しぶりに蘇った大動脈に大量の車が集中した。
加えて、宝塚トンネル付近の高架橋で危険を避けるために1台ずつ通す措置が取られ、付近を対面通行にしたため、下り線が48km、上り線が25kmに渡って数珠つなぎになった。
中国道に接続する名神高速や近畿道も、幾つかのインターを閉鎖しなければならないほどの渋滞だった。


その混乱ぶりは、山陽新幹線に代わる代替バスとして同じ日に運行を開始した、新大阪-姫路間高速バスの運行状況が、象徴的に示している。
JR福知山・播但・加古川線などを経由する鉄道山間ルートが、連日120~200%の混雑を呈しているため、運輸省が新たな対策としてバス会社に運行を打診していたものである。

上下便とも、第1便は、定員55人乗りのバスが3台ずつ用意された。
姫路駅前バスターミナルには、午前6時30分発の第1便に乗るため、早朝4時頃から、大阪へ通勤するサラリーマンや、生活用品を手に被災地を見舞う利用客が並び始めた。
新大阪駅には午前6時半頃から列ができ、出発前には200人に膨れ上がった。
8時40分発の下り第1便は、用意した3台がすぐに満席になり、発車時間を20分繰り上げて出発、約70人が積み残された。
姫路発の第1便は、中国道吉川IC付近から、1時間に100mしか進まないというひどい渋滞に巻き込まれてしまう。

「少々時間はかかっても、弱音を吐いたら被災者に恥ずかしい」(新聞記事のインタビューより)

と言っていた乗客も、出発から7時間後の午後1時頃に、動けなくなったバスに痺れを切らして、西宮名塩SAの3kmほど手前で150人が下車した。
動かない乗用車やトラックの列を横目に路肩を歩き、およそ2時間かけてJR西宮名塩駅にたどり着いて、電車に乗り換えたという。

この便は、12時間たっても到着できず、午後7時に西宮名塩SAで姫路へ引き返した。
後続の7便も途中で中国道を降り、三田駅で乗客全員を下車させた。
1台のバスも、新大阪には到着できないという、惨々たる有様だったのである。
新大阪発の下り便も、先行したバスの大幅な遅延を受けて、6便が運休という結果に終わった。

臨時高速バスを運行する神姫バスと西日本JRバスは、翌日から姫路-三田間にルートを短縮すると発表した。

中国道の渋滞は長期に渡って慢性化し、高速バス関係者を悩ませた。
遅延が続出し、品川-今治間夜行バス「パイレーツ」下り便などは、再び日本海側を迂回したくらいである。

「大動脈である中国道の復旧を早急にしてほしい。開通後も通り抜けに3時間以上を要している」(大阪-鳥取・倉吉・米子間「山陰特急バス」運行事業者)

という悲鳴も上がった。

僕が岡山まで出かけた頃は、震災から1ヶ月が経過し、情勢も多少落ち着いていたのだが、「ルブラン」号がどれほど遅れるのかは、乗ってみなければわからなかった。
未明に車中で目を覚まし、バスが匍匐前進のように小刻みに動いたり止まったりを繰り返していることに気づいて、中国道の宝塚付近まで来たのか、と、ぼんやり思ったことは覚えている。
幸い、この日は2時間程度の遅れで岡山に到着できた。
 


問題は、岡山からの帰路である。
目論み通りに北陸へ向かうためには、大阪へ出る必要がある。

中国道の開通に合わせて、震災の4年前に乗客数の低迷から運休していた梅田の阪急三番街と岡山を結ぶ下津井電鉄の高速バスが、昼行便2往復で復活していた。
従来から走り続けている両備バスの堺東・難波-岡山・倉敷間高速バス(昼行便1往復)も、新幹線代替輸送の性格を強め、1便あたり2~4台態勢をとっていた。

その他にも、2月10日に大阪・上本町-福山線(昼4往復)、2月17日に新大阪-岡山線(昼4往復)と上本町-防府線(昼1往復・夜1往復)、3月5日に新大阪-広島線(昼2往復)と難波-広島線(昼1往復)、そして3月17日には東京・品川-尾道線(夜1往復)が、新幹線代替輸送を謳う臨時高速バスとして続々と登場していた。
 


今回の旅行に先立って、両備バスに電話で問い合わせてみると、

「難波行きは、5時間遅れの日もあれば、1時間程度の遅れで済んだ日もあります。到着時刻が全く読めんのです」

という返事であったから、乗り継ぎを控えている身としては、高速バスを選ぶことはためらわれた。
姫路まで出て、新幹線代替バスと鉄道を三田で乗り継ぐ方法が最もオーソドックスではあったけれど、とにかく大変な混雑と聞いていたから、僕のような風来坊がその中に割り込むことは気が引ける。

岡山駅は、常ならぬ奇妙な雰囲気が漂っていた。
新幹線乗り場の人影は疎らで、震災の甚大な影響を改めて噛み締めた。
北口へ回ると、閑散としたコンコースとは対照的に、岡山空港行きのリムジンバス乗り場は黒山のような人だかりだった。
駅に来る途中で通りがかった大阪行き高速バス乗り場にも、長蛇の列が出来ていた。
 


岡山は、姫路と並ぶ東西交通の西の玄関口となっていた。
姫路では、大阪方面の足が山間ルートを迂回する鉄道と三田行き臨時高速バスに限られるが、岡山からは、臨時便で増強された航空路線や高速バスを使って、東京・大阪などに直行できる利便性が買われたのであろう。

羽田と岡山の間には、既存の定期航空便の他に、1月の震災以降に53往復、2月に114往復、3月に100往復もの臨時便が運航されている。
山陽新幹線が不通だった期間における臨時便の総数は292往復にも及び、羽田-広島間の207往復、羽田-福岡間の133往復と比べても突出した運航本数であった。
伊丹・関西-福岡、伊丹・関西-高松などでも臨時便が運航された。

震災前には定期便が運航されていなかった伊丹・関西-岡山、伊丹・関西-広島・広島西、伊丹・関西-宇部山口などを結ぶ航空路線も、運航を開始した。
伊丹と岡山を結ぶ臨時便は、1月に53往復、2月に166往復、3月に212往復が、関西と岡山を結ぶ臨時便は、1月に12往復、2月に28往復、3月に31往復が運航されている。
伊丹発着と関西発着を合わせた岡山便の運航本数の合計は540往復にものぼり、合計688往復が運航された伊丹・関西-広島間や、701往復が運航された伊丹・関西-福岡間に次ぐ運航本数であった。

これら多数の臨時便は、冬期で需要が減っていた観光路線や、震災の影響で総じて流動が減少していた伊丹・関西発着路線などを減便すること、または整備期間を調整することにより機材を捻出したという。


航空需要の急増を受けて、岡山駅と岡山空港を結ぶリムジンバスは連日大混雑で、運行する中鉄バスは他の会社にも応援を求め、多数の臨時便を出して対応していた。

僕は、伊丹行きの航空券を手にしていた。
補助席までぎっしり詰め込まれた満員のバスに揺られて、黄昏に染まる岡山市街を北へ抜け、山中を切り開いて造られた岡山空港に向かうと、ターミナルビルも大変な賑わいだった。
普段は山陽新幹線に押され気味で小型機や中型機が多い岡山空港だが、駐機場に目を向ければ、羽田線にはボーイング747型機などの大型機材が投入されている。
この渋滞知らずの大量輸送能力は頼もしい限りで、バスなんぞは到底かなわないな、と思う。

一方で、僕が乗る伊丹行きには、日本エアコミューターのSAAB-340型機が用意されていた。
スウェーデン製の傑作機であるが、座席数34席の小型機で、搭乗してみれば、右側2列、左側1列の横3列シートが並んでいる小振りな機内が、まるで高速バスである。


この便は満席と案内されていたが、もともと定員が少ないから、あっという間に搭乗は完了した。
SAAB-340型機は勇ましいプロペラ音で機体を震わせながら、すっかり日が暮れた駐機場を離れ、居並ぶ大型機の合間をきびきびとタキシングして、瞬く間に漆黒の夜空へと駆け上がった。

ビジネスマンらしい装いの客が大半を占める機内は、張りつめた雰囲気を漂わせながらも、静まり返っていた。
新幹線でもわずか1時間足らずの距離だから、飛行時間は40分程度である。
どのような航路を飛ぶのかと思っていたが、下界は一面の闇に覆われて、どこをどのように飛んでいるのか、最初は全くわからなかった。
そのうちに、雲の切れ間にのぞく関西空港らしい角張った人工島を右下に見下ろしながら、左へ旋回したから、淡路島の上空を飛行して大阪湾から伊丹へアプローチしたのではないかと思う。
ならば、被災地の上を通過した訳である。
犠牲者の冥福と、1日も早い復興を祈る思いで、粛然と身が引き締まった。

この旅に出てくるまで、臨時高速バスを運行する事業者の使命感と熱意は認めるものの、定員50人程度のバスでは、1500人近くを乗せる長大編成が1時間に何本も往復する新幹線と比べて役不足なのではないか、という無力感を拭い去ることが出来なかった。
ところが、同じく代替輸送を担う航空機でも、バスと大して座席数の変わらない小型機を駆り出しているのである。
それぞれが出来る役割を精一杯果たしながら、危機に瀕した被災地や僕らの国を支えればいいのだ、と元気づけられた。
 


小回りの利く機動性を発揮して、鉄道や航空機に先んじて、東西を結ぶ幹線交通を再建した高速バスの功績は大きい。
定員不足を運行台数で補おうにも、阪神地域内の鉄道代替輸送に多数のバスを拠出しており、スキーシーズンでスキーバスにも車両を回さない訳にはいかず、乗員も車両も払底していたことは事実である。
渋滞のために所要時間が読めない状況下で、トイレがない車両を投入する訳にはいかないことも、増便を妨げたと聞く。
それでも、限られた乗員と車両をやりくりして、殺人的な混みようの鉄道や、航空機の長時間のキャンセル待ちに翻弄されている人々に、温かい手を差し伸べるべく、できる限りの努力を払ったバス事業者の姿勢を、改めて評価したいと思う。

後の話になるけれど、震災から3ヶ月が経った4月8日に、山陽新幹線がようやく開通し、臨時高速バスも大役を果たし終えた。
4月7日に品川-尾道線、4月8日に三田-姫路線、4月9日に新大阪-広島線、4月14日に新大阪-岡山線、4月20日に梅田-岡山線、4月28日に難波-広島線が、それぞれ運行を終了している。

新幹線の復旧は、当初の予定より大幅に繰り上げられた。
4月8日以降の予約を受け付けていたために、かなり後日まで残った路線が多い。
中には上本町-福山線のように好評を得て、現在に至るまで定期高速バスとして運行を続けている路線もある。
 


伊丹空港から地下鉄御堂筋線でミナミへ向かうと、活気に溢れた大阪の街の様子を目にして、ホッと肩の力が抜けた。
無表情にせわしなく行き交う人々や、楽しげに手をつないで店を出入りする家族連れ、千鳥足になりながらも大声で談笑する酔客などの姿に、被災地から20km程度しか離れていない地であることが信じられない思いだった。
普段は物足りなく感じても、何の変哲もない平凡な日常ほどありがたいものはないのだと、心から思った。
 


殷賑な難波の街なかにそびえる南海サウスタワーホテル5階の高速バス乗り場から、僕の北陸への旅が始まった。
23時ちょうどに発車する夜行便で、富山へ向かうのである。
ホテル玄関の重厚な照明に照らし出されたバスは、他の北陸発着長距離路線と同様の、日産ディーゼルスペースウィング3軸車であった。

大阪と北陸の間を結ぶ高速バスは、名神高速道路の天王山トンネル付近などで多発する渋滞の影響や、併走する湖西線・北陸本線の特急列車の最高速度130キロという速達性と、1時間に1本以上という頻回の運転本数に勝るメリットをなかなか打ち出せず、乗客数が低迷していた。
平成2年10月に登場した難波と福井を結ぶ高速バスは、僅か2年半で運行を中止し、大阪と金沢を結ぶ高速バス路線も計画されたものの、「JRの特急には太刀打ちできない」と事業者が判断して、実現に至らないという体たらくだった。
 


福井線より前の平成元年6月に開業した難波と富山を結ぶ高速バスは、昼行1往復と夜行1往復が設定されていた。
昼行便の所要時間は5時間、夜行便が6時間で、大阪と富山とは夜行便が設定されるほど遠かったのか、と驚いたものである。

関西と北陸を結ぶ夜行列車は古くから運行されている。
昭和22年から日本海縦貫線を走破する大阪-青森間の列車(後の「日本海」)が運転され、昭和36年10月には、大阪と富山を結ぶ夜行準急列車「つるぎ」や大阪と金沢を結ぶ夜行準急列車「加賀」などが運行を開始している。

松本清張の「ゼロの焦点」で、京都から夜行に乗って金沢に着いたという登場人物が、

「しばらく歩いて見物したんですが、いかにも北国の大城下町の感じでしたな」

などと、金沢の街並みの風情について滔々と語ると、

「京都から直行で朝着く急行列車は1本しかないのです。京都を23時50分に発つ『日本海』で、金沢は5時56分です。まだ金沢は真っ暗ですよ」

と指摘される場面が忘れがたい。

北陸本線の高速化が実現し、昼間の特急列車が数多く運行されるようになっても、大阪と新潟を結ぶ寝台特急「つるぎ」や夜行急行「きたぐに」は、しばらく運転されていた。
しかし、「つるぎ」は富山を通過してしまうし、「きたぐに」下り列車の富山到着は午前4時台、上り列車の発車時刻は午前2時前後である。
 


それだけに、大阪と富山を結ぶ夜行高速バスの登場は新鮮味があり、開業直後に上り昼行便には乗ったことがあったのだが、是非とも夜行便を利用してみたかったのである。
岡山から大阪までの旅程が組みにくい状況では、大阪を夜遅くに出発する夜行の方が無難だったという理由もある。

そのような需要は残念ながら少数派らしく、難波発の夜行便は、バス事業者が気の毒に思えるくらい空いていた。
車内は、当時の池袋発着の関越高速バスと同じく横4列座席であるが、乗客数は10人足らずだったから、誰もが隣りの席まで陣取って身体を伸ばしている。
リクライニングも後ろに気兼ねせず存分に倒すことができたから、ゆったりと旅の疲れを癒やすことができたのである。



さすがに、このような状態で路線の維持が困難だったらしく、難波-富山線は、平成8年6月に夜行便のみに削減された上、平成13年2月には運行を取りやめてしまった。


名神高速の渋滞多発区間をバイパスする新しい高速道路が建設され、大阪側の起終点を梅田に変更して、富山への路線が復活したのは、平成15年12月のことである。
同時に、大阪駅から金沢駅を経由して富山駅まで足を伸ばす「北陸道昼特急大阪」号と、その夜行便である「北陸ドリーム大阪」号も開業し、今では、大阪と富山の間は見違えるほどの本数の高速バスで結ばれている。


大津、賤ヶ岳、尼御前の3ヶ所のサービスエリアで、深夜の休憩があった。
最初の2ヶ所は、ぐっすりと眠り込んでいたのか、知らずに過ぎてしまったが、尼御前SAでは停車の気配で目が覚めた。
山中温泉や山代温泉に程近く、富山まで100kmあまりを残した地点である。


「尼御前」とは気になる名称であるが、近くに尼御前岬があり、サービスエリアから歩いていけるという。

源義経の従女として奥州落ちに同行していた尼御前が、安宅関を前にして、女がいては足手まといになると、この岬から身を投げたという伝説が残っている。

ここには「奥の細道」で松尾芭蕉が詠んだ「庭掃て出ばや寺に散柳」の句碑が置かれている。


 『曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に 、 


 行行てたふれ伏とも萩の原 曾良


と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又 、


今日よりや書付消さん笠の露


大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て 、

終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば 、

庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ』


大聖寺は加賀市内にあり、芭蕉が曾良と袂を分かったのはこの地であったのか、と思う。

石川県の西部は、「奥の細道」で最も情緒に溢れた一節であり、曾良との別ればかりでなく、手前の小松での一句も忘れがたい。


 『小松と云所にて

しほらしき名や小松吹萩すゝき

此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。


むざんやな甲の下のきりぎりす』



時刻は午前3時半を回っていた。
尼御前SAで降りたのは2人の運転手と僕だけで、残りの乗客は、点灯された照明から顔を背けるように寝入っている。
身を切るような冷気が、容赦なく服の中に染みこんできた。
岡山や大阪とは全く異質の寒さだった。
白く染まった息が、吸い込まれそうな夜空に昇っていく様を見上げながら、「奥の細道」を思い浮かべるとは、何と心豊かなひとときであろうか。

北国へ向かっている旅の実感がふつふつと胸中に湧いてくる。
 


定刻の午前5時に到着した富山駅前は、まだ真っ暗で、乾いた風が埃を巻き上げて吹き渡っていく。
並んで建つJRと富山地方鉄道それぞれの駅も、たった今シャッターを開けたばかりといった風情で、煌々と明かりを外に漏らす構内を伺ってみると、眠そうな表情をした駅員が改札口に立ち、人気のない始発列車がホームにうずくまっている。
開いている店など全く見当たらない。

目的地にたどり着けるかどうかを心配した前夜のことを思えば、贅沢な悩みではあるけれど、これから乗るバスが発車するお昼過ぎまで、どのように時間を過ごそうかと途方に暮れた。
このまま富山にいても仕方がないので、とにかく、高速バスの起点である氷見まで移動することにした。



富山から高岡まで北陸本線の普通列車で十数分、氷見線に乗り換えて30分しかかからない。

高岡で途中下車し、店を物色して簡単な朝食を摂った覚えはあるのだが、その前後の記憶が定かではない。

氷見線に乗るのは初めてだった。
のんびりと走るくすんだ塗色のディーゼルカーで、雨晴海岸から富山湾ごしに立山連峰の絶景を目にしたのかもしれないが、2晩連続の夜行明けで朦朧としていたのか、天候が不順で見通しが利かなかったのか、完全に忘却の彼方である。



池袋行きの高速バスの発車時刻は、13時10分である。
氷見駅からの発車ではなく、少し離れた営業所が乗り場だったから、街をぶらぶら歩いているうちに、小さな街並みには不似合いなほど大きな古書店を見つけて、これで暇つぶしが出来ると嬉しくなったことだけは、はっきりと覚えている。
僕は、意外な書籍に出会うことができる古書店めぐりが大好きなのである。

当時の古書店と言えば、東京の神保町などに軒を並べているような小規模な店舗であることが多かった。

比較的近年に出版された漫画や文庫本など、希少価値の低い新古書や、ゲーム、CDを扱う全国チェーンの新古書店の草分けであるブックオフ1号店が、神奈川県相模原市に開店したのは、平成2年のことだという。

氷見にあったのも、そのような新古書店であったのかもしれない。
 

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購入した何冊かの本で少しばかり重くなった鞄をぶら下げて、広い敷地にぽつりぽつりとバスが停留している加越能鉄道バス氷見営業所を訪れれば、西武バスの池袋行きスーパーハイデッカーが待機していた。
前夜に東京を発った夜行便が、日中に折り返す運用である。

思い起こせば、昭和63年に池袋-新潟線が開業して以来、池袋を発着して関越自動車道で北陸に向かう高速バスは、富山、金沢、高田と系統数を増やし、今回登場した高岡・氷見線で5路線が揃ったことになる。
どの路線も、日産ディーゼル「スペースウィング」3軸車を揃えていることが特徴的だった。
日本で3軸の車輪を備えるバスは珍しく、アメリカの大陸横断バスを彷彿とさせる外観が僕の好みにぴったりだった。
 


国産初の3軸バスとなるK-DA50T型が日産ディーゼルから発売されたのは、昭和57年のことである。
1軸あたり10トン以内という法令上の軸重制限への対策として、後輪を2軸にすることにより、定員を増やしたり、サロン仕様、高床化、高出力化などの重装備に余裕を持たせることが可能となった。
エンジンの馬力は300PSである。
このバスは、2軸目の後輪がシングルタイヤ、3軸目がダブルタイヤで駆動輪という、その後の3軸車とは逆に配置されていた。
アメリカのバスのタイヤが、このような配置と聞いたことがある。
 


昭和59年に、改良型のP-DA66U型が登場した。
エンジンは、当時の国産バスとしては最大馬力の370PSにアップされた。
こちらは2軸目がダブルタイヤで駆動輪となり、3軸目がシングルタイヤでセルフステア機能が導入された。
富士重工製のボディが架装され、全高3.5mという国産初のスーパーハイデッカーだった。
急角度で舵を切ると、3軸目が前輪と反対方向に向く姿には、まさに大型車の風格があった。

昭和60年にモデルチェンジされたのがP-DA67UE型で、この型式からスペースウイングの名称が使用されるようになった。
北陸を走る県外高速バスの多くで採用されたのが、この型式である。
このバスを見かけるだけで、北陸の情景が心に浮かんだものである。

平成2年に排ガス規制に適合するためのフルモデルチェンジが実施され、U-RD620UBN型が登場する。
搭載されたエンジンは、国産のバスで初めて400PSを超え、420PSの大出力となった。
3軸車も製造されたのだが、同時にスペースウイングⅠと名乗る2軸車も発売され、3軸車はスペースウイングⅡと呼ばれた。

この頃からスーパーハイデッカーの需要は2軸車に移り、3軸車は少しずつ淘汰されていく。
2軸車の方が、タイヤなどの整備コストや燃費の点で、3軸車よりも経費削減に勝ると聞いたことがある。
 


「関越高速バス 池袋-氷見線」が採用したのは、2軸のスペースウィングⅠだった。
外観に3軸時代のどっしりとした面影を残しているのだが、それでも、一抹の寂しさを禁じ得ない。
関越高速バスが走り始めてから、7年もの歳月が過ぎていた。
日本を席巻するデフレ不況で、安い商品が持てはやされるようになり、高速バス業界にも、車両の豪華さばかりを追求するのではなく、コストを厳しく天秤にかけなければならない風潮が押し寄せていた。
バス車両の変遷に時代の流れを感じてしまうとは、僕もマニアだなと自嘲したくなる。

走り出してしまえば、2軸車も3軸車も乗り心地に変わりはない。
ところどころに雪を残した山林が、窓外を流れるように過ぎていく。
海岸線をたどるJR氷見線とは経路が異なり、バスは、山中をショートカットする国道160号線で砺波平野に抜ける。

高岡駅前で20人ほどの客が乗り、閑散としていた車内が少しばかり賑やかになった。
 


高岡の市街地を抜けると、城端線と床川に沿った県道で、ところどころが白く染まる素寒貧とした田園の中を、坦々と南下するだけの車窓となる。
点在する集落や工場の彼方に広がる、暗く垂れ込めた曇り空の下に、飛騨の山々が雪を抱いて連なっている。
心まで沈んでしまいそうな暗鬱たる光景に、厳冬の北陸にいるという実感が強く胸に迫ってきた。

戸出コミュニティセンター前と砺波市役所前でも数人ずつの乗客を拾い、砺波ICから北陸道に入ってバスの速度がみるみる上がると、張りつめた糸が切れたような心持ちになった。
旅の締めくくりで、東京行きの高速バスに乗車するといつも感じる、安堵感と寂しさが入り混じった感覚である。
ここからおよそ400km、散居村が点在する富山平野を経て親不知の難所を越え、新潟県を横断して長岡JCTで関越道に乗り換え、豪雪に覆われた関越トンネルを抜けて関東平野に至るまで、延々6時間あまりの行程が残っている。
それでも、このバスに乗ってさえいれば、日常の生活に、きちんと戻ることができる。

途轍もなく遠く長い旅を終えたオデッセイのように、僕は心地よい疲労感に身を委ねながら、移りゆく車窓をぼんやりと眺め続けた。
 



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