第29章 平成20年 復活した高速バス大阪-福井線と特急「雷鳥」で黄昏の北陸路を往復 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス梅田-福井線、特急「雷鳥」】



地方都市の高速バス路線は、最初に東京、名古屋、大阪といった三大都市に向けて拡充していく傾向がある。

最も流動が多くて、バスを利用する需要が見込めるからであろう。

福井も例外ではなく、名古屋と東京への高速バス路線が相次いで開業した後の、平成2年10月に、大阪難波行きの高速バスが走り出した。
ところが、JR湖西線から北陸本線に入る特急列車が、最速で2時間を切る俊足を誇り、加えて1時間に1本以上の便数があったにもかかわらず、高速バスは1日3往復にとどまっていた。
しかも、名神高速道路の茨木ICと大山崎ICの間に位置する天王山トンネル付近の、慢性的な渋滞による遅延などがたたって、所要時間は4時間近くを要する状態だった。
そのために乗客数が伸び悩んでいる、との噂は、何回か耳にした。

大都市と県庁所在地を結ぶ幹線なのだから、行き来する大勢の人の中には、のんびりとバスを利用する物好きだって少なくないだろう──

と、楽観視していると、わずか2年半後の平成5年4月に廃止されてしまった。
僕は乗り損ねたのである。
とても悔しい思いがしたものだった。


大阪と富山を結ぶ高速バスも同様に苦戦していたから、それほど北陸本線の特急列車の利便性は高いのか、と感心したり、噂の名神高速天王山トンネルの渋滞とは、そんなに凄まじいのか、と心配になったりしたものだった。



平成19年12月に、大阪側の発着地を梅田に変更して、福井行きの高速バスが復活した時には、仰天した。
1日3往復、所要3時間半と、難波発着の時代とほとんど変わっていない条件で、どのような勝算があるのだろう、と不思議に思ったけれども、まずは無性に乗りたくなった。
路線を復活させた事業者には申し訳ないけれども、今度こそ廃止される前に、と思ったのだ。


その機会は、平成20年の6月に訪れた。
神戸に出張した日の午後に、ぽっかりと用事のない時間が出来たので、僕は梅田三番街の高速バスターミナルを訪れた。


16時10分発の福井行き高速バスは、背の高いスーパーハイデッカーで、ターミナルの低い天井を擦らんばかりだった。
開業したばかりにもかかわらず、何となく古びた車両に思えたのは、以前と異なる塗装のせいだろうか。
乗り込んでしまえば、横4列シートながらも、平日の午後で乗客も少なく、のびのびと車窓を楽しむことができた。



夕方の帰宅ラッシュの車と、歩道から溢れんばかりに行き交う人々の波をかき分けるように、バスは狭隘なバスターミナルを出て、地平から高架道路の新御堂筋に駆け上がった。
淀川を渡って、新大阪駅、千里ニュータウンを経て、吹田ICから名神高速に入る。
空はどんよりとした雲に覆われている。
バスに乗り込むまでは、折からの梅雨空と、身体を包み込む蒸し暑さに辟易していたが、車内は程よく冷房が効いて、大変心地よい。



名神高速を走る車の密度は高かったが、流れは至ってスムーズだった。
並行するバイパス道路が整備され、また、天王山トンネルも新しいトンネルが完成して、大幅に車線が増えている。

大山崎JCTと瀬田東JCTを結ぶ京滋バイパスが完成したのは平成9年、門真JCTと京都南JCTを結ぶ第二京阪道路が開通したのは平成22年である。
また、吹田ICと京都南ICの間が往復6車線に拡張され、天王山トンネルは上下線とも2車線のトンネルが2本ずつの合計8車線になったのは、平成10年のことであった。
かつての渋滞の名所という汚名は、返上されつつあった。
ただし、渋滞をなくすためにどれほどの設備投資が必要だったのか、自動車社会というものを考える上で、京阪間の道路地図は大変興味深い。



天王山トンネルを抜け、京都盆地を瞬く間に走り抜けて、逢坂山のトンネルを越えれば、ハイウェイは、琵琶湖の南東を、田園と丘陵の合間をすり抜けるようにくねくねと伸びていく。

滋賀県に入っても、名神高速は、ほんのチラリとしか湖面を見せてくれない。
琵琶湖の向こうに連なる比良の山々も、この日は、垂れこめた雲に覆われて、殆んど姿が見えなかった。
愚図ついた天候のためであろうか、初夏にも似合わず日が暮れるのが駆け足だった。



大阪から北陸へ向かう鉄道は、昭和49年に完成した湖西線で敦賀に直行するが、高速道路は昔ながらの米原経由で北へ向かう。
冬ともなれば、湖西線は比良おろしの強風でしばしば不通となり、北陸に向かう特急列車が米原を経由することもある。

米原に近づくにつれて、あたりの景色は湿り気と陰りを帯び始める。



多賀SAで短い休憩をとり、本線に復帰すると、垂れ込めた雨雲の下に伊吹山が姿を現した。
この山の麓を右へ向かえば関ヶ原を経て岐阜や名古屋、左へ行けば北陸である。
夏とはとても思えない寒々しい光景に、北国に近づきつつあるのだ、と心細くなるような情感が込み上げてくる。
東海道本線や北陸本線が交わる交通の要所でありながら、毎年、新幹線が雪に悩まされることでも明らかなように、米原は北陸の入り口なのである。

米原JCTで北陸道へ分岐すると、バスは、琵琶湖の北端にそびえる賤ヶ岳や柳ヶ瀬山の麓を、右に左にと回りこむように分け入っていく。


敦賀ICを過ぎると、折り重なる山並みの向こうに、敦賀湾をちらりと見下ろすことができる。
ハイウェイの高度は変わらず高いままで、海ぎわまでせり出した杉津の山々を、きついカーブが断続する橋梁とトンネルで抜けていく。


鉄道の北陸本線は、この下の地中を長さ10kmを超える北陸トンネルで短絡しているのだな、と早合点しかけたが、トンネルが穿たれているのは杉津越えの西寄りに位置する木ノ芽峠で、律令時代に最初に通じた北国街道に近い。

最も新しく建設された北陸道が越えるのは、明治時代に敷設された北陸本線の旧線に沿っていて、杉津PAは旧杉津駅の跡に設けられているという。

鉄道では指折りの難所も、高速道路は第一から第三樫曲、葉原、杉津、鶴が、今庄と、豪華な4車線のトンネルを幾つもくり貫き、バスも大して速度を落とさずに走り抜ける。


杉津越えの途中で、完全に日が暮れた。
瞬く間に車窓が暗転し、窓に映るのは路端に並ぶ街灯と、車のライトだけになってしまった。
バスの走りっぷりに揺るぎはなく、いつしか山岳地帯を抜けて平坦な福井平野に降りてきたことは、乗り心地から察することができる。
雨脚が強くなって、ライトのきらめきが鈍く幾重にもにじむ。

ふと、芭蕉の「奥の細道」の一節を思い出した。

「漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。
あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。
鴬の関を過て湯尾峠を越れば、燧が城、帰山に初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ敦賀の津に宿をもとむ。
その夜、月殊晴たり。
あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、気比の明神に夜参す。
仲哀天皇の御廟也。
社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。
おまへの白砂霜を敷るがごとし。
往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。
古例今にたえず。
神前に真砂を荷ひ給ふ。
これを遊行の砂持と申侍ると、亭主かたりける。

月清し遊行のもてる砂の上

十五日、亭主の詞にたがはず雨降。

名月や北国日和定なき」

そもそも、北陸はわが国有数の降雨地帯で、中でも福井県は年間降雨量が2700ミリを超えるという多雨地域である。
加えて、芭蕉が旅した仲秋の名月の頃と言えば、秋雨前線の発達する時期で、至って変わり易い天候になる。
僕が大阪から福井へ旅したのは梅雨の真っ最中で、「奥の細道」とは季節が全く異なるけれども、雨に濡れる北国の情緒に変わりはない。



峻険な山々から平野への出口に位置する、武生と鯖江の2つのバスストップで降りる客はいなかった。
バスは、タイヤが水を弾く鋭い音を立てながら、福井ICで高速を降り、福井市内へ入っていく。
雨に濡れた道路が、街灯に照らし出されて、鈍く光る。
ゴトゴトと、福井鉄道の路面電車が行き交う。

最初に、この街から東京行きの夜行バスに乗車した時からの20年以上の時間が、瞬時に短絡した。
あたかも、デジャブを見ているかのような、不思議な感覚だった。
人通りが少なく、居並ぶ建物の灯だけがまばゆい中心街で、バスは歩みを止めた。
駅前から伸びている大通りにある小さなバス停が、念願だったバス旅の終点だった。



気ままで優雅な芭蕉の旅と異なり、僕には、翌日も神戸での出張の続きが待っている。
間に合うように引き返す手段は、大阪行き最終の上り特急「雷鳥」だけだった。

関西と北陸を結ぶ伝統の特急列車として、昭和39年から485系特急用電車で走り続けてきた「雷鳥」も、順次、新型車両を投入した「サンダーバード」に置き換えられていた。

この時点で「雷鳥」の名を残しているのは、朝の下りと夜の上りの1往復に過ぎなかった。



北陸と関西の間を湖西線で移動するのは初めての経験だったので、福井への行き来を思いついた時から楽しみにしていた。
「雷鳥」の名が消えたのは平成23年3月のことだから、ぎりぎり間に合ったと言えるだろう。
今にして思えば、この日に乗っておいて良かったのだ。


ところが、当時の僕は、世代交代で消えていくものに対する惜別の念よりも、初乗りにも関わらず、颯爽とした新型特急に乗れない恨めしさの方が強く、うらぶれた思いを拭い切れなかった。
旧型車両の最終列車にしか乗れない時間に、雨の北陸の街で、僕はいったい何をしているのだろう、と思う。

正面に見えるどっしりとした福井駅舎は、雨に濡れながらとぼとぼと歩くには、少しばかり遠く感じられたものだった。



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