第28章 平成19年 新宿昼特急金沢号とドリーム金沢号で厳冬の北陸へ~故郷を通過する旅の形~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「新宿昼特急金沢」号、夜行高速バス「ドリーム金沢」号】


平成19年の2月、僕は、新宿南口高速バスターミナルから金沢駅へ向かう高速バスの車内に収まっていた。


金沢にこれと言った用事があったわけではない。
平成13年に、東京から金沢へ向かう高速バスは、関越自動車道を長岡まで走って北陸自動車道に入る経路から、藤岡JCTで上信越自動車道を上越JCTまで短絡する経路に変更されていたので、それをたどるのも面白いかな、と思った程度である。


スマホの地図アプリで調べると、新宿駅から金沢駅まで、従来の長岡JCT経由で506km、上信越道経由が473kmと計算されるので、新しい経路の方が30kmほど短いことが分かる。

関越道が全線開通したのが昭和60年、上信越道は平成11年で、交通量が少なくなる長野IC以北ばかりでなく、長野冬季五輪に間に合わせるために工事を急いだ藤岡JCTと長野ICの間も、ところどころに暫定2車線の区間が残されていた。


碓氷峠を越える八風山トンネルには、上信越道で最大の標高となる932mの地点があり、関越トンネル内の692mが最高地点となっている関越道より200mも高く登らなければならない。

信越国境付近が我が国有数の豪雪地帯であることからも、果たして北陸に行くのに上信越道が最適なのかという疑問が湧くけれども、地図アプリに表示される車での所要時間は、関越道経由が6時間30分、上信越道経由が6時間10分となっていて、高速バスが上信越道を通りたくなるのも理解できる。



上信越道が整備されるまで、首都圏と北陸を結ぶ高速バスは、関越道を長岡JCTまで進んでから北陸自動車道に入っていた。


この経路で思い起こすのは鉄道である。

東京-高崎間の高崎線と高崎-長野-直江津-長岡-新潟間の信越本線が全通したのは明治26年、高崎-長岡間の上越線が開通したのが昭和6年で、長いこと、関東地方と北陸の往来は長野を経由する信越本線が担っていた。

優等列車でも、大正4年に夜行急行101・102列車が上野-長野-新潟間で運転を開始、下り14時間、上り15時間40分を要したという記録が残っている。

大正11年には、上野-長野-金沢間に、夜行急行772・773列車が運転を開始し、所要時間は下り13時間25分、上り13時間45分であったというのだから、長野経由では金沢よりも新潟の方が時間が掛かったのである。

ちなみに、昭和6年の上越線全通と同時に、上野-新潟間に1往復の昼行急行列車が設定され、同区間を7時間10分で結んだという。



太平洋戦争後の昭和29年に、上野と金沢を結ぶ急行「白山」が長野経由で運転を開始し、昭和47年に特急に昇格している。

昭和36年に、上野- 金沢間を長野経由で結ぶ夜行急行「黒部」が登場し、所要時間は10時間半~11時間であったと記録されており、昭和40年には、上野-長野-金沢-福井間に夜行急行「越前」が加わった。

一方の上越線は、昭和23年に、夜行急行601・602列車が上野-金沢間に登場し、昭和30年に「北陸」と命名されている。


長野経由であった夜行急行「黒部」が、昭和44年に上越線経由の「北陸」に統合されたあたりから、東京-北陸間の主役が信越本線から上越線に移った感がある。

2往復になった「北陸」は、昭和50年に1往復が寝台特急に格上げされ、1往復は急行「能登」となって、深夜の上越線を行き来し、昭和57年の上越新幹線開業と同時に、「越前」を置き換える形で、長野経由になる。

この間、寝台特急が信越本線経由で運転されなかったという経緯が、両線の優劣を雄弁に物語っているのではないだろうか。



東京と北陸を結ぶ昼行の特急列車は、大阪-金沢-直江津-長野-上野と、大阪-金沢-直江津-青森の2区間を走るディーゼル特急「白鳥」が、大阪と直江津の間で併結して運転を開始した昭和36年に登場した。

当時は需要に比して車両が不足していたために、全国で、このように大胆な分割・併合運転が行われていたと聞く。


昭和40年10月、金沢-直江津-長野-上野間が独立した系統になると、「はくたか」と命名され、昭和44年に置き換えられた特急用電車が碓氷峠を越えられない車両であったため、上越線回りに変更されたが、上越新幹線が開業した昭和57年に姿を消した。

一方、「白山」は昭和47年に特急となり、平成9年の長野新幹線開業で廃止されるまで、東京と北陸を結ぶ唯一の昼行列車としての務めを果たし続けたのである。



「はくたか」と「白山」が、東京と北陸を直結する二大特急列車として競演していた当時は、上野から金沢への所要時間が「はくたか」より「白山」の方が長かった。

「はくたか」の走行距離は520.9km、469.5kmの「白山」の方が50kmも短いにも関わらず、前者が6時間20分、後者は6時間30~40分を要していた。


ところが、「白山」は最盛期に1日3往復が運転されていたのに、所要時間が短い「はくたか」は、長いこと1往復に据え置かれ、廃止の3年前にようやく2往復に増便されただけであった。

「白山」には、首都圏と信州の間の流動も加味されていたためであろう。



信越本線は、補助機関車を連結しないと登り降りできない碓氷峠や、急曲線が多い信越国境をはじめ、線形が悪く、北陸へのメインルートは上越線、という思い込みがあったのだが、こうしてみると、寝台特急が運転されなかったことを除けば、両線は、互角に北陸への輸送を担い続けてきた。

上越線が北陸へのメインルートになったのは、昭和57年に上越新幹線が開業し、更に平成9年に北越急行線が開通してから、と言えるだろう。


ただし、それは旅客流動に限った話で、首都圏と北陸を結ぶ貨物列車は、上越線経由だけになって久しい。
碓氷峠を含む安中-田中間で信越本線の貨物輸送が廃止されたのは、国鉄の分割民営化と同時の昭和62年である。


総論として優劣つけがたい長岡経由と長野経由であるが、とにかく、平成13年に「関越高速バス」池袋-金沢線が上信越道に経路を乗せ換えたのを皮切りに、平成18年に池袋-富山線と池袋-高岡・氷見線が、それぞれ上信越道経由となったのは事実である。

この頃から全国で数を増やした高速ツアーバスも、首都圏と北陸を結ぶ路線は、殆んどが上信越道を使っていた。

上信越道における碓氷峠の前後区間が、鉄道ほど難儀な構造でないことが、最大の理由であろう。


後の話になるが、平成25年の大型連休中に起きた高速ツアーバスの事故では、運転手が、本来の経路である上信越道へ入る上越JCTを通り過ぎてしまい、長岡JCTまで大回りしたことが、事故の一因だったのではないかと騒がれたのも記憶に新しい。



今回の旅で、僕が乗車したのは、平成16年に登場したノンストップ便「新宿昼特急金沢」号である。


高速バスに乗るのが大好きであっても、僕が、同じ路線を繰り返し乗ることは滅多にない。
同じ区間を行き来する場合でも、目先を変えたくて、出来る限り異なる方法を選ぶ傾向がある。

「新宿昼特急金沢」号は、以前に乗車した昭和63年開業の「関越高速バス」池袋-金沢線とは別物と解釈して、新路線に初乗りする気分で乗り込んでいる。

ところが、池袋駅は通らないものの、時刻表では、双方とも同じ欄に掲載されていた。



昭和63年に「関越高速バス」池袋-金沢線が開業した時点では、西武バスと北陸鉄道バスの2社が共同運行し、昼行1往復、夜行1往復の1日2往復であった。

平成元年にJRバス関東が参入して1日3往復に増便され、平成2年に西日本JRバスが加わって1日4往復になり、 平成13年に新宿発着系統が新設されて、池袋系統を含めて1日6往復となり、運行経路を上信越道に変更したのである。



1日2往復の「新宿昼特急金沢」号が登場した平成16年には、北陸の他の都市を結ぶ高速バスに比して圧倒的な運行本数となる昼行4往復、夜行4往復の1日8往復が行き来し、東京と金沢でバスを使う人がそれほどいるのか、と驚いたものだった。


後に、「関越高速バス」池袋-金沢線も含めた全便が新宿発着池袋経由に統一されて、昼夜行便とも「金沢エクスプレス」号を名乗るようになったため、「新宿昼特急金沢」号の愛称は消えた。

上信越道を使って東京から金沢に向かうのだから、車窓も新路線のようなものである、と割り切れば良いのだろうが、どう扱ったらいいのかよく分からない。




「新宿昼特急金沢」号は、新宿駅南口のバスターミナルを出ると、車の波がひしめく明治通りを北上し、新目白通りに左折して、練馬ICから高速走行が始まれば、関越道の車窓は「関越高速バス」と何ら変わりはない。


ただし、車両は格段の進歩が見られている。
この日に僕が乗車している車両は、ボルボ「アステローペ」である。

エンジンを車体中央に設置したスウェーデン製のシャシーに、日本製のボディを乗せ、後部の2階建て構造の1階にサロンまで設けられているバスである。

僕は、このバスの重厚な外観を気に入っていた。

従来の「関越高速バス」池袋-金沢線は、前後のシート間隔を広げているものの横4列席だったが、「新宿昼特急金沢」号は横3列独立席である。

尻をすっぽり包み込むバケットシートに加えて、リクライニングも深く、座り心地は申し分ない。


これならば、金沢まで10時間や20時間かかったって構わないぞ、と気が大きくなる。



延々と走り抜けてきた藤岡JCTまでの関越道の大部分は、埼玉県が占めている。
北陸や信州へ向かう高速バスが決まって休憩をとる上里SAも埼玉県内で、そのすぐ先で、利根川の支流である神流川を渡ると、ようやく「群馬県」の県境標識が現れ、直後に藤岡JCTに差し掛かる。

上信越自動車道に進路を変えると、いきなりカーブと上り下りの勾配が繰り返される山道になる。

それまでが、平野部を行く片側3車線の広い道路だったのに、片側2車線に狭まったことも相まって、走りにくさが際立つような気がする。

群馬県は中部山岳地帯の始まりなのか、と思ってしまうが、これは上信越道独特の感触であろう。

長岡JCTを目指して関越道をそのまま進むならば、しばらくは平坦なハイウェイが続く。
信越本線や国道18号線でも、碓氷峠の麓の横川まで平野が続き、勾配を感じさせることはなかった。


上信越道には、藤岡、甘楽、富岡、下仁田など、関東平野の西の隅に位置する街が控えているが、比較的新しい高速道路であるだけに、街が連なる平地に建設する余裕がなく、南側の山中に追いやられてしまった格好である。
それだけに、高速道路を走るだけで、街並みを見下ろす展望台のようになっている。

上信越道が開通する前にも、この地域を通って内山峠を越え、佐久に向かう国道254号線があり、江戸時代には、中山道に比して傾斜がなだらかな「姫街道」と呼ばれていた。
関越道を使って信州に向かう初めての高速バスとなったのは、「関越高速バス」池袋-小諸線である。
同線が開業した当初は、上信越道がなかったので、藤岡ICを降りて国道254号線を経由していた。


通い慣れている東京と長野の往来で、信越本線と国道18号線しか使ったことがなかった僕にとって、池袋から小諸に向かう高速バスの道行きは意外かつ新鮮だったが、どうして国道18号線を使わないのだろう、と首を傾げたものだった。
上信越道が、国道254号線に沿って建設されるとは、露知らなかったのである。
それどころか、東京と故郷の長野市を最短距離で結ぶ上信越道が、果たして建設されるのかどうかすら危ぶまれて、気を揉んでいた時代だった。

上信越道の建設や長野新幹線の建設が決定的になったのは、奇しくも「関越高速バス」池袋-小諸線が開業した平成3年に、長野冬季五輪の開催が決定したからである。


「妙義山」と書かれた標識が目に入り、正面にゴツゴツした奇怪な山容が現れる区間があるが、何度通っても、全貌を目にする機会に恵まれない。
碓氷峠をはじめとする上信国境には、垂れ込めた雲や、山あいを漂う霧など、翳りを帯びた天候がよく似合っている。

関越国境のように1本の長大なトンネルで越えてしまうのではなく、上信の境に立ちはだかる碓氷峠を越える上信越道は、松井田ICから佐久ICまで12本ものトンネルを穿ちながら、ぐいぐいと高度を稼いでいく。
全長4470mの八風山トンネルをはじめ、長大トンネルは少なくない。



トンネルを抜けるたびに、合間に深く刻まれた谷が深まっていくような気がする。
自分の運転でここを走った時は、防音壁に遮られて気づかなかったが、スーパーハイデッカーの高い窓から見下ろすと、いつの間にか、目も眩むような高さに登って来たのが分かる。

このような恐ろしい高さに、よくも橋を架け、トンネルを掘ったものだと舌を巻いた。
贅沢な道路を作ったものであるが、背筋が寒くならないよう、遠方に視線を移せば、こんもりと雪をまとう木々に覆われた山並みが、遙か彼方まで幾重にも折り重なっている。
心の芯まで冷え切るような、寒々とした光景だった。
 


高みまで登り詰めて、前方の山あいに佐久平が見えると、心底ホッとした。
故郷に帰ってきたな、と嬉しくなる。
山深い地形を脱け出し、佐久ICの手前で正面に浅間山の雄大な稜線が姿を現す車窓は、僕がこよなく愛する故郷の一景である。

上信越道は、佐久平を南北に横断して高峰高原や菅平に繋がる斜面に渡り、塩田平を左手に見下ろしながら、傾斜地を西へ進む。
ここでも、群馬県内と同様に、高速道路が山中に追いやられた形であるが、やむを得ないことであろう。


上信越道における最長のトンネルは、碓氷峠や信越国境にあるわけではない。
千曲川沿いに居並ぶ市街地を避け、塩田平から善光寺平へ短絡する全長4474mの五里ヶ峯トンネルである。
県都の近くに、このような長大トンネルが必要なのか、と仰天したものだった。

長いトンネルの暗がりを、もどかしい思いでくぐり抜けて、善光寺平に飛び出し、遥か彼方まで真っ直ぐ伸びる直線区間に差し掛かれば、懐かしい故郷の情景が眼前に広がる。
善光寺平が、佐久や塩田より遥かに広大な盆地であることを実感する。
西側には筑摩山地の合間に飛騨山脈が垣間見え、正面には戸隠連峰、東は菅平から志賀高原に連なる山々が囲んでいる。
長野県に足を踏み入れてからも、山がちな地形が続いていただけに、善光寺平の直線区間は、なかなか爽快な気分を味わわせてくれた。

 

「新宿昼特急金沢」号は、僕の感慨など素知らぬ顔で、速度を緩めずに信濃路を走り続ける。

上信越道は、ここでも、千曲川の北側に開けている市街地を避けて南岸を伝いながら、長野盆地の南から東にかけての隅っこを大回りする。
盛り土の本線からは、雪に覆われた田園やリンゴ畑の向こうに、ビルが林立する長野市街地をかすかに遠望することができた。


金沢行きの高速バスに乗っているのだから当たり前だが、善光寺平を素通りするのは、生まれて初めての経験ではなかったか。
新鮮であるものの、複雑な心境にもさせられる。
羽田空港と小松空港を結ぶ航空機に乗っているようなものではないか、と割り切ればいいのだが、そう簡単に気持ちは片づかない。



長野市の交通史を振り返ってみれば、鉄道が長距離輸送の主役で、長野駅を通過する列車が運転されたことはなかった。
信州そのものが我が国の主要街道筋から外れているのが最大の理由で、中山道が東西を貫いていたものの、江戸と京を行き来する旅人が、東海道を使わず峻険な中山道を歩き通すことなど、ほぼ皆無だったはずである。
上野と金沢を結ぶ特急「白山」や、名古屋と新潟を結ぶ急行「赤倉」など、県外を起終点にして信州を十文字に貫く列車も存在したが、あくまで限定された例外に過ぎない。
「白山」も「赤倉」も、長野駅できちんと乗降扱いを行っていたし、後に延伸された北陸新幹線ですら、全ての列車が長野駅に停車している。
主要街道が通っていない状態とは、交通網の整備が後回しにされて不便、という不利益を免れ得ないものの、静岡県のように「『のぞみ』が1本も停まらない」などと、不遇をかこつ必要もない。

今回、上信越道を使うことになった首都圏と北陸を結ぶ高速バスは、史上初めて、長野市を通過する交通機関と言えるのではないか。


近代交通機関の発達がもたらした現象の1つとして、僕は、故郷を通り過ぎる旅の形を挙げたい。
 
かつて、人々が徒歩で旅をしていた時代には、よその地を発って故郷より遠方に向かう場合でも、生まれ育った土地を無下に通過してしまうことなど、あり得なかったのではないだろうか。
 
思い出すのは、新撰組である。
幕末の争乱期に京都守護職直属で治安維持に当たり、慶応4年1月に旧幕府軍に属して鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移っていた。
新政府軍は東海道、東山道、北陸道に別れて江戸へ向けて進軍を開始しており、江戸城に駐屯していた新撰組は、勝海舟から幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう、出陣を命じられる。
一説には、江戸開城を心の内で決めていた勝海舟が、暴発する恐れのある新撰組を江戸から遠ざける一策であったとも言われているが、新選組を含めた300名の甲陽鎮撫隊は3月1日に江戸を発ち、甲州街道を進軍したのである。
 
武蔵国多摩郡上石原村(現在の調布市)の出身である近藤勇や武蔵国多摩郡石田村(現在の日野市)の出身である土方歳三をはじめ、甲州街道沿いの武蔵野の出身である隊員も多く、また新撰組以外は寄せ集めである甲陽鎮撫隊の士気を高めるために、支給された5000両の軍資金を使って大名行列のように連日豪遊しながら行軍し、地元の村々も飲めや歌えやの宴会を開いて歓迎する騒ぎであったという。
更に天候の悪化も手伝って行程は遅れに遅れ、甲陽鎮撫隊の甲府城への到着は板垣退助率いる官軍より1日遅くなるという失態を招き、甲府勝沼の闘いで敗走する。

このように書けば言語道断の経過であるけれど、司馬遼太郎の「燃えよ剣」には、故郷に錦を飾って行軍する甲陽鎮撫隊の様子が如何にも楽しそうに描かれていた記憶があり、故郷を通過して闘いに赴けという命令そのものに無理があったのではないかと思う。
 

交通機関が発達すると、人間は乗り物に運ばれる立場となり、故郷を通っても意図して途中下車しなければ立ち寄る必要はなくなった。
新撰組も、中央東線の特急「あずさ」や「かいじ」に分乗していれば、出身地で寄り道をすることもなかったに違いない。
 
故郷を離れて暮らしている人間が、たまたま故郷を経由する交通機関に乗った場合には、車窓から生まれ育った町並みを見つめながら、何を思うのだろう。



岡山の出身である内田百閒は、「阿房列車」で山陽本線の列車に乗って岡山を通るたびに、必ず何らかの感慨を記している。
僕にとって最も印象深いのは、「阿呆列車」最終章となる「列車寝台の猿」で、東京発博多行き急行「筑紫」に乗っている時の記述である。
 
『岡山は私の生まれ故郷でなつかしい。
しかしちっとも省みる事なしに何十年か過ぎた。
今思い出す一番の最近は、大正12年の関東大地震の後1、2年経った時と、もっと近いのは今度の戦争の直前とであるが、しかしその時は岡山に2時間余りしかいなかった。
中学の時教わった大事な先生がなくなられたので、お別れに行って、御霊前にお辞儀をしただけですぐに東京へ帰って来た。
駅から人力車に乗って行き、門前に待たせたその俥で駅へ戻る行き帰りの道筋だけの岡山を見たが、それももう十何年以前の事になった。
時々汽車で岡山を通る時は、夜半や夜明けでない限り、車室からホームに降り改札の所へ行って駅の外を見る。
改札の柵に手を突き、眺め廻して見る景色は、旅の途中のどこか知らない町の様子と変わるところはない。
どこにも昔の面影は残っていない』
 
『古い記憶はあるが、その記憶を辿って今の岡山に連想をつなぐのは困難の様である。
何事なく過ぎても、長い歳月の間に変化は免れない。
況んや岡山は昭和20年6月末の空襲で、当時3万3千戸あった市街の周辺に3千戸を残しただけで、3万軒は焼けてしまい、お城の烏城も烏有に帰して、昔のものはなんにもない。
しかし岡山で生まれて、岡山で育った私の子供の時からの記憶はそっくり残っている。
空襲の劫火も私の記憶を焼く事は出来なかった。
その私が今の変わった岡山を見れば、或いは記憶に矛盾や混乱が起こるかも知れない。
私に取っては、今の現実の岡山よりも、記憶に残る古里の方が大事である。
見ない方がいいかも知れない。
帰って行かない方が、見残した遠い夢の尾を断ち切らずに済むだろう、と岡山を通る度にそんな事を考えては、遠ざかっていく汽車に揺られて、江山洵美是吾郷の美しい空の下を離れてしまう』


通過される交通機関と無縁であった信州に、いきなり縁もゆかりもない交通機関が走り始めるのは、昭和63年に中央自動車道が開通した頃からである。
昭和63年12月に開業した池袋と伊勢を結ぶ高速バスと、平成元年6月に開業した池袋と大津を結ぶ高速バスが、中央道を全線走破する初めての路線だったが、どちらも、長野県内に停留所は設けていない。
その後、中央道経由で東西を結ぶ高速バス路線が次々と開業することになる。



平成元年8月:新宿-岐阜「パピヨン」
平成元年10月:新宿-高松「ハローブリッジ」
平成元年12月:新宿-大阪「ニュードリーム大阪」
平成元年12月:新宿-上本町「ツィンクル」
平成2年3月:新宿-京都「ニュードリーム京都」
平成2年3月:八王子-京都「きょうと」
平成2年3月:千葉・TDL-金沢線
平成2年4月:名古屋-仙台「青葉」
平成2年5月:新宿-松山「オレンジライナーえひめ」
平成2年11月:八王子-大阪「トレンディ」
平成2年12月:池袋-南紀勝浦線
平成3年5月:新宿-高知「ブルーメッツ」
平成4年8月:八王子-金沢線
平成4年10月:新宿-福岡「はかた」
平成10年3月:新宿-高山線「シュトライナー」
平成11年7月:池袋-梅田線
平成11年12月:新宿-神戸「ニュードリーム神戸」
平成13年3月:新宿-名古屋「中央ライナー」
平成13年3月:新宿-津和野「いわみエクスプレス」
平成13年12月:前橋-大阪「シルクライナー」
平成14年2月:新宿-中津川「中央ライナー」(平成18年3月に多治見まで、同年8月に瀬戸市まで延伸)
平成14年3月:新宿-京都「中央道昼特急京都」
平成14年12月:新宿-名古屋「中央道特急バス」
平成14年12月:新宿-徳島・高松「ニュードリーム徳島・高松」
平成15年7月:新宿-大阪「中央道昼特急大阪」
平成15年7月:新宿-梅田線
平成16年12月:大宮-名古屋線
平成16年7月:名古屋-草津温泉「スパライナー草津」
平成16年10月:新宿-下呂温泉線
平成18年8月:新宿-可児「中央ライナー」
平成18年7月:新宿-大阪「青春中央エコドリーム」
平成21年12月:新宿-名古屋「新宿ライナー三河・名古屋」

 
東名高速道路を使わず中央道を使用する高速バスが増えたのは、東京側の交通事情が主因だったのではないだろうか。

中央道に直結している首都高速4号線の初台ランプから、中央道が東名高速道路と合流する小牧JCTまでの距離は351km、首都高速3号線の大橋ランプから東名高速を経由して小牧JCTまでは347kmで、どちらも距離的には大差なく、新宿や池袋から山手通りを通って大橋ランプまで行き来する方が、渋滞でもあろうものならば瞬く間に20~30分を費やしてしまう。
ただし、八王子を過ぎてから小仏、笹子の峠を越えて甲府盆地に駆け下り、信州に向けて標高1015mの中央道最高地点まで登り詰め、伊那谷を経て三たび美濃の境にそびえる恵那山を越えていく行程の高低差は馬鹿にならず、さぞかし燃費が悪いことだろう。
降雪や霧の発生など、気象条件も中央道は東名高速より厳しい。
 
山手通りの地下に掘られた首都高速中央環状線が完成し、また新東名高速道路が開通すると、「はかた」号をはじめとして、中央道から東名高速へシフトする路線が増えた。


途中下車ができないこれらの高速バスに乗って、中央道を行き来しているのは、信州には何の用事もない人々である。

高速道路網の拡充によって、信州が日本の幹線交通に組み込まれたことの表れであり、そのことを誇らしく感じることはあっても、それ以上の感慨は特に湧かなかった。
広大な信州の中でも、僕は北信地方に属する長野市の出であって、中央道が通り抜けていく中信と南信地域はよその土地、という感覚だったことも一因であろうか。

ところが、長野市を通過する上信越道を高速バスで走ってみると、複雑な思いに心が掻き乱される。
上信越道で東京が近くなったのは嬉しいけれども、北陸に伸びて通過する高速バスまで登場しなくてもいいのに、と心境になったのだから、僕も勝手である。


不意に、母の顔が脳裏に浮かんだ。

父が亡くなり、僕ら子供を大学に送り出すと、母は、長野市の中心街から少しばかり外れている実家で、独り暮らしを続けていた。
大学時代まで、母にも友人にも、卒業後はすぐ長野へ帰ると言い続け、それは紛れもなく本心であったのだが、成り行きから東京で働くことになって、そのままずるずると居着いてしまったことが、ずっと心に引っかかっている。
弟も僕と同じ仕事に就き、父と同じ大学を出て、そのまま金沢で働いていた。
 
出来るだけ帰省するよう心がけていただけに、この日のように、母のいる故郷を通過することに、そこはかとない罪悪感を覚えた。
「新宿昼特急金沢」号が長野に停車していたら、僕はそこで降りたかもしれない。
 

 

だからと言って、母を誘って高速バスに乗せるわけにもいかない。
母は乗り物に弱かった。
昭和63年9月に長野自動車道の岡谷ICと豊科ICの間が開通し、長野と飯田を結ぶ「みすずハイウェイバス」が運行を開始した時のことである。
長野市に初めてお目見えした記念すべき高速バスであったのだが、長野市と豊科ICの間が一般国道経由で、長野と飯田の行き来に片道3時間50分も要したため、国鉄の急行列車「みすず」に太刀打ちできず、バスは常に空いていた。

ある時、母が飯田の父の実家に出かけたことがあった。
帰りに適当な時間の電車がなく、母は、困ったような諦めたような表情で、

「いいよ、バスにするよ」
 
と言いながら「みすずハイウェイバス」を選んだのだが、僕は車に弱い母が無性に心配になり、停留所まで迎えにいった。



長野側の起終点は長野県庁で、実家のすぐ近くだった。
僕は、実家へ帰省するたびに、出入りするバスを見物に行ったものである。
「みすずハイウェイバス」に使われていた車両は最新式のハイデッカーで、座席の乗り心地も良く、僕は、急行列車の4人向かい合わせの硬い座席よりも好きだったから、乗り物に弱い母も何とかなるのではないか、と淡い期待を抱いていた。

それほどの遅れもなく「みすずハイウェイバス」は到着した。
ところが、母がなかなか降りてこない。
乗客数は数えるほどだった。
1番最後に降りてきた母は、真っ青な顔でフラフラだった。
 
「酔っちゃったよ……迎えに来てくれたんだ、ありがとね」
「いやあ、後半の山道、飛ばしすぎたかなあ」
 
と、心配そうに見守っていた運転手が、申し訳なさそうに頭をかいていた。
 
 
安曇平の北端にある豊科ICと善光寺平の間を隔てる筑摩山地は峻険で、その合間を縫って犀川沿いを走る国道19号線も、曲線が多い昔ながらの設計だった。
出来るだけ安上がりに建設したのであろうか、トンネルの口径は大型車のすれ違いが難しいほど小さく、橋梁も、川の縁で直角に曲がって短く済ませている構造が少なくなかった。

長野市街に近い大安寺橋で、手前の下り坂の先のカーブが凍結して曲がり切れず、貸切バスが真冬の犀川に転落して25名の死者を出したのは、昭和60年1月のことである。
その後、大安寺橋をはじめとする国道19号線の橋梁は、斜めに川を横断する構造で前後のカーブをなくす形状に改められた。
新旧の大安寺橋が並んでいた時期があり、近くの山から見下ろすと、前後の国道の向きに合わせて架けられた新橋の贅沢な造形に、最初からこうしろよ、と思ったものだったが、それは結果論であろう。

あの時代を思えば、信州に縦横無尽に高速道路が建設され、「新宿昼特急金沢」号のように通過する高速バスまで出現するようになるとは、隔世の感がある


東京で暮らし始めた直後に父を亡くし、残された母を、長年1人で暮らさせている故郷に対する僕の思いは、とても一言では表現できない。
こうして、「新宿昼特急金沢」号で初めて故郷を通過すれば、万感の思いが胸につのる。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
 
室生犀星の「小景異情」について、萩原朔太郎は「これは年少時代の作者が都会に零落放浪して居た頃の作品」として、東京にいる犀星が遠い故郷金沢に帰りたいという望郷の抒情詩と解釈し、世の中には同様に受け止めている人も少なくない。
僕もその1人であったが、岡庭昇氏は「ふるさとが遠くからしみじみと想い出されたりしているわけではない。とてもじやないがふるさとなんてものは、遠くにあってこそ想い得るもので、そうでなければまっぴらだ……という以外に、ほんらい解釈のしようがない作品なのである」と主張する。
吉田精一氏も「これを東京の作でなく、故郷金沢での作品と見る方が妥当だろう。東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば『帰るところにあるまじ』き感情にくるしむ。東京にいるとき『ふるさとおもひ涙ぐむ』その心をせめて抱いて、再び遠き東京に帰ろう、と見る方が、詩句の上で無理が少ない」と解説している。
 
犀星自身は、この詩を東京で作ったのか、それとも金沢かという問いに対して「このごろ中学校の教科書にのっているので、先生方からよくそういった質問が来る。ある人には『東京で』と答え、またある人には『金沢で』と答えてしまった。芭蕉の『閑さや岩にしみ入蝉の声』の『蝉』と同じで、その人がこれぞと思う方をとればいいんですね」と言っていたらしい。
 
人それぞれに、故郷への様々な思いがあるのだろう、と思う。

僕が室生犀星と異なるのは、東京にいるのでも故郷に滞在しているのでもなく、車窓から、一服の絵のように故郷の情景を目の当たりにしながら、そのまま走り去っていることであろうか。



長野IC以北の上信越道を通るのは、この日が初めてだった。
一段と高い盛り土の上から見渡す善光寺平は、鉄道や国道とは、ひと味もふた味も異なる新鮮な眺望だった。
悠然たる千曲の流れを押し包むリンゴ畑と、盆地を囲む形の良い山並みを、360度のパノラマで一望できる車窓に、心底驚いた。
自分が育った土地を、これほど雄大な視点で眺めさせてくれる建造物を、僕は経験したことがなかった。



豊野駅で西に進路を変える信越本線や、平行する国道18号線と袂を分かち、上信越道は、千曲川とJR飯山線に沿って、尚もぐいぐいと北へ進み続ける。

どこまで突き進むのだろうと心配になる頃、飯山市の手前まで北上してから、目的地はこちらではなかったか、とばかりに西へ曲線を描く。


飯山豊田ICから先は、大小のトンネルで次々と山を穿ちながら、県境の手前の野尻湖の南で、鉄道や国道と合流する。

国道18号線であれば、道端に焼きトウモロコシの屋台が並ぶ区間である。
醤油を塗りながら火で炙ったばかりの熱々のトウモロコシに齧りつくことは、この辺りをドライブする時の楽しみだった。
家で母にねだっても、何の味付けもせずに蒸かすだけだったから、野尻湖付近のトウモロコシに病みつきになった僕は、物足りなく感じたものである。



不意に陽が翳り、車内が目に見えて暗くなったので、僕は驚いて顔を上げた。

碓氷峠から善光寺平までは、曇りがちであったものの、時折り青空が顔を覗かせる空模様だったが、このあたりから暗い雲が低く垂れ込め、陰鬱な雪景色に変わった。

北陸に向かう高速バスに相応しい車窓だった。



黒姫山と妙高山の麓で信越国境を越えれば、緩やかな下り坂が始まり、「新宿昼特急金沢」号は海岸へ向けて一目散に突き進む。

うまく地形を利用しているのであろうが、あたかも1本の長大な高架橋で、県境から頸城野まで真っ直ぐ駆け下っているような錯覚に陥った。
航空機の着陸に似た感覚と言ってもいい。

地形や集落に合わせて遠慮がちに敷かれている鉄道や一般国道に比べれば、山も川も町村も眼中になく、ひたすら目的地を目指していく傲然とした造りの高速道路には、ひたすら畏れ入る他はない。
どえらいモノを造ったものだと思う。
上信越道の群馬県境や、中央道の山梨県境でも、長野県から出るために長い下り坂を駆け下りる区間があり、改めて故郷の標高の高さを思い知らされるのだが、こちらはもっと直線的な印象だった。



上越ICから北陸道に入り、親不知、砺波平野、倶利伽羅峠を越える馴染みの道筋は、不思議と印象に残っていない。

関越道、上信越道ともに、平野や山岳ばかりの車窓が続き、北陸道こそ僕が大好きな日本海の眺めを堪能させてくれたはずなのだが、「関越高速バス」で何度も行き来していたので、あまりにも見慣れてしまったのか。

故郷を一顧だにせず通過した、という体験が、それだけ強烈だった余韻かもしれない。



定刻にたどり着いた金沢からは、平成17年に登場したばかりの東京駅行き夜行高速バス「ドリーム金沢」号で折り返した。


往路で利用した「新宿昼特急金沢」号は、昭和63年に開業した「関越高速バス」池袋-金沢線の発展的な系統と解釈できることは、前述した。
後に「金沢エクスプレス」号と愛称を変更しても、開業当初に運行していた西武バス・北陸鉄道、開業直後に参入したJRバス関東・西日本JRバスによる4社体制は変わらず、昼夜行で運行を続けていた。



ところが、JRバス2社が、自社が加わる路線と競合する夜行新路線を開業させたのだから、驚きよりも、半ば呆れたものだった。

平成19年に、開業当時から参入していた北陸鉄道バスが共同運行を離脱して、渋谷・八王子-金沢線を開業した時には、どのような事情があったのか、と首を傾げた。
他にも、多数のツアー高速バスが同じような区間に路線を設けたため、首都圏と金沢を結ぶ路線は、規制緩和の時代を象徴するような乱立状態となる。

それだけ、首都圏と北陸を結ぶ夜行需要が巨大であるのは確かなのだろうが、「関越高速バス」池袋-金沢線ほど、原型を留めていない路線も珍しく、北陸鉄道にしてみれば、軒を貸して母屋を取られたような受け止め方だったのかもしれない。


 

金沢駅の次に富山駅に立ち寄ったのはかろうじて覚えているけれども、その後の車中は、ぐっすりと眠って過ごした。

当時、品川区大井町に住んでいた僕にとって、どのような裏事情があるにしろ、「ドリーム金沢」号の終点である東京駅は、池袋駅や新宿駅より便利なターミナルだったので、安心していたのは間違いない。

「関越高速バス」が、20年近くターミナルを務め上げた池袋駅から新宿駅発着に変わり、また東京駅を発着する路線を新たに開設したのも、池袋では集客力が弱いという判断だったのかもしれない。


もちろん車内は、隣りの客を気にせずくつろげる横3列独立席で、僕は最前列左側の座席を指定されていた。

他の席に比べて足元が若干狭いけれども、どこを走っているのかな、とカーテンをめくって外を覗くには、これ以上はない最適の席である。




黒姫野尻湖PAでの乗務員交替で、ふと目を覚まし、身体を起こして、水滴で曇った窓ガラスをぬぐった時の驚きは忘れられない。

地面も建物も、深々と積もる雪に覆い尽くされていたのである。


往路でも、善光寺平を過ぎると沿道の木々が白く染まり、厚く垂れ込めた雲から小雪が舞い始めて、寒々とした光景に変わったが、これほどの積雪には見えなかったので、目が覚める思いだった。

このような豪雪で高速バスが運行できるのか、という不安とともに、北信濃の雪深さを改めて思い知った。


翌朝、東京駅八重洲南口に到着した「ドリーム金沢」号のフロントマスクには、雪のかけらがこびり付いていた。


  


↑よろしければclickをお願いします。