第4章 昭和62年 関越高速バス池袋-富山線~国道8号線で親不知の難所を越えた時代~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「関越高速バス」池袋-富山線】

 

 

平成の半ばに、愛車で信州に向かっていた時のことである。
目白通りと環状八号線が交差する谷原の交差点で信号待ちをしていると、不意に視界が暗くなった。
真横に「TOYAMA」と大書された、白地に橙と茶色のラインが入ったハイデッカーのバスが停車していた。
富山地方鉄道の池袋発富山行き高速バスである。

「TOYAMAって、北陸の富山かな」

と、助手席で妻がつぶやいた。

「そうだよ、これから向かうんだね。しばらく一緒に走ることになるかなあ」
「高速バスなの?」
「そう」

僕が、信号待ちをいいことにスマホで写真を撮り始めたので、妻は笑い出し、信号が青になって、会話は終わった。

 

 

関越自動車道を藤岡JCTまで飛ばし、上信越自動車道に分岐して、上信国境に向けてカーブが多い登り坂に差し掛かる頃、いつの間に追い抜かれたのか、同じバスを再び視界にとらえた。


「やだ、本当に富山に向かってる」
「そう言ったじゃん」

妻は半信半疑だったらしい。

「だって、富山って遠いんでしょ?どれくらいかかるの?」
「池袋から7時間」
「げ!」

「でも、なかなか景色のいい場所を走るから、そんなに長く感じないよ。今度、あれに乗って鱒寿司でも食べに行きますか」

「えー、今度新幹線が出来るんでしょ、それで行こうよ」

 

妻は、もちろん乗り物ファンではない。

乗り物趣味に理解を示してくれるものの、自分が乗るときは速い乗り物を選ぶ。



高速バスに乗ったことがない訳ではない。

福岡出身の妻は、なんと、日本最長距離を走破する「はかた」号に乗ったことがあるらしい。
学生時代でお金がなかったから、という理由らしいが、新宿と福岡の間の15時間は、忍耐の一言に尽きたようである。


東京から大阪まで、WILLER EXPRESSの個室仕様の「コクーン」に一緒に乗ったこともある。
これならよく寝られそうだよ、と「コクーン」に収まってはしゃいでいた妻は、ぐっすりと眠っていたようであっても、オプションで申し込んだ翌朝の日帰り温泉では、風呂に入っているより休憩室で横になっている時間の方が長かった。



後に、僕が東京と金沢の間を頻回に行き来する必要が生じ、家計を慮って高速バスを多用すると、


「気を使わせてごめんね。疲れちゃうから、飛行機にしてほしいよ」
 

と、妻は優しい言葉をかけてくれた。

実際に、航空券を予約して僕にメールで送ってくれたこともある。
趣味を兼ねているから気にしないで、と笑っておいたが、内心では、普通の人にとって高速バスとは疲れるものなのか、と感じ入ったものだった。
 

思いがけず、2回も富山行きの高速バスに出会ったものだから、初めてこのバスに乗った30年前と、子供の頃まで遡る様々な思い出が、胸中に溢れんばかりに蘇ってきた。

 

 

僕の父は信州飯田の出身だったが、金沢の大学を出て、大学院まで金沢で過ごした。

その間に母とお見合いして結婚し、僕や弟が産まれた。

生活の場を長野に移してからも、年に数回は、家族揃って金沢に出かけたものだった。
僕の名付け親にもなってくれた大学院の恩師や、同級生に会いに行ったのだろうと思う。
大抵は、上野発長野経由金沢行きの特急列車「白山」を利用したが、車で出かける場合もあった。
上信越自動車道も北陸自動車道も開通していなかった時代で、僕がまだ小学生だった昭和48年から50年頃の話である。

長野から国道18号線を北上し、直江津から国道8号線に左折して、日本海沿いに金沢まで走り切る、今思えば気が遠くなるような行程だった。
約250㎞もの距離を、交差点や信号もある一般道で、およそ6~7時間かけて延々と走ったのだ。

母はペーパードライバーだったから、父が1人で運転するしかない。
あちこちドライブに連れて行ってくれたから、父も、決して運転が嫌いという訳ではなさそうだったが、身体が丈夫ではなかったから、疲れただろうと思う。
幼い僕たちは、そんなこととは露知らずに、いつも無邪気に喜んでいただけだった。



金沢に向かう日は、早朝、午前3時に長野を出発するのが常だった。
母や弟は後席で眠っていたけど、僕は助手席に座って、景色を見たり、父の話し相手をしたものである。
母が前の夜に作ってくれたお握りを頬張りながらの、深夜ドライブだった。
車に弱かったので、1時間くらい経つと気分が悪くなって、車を止めて貰い、道端で吐いてしまうのが常だった。
それからはスッキリして、全く大丈夫だったのである。

午前7時頃まで、車窓を闇が覆い尽くしている。
僕は、すれ違う車の車種を当てたり、ヘッドライトに映る標識の意味を父に教えてもらったりして、全く飽きが来なかった。
小学生にして道路標識を全て覚えてしまった訳だから、大人になって免許を取る時に、とても役に立った。

 


車窓の圧巻は、何といっても、新潟と富山県境の難所である親不知だった。
 

3000メートル級の山々が連なる飛騨山脈が、日本海の海ぎわまで迫って、ストンと落ち込んでいる断崖である。
昔は、波打ち際にある猫の額ほどの砂浜を、崖に張りつくように歩くより方法はなかった。
源平の合戦の後に越後に流された平頼盛の妻が、夫を訪ねてこの地に差し掛かり、連れていた子供を荒波にさらわれて、

親知らず 子はこの浦の 波枕
越路の磯の 泡と消えゆく

と詠んだことが、地名の由来だという。

 

 

父からは、この難所を越えるのは自分の身を守るのが精一杯で、親も子も知ったことか、という状況になるから、親知らず子知らずなんだ、と聞いた。

和歌の言い伝えとは微妙にニュアンスが異なるけれど、難儀した昔の街道の様子はよく分かる。

『今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声、二人ばかりと聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。
伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日は故郷に返す文したためて、はかなき言伝などしやるなり。
白波の寄する汀に身をはふらかし、海士のこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、朝旅立つに、我々に向かひて、『行方知らぬ旅路の憂さ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見え隠れにも御跡を慕ひ侍らん。衣の上の御情けに大慈の恵みを垂れて、結縁せさせ給へ』と涙を落す。
不便のことには侍れども、『我々は所々にて留まる方多し、ただ人の行くに任せて行くべし。神明の加護、必ず恙なかるべし』と言ひ捨てて出でつつ、あはれさ暫く止まざりけらし。
一つ家に 遊女も寝たり 萩と月』


芭蕉の「奥の細道」でも語られている親不知だが、その描写は、難所越えをわずか数語で済ませ、市振の宿での出会いに比重が置かれているところが興味深い。

 

 

現代の国道8号線は、急峻な崖の中腹を、トンネルや洞門が連続する往復2車線の狭い道路で越えて行く。
アップダウンも激しい。
 

北陸自動車道が開通していない時代だったから、夜行のトラックがひしめいていた。
ヘッドライトに映し出されるのは、黒煙を吐きながら、登り坂でみるみる速度が落ちてしまうような、巨大なトラックの姿ばかりだった。
大変な難所であることが子供心にもひしひしと感じられ、息をつめて車窓に見入っていた。

 


親不知を抜ける頃に、ちょうど夜が明けて、富山県に足を踏み入れれば、明るく広大な田園風景に変わる。
砺波平野の鄙びた街や散居村が、鄙びたたたずまいを次々と現す。

僕の記憶に強く残っているのは、「黒部」「魚津」などの行先を掲げた、富山地方鉄道バスの姿だった。
渋い塗装をまとった旧式ながらも、前扉だけの大型バスである。

富山県には、国道を走る都市間バスがたくさんあるんだなあ──

と、羨ましく感じたのを覚えている。

 

 

その頃から、僕は、間違いなくバスが好きだったのだと思う。
小学生だった僕が、どうして都市間バスなどという概念を知っていたのか、不思議でならない。
鉄道を使わずに街から街へ行けることに、子供の頃から、なんとなく憧れていたのは確かである。
 

大きくなってのめり込んだバス旅も、動機は全く変わっていない。
バスに乗って、あんな街にも、こんなに遠くへも、行くことが出来るようになった、という驚きや新鮮さが、僕の旅の原動力である。
そう考えれば、僕の長距離バス熱の原型は、富山県のような気もする。

  

 
父が急死したのは、僕が予備校生だった昭和59年5月だった。


3年後の昭和62年に、東京と富山を結ぶ高速バスが昼夜1往復ずつ走り始めた。
運行会社は西武バスと富山地方鉄道バスで、関越自動車道と北陸自動車道を長岡IC経由で結んでいた。
愛称はなかったが、僕は「関越高速バス」池袋-富山線と呼ぶことにした。
池袋を起終点にして、運行は昼夜行1往復ずつ、使用車両も日産ディーゼルスペースウィング3軸と、先行路線の「関越高速バス」池袋-新潟線と共通点が多かったからである。

 

 

大学生になって東京で独り暮らしをしていた僕は、さっそく乗りに出かけた。
北陸を走る長距離バスの草分けだから、子供の頃に馴染んだ車窓を偲びたくなったのだろうか。

予約していたのは、富山駅前を午後1時に出発する上り便だった。
所要7時間もかかる長距離バスに、真っ昼間から乗る閑人がいるのだろうか、と思ったけれども、富山駅前の乗り場には行列が出来ていた。

 

 

僕の鞄には、富山名物の鱒の寿司が入っている。
家族での金沢旅行では、帰りに必ず鱒寿司を購入して夕飯にしたものだった。
旅行が終わってしまうことは子供心にも寂しかったが、家で鱒寿司が食べられると思えば慰められた。
今では、鱒寿司もコンビニで買えるようになったけれども、当時は、富山や金沢まで出かけていかないと手に入らなかった。

 

サクラマスを発酵させずに、酢で味付けした押し寿司である。
丸い竹製の容器に放射状に笹を敷き、塩漬けで味付けした鱒の切り身を並べ、その上から寿司御飯が詰めてある。
容器をひっくり返しながら、笹の葉に包まれた中身を取り出し、備え付けのプラスチック製のナイフで、放射状に8つに切り分けて食べる。
笹の香りと、程よい酢の効き具合が香ばしく、当時の僕には、大変な御馳走だった。
 


定刻に発車した東京行きの高速バスは、総曲輪の停留所に立ち寄った。
富山随一の繁華街と聞いていたけれど、人影が少なくて、路面電車がのんびりと行き交うだけの寂しい街並みに見えたのは、意外だった。

バスは富山ICから北陸自動車道に乗り、広々とした砺波平野を水を得た魚のように快走する。

北陸道は、子供の頃に走った国道8号線とは、全く趣が異なる車窓だった。

  

$†ごんたのつれづれ旅日記†

 

国道8号線は平坦な走りやすい道だったものの、交差点や信号があるから、もどかしさを免れ得ない。
親不知の峻険を越えてきた者にとっては、なおさら平凡な車窓に感じられたものだった。
 

父も、多少速度を上げられそうな区間で、思わずアクセルを踏み込んでしまったのだろう。
2回ほど、富山県内でネズミ取りに引っかかった。
道端に置かれた長机に座らされて、違反切符を切られている父の姿は、ちょっぴり可笑しかった。
車の中で待っている僕たちは、いきなり、ピューッ、とサイレンを鳴らして脇から白バイが飛び出して、肝を潰した。
停止の指示に従わない車がいたのだろう。

父は、身を乗り出すように、何事かを熱心に話しこんでいる。

「みんな同じスピードで走っていたんだ。どうして俺だけ捕まえるんだ!」

などと抗議をしていたらしい。
父は短気で、癇癪持ちでもあった。
よく、公務執行妨害で逮捕されなかったと思う。

 

 

一般道に比べて、高速道路は盛り土や高架の区間が多い。
このように立派で走りやすい道路を、父に運転させてあげたかった、と思う。

緑豊かな屋敷林に囲まれた家々が、水田の中に点在している散居集落は、この地方独特である。
個々の家は、強風が吹きつける西・北・南側の三方に杉を植え、風の少ない東側の垣根を薄くしている。
春から夏にかけて、フェーン現象で吹き荒れる湿度の高い強風による火災の類焼を防ぐためとか、加賀藩が「家を建てる時は一族相談の上場所を決め、およそ家建てより50間ばかり除き、まばらに家建て致すべく」と定めた農政改革によるものとか、農民が集団化して一向一揆となることを警戒した、幕府の目から広大な耕地を隠そうとした、などと、その起源には諸説あるという。

 


この美しい風景は、我が国を代表する景観の1つだと思う。
右手の奥には、雲を抱いてそそり立つ立山連峰が、壁のように連なっている。

鄙びた佇まいの街が、田園の彼方に次々と現れる。


滑川、魚津、黒部、入善、泊──

 

通過していくインターチェンジの名前を眺めるだけで、幼少時の記憶が呼び覚まされる。

 

 

父は大学を卒業して、しばらくの間、黒部に本社のある企業の付属病院に勤めていた。
そこの社長に見こまれて、娘の嫁になってくれと言われたらしいよ、と、父が亡くなってから親戚に聞かされたことがある。
もしかして、僕は、企業の御曹司として黒部市民になったのかもしれない。
いや、その場合、僕はこの世に産まれて来なかったのか。


人生とは、何と不確実さに満ちていることだろうか。

 


富山から東京へ向かう高速バスに乗る楽しみは、何と言っても、初めて走る北陸道の車窓だった。


金沢以西の区間は、名古屋と金沢を結ぶ「北陸道特急バス」で経験したことがある。
また、長岡JCTから先の関越道も「関越高速バス」 池袋-新潟線で乗車済みだったが、そこまでの車窓は、僕にとって初体験だったのだ。

  


姫川に沿って無骨な工場ばかりが目立つ糸魚川を左手に見遣りながら、トンネルが断続する上越までの区間は、フォッサマグナと糸魚川静岡構造線が交わる複雑な地形で、山塊が海ぎわに張り出しているため、土砂災害に悩まされる土地柄である。
トンネルの合間に、能生や谷浜といった「信州の海」と呼ばれる海水浴場を眺めながら頚城平野に飛び出す車窓は、無性に懐かしかった。

子供の頃に、家族で海水浴に出掛けるのは、いつも能生海岸だった。
小学校で連れて行かれた海水浴教室は、谷浜である。
高校の海水浴教室は能生だったから、この海なら任せろ、という気分になったものである。

柏崎から西山にかけて海ぎわを走るあたりも、富山と新潟の県境付近に比べると地形は平坦だったが、山国に育ち、海を眺めるだけで胸がときめく僕にとっては印象深い。
平成16年の中越地震で関越道が不通になった際に、「関越高速バス」池袋-富山線は、急遽上信越道へ経路を変更し、後に正式ルートになった。

この路線で柏崎近辺の車窓を楽しむことが出来なくなったのは、残念でならない。

 


個人的には、「関越高速バス」池袋-富山線の車窓の筆頭と言えば、親不知に勝るものはないと思っている。


順調に距離を稼いでいたバスは、朝日ICで速度を緩めて高速を降りてしまう。
その先の親不知の前後は、最新技術を投じてもなかなか越えられず、まだ未開通だった。
北陸道で、最後まで残っていた朝日ICと名立谷浜ICの間が開通したのは、昭和63年7月のことである。

 


いきなり歩みは遅くなったけれども、思わぬ展開に僕は心を踊らせた。
バスが、懐かしい国道8号線を走り始めたからである。

その車窓は、あたかも小学生時代に引き戻されたかのように、十数年前と全く変わっていなかった。
勾配のきつい上り下りを繰り返しながら、海を見下ろす崖っぷちの国道は、煤けて暗いトンネルや洞門を次々とくぐり抜けていく。
狭くて路肩に余裕がなく、歩道も造られていない。
トラックが多いのも相変わらずで、トンネルに排気ガスがこもっている。
左の窓からは、足がすくみそうな断崖の遥か下方に、岩を洗う荒々しい波頭が見える。
国道の標高は70mを超えると言う。

 

 


いつしか、亡き父が隣りでハンドルを握っているかのような錯覚にとらわれた。
窓にかじりついている、幼かった僕。
ニコニコしながら標識を教えてくれたり、前をノロノロ走るトラックに舌打ちしていた父。

流れ行く車窓を食い入るように見つめながら、もう戻れない昔を思い、涙が出そうになった。

 


翌年、新たに開通した朝日ICと名立谷浜ICの間は、連続するトンネルと海上に張り出した高架橋で、親不知の峻険を難なく越えている。
「関越高速バス」池袋-富山線も、全便が高速道路に乗せ換えられ、時間短縮を果たした。


だが、旅の迫力では、国道8号線の方が勝っていたと感じてしまう。
便利になる、と言うことは、同時に何かを失うことなのが、世の常である。
時間はかかっても、高速バスが国道を経由していた時代に乗れたのは、恵まれていたと思う。

高速道路の開通は旅の進化に違いないけれど、北陸道の橋脚の影響で海流が変化し、崖が削られてしまったと聞く。
かつて、旅人が命がけの思いで越えた親不知の砂浜は、跡形もなく消えたのである。

 

 


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