第3章 昭和61年 特急「しらさぎ」名古屋-富山4時間の記憶と北陸鉄道浅野川線のミニトリップ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:特急「しらさぎ」、夜行高速バス「ドリーム」号、特急「雷鳥」、北陸鉄道浅野川線】
 
 
「しらさぎ」の話をしたくなった。
鳥ではなく、名古屋と北陸を結ぶ特急電車である。
 
奈良時代に、行基が薬師如来の導きで発見した加賀国の山中温泉は、一時期兵乱で荒廃したものの、12世紀に、白鷺が足の傷を湯で癒しているのを見た武将が再興した、という開湯伝説が、特急「しらさぎ」の愛称の由来であるという。
かつて東京と金沢を結んでいた特急列車の愛称であり、北陸新幹線の列車名となった「はくたか」も、立山の開山伝説に登場する白鷹に由来すると言われているから、北陸には伝説が基となった列車名が少なくない。

  

特急「しらさぎ」を初乗りした印象が、それほど強烈だった訳ではない。
むしろ、他の旅の記憶に埋没していたくらいである。
 
平成27年に北陸新幹線が金沢まで開業し、令和6年に敦賀まで延伸されたのに伴い、「しらさぎ」の運転区間が金沢止まり、更に敦賀止まりと短縮され、乗り換えの労が厭われて利用客が大幅に減った、などという報道を耳にすると、整備新幹線のスキームは、在来線を混乱させるばかりだな、と忸怩たる思いに駆られてしまう。
それでも構想通りにきちんと完成してくれれば、地元の利用客も我慢のしようがあるのだろうが、北陸新幹線の敦賀-大阪間はルートすら定まっておらず、従来の利用者は、とばっちりを受けているだけではないか。
このような方法を編み出したのはどいつだ──などと憤慨しつつも、かつて、「しらさぎ」を名古屋から富山まで乗り通した30年前の思い出が、懐かしく脳裏に蘇ったのである。
 
 
昭和61年の梅雨の最中に、僕がどうして名古屋から北陸に向かう気になったのか、判然としない。
金沢で生まれ、信州で育った僕にとって、北陸は、大学から大学院時代を金沢で過ごした父に連れられて、幼少時から何度も訪れた特別な土地であり、独り暮らしを始めても、目的もなくふらりと足を向けることが多かった。
 
ところが、この旅では、最初から北陸に行こうと決めていたのかどうかすら、曖昧である。
前の夜、東京駅八重洲口を23時20分に発つ国鉄の名古屋行き夜行高速バス「ドリーム」5号に乗り込み、東名高速道路をひた走って、早朝6時前に名古屋駅桜通口の薄汚れたバスターミナルへ着いた時に、北陸へ行こう、と思い立ったのかもしれない。
 
 
当時、「ドリーム」号は、僕のお気に入りの気晴らしだった。
大好きな夜行高速バスの雰囲気を手軽に体感できるのも良し、また、午前3時頃に休憩する三ヶ日IC近くの「みかちゃんセンター」で、夜食の関西風立ち食いうどんを啜るという演出も楽しかった。
 
「ドリーム」5号は、昭和63年に「ドリームなごや」号と改名され、車両も横3列独立シートを備えた2階建てバスに一新されたが、この旅の当時は、タイヤハウスが客室の床から飛び出しているような低床の旧型車両で、しかも、隣りの客と身を縮めて座り合う横4列席だった。
 
 
僕の夜行高速バス初体験は、東京駅から京都駅に向かう「ドリーム」3号で、その時に味わった「みかちゃんセンター」の立い食いうどんが病みつきになり、どうかすると、うどんを味わいたくて「ドリーム」号に乗ったものだった。
 
京都行き「ドリーム」3号や、大阪行き「ドリーム」1号をリピートせず、名古屋行き「ドリーム」5号ばかりを繰り返し利用したのは、距離が短く廉価であるからだろうが、他の土地へ旅するのに便利だったという理由も見逃せない。
実際、高速バスファンにとって名古屋は便利なターミナルで、新潟、富山、高岡、金沢、福井、草津、長野、松本、諏訪、伊那、飯田、甲府、東京、横浜、箱根、伊豆、静岡、紀伊勝浦、奈良、京都、大阪、神戸といった昼行便、そして山陽・山陰、四国、九州方面への夜行便など、名古屋から足を延ばした高速バス路線は数え切れない。
 
 
ただし、昭和61年の今回の旅は、名古屋を起点とする高速バスの大半が登場していなかった時代である。
僕の足が特急「しらさぎ」の乗り場に向かったのも、ごく自然な成り行きだったと言えるだろう。
 
特急「しらさぎ」の下り1番列車は富山行きの1号で、名古屋駅を8時10分に発車する。
待ち時間の2時間をどのように過ごしたのか、全く覚えていないのだが、「みかちゃんセンター」のうどんのおかげで、腹は満たされている。
名古屋はモーニング発祥の地とも言われ、何度も早朝に降り立っているにも関わらず、僕が喫茶店に入ったのはかなり後のことである。
 
その頃の僕の関心はきしめんに向いていたので、げっぷを抑えながら、きしめんを腹に入れた可能性もある。
あとは、自由席特急券と乗車券を購入し、座席にありつくために早々とホームに上がったのだろう。
 
 
定刻に名古屋駅を後にして、東海道本線を走り始めた「しらさぎ」1号は、なかなかの快速だった。
平行して名鉄線が走っているが、真っ赤な特急電車をじりじりと追い抜いていく。
 
鉄道ファンになった幼少時から、名古屋圏における国鉄と私鉄の競争は鉄道書籍で聞き齧っていた。
名鉄が並走する豊橋-名古屋-岐阜間や、近鉄が走る名古屋-津-伊勢間などは、私鉄が圧倒的に優勢であると思い込んでいたので、国鉄の特急が名鉄特急より速いとは、意外だった。
よく考えてみれば、高額な特急料金を負担してまで、名古屋から岐阜へ「しらさぎ」を使うような客はいないだろうから、純粋な競合関係は成り立たないのだろう。
 
 
若かりし織田信長の居城として有名な清洲駅を過ぎると、東海道本線の沿線に田園が顔を覗かせる。
8時22分発の尾張一宮駅の前後は、ぎっしりと建物がひしめいているものの、石刀駅を過ぎて木曽川の橋梁を渡るあたりから、田植えを終えた田圃が再び車窓の主役となる。
 
梅雨にも関わらず、時おり晴れ間が覗く1日で、青々とした苗が整然と水田に並び、張られた水が陽の光に輝いている。
濃尾平野は豊かだな、と思う。
 
 
8時32分発の岐阜駅で、1人の男性客がスッと席を立ち、ホームに降りていったので、おやおや、と思った。
新名古屋駅から新岐阜駅まで、名鉄特急は32分を要するので、所要22分という「しらさぎ」の俊足を必要とする急ぎの用務があるのか、と同情したり、きちんと特急券を買ったのかな、などと勘ぐったり、何もすることのない気儘な1人旅であるから、様々な空想をめぐらせるのも勝手である。
 
名古屋駅から下る東海道本線は、岐阜駅まで真北に鼻先を向け、その先で進路を西に変えるので、関西方面へ向かう場合は、かなりの迂回になっている。
急ぐならば新幹線を使えばいいのに、と思っても、東海道新幹線は、岐阜なんぞ通っていられません、とばかりに、名古屋駅から北西方向の米原駅まで短絡している。
岐阜羽島駅が設けられていても、岐阜駅と十数キロも離れているので、名古屋市から岐阜市への行き来には使えない。
 
 
岐阜駅を発車した「しらさぎ」1号が、鉄橋をがらがらと鳴らしながら長良川、揖斐川を続け様に渡ると、右手から伊吹山系、左手から鈴鹿山脈が迫ってきて、実り豊かな濃尾平野も終わりが近づく。
少しばかり車窓が陰鬱になったな、と思うと関ケ原で、通過する駅名標を目にするだけで、北陸の入口に来た気分になる。
 
関ケ原と言えば、誰もが天下分け目の決戦が行われた歴史を思い浮かべるのであろうが、僕は、真っ先に、毎年東海道新幹線を悩ませる冬の積雪を想起する。
江戸時代までの東海道は関ケ原を通らず、名古屋から桑名、亀山、土山と鈴鹿山脈に分け入って、琵琶湖南岸の草津に達する経路であり、岐阜や関ケ原を経て草津に達するのは中山道であった。
 
 
明治時代に、政府が東京と大阪を結ぶ鉄道を計画するに当たって、東海道経由と中山道経由の2案が存在したことはよく知られている。
 
明治5年に新橋-横浜間が開業したのを皮切りに、明治7年に大阪-神戸間、明治10年に京都-大阪間、明治13年に大津-京都間と、流動の多い区間が先んじて建設され、琵琶湖北岸の長浜から大津までは太湖汽船による鉄道連絡船が結び、明治17年には、中山道幹線の一部として大垣-関ケ原-米原-長浜間が開業した。
明治19年に、政府は、東京-大阪間の鉄道を、難工事が予想される中山道ではなく東海道経由に決定したが、既存の路線を活用して予算を削減するため、名古屋-草津間は中山道に沿う形とした。
 
東海道本線の建設は、国家プロジェクトとして駆け足で進められ、明治20年に木曽川-岐阜-大垣間と横浜-国府津間、浜松-大府間が開通、明治22年に国府津-浜松間と米原-大津間が開業し、新橋から神戸までの600.2kmが鉄路で結ばれたのである。
こうして振り返ってみれば、東海道本線が岐阜、関ケ原、米原経由で建設されたのは、琵琶湖の鉄道連絡船を活用するためであった、と言っても良いような気がする。
 
 
昭和39年に開業した東海道新幹線も、当初は旧東海道経由で構想され、後に米原経由に変更されたが、東京五輪に間に合わせるために、難工事が予想された鈴鹿山脈を避けたのが主な理由と言われている。
 
新幹線と同時期に建設された名神高速道路も同じ経路だが、平成になると、旧東海道に沿って鈴鹿山脈をぶち抜く新名神高速道路が開通し、東名阪自動車道と合わせて、高速バスがそちらのルートを利用している。
それだけ、我が国の建設技術が進歩したのだな、と思えば感慨深いが、北陸の人々にしてみれば、東海道本線や東海道新幹線が米原を通っているのは、恩恵と言えるだろう。
もし、東海道本線や新幹線が、旧東海道に沿って南寄りに敷設されていたならば、特急「しらさぎ」はどのような経路で運転されたのだろうか。
 
 
9時10分に到着した米原駅で、「しらさぎ」1号は6分間も停車する。
ここで進行方向を変えるためで、下車する客は皆無だったが、乗客は一斉に腰を上げて、前後の席の客と声を掛け合いながら、座席の向きを変えている。
 
この日の自由席は3分の2程度の席が埋まる乗車率であったが、新幹線からの乗り換え客なのか、席の向きが変わったのを見計らったかのように、10人ほどが乗り込んできた。
 
 
当時、首都圏と北陸の行き来は、米原経由と別に、上越新幹線を長岡で乗り換える東回りの方法があった。
米原経由と長岡経由の所要時間は金沢駅で拮抗し、金沢以西に行くならば前者、以東は後者が早いとされていたが、内情はもう少し複雑である。
 
まだ、東海道新幹線に「のぞみ」が登場していないので、「ひかり」の停車駅は絞られていて、米原に停車するのは一部に過ぎなかった。
下りの東海道新幹線は、東京駅を6時00分に発車する始発の「ひかり」21号が、8時01分着の名古屋駅で「しらさぎ」1号に接続するものの、米原駅に停車せず、三島始発の「こだま」495号だけが、8時46分着の米原で「しらさぎ」1号に連絡していた。
 
その次の乗り継ぎは、東京6時51分発の「こだま」405号が米原10時02分着、東京7時47分発の「ひかり」331号が米原10時19分着で、米原10時29分発の「加越」1号に連絡する。
 


一方の長岡経由は、上野7時10分発の上越新幹線「あさひ」331号が1番列車で、8時51分着の長岡で9時02分発の大阪行き「雷鳥」14号に乗り換えると、富山11時23分着、金沢12時10分着、福井13時07分着であった。

 

当時は、長岡経由でも、富山や金沢止まりでなく、福井や敦賀まで行けたのだな、と思う。

そのような阿呆らしい乗り継ぎをする客は皆無であったにせよ、国鉄時代の選択肢の豊富さが、今となっては無性に懐かしい。

 

 

「しらさぎ」1号の福井着は10時24分、金沢着11時19分、富山着12時06分である。


福井に行く場合は米原経由が一択、金沢と富山は、早い時間に着きたければ米原経由、所要時間を短くしたり、東京を遅く出たければ長岡経由、という住み分けであろう。
当時の「しらさぎ」1号は、名古屋ばかりでなく、首都圏から福井、金沢への1番列車でもあったのだ。



名古屋と北陸を結ぶ列車の先駆けは、明治41年に登場した、米原経由で新橋と富山を結んだ普通列車と思われる。


太平洋戦争を挟んだ昭和32年に、大阪-金沢間を米原経由で運転していた準急「ゆのくに」に、名古屋を発着する編成が併結された。
昭和34年に東京-米原-金沢間に急行「能登」が運転を開始し、昭和35年に名古屋-米原-金沢-高山-名古屋を回る循環準急「こがね」と、逆回りの準急「しろがね」が登場する。

昭和39年10月の東海道新幹線開業に伴い、名古屋-富山間に特急「しらさぎ」1往復が登場したが、車両の製造が間に合わず、2ヶ月遅れの運転開始となった。
昭和41年に「こがね」「しろがね」が急行に昇格し、名古屋-金沢間で急行「兼六」が、米原-福井・金沢間で急行「くずりゅう」がそれぞれ運転を開始する。
 
昭和43年に東京直通の「能登」が廃止されたが、以後、特急「しらさぎ」と急行「くずりゅう」は漸次増発され、昭和47年に循環急行「こがね」・「しろがね」と急行「兼六」が廃止される一方で、昭和50年に米原-金沢・富山間に特急「加越」が新設されている。
昭和57年以降、急行「くずりゅう」も徐々に削減され、昭和60年に全廃されたのだが、特急「しらさぎ」と「加越」は、特急時代の到来を象徴するかのように増発を繰り返した。

 
「加越」は、北陸地方を行き交う特急列車の1つとして、子供の頃から名前は知っていた。
その誕生は、ちょうど僕が鉄道ファンになった年で、運転区間が「しらさぎ」と重なる地味な列車であったためなのか、乗る機会に恵まれなかったのが、今となっては悔やまれる。
 
昭和63年から平成9年まで、米原-金沢駅間に特急「きらめき」が運転された。
長岡-金沢間に登場した特急「かがやき」と双璧を成す首都圏-北陸連絡列車のエースで、「きらめき」は、途中停車駅を福井だけに絞った「加越」の速達版であった。
加えて全車指定席という特別な存在感を誇示していたものの、「加越」の愛称のままで良いではないか、と首を傾げた僕は、いつの間にか「加越」応援団になっていたのだろう。
 
「きらめき」は、後に自由席が連結され、停車駅も増えて、「加越」との区別が曖昧になったため、最後は「加越」に統合されている。
 

「加越」が「しらさぎ」に編入されて、その名が時刻表から消えたのは、平成15年である。
米原を起終点とする列車は、50~60番台の号数を付けた「しらさぎ」に整理されたのだが、僕が知ったのは、平成20年代のなかばだった。
金沢で療養していた母の見舞いに、何度か東京から往復したのだが、米原ルートを使うと、新幹線に接続する特急列車が全て「しらさぎ」になっていることに呆気にとられたのだ。
 
 
10年近くも「加越」の廃止を知らなかった迂闊さもさることながら、東海道新幹線と北陸を結ぶ連絡特急という共通点はあっても、米原を起終点とする列車と、名古屋まで足を伸ばす列車の愛称を一緒くたにするとは、利用者の混乱を招きかねないと思った。
昭和61年には、「しらさぎ」が1日6往復、「加越」が8往復と、「加越」の本数が多かったのだから、尚更である。
強いて利点を探せば、「みどりの窓口」で、米原から乗り継ぐ列車が「しらさぎ」なのか「加越」なのか迷わないで済む、というくらいであろうか。
 
乗車経験がなかったとは言え、幼少時から慣れ親しんできた特急列車の消滅に、強い抵抗感を覚えたのは、僕が保守的な人間であることの現れであろうか。
 
 
米原駅から逆方向に走り始めた「しらさぎ」1号は、琵琶湖の東岸に沿う北陸本線を北に向かう。
ここからは、初めて体験する区間であるから、僕は居ずまいを正した。
心なしか、右手に立ちはだかる伊吹山が、東海道本線から眺めるよりも寒々と見えた。
 
往年の鉄道連絡船が発着した長浜は、豊臣秀吉が初めて城を賜った地として歴史小説や大河ドラマによく取り上げられるが、明治16年に建てられたという煉瓦造りの駅舎がちらりと見える他は、ひっそりとした町並みだった。


 
北陸本線の沿線は、中世の史跡が多い。


長浜駅を出てすぐ、知らなければ見逃してしまいそうな川は、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した古戦場として名高い姉川である。
右手には、浅井長政の居城であり、落城に際して妻のお市の方と、後の淀君となる茶々が救出されたという小谷山が顔を覗かせ、その向こうにそびえているのは、豊臣秀吉と柴田勝家が戦い、七本槍で知られる賤ヶ岳である。
 
賤ヶ岳で破れた柴田勝家は、現在の福井市に当たる北の庄で、後添いだったお市の方と自刃するのだが、勇壮な戦国武将の面々よりも、歴史に弄ばれた1人の女性の運命を思えば胸が詰まる。
賤ヶ岳は長浜町の北にあって、余呉湖と琵琶湖を隔てる標高421mのなだらかな山である。
「しらさぎ」の車窓からも、山懐に抱かれた余呉湖の湖面が垣間見える。


琵琶湖を離れると、いきなり地勢が厳しくなり、線路の両側から山肌が押し寄せてきた。
 
 
北陸本線が産声を上げたのは、明治15年に、長浜-柳ヶ瀬間と、洞道口-敦賀港間が開業した時である。
柳ケ瀬駅と洞道口駅の間にある柳ヶ瀬トンネルの掘削工事が難航し、徒歩連絡を余儀なくされた時期もあったが、明治17年に柳ケ瀬トンネルが開通し、同じ年に中山道幹線として米原-長浜間が開業したのは前述した通りである。
 
明治29年に敦賀-福井間が開業し、明治32年に富山駅、明治41年に魚津駅、明治43年に泊駅と、匍匐前進のように東へ鉄路を伸ばし、明治44年に信越本線と接続する直江津-名立間も開通する。
明治45年に、北陸随一の難所であった親不知を越えて泊-青海間が延伸、東からも名立- 糸魚川間が延伸されて、大正2年の青海-糸魚川間の開業を最後に、北陸本線は全線が完成したのである。
 
 
長浜と敦賀の間に立ちはだかり、北陸への最初の関門とも言うべき柳ケ瀬越えには25‰もの急勾配があり、昭和3年に柳ヶ瀬トンネル内で貨物列車の機関士5名が窒息死するなど、まさに命がけの難所だった。
昭和28年に、全長1707mの余呉トンネルと5170mの深坂トンネルが貫通し、10‰の勾配に和らげられた新線により、ようやく難関が克服されたのである。
 
深坂トンネルは、琵琶湖北岸の断層地帯を貫くので、大量の湧水と崩落に悩まされた。
着工が昭和13年、完成が太平洋戦争を挟んだ昭和28年と、15年もの歳月を費やしたため、16年もの工期と67名もの犠牲者を出した東海道本線丹那トンネルに匹敵する難工事として、国鉄総裁から表彰されたという。
 
「しらさぎ」1号が走るのは、北陸本線の複線化のために、昭和41年に完成した新深坂トンネルである。


 

柳ケ瀬を無事に越え、敦賀駅を9時48分に発車した「しらさぎ」1号の行先に控えているのは、福井平野との間に立ち塞がる木ノ芽峠である。

 

 
9世紀に官道として北国街道が作られた木ノ芽峠は、関西と北陸を行き来する旅人たちが大変難儀したと伝えられる。
越前、越中、越後の「越」の由来となり、柴田勝家が東の栃ノ木峠に北国街道を移動させたのも、木ノ芽越えの峻険さゆえであった。
 
源頼朝に追われて都落ちする義経主従や、足利尊氏に敗れて再起を誓う新田義貞、永平寺を開いた道元禅師、一向宗を広めた蓮如上人、「奥の細道」の松尾芭蕉など、数知れない歴史上の人物が、この峠を越えている。
旧暦の10月に木ノ芽峠を越えた新田義貞の軍勢は、例年になく厳しい寒さと積雪に見舞われて、多数の凍死者を出したと言う記録が「太平記」に残っている。
 
草の葉に かどでせる身の 木部山 雲に路ある ここちこそあれ
 
道元禅師が詠んだ歌であるが、「雲に路ある」とは、木ノ芽峠の様子をよく表していると思う。



北陸本線も、険しい木ノ芽峠を避け、海側の山中峠を越えて杉津を経由するルートで建設されたが、最大25‰の急勾配と12ヶ所のトンネル、4ヶ所のスイッチバックが連続するため、坂に弱い蒸気機関車は、大変苦労したようである。
 
海の眺めの類いなき
杉津をいでてトンネルに
入ればあやしやいつのまに
日はくれはてて闇なるぞ
 
と鉄道唱歌に歌われる景勝地としても知られた。
後の大正天皇が、皇太子時代に行啓した折りに、あまりの絶景に見惚れて、しばらく汽車の発車を遅らせたという逸話も残っている。
 
昭和37年に建設された北陸本線の新線は、直下に長さ1万3870mの北陸トンネルを貫通させるという荒業で、先祖返りの如く木ノ芽峠に戻った。


 
急勾配に弱くても、電化により長大トンネルを問題なく通過できる鉄道と、勾配に強いものの、排気ガスのために長大トンネルは避けたい自動車という特性の違いであろうか、高速道路が、昔の街道に回帰して造られていることが少なくない。
 
鈴鹿山脈を貫く新名神高速道路もその一例であるが、昭和52年に建設された北陸自動車道は、かつての鉄道に倣って、柳ヶ瀬越えと杉津越えに沿っている。
後者では、敦賀ICと今庄ICの間で北陸本線の廃線跡を利用し、上り線の杉津PAは、杉津駅の跡に設けられている。
旧北陸本線の駅舎跡に建てられた記念碑のすぐ背後を、北陸道の高架が横切り、廃線めぐりのファンを、無粋な、とがっかりさせている。



これが往年の北陸本線の車窓なのか、と感慨深く杉津越えを堪能したのは、今回の旅の翌年、昭和62年に開業して特急「しらさぎ」と競合することになる「北陸道特急バス」名古屋-金沢線に乗車した時だった。

 

海ぎわまでせり出す山々を、きついカーブが断続する橋梁とトンネルで抜け、敦賀ICを過ぎたあたりで、折り重なる山並みの彼方に敦賀湾を見下ろすという、北陸道屈指の絶景であった。
 
 
北陸トンネルは、昭和32年に着工し、僅か5年で貫通するという、我が国の高度経済成長を象徴する突貫工事で完成した。
500年ぶりに復活した木ノ芽峠越えであるが、往年の難所として思い起こすような悲惨な事故が起きたことを忘れてはなるまい。
 
昭和47年11月6日午前1時8分頃、北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き下り急行「きたぐに」(EF70型電気機関車牽引の客車15両)の食堂車喫煙室の床下暖房機器から、火災が発生した。
非常制動により、列車は、敦賀口から5.3km、今庄口から8.57kmの地点で緊急停止する。
乗務員は消火器や食堂車の水を使って消火を試みたが、みるみる火勢が強まり、食堂車と他の車両を切り離す作業の途中で停電が起き、電気機関車が動かなくなってしまう。
 
同時刻に、上り線を475系電車急行「立山」3号が走行していたが、停止信号により、事故現場から2km離れたトンネル内の木ノ芽信号場で停止した。
「きたぐに」と「立山」の送電系統が別であったため、「立山」は走行が可能で、「きたぐに」から逃げてきた乗客225人を救出した後に、後退してトンネルを脱出する。
 
「きたぐに」の乗員乗客30人が死亡し、714人が負傷するという大惨事となったのだが、当時小学生だった僕も、父が事故について興奮気味に話していたのを覚えている。
 
 
真っ暗な壁面に轟々と走行音を響かせながら、僅か10分足らずで北陸トンネルを飛び出した特急「しらさぎ」1号は、広大な田園地帯を走り抜けて、10時25分に福井駅に滑り込んだ。
 
「越」の難所を無事に通り抜けた安堵のためか、単に夜行明けの寝不足だったのか、そこからの車中は朧ろな記憶しか残っていない。
行けども行けども、青々と水田が広がる単調な車窓も、朦朧と過ごした一因であろうか。
米原から北陸にかけては、雨こそ降らなかったものの、明るかった濃尾平野とは対照的に、雲が低く垂れ込めた暗い車窓だった。
 
1時間もかからずに越前国を走り抜け、金沢駅に到着したのが、名古屋を出て3時間後の11時19分だった。
たった2分の停車で、構内の景観が後方に流れ始めると、さすがに後ろ髪を引かれたけれども、今回は「しらさぎ」を乗り通すのが目的なのだぞ、と気を取り直した。


金沢駅から富山駅までは、子供の頃から特急「白山」で何度も往復した馴染みの車窓である。
 
石川と富山の県境にある倶利伽羅峠は、古代から北陸道が通じ、木曽義仲の「火牛の計」による「倶利伽羅落とし」で有名な古戦場でもある。
明治期の国道も倶利伽羅峠に建設されたが、輿が通れない急坂であったため、明治天皇の北陸巡幸では、北に位置する天田峠が改修され、北陸本線が富山まで延伸された時も、天田峠に全長957mのトンネルが掘られた。
 
昭和29年に、北陸本線に全長2459mの新トンネルが開通し、その工事には、新深坂トンネル工事を終えた坑夫たちが多数加わっていたと言う。
新倶利伽羅トンネルの開通により、勾配が大幅に緩和されて補助機関車が不要となり、旧トンネルは国道8号線に転用された。


「しらさぎ」1号が走るのは、もちろん新しいトンネルである。

柳ケ瀬や木ノ芽峠ほどの険しさは感じられないものの、こちらの方が、幾分、列車の速度が抑えられているような気がする。
 
父に連れられて金沢に出掛ける時は、特急「白山」ばかりでなく、自家用車を使う場合もあった。
上信越自動車道も北陸道も通じていなかった時代であるから、未明に実家を発ち、国道18号線と国道8号線を延々と走って、金沢に着くのは、陽が西に傾く頃合いだった。
その時に何度もくぐった倶利伽羅峠の国道トンネルに、昔は列車が走っていたとは知らなかったなあ、と思う。
確かに、倶利伽羅越えの県境の前後は、国道8号線と北陸本線がほぼ並走していて、転用も利くだろう。
子供の頃の僕は、車から線路を目にして、あっちに乗りたいな、と思ったことしか覚えていない。
 
越中国に足を踏み入れ、砺波平野で再び速度を上げた「しらさぎ」1号は、最後に神通川の鉄橋を渡って、時刻表通りの12時06分に、終点の富山駅に着いた。
 
 
富山から先の行程は、未定である。
 
東京に住んでいるのだから、このまま北陸本線を東に進むのが常道であり、富山駅を14時20分に発車する青森行き特急「白鳥」や、14時44分発の新潟行き特急「北越」7号に乗れば、17時前後に着く長岡駅で上越新幹線に乗り換えて、上野駅まで2時間もかからない。
上野着が21時45分とだいぶ遅くなるが、富山を15時57分に発つ長野経由上野行きの特急「白山」4号という選択肢もある。
 
 
東京-米原-富山-長岡(または長野)-上野と、円を描く行程は面白いけれども、それならば、東京でそのような切符を購入していれば、遠距離低減制の適応で少しは旅費が安くなったはずである。
夜行高速バス「ドリーム」号に乗りたいと思って自宅を出てきたので、名古屋までのバス乗車券しか購入しなかったが、国鉄時代の「ドリーム」号は、鉄道の乗車券でも座席指定を受ければ乗車が可能だった。
特急「しらさぎ」でも、名古屋駅で、富山までの乗車券と特急券しか購入していない。
 
富山駅の窓口で、切符を東京まで延長するのは可能だろうが、こいつ名古屋から東京まで行くのに何を血迷って富山に来ちまったのか、などと係員に怪訝な顔をされるかもしれず、気が進まない。
 
 
僕は、富山を12時15分に発車する上り大阪行き「雷鳥」18号に乗り込んだ。
東京に帰るのと逆方向であるが、たまたま最初に来た特急電車を選んだだけで、アミダくじのような行き当たりばったりである。
 
来た道を折り返すのだから、開いた巻物を巻き戻すような車窓だが、この「雷鳥」18号は新潟仕立てで、全区間の走行距離581.2km、所要7時間07分とは、北陸本線を行き交う特急列車でも、青森-大阪間1023.5kmを走破する特急「白鳥」に次いで長い。
北陸本線は、我が国でも有数の特急街道であり、大阪-金沢・富山・新潟間の「雷鳥」や、名古屋-金沢・富山間「しらさぎ」、米原-金沢・富山間「加越」、金沢-新潟間「北越」、金沢-上野間「白山」、そして大阪-青森間「白鳥」が、びっしりとひしめいている当時の時刻表を目にすると、今でも心が踊る。
 
起終点を乗り通す訳でもないのに、北陸本線で2番目の長距離列車に乗っている、というだけで気分が高揚するのだから、僕も余程の鉄道好きなのだな、と苦笑いが浮かぶ。
 
 
新潟から富山まで3時間以上を走って来たので、僕が乗り込んだ「雷鳥」18号の自由席には、長距離列車に特有な空気の澱みと気怠さが漂っていた。
あちこちにゴミも散らかっていて、巡回中の車掌が少しずつ拾っている。
 
僕は、富山から僅か45分で到着する金沢駅で、「雷鳥」18号を乗り捨てた。
「雷鳥」の後ろ姿を見送りながら、未乗の湖西線で大阪に出る手もあったか、と臍を噛んだが、後の祭である。
 
 
金沢の街を歩くのは好きだった。
僕はここで生まれたのか、と感慨に浸るも良し、幼い頃から何度も両親に連れられて歩いた兼六園や、武蔵ヶ辻や香林坊といった繁華街を散策するのも楽しい。
 
ところが、僕は、駅前広場の隅っこで「北陸鉄道浅野川線 内灘ゆき 電車のりば」と看板を掲げた北鉄金沢駅に歩を向けた。
家族旅行で繰り返し訪問したとは言え、鉄道ファンは僕だけだったので、金沢で北陸鉄道線に乗る機会は全くなかった。
今回、その鬱憤を晴らそうという魂胆である。
 
 
北陸鉄道の起源は、大正5年に設立された金沢電気軌道である。
 
それまで乗合馬車が走っていた金沢市内に、路面電車を順次開通させ、市内の野々市駅(現・西金沢駅)から市内に向けて乗合馬車を運営していた金野鉄道と、野々市駅と松任駅を結んでいた松金電車鉄道を大正9年に、市内の野町駅と松任駅を結んでいた石川鉄道を大正12年に買収、新寺井駅と鶴来駅を結ぶ能美鉄道を昭和14年に合併している。
電気事業にも手を染めていた同社は、昭和16年に北陸合同電気(現在の北陸電力)に統合され、翌年に運輸部門を北陸鉄道と改名、昭和18年に羽咋-三明間を結ぶ能登鉄道、山中-河南駅-大聖寺・宇和野-新動橋・粟津温泉-新粟津・河南-宇和野-粟津温泉・動橋-片山津の各線を運営していた温泉電気軌道、加賀一ノ宮-白山下間の金名鉄道、金沢市内の中橋駅と大野港駅を結ぶ金石電気鉄道を合併、昭和20年には、小松-鵜川遊泉寺を結ぶ小松電気鉄道と、金沢-内灘を結ぶ浅野川電気鉄道を合併した。


 

一時は、石川県内に総延長144kmに及ぶ路線網を展開していた地方私鉄の雄であったが、各路線の起点である金沢、野々市、羽咋、松任、新寺井、新動橋、新粟津、大聖寺は国鉄北陸本線に、羽咋は国鉄七尾線に接続する駅で、言わば国鉄線から延びる何本ものローカル線を集めたというのが実態であった。
 
戦後にモータリゼーションが発達すると、ひとたまりもなく次々と廃止され、かろうじて残されているのは、金沢-内灘間を結ぶ浅野川線と、野町-西金沢-鶴来間の石川線だけである。
 
 
平成13年に地下駅として一新されたが、それまでの北鉄金沢駅は、堂々たる国鉄駅に遠慮しているかのように、ホームが1本だけという質素な造りだった。
地下化される前の長野電鉄長野駅も、このような佇まいだったな、と故郷の私鉄を懐かしく思い浮かべた。
 
古びた電車は、ギシギシと車体をきしませながら、北陸本線を南側から北側に回り込み、次の七ツ屋駅から浅野川に沿って北上する。
大正14年に開業した七ツ屋-新須崎間がこの路線の起源で、翌年に金沢-七ツ屋間を延伸、昭和4年に新須崎-粟ヶ崎海岸間が開通している。
 
線路の左側は、様々な形と色の住宅が雑然と連なり、金沢駅の南側に広がる繁華街に比べれば、北側はだいぶ鄙びているのだな、と思う。
思い出したように現れる駅の大半も、線路の片側に簡易的なホームが置かれているだけである。
 
右手には、浅野川を囲む堤防が延々と続く。
車窓から川面を眺められる箇所は殆んどなく、視界を遮る土手を見上げながら、つまんないの、と悄然と過ごすしかない。
 
 
金沢を流れる河川としては、「男川」の異名がある犀川が有名だが、浅野川が「女川」と呼ばれているのは、比較的流れが穏やかであるためと聞いたことがある。
それでも、昭和27年と昭和28年、そして平成20年に、集中豪雨により氾濫を起こしている。
 
磯部駅の先で北陸道の幅広い高架をくぐり、蚊爪駅の先で、線路は浅野川から離れて大野川の鉄橋を渡る。
このあたりで住宅街が途絶えて、水田が広がるようになる。
「蚊爪」は「かがつめ」と読む難読地名で、江戸時代には「加賀爪」と表記されていたという。
「かが」とは草地を指し、「つめ」は端を表す「詰め」であることから、「かがつめ」は草地の端という意味になる。
草地であるだけに蚊が多かったのかな、と思えば、未開の湿地であった太古の加賀平野が思い浮かぶではないか。
 
 
「加賀」と言えば、越前、越中、越後と異なり、「越」の字を使っていないのが、子供の頃から不思議だった。
 
7世紀に「越国」が越前、越中、越後の三国に分かれた時点で、現在の石川県は越前国に含まれる「加賀郡」であった。
ところが、加賀郡は、越前の国府から遠いために巡検が難しく、役人が不法を働いても、民が訴えられずに逃散するだけである、という国司の訴えを聞き届けた太政官が、9世紀に、越前国を割いて加賀国と能登国を建てたのである。
 
 
大野川は、河北潟から、内灘砂丘の南側を東西に流れている。
僅か8kmという短い川であるが、川幅は浅野川より遥かに広い。
 
かつて浅野川線の終点であった新須崎駅は、蚊爪駅のすぐ先にあったようで、今でも川端に須崎という地名が見られる。
新須崎駅が廃止された後に、蚊爪は、文字通り大野川に突き当たる端っこの駅になった訳である。
 
 
終点の内灘駅は、ホーム1本、線路1本、改札が1ヶ所という簡素な駅だった。
小さな電車にこれほど乗っていたっけ、と思いながら、降車客とひしめき合って外に出た僕は、思わず立ち竦んだ。
 
石川県の日本海沿岸には、羽咋、小松、大聖寺など、数多くの砂丘が形成され、内灘砂丘もその1つで、金沢から羽咋までおよそ37kmに及ぶ。
内灘駅と名乗るからには海岸にあるのだろう、と早合点していたのだが、駅の周りは瀟洒な住宅ばかりだった。
雲間から太陽が顔を出して、辺りは燦然と明るい。
湿り気を帯びた空気が重いけれども、かすかに潮の匂いがしないでもない。


小学3年生の頃であったか、父が運転する車で能登半島に寄り、千里浜なぎさドライブウェイを気持ち良く走ってから、内灘で、とんでもなく大きな夕陽を見た。
今回、北陸鉄道浅野川線で内灘に行こうと思い立つと、もう1度眺めてみたいものだ、と、あの夕陽が脳裏に浮かんだ。
 
ところが、無情にも、海岸は駅からだいぶ離れているようである。
 
 
大正15年に、浅野川電気鉄道は粟崎遊園を開園して粟ヶ崎遊園前駅を設けたが、太平洋戦争中に粟崎遊園は軍用地となり、粟崎遊園前-粟ヶ崎海岸駅間は廃止された。
戦後に復旧されたものの、昭和27年に、朝鮮戦争向けに日本国内で製造される砲弾の試射が必要となり、内灘砂丘に試射場が設置されて、北陸鉄道浅野川線から分岐する資材輸送用の専用線が敷設されている。
 
地元の議会や住民、北陸鉄道の労働組合などが「内灘闘争」と呼ばれる激しい反対運動を繰り広げ、政府は石川県選出の国会議員に説得に当たらせたが、昭和28年の選挙で破れ、反対する議員が当選した。
当時、説得に当たった議員が武蔵ヶ辻で丸越百貨店を経営し、反対議員も香林坊で大和百貨店を経営していたので、「武蔵大和の日本海決戦」と呼ばれる白熱した選挙戦であったという。
昭和32年に試射場は返還されたが、内灘駅前から海岸にまっすぐ伸びる「鉄板道路」に、試射場時代の名残りが感じられる。
 
粟ヶ崎海岸駅が何処にあったのか判然としないが、当時の時刻表によれば、内灘駅と粟ヶ崎海岸駅の間は1.3kmあり、鉄板道路に沿っていたのかもしれない。
昭和49年に同区間が廃止されたのは、港湾整備が理由とされているので、内灘駅が海に面している訳がなかったのである。



内灘の地名の由来は、この地が「内七塚」と呼ばれていたためとされ、日本海に面する七塚町が「外七塚」、河北潟に面する室、荒屋、黒津舟地内、宮坂、大根部、本根部、向粟崎の7つの集落が「内七塚」と呼ばれていたらしい。
 
衣手の打廻の里にある我を知らにぞ人は待てぞ来ずける
 
と万葉集に詠われた「打廻」が、河北潟である。
つまり、内灘とは河北潟が由来で、日本海とは無縁であったのだが、内灘の名に惹かれて北陸鉄道浅野川線を初乗りした僕としては、憑き物が落ちたような心持ちになった。
 
 
前夜から乗り物に乗り詰めで、加えて北陸三県を当てもなく行ったり来たりしている始末だから、僕はいったい何をやっているのだろう、と思う。
海岸まで歩こうと思えば歩けるのだろうが、その意気込みはするすると萎んでしまい、僕は、とぼとぼと折り返しの電車に乗り込んだ。
 
何時間も費やす鉄道で東京に戻る気力も失せて、僕は金沢駅前からリムジンバスに乗り、小松空港からの全日空機で北陸を後にしたのである。
 
 

ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>