第23章 平成5年 延伸された常磐高速バス「ひたち」号に再乗車して高萩へ | ごんたのつれづれ旅日記

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話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:常磐高速バス「ひたち」号東京-高萩系統、JR常磐線普通列車】

 

 

昭和63年の開業からしばらく経った頃に、東京駅から日立駅まで高速バス「ひたち」号に乗車した顛末は、以前にこのブログで触れたことがある。

前後して登場した東京-つくば線「つくば」号や東京-水戸線「みと」号、東京-平線「いわき」号は幾度か乗車したけれども、「ひたち」号は、その1回だけであった。

 

運行本数が少なかったことや、乗車時間が比較的長く、乗ってしまえば帰ってくるのが億劫になる、といった理由もあっただろうが、何よりも、日立まで足を伸ばしながら、常磐自動車道を日立南ICで降りてしまう経路が、食指が動かなかった最大の理由であったのかもしれない。

僕が愛してやまない常磐道の景観として、関東平野の北限を成す山岳地帯で次々とトンネルをくぐりながら、その切れ間に太平洋を望む区間があるのだが、それは日立南ICの先である。

せっかく遠くまで行くならば、その区間を走る「いわき」号に乗ってしまえ、という気持ちになったのは無理からぬことだった。

 

 

年号が平成に変わり、先輩格の「つくば」号や「みと」号、そして後輩の「いわき」号は人気路線に育って増便を重ねたが、「ひたち」号は1日4往復のまま、長いこと据え置かれていた。

 

あまり利用者数が伸びない路線であったのか、日立製作所のビジネスマンはお金持ちで特急列車ばかり使うのかな、などと考えていたら、突如として平成5年に1日6往復に増便され、うち4往復が高萩駅まで延伸されたのである。

更に、平成8年には日立中央ICを経由する超特急便が登場、同11年には1日8往復、同13年には高萩IC経由北茨城市役所行きの系統が増設されて1日10往復、同18年に11往復、同20年に18往復、同21年に20往復、同23年に22往復まで増便、と見違えるような発展ぶりを見せるのだが、それは後の話である。

 

 

僕は、1度体験した高速バス路線の延伸や経路変更にはあまり興味が湧かず、余程のことがない限り乗り直さないが、「ひたち」号高萩系統は、無性に乗りたくなった。

その理由は判然としない。

高萩という未見の街に行ってみたかったのか、それとも、1度目は記憶が曖昧になってしまった日立南ICから先の行程を再び体験してみたくなったのか。

 

同じ年に、僕は、それまでの千葉-成東間から光町まで延伸された高速バス「フラワーライナー」にも乗り直している。

社会人になって数年と言う頃であり、それだけ高速バスの旅に飢えていたのかもしれない。

 

 

当時の僕は、高速バスで旅をするならば、最前列の席で車窓を楽しまなければ価値が半減する、という一種の強迫観念にとらわれていたから、定員制で自由席の「常磐高速バス」に乗る時には、発車の1時間ほど前にはターミナルに着くようにしていた。

バスが次々と乗り場に横づけされても、行列の脇に退いて一向に乗ろうとしない僕の振る舞いは、周りからどのように見られているのだろう、と、ある程度は人目を気にしつつも、所在なく立ち続けたものだった。

 

バスの最前列左側の席は、揶揄もしくは諧謔の意味合いを込めてマニア席と呼ばれているらしい。

強引にその席を確保したがるファンが一定数存在し、そこに座る客を煙たがる運転手もいると耳にしたのは、かなり後になってからのことである。

早くからそうとを知っていれば、マニア席を選ぶのを控えたかどうかは分からない。

 

運転手の一挙手一投足が気になってしまう席であるのは確かで、無愛想な運転手に当たると、じろりとこちらを睨みつけるような視線を投げ掛けた後は知らん顔、という車中では、気が重くなり、後席に移ろうかな、と悩ましく感じたこともある。

事故が起きれば命に係わる可能性が少なくないし、近年は3点固定方式のシートベルトの装着を要求される、何かと煩わしい席であるのも間違いない。

それでも、後席よりも遥かに開ける展望と、運転手の運転操作をじっくりと見られる魅力には打ち勝てず、それほどマニア席に拘らなくなった現在でも、あいていれば座りたくなってしまう。

 

用もないのに乗り物に乗りたがるのは児戯に類する行為であることは自覚しているし、今では、如何にも物欲しげな醜態を他人に晒さなくても、与えられた座席で目一杯楽しむことが旅の醍醐味である、と達観もしくは諦観しているから、マニア席に座れなくてもそれほど落胆しなくなった。

それでも、どのような人物が最前列に座っているのかが気になったりする。

せっかく最前列の席に座っているのに、本を読み出したり、居眠りをしているのに気づくと、僕に譲ってくれればいいのに、と不遜な考えが浮かんでくる。

 

 

『電車に乗ると、つい先頭車のいちばん前に立つ。

前方が見えておもしろいからである。

いい歳をして子供みたいだと言われそうだが、吊革につかまって片側だけを眺めているより格段におもしろいのだからしかたがない。

けれども私だけではない。

もちろん、そういうところに立つのは少年が大半であるが、大人も少なくない。

もっとも、年配の紳士は少年のように窓に額を押しつけて前方を凝視したりはしない。

たまたまその位置に乗り合わせたように何気ない振りで立っているが、眼は一心に前方を見ている。

運転士の気分を味わい楽しんでいるにちがいない。

同類のことはおのずとわかるものである。

ただし、電車のいちばん前に立って前方を見たがるのは、老若を問わず男に限られているようだ。

女性は皆無といってよい』

 

 

紀行作家宮脇俊三氏の「終着駅は始発駅」所収の「トンネル三題」の一節である。

 

「同類」に限らず、普段は鉄道などに興味を示さない人種であっても、先頭部で前方の景観と運転手のきびきびとした動作を目にすれば、誰もが惹き込まれると僕は思う。

僕も、初めて高速バスに乗車した時は、運転手の運転ぶりが面白くてしょうがなかった。

最近の鉄道では、サービスの一環であるのか、運転席と客室を隔てる窓のカーテンを開いて、前方の眺望を乗客に提供することが多くなり、客としては嬉しい限りであるけれども、鉄道でもバスでも、自分の仕事ぶりを他人に見られる環境を、人はどのように感じるのだろうか、と思う。

 

バスを待つ行列に加わっていても、自分より前にいる乗客について、この中で誰が最前列席に座るのだろう、と品定めをすることがある。

限定された体験に基づく見解であるけれど、ひょい、と最前列席に気軽に座るのは、中年以降の年齢層が多い。

若者は、脇目も振らずに後方座席へ突き進む印象がある。

鉄道では女性が少ないと宮脇氏が嘆いているけれども、バスは気軽に最前列に腰を落ち着ける女性が少なくない。

車酔いしにくい席であるのも確かだから、それを理由とする乗客もいるのだろう。

ファンでなくても、マニア席が好きな御仁は多い、というのが、僕の実感である。

 

 

僕が乗車したのは、高萩系統が登場して間もなくの初夏のことで、当時は、下り便の東京発が15時40分、16時40分、17時20分、18時00分と全て午後の運行、上り便が高萩発6時00分、6時40分、8時10分、8時55分と午前の運行であった。

 

午前の下り便に初乗りした時とは大いに事情が異なり、休日に時間が捻出できなかったのか、それとも衝動的に出掛けたのか、とにかく高萩行き「ひたち」号に乗車したのは、仕事を終えた平日18時発の下り最終便であった。

発車直前に東京駅八重洲南口3番乗り場に駆けつけると、バスを待つ乗客は長く列を作っていて、程なく現れたJRバス関東のハイデッカーの最前列席は、瞬く間に他の客に奪われてしまった。

賑やかに話し続けるおばさんの2人連れが最前列左側席を占め、運転手はうるさくないのかな、と心配した記憶がある。

 

最前列でなくても、前から3~4列目の窓際に座れたし、乗れただけ良しとしよう、と自らを慰めながら、暮れなずむ常磐道の車窓を眺めながら過ごしたが、不思議と後悔した記憶はない。

直前まで忙しく仕事をしていたことが夢のようで、シートに身体を預けながらぼんやりと過ごしたひとときの心地良さは、今でもはっきりと心に蘇る。

 

陽が長い季節ではあったけれども、高速道路を降りて日立の市街地に足を踏み入れる午後8時過ぎともなれば、窓外は完全な闇に包まれていた。

日立の街並みとは案外光が少ないのだな、という心細さが込み上げてきて、定刻20時20分に到着した日立駅前まで払拭されることはなかった。

駅舎には煌々と照明が灯されているけれども、周辺の建物の明かりが乏しいのである。

僅か5年前に訪れたばかりであるのに、このような所だったっけ、と思う。

 

 

ここで降りれば、20時54分に日立駅を発車する上り最終の特急「スーパーひたち」32号で、上野駅に22時23分に戻ることが出来る。

しかし、20時55分に到着予定の高萩駅まで行ってしまえば、もう上りの特急列車は運転されていない。

 

それどころか、21時18分発の普通列車670Mで22時55分着の土浦駅まで行き、23時26分発の474Mに乗り換えて我孫子駅に23時59分着、そして、最終の1本前の0時02分発常磐線快速電車で上野駅に0時36分着、という、情けない方法しか残されていないのであった。

 

 

当時の常磐線は、上野駅と平駅(後のいわき駅)を結ぶ200kmを超える長距離普通列車が何本も運転されていたが、直通する普通列車すらない時間帯になっていた。

 

どの列車も終電もしくはそれに近く、逆に、このような遅い時間でも、高萩から上野までスジが繋がっていることを幸運と思うべきだろう。

曲がりなりにも東京へ帰ることは出来るのだし、高萩行きのバスに乗ろうと決めて来たのだから、僕は先に進まねばならない。

 

 

日立駅前では、驚いたことに、20~30人はいた僕以外の乗客が、全員降りてしまった。

通路を乗降口に進む列が消え、高萩に行く客は誰もいないのか、と閑散とした車内を見回していると、

 

「お客さん、こっちへ来ませんか」

 

と、若い運転手が振り返って声を掛けて来た。

 

「いいんですか?」

「どうぞ」

 

望むところです、と勇んで最前列左側席に移動すると、バスは動き出した。

夜だから車窓はあまり望めないけれども、それでも、後席より最前列の方が見えるものが多いのは確かである。

運転手のハンドルさばきも、うっとりするほど滑らかだった。

やっぱりこの席はいいな、と運転手の心遣いに感謝したくなる。

 

「お客さんは高萩ですか」

「はい」

「じゃ、川尻十文字は通過します。放送はいらないですよね。進めちゃいましょう」

 

川尻十文字とは、日立駅と高萩駅の間の国道6号線上にある唯一の途中停留所である。

 

十字街、という地名ならば、『十字街とは北海道の都市の都心部に多くみられる地名。開拓時にその都市の中心部になる交差点の周辺に名付けられることが多い』と辞書に記されている通り、小樽に新光町十字街、入船十字街、長橋十字街、稲穂十字街などが存在し、深川、留萌、女満別、余市、倶知安など数え切れない程の街に十字街が見受けられる。

十文字、という地名も、おそらく街道が交差する場所、と言う共通点があるように思えてならず、茨城県の他にも、秋田県や福島県、群馬県など、関東・東北地方に点在しているという。

 

進めちゃいましょう、と運転手が独りごちたのは、停留所案内のことで、片手でボタンを何回か押すと、

 

『御乗車お疲れさまでした。次は終点、高萩駅です』

 

と、気の早い録音放送が流れ、合わせて運賃表も高萩駅までの料金に変わった。

 

「日立から高萩までは、いつも、こんな感じなんですか」

「うーん、今まで私が乗った便は、みんな日立で降りちゃいましたねえ。高萩まで伸びたことを知っているお客さんが少ないのかな。今日は珍しいなって思いましたよ」

「誰もいなければ日立で打ち切りなんですか?」

「いえ、路線バスですからお客さんがいようといまいと、高萩まで行きますよ。それに、私もこのバスも高萩営業所の所属なんです」

「良かったです。僕だけのために運転手さんが高萩まで行かなければならないんだったら、申し訳ないですからね」

「大丈夫です。どうせなら、お客さんがいた方が張り合いがありますよ。ですから、御乗車、誠にありがとうございます」

 

と、運転手は正面を見据えながら破顔した。

行き交う車のヘッドライトや街灯に照らされて、その横顔が明るくなったり暗くなったりする。

混雑する日立市街を抜け、このような時間になっても、行き交う車は多い。

左手には、山々の黒々とした輪郭が連なっている。

右手にはこんもりとした松林が続き、小さな川を跨ぐ橋を渡ると、その奥に、幾つもの白い波頭が浮かぶ暗い海原が垣間見えた。

 

 

何の用もなく、高萩に着いたらとんぼ返りするだけの僕が乗らなければ、このバスは、空で高萩まで行くことになったのか、と思う。

 

高萩駅までおよそ16km、30分程の道のりは、陽気な運転手と楽しく話をしながら、瞬く間に過ぎた。

マニア席に座って運転手と話し込みながら車中を過ごしたことは何度もあるけれども、招かれたのは「ひたち」号が唯一である。

帰りの普通列車の車中で飽きもせず、思ったよりずっと短く感じたのは、「ひたち」号高萩系統の余韻が、それだけ心地よかったからであろう。

 

乗り直して良かったと思う一方で、マニアであることがどうして運転手に露呈したのか、今でも不思議で仕方がない。

 

 

 

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