第22章 平成5年 延伸された高速バス「フラワーライナー」で一期一会の町を訪ねる | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:京成電鉄千葉線普通電車、高速バス「フラワーライナー」千葉-光線】 

 

 

高速バスが好きな僕でも、同じ路線に2度乗るのは珍しい。

 

路線が少なかった頃は、繰り返し乗車した場合もあった。

全国に高速バスが増え始めると、どうしても新しい路線に目移りがして、1度乗車した路線に乗る機会はめっきりと減った。

収集癖のように、体験した路線の数を増やすことが面白くなった。

同じ土地を行き来する場合でも、同じ経路を往復するのは勿体なくて、少しくらい不便だったり遠回りになっても、別の交通機関にならないか、と熟慮を重ねるようになった。

 

昭和62年から千葉中央駅と成東駅の間で運行を開始し、平成5年に光町役場まで延伸された高速バス「フラワーライナー」は、改めて光町まで乗りに行ったという点で、珍しい部類に入る。

もともと、高速バスが少なかった時代に時刻表を眺め、選び出したのが「フラワーライナー」だった。

高速バス路線の延伸は珍しいことではなく、起終点を乗り通すことに拘りたい僕でも、そのたびに乗り直していては切りがないと思ってしまう。

見知らぬ土地に足跡を印す楽しみがあるとしても、車窓の大半は二番煎じであり、手間の割に得るものが少ない行為である。

 

「フラワーライナー」で光町まで乗り直そうと思った心境は、今、振り返っても理解できない。

 

 

2度目の「フラワーライナー」は、光町からの上り便に乗ることにして、京成千葉線の電車で千葉に向かった。

 

京成電鉄本線が京成上野駅から津田沼駅を経て成田方面に向かっているため、津田沼駅と千葉中央駅を結ぶ京成千葉線は支線のような扱いで、東京方面からの直通列車も僅かな本数である。

どうして京成電鉄は東京と千葉の間の都市間輸送に力を入れないのか、前々から不思議だった。

 

京成千葉線の開通は大正10年で、京成本線の津田沼-成田間よりも早い開業である。

同じ年に市に昇格した県都千葉市への都市間輸送を優先した形であり、昭和10年に国鉄総武本線が千葉駅まで電化される前は、京成千葉線の方が運転間隔や利用客数において優位に立っていた。

国鉄の電化後も、両者の線路が並行する区間では、「国鉄の電車が走っていたら必ず追い抜け」との通達が出され、太平洋戦争の直後にGHQから競走を禁止する通達が出されたという。

現在のように埋め立てが進む前は、京成千葉線の各駅が海岸に近く、海水浴や潮干狩りを楽しむ行楽客で賑わい、京成稲毛駅や西登戸駅周辺は別荘地になった。

東京湾岸で別荘とは、信じられないことだけれど、それほど遠い昔ではない。

 

 

昭和47年に総武快速線が増設され、中央・総武緩行線と合わせて総武線が津田沼まで複々線となり、昭和56年には複々線が千葉駅まで延長、平成2年には京葉線が東京駅まで開通すると、京成千葉線は都心アクセスの上で劣勢となり、東京方面へ直通する電車の本数も大幅に削減されてしまう。

現在の京成千葉線は、朝と夜に京成本線直通の京成上野駅発着電車が設けられている以外は、京成千原線と新京成電鉄線に直通する各駅停車が合わせて10分間隔で運行されるだけという、寥々たる有様になっている。

 

ところが、津田沼駅で乗り換えた京成千葉線の電車の走りっぷりは、予想に反してきびきびとしていて、東海道本線と競合するために名を馳せている京浜急行を髣髴とさせた。

津田沼と千葉の間12.9kmの所要時間は17分、京浜急行本線に当てはめれば品川-川崎間とほぼ同じ距離を、同社の特急と似たような時間で走っていることになる。

同じ区間をJR総武本線の快速電車は11分で結んでいるから勝負にならないが、総武線各駅停車の所要は15分、京成千葉線でも幾つかの駅を通過する急行を走らせれば充分に競争力が発揮できるのではないか、などと勝手なことを夢想してしまう。

昭和40年代には、稲毛だけに停車する急行や、幕張、稲毛、みどり台に停車する快速電車が運転されていた時期もあったらしいが、いずれも廃止されている。

 

京成千葉線の電車の走りっぷりがあまりに小気味よかったので、東京-千葉間の都市間輸送に参加しないのは、やはり勿体ないように思えてならなかった。

 

 

京成千葉駅からJR千葉駅の総武本線下り普通列車に乗り継いで、横芝駅まで足を伸ばした。

車内は混雑していて、座ることは出来なかったけれども、鄙びた田園風景に目を遣りながら、隣りに立っていた若い女性とずっと話し込んで過ごした。

成田空港に出勤する客室乗務員だった記憶がある。

どうしてその女性と会話を交わすことになったのか、どのような話をしたのか、全く覚えていないけれども、30年が経過した今でも心に残る楽しい車中だった。

 

横芝駅から光町役場までは、歩きに歩いた。

距離にして2kmたらず、よく迷わなかったものだと思うけれど、駅前で地図でも見たのだろうか。

 

横芝駅は横芝町にあり、町並みを抜けて栗山川を渡ると、光町の町域である。

平成18年に2つの町が合併して横芝光町となっているが、光町は稲作を中心とした農業の町だった。

そうか、徒歩で町の境を越えたのか、と思うと、どうでも良いことでありながら、何となく気分が高揚した。

 

見渡す限り、視界を遮るもののない九十九里平野を吹き渡ってくる風が強い。

背後の下総台地にある八街、成東周辺では、名物の落花生が植えられる前の、赤土が剥き出しになった畑に巻き上がる砂嵐がよく知られているけれども、海に近くて多少の潤いは感じられるものの、風の重みと冷たさは同じなのだろうな、と思う。

 

 

春の穏やかな日差しに溢れた長閑な田園を歩いているうちに、このような場所に身を置いていることが、とても不思議に思えて来た。

「フラワーライナー」が延伸するまで、光町の存在すら知らなかったし、訪れるつもりもなかった。

 

そして、おそらく、これからも──。

 

ふと、そのように思いが及んだ。

 

考えてみれば、不思議な縁である。

この旅そのものが例外中の例外だった。

光町とは一期一会、再びこの町に来て、この景色を目にすることは二度とないだろう、という予感がして、不意に、胸が締めつけられるような思いに駆られた。

何の変哲もない田園光景が、愛おしく感じられる。

 

当時の僕はまだ20代で、あちこちの街に出掛けていたものの、このように感じたのは初めてだった。

 

僕がファンである紀行作家宮脇俊三氏の処女作「時刻表2万キロ」の書評を読んで、ある一節が強く心に刻まれたのが、この頃であったのかもしれない。

全国の国鉄路線の完乗を目指していた宮脇氏は、苦労して乗りに行った多くのローカル線について、この線区を訪れるのは、その時が人生で最後、と感じていたのではないか、という評論だった。


『2年前、こんなことがあったあとで、私はこの橋のたもとに立って長良川を眺めた。

朝から親切にばかりめぐり合う日で、それが身に沁みていた。

2度目のきょうは、時間の経過の速さが身に沁みるようで憮然としている。

3度目はどうなるのだろか。

しかし、もう1度この白鳥を訪れることは、おそらくないだろう』


と、宮脇氏は処女作「時刻表2万キロ」で越美南線に乗車し、美濃白鳥を訪ねた時に記している。

不思議と記憶に残る一節だったが、似たような行為に及んでいる僕自身について、他人事ではない、と身につまされた。


残りの人生で二度とない、と思い定めることは、生命の儚さと同義であるように思う。

不老不死ならば湧かない感慨であろう。

限りある生命を初めて実感した、と言い換えても良い。

このような感覚は、その後の旅で何度か味わうことになるけれども、光町が最初であった。

 

 

せっかく乗りに来たのに、幾ら記憶の底をまさぐっても、光町から千葉への車中が、忘却の彼方に霞んでいるのは、どうしたことか。

僕は、本当に光町役場から「フラワーライナー」に乗ったのだろうか、と混乱してしまう。

いくら憧れの対象であっても、2度目になれば飽きてしまうのが、人間の性なのだろうか。

 

はっきりと心に刻まれているのは、横芝駅から光町役場へ歩いたひとときだけなのである。

 

 

光町には、千葉から東金を経て銚子に至る国道126号線が貫いていて、後に車やバイクで通ったことがある。

「光町」の名を冠した建物や、田園の向こうに見覚えのあるのびやかな丘陵を目にして、このあたりが光町だったのか、と蒙を拓かれた。

開業時から国道126号を使って千葉と成東を結んでいた「フラワーライナー」にとって、光町は、馴染みの国道をそのまま先に進んだ位置だったのである。


ならば、「フラワーライナー」から眺めた車窓も、大体の想像はつく。

横芝駅は、成東駅から2駅目である。

横芝町も光町も九十九里平野の真ん中にあって、茫漠とした印象の佇まいであったのも、記憶に残りにくい一因だったのかもしれない。

 

光町は匝瑳郡に含まれていて、郡の名は「さふさ」と読む難読地名である。

「さ」は「狭(美しい)」、「ふさ」は「布佐(麻)」を意味して「美しい麻のとれる土地」とする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国最大の郡であることに由来する、などと由来には諸説があるらしい。

匝瑳は、「さふさ」に好字を充てたものと考えられているらしいが、難しい漢字を採用したものだと思う。

 

 

光町が合併した横芝町は山武郡に属している。

町どころか、2つの郡を跨がって歩いたのだから、なかなか得難い体験になったと思う。


山武、という地名を初めて目にしたのは、後に車で九十九里浜を訪れた際に、首都圏中央連絡道の山武成東ICを降りた時で、漢字は平易であるものの、何と読むのか、と無性に気になった。

「さんむ」、という堅い読み方を知ったのは、かなり後のことである。

 

山武郡は、山辺郡と武射郡の2郡が合併して誕生した際に、それぞれの頭文字を採ったもので、山辺は山沿いの土地を、武射(むさ)は、川の洪水で削られた土砂が堆積していることを意味する「剥(むぎ)」「洲処(すだ)」が転訛したものと言われている。

光町は平地が多いが、隣接する成東も横芝も、車で通ると意外に起伏に富んだ地形であり、山中から太平洋に流れ出る川も幾つかあるものの、洪水を起こすような川だったのだろうか。

 

横芝の海岸寄りにある本須賀海水浴場や、光町の東にある蓮沼海水浴場は、混雑がそれほどでもなかったため、令和になって、足繁く訪れるようになった。

光町役場から「フラワーライナー」に乗った後にも、一期一会と思い込んだ土地に何回か立ち入ったことになるので、最初の感傷が小恥ずかしくなったが、光町の地理に無知だったから致し方ない。

宮脇氏も、これが最後、と処女作で思い定めた土地に再び足を運んだ作品があるし、思いも掛けない展開になるのも、また人生であろう。

 

「フラワーライナー」は、延伸して僅か3年後の平成8年に、光町役場への運行を取り止めて、成東止まりに戻った。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村


人気ブログランキングへ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>