第5章 昭和61年 大井町唯一の「高速バス」と「昭和の味」の思い出 | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:京浜急行バス「井30」系統・「森30系統」】

 

 

山梨県富士吉田市での大学教養学部から、品川区にある東京の大学に進級した僕は、昭和60年3月末に、都内に住む叔父の紹介で、品川区大井町のアパートに引っ越した。

 

国鉄大井町駅西口とロータリーを挟んだ阪急百貨店の裏手で、駅から徒歩数分という至便な場所にありながら、木造モルタル2階建て、6畳1間の風呂なし、共同トイレのアパートは、驚くほど安かった。

当てがわれたのは2階の角部屋で、陽当たりもよく、ここならば暮らせる、と思った。

 

アパートの大家は、大井三ツ又商店街の一角にある靴屋を営んでいて、叔父の知人も同じ通りの精肉店だった。

時々、肉料理や焼き鳥を差し入れてくれたのは、ありがたかった。

大井町は、あちこちに桜の木があって、ちょうど咲き始めた頃に引っ越し、満開で4月を迎えた記憶がある。

 

 

コインランドリーを併設した銭湯「末広湯」が近くにあったのは幸いと言うべきで、毎日のようにお世話になり、番台の気さくなおばさんとも顔見知りになった。

当時の入浴料金は260円だったが、その後、毎年のように10円ずつ値上げされた。

 

「ごめんねえ、こう見えてうちも苦しいのよ」

 

と、おばさんは、いつもすまなさそうに言っていたが、銭湯の値段は物価統制令という戦前に発令された勅令により、都道府県知事が上限を決めていたので、「末広湯」ばかりに責を負わせられないことである。

 

後に、200円で7分間浴びれるコインシャワーの店が、近くに開店したことがあった。

そこの親父も朗らかな人柄で、試しに訪れた僕に向かって、料金の入れ方や湯温の調整方法を丁寧に教えながら、

 

「それでお湯が出れば、身体がホッカホカになるって寸法だ」

 

と、得意気な顔をしたものだった。

 

 

大井町、と言えば、誰もが思い浮かべるのは、大井競馬場であろうか。

僕は賭け事に興味がない人種であるが、大井町駅前に大井競馬場に行く無料バス「井20」系統の乗り場があって、競馬新聞に赤ペンを入れているおじさんたちが絶えず並んでいた。

大井競馬場が「トゥインクルレース」と名付けたナイターレースを女性向けに大々的に宣伝し、賭け事でなく、馬を観るお洒落な場所としてイメージチェンジを図ったのも、この頃であった気がする。

けれども、大井町駅前の競馬場行きバス乗り場に、女性の姿が増えた印象はなかった。

 

もう1つ、思い浮かぶのは、昭和58年に公開された映画「時代屋の女房」である。

主演の夏目雅子の美しさと演技に惹かれたのだが、舞台が、大井町の三ツ又商店街に実在する骨董屋だった。

夏目雅子と言えば、映画「鬼龍院花子の生涯」での「なめたらいかんぜよ」の台詞だろうが、任侠映画が苦手な僕は未見で、テレビ「西遊記」の三蔵法師役や「黄金の日日」などの大河ドラマ、映画「二百三高地」や「小説吉田学校」「時代屋の女房」くらいしか思い浮かばない。

昭和59年に伊集院静氏と結婚したが、昭和60年9月の急逝の報に、強く衝撃を受けたばかりだった。

あの映画の街に住むことになるとは、と感慨深かった。

 

 

当時の京浜東北線大井町駅の西口は、平屋の駅舎だった。

 

向かいに建つ阪急デパートは、どうして関西資本が大井町に店を設けたのか不思議でならなかったが、建物は古びていて、長野にある百貨店より規模も小さいのに、売っている商品は食品1つとっても高価だったので、たまには贅沢してみるか、と思った時に足を運ぶだけだった。

 

国鉄大井町駅のホームの品川寄り先端に東口があり、北口と呼びたくなるような位置だったが、堀割になっている京浜東北線と東海道線の線路際の、更に北側にイトーヨーカ堂があった。

線路との落差が大きいので、崖っぷちのような立地だった。

イトーヨーカ堂に行けば、線路の向かいに、国鉄大井工場と山手線の大崎車庫が一望の下に見渡せた。


首都圏の国鉄車両の製造・修繕を行う大井工場が完成したのは大正4年、東洋随一と謳われた2階建ての山手線車両基地が隣りに置かれたのは昭和39年である。

故郷の長野市にも国鉄長野工場があり、同じく我が国有数の鉄道工場の街に住み始めたことに、不思議な縁を感じた。



イトーヨーカ堂は、阪急と違って気軽に買い物に行けたが、通りから離れているためか、売り場はいつも空いていた。

平成10年に西口ロータリーに面した現在地に移転する前の、今のようにフード・コートが充実して遊園地のような店舗になっていない時代の話である。

 

イトーヨーカ堂に比べれば、高価であるけれども、阪急百貨店の方が商品の質は良かったし、阪急百貨店での買い物は自分への御褒美のような感覚だった。

 

 

大井町駅西口のロータリーは、北に向かう登り坂になっていて、小高い丘の頂上に、京浜東北線と直角に東急大井町駅が建っている。

 

東急大井町駅に突き当たって右に行けば、東口商店街「大井銀座」である。

渋谷、品川、大森、平和島、八潮団地、大井埠頭方面の路線バスがひっきりなしに行き交い、飲食店や洋品店、家電店などが並ぶ、大井町きっての賑やかな通りである。

「大井銀座」が尽きる手前に、大井町で唯一の「芳林堂書店」があり、毎日のように足蹴く通った。

いや、唯一というのは語弊がある。

「大井銀座」からジェームズ坂に降りていく道が分かれる三叉路に、小さな本屋があったが、置いてある本の数が少なく、新刊や雑誌、児童書ばかりが目立っていたので、店内に入ることはなかった。

 

 

東急大井町駅前を左に折れれば、大井町線と平行して品川区役所に至る「区役所通り」で、商店街が続いている。

道路は緩やかな下り坂になっているが、大井町線はそのままの高さで高架になり、高架下には古びた商店が並んでいた。

 

その商店街の一角と、国鉄大井工場に隣接する高層アパートの入口付近に、地下へ潜る階段があり、入口に「大井デパート」なる看板が掲げられていた。

デパートと言っても小売店がある訳ではなさそうで、降り口には飲食店の看板ばかりが並んでいたが、僕は、何となく怖れをなして、1度も入ったことはなかった。

どのような地下街だったのだろう、と思う。 

 

 

大井町駅西口の正面には、西に向かう堂々たる4車線の道路があり、僕は勝手に駅前通りと呼んでいたのだが、なぜか数百メートルで途切れてしまう。

 

突き当りに映画館「大井武蔵野館」があり、数ヶ月遅れのロードショーや、古い映画を上映していた。

大井町には太平洋戦争前から複数の映画館が置かれ、昭和20年代には10館以上あったらしいが、僕が大井町で過ごした時には、「大井武蔵野館」だけになっていた。

邦画を上映する「大井武蔵野館」と、洋画を上映する「大井ロマン館」の2館体制で、平成元年に「大井武蔵野館」だけになり、平成11年に閉館してしまったが、今でも佇まいが目に浮かぶ懐かしい映画館である。

新作を観たい時には渋谷や川崎に出掛けたが、僕が好きなチャールトン・ヘストン主演のSF映画「クライシス2050」が平成2年に公開された時は、ここで観た。

「大井武蔵野館」は邦画だけの上映に拘っていたが、末期には洋画も上映していたのである。

 

 

東京で独り暮らしを始めて、最大の変化は、1人旅をするようになったことであるが、映画館に出掛ける頻度も増えた。

 

僕が初めて映画館を訪れたのは、小学6年生の時に父に連れられて長野市内の映画館で観た「クラッシュ」という米国映画で、義父に殺されかけた女性の怨念がスポーツカーに憑依し無人で暴走する、という内容のB級作品だったが、どうして僕にその映画を見せようと父が考えたのかは、今でも謎である。

テレビの刑事ドラマなどで、好きなカーアクションの場面になると、僕が身を乗り出していた様子を見ていたのかもしれない。

僕にとっての映画元年だったその年に観たのは、「クラッシュ」「八甲田山」「遠すぎた橋」「カプリコン1」「オルカ」、中学1年生で観た「聖職の碑」、それから高校2年生の3月に親に内緒で上田まで観に行った「宇宙戦艦ヤマト完結編」と、故郷で観た映画は、簡単に羅列できるほど少ない。

 

母によると、父は、しばしば独りで映画鑑賞に出掛けていたらしいが、それを耳にしてから、そうか、映画館は1人で入っても良いものなのか、と気づいた。

旅もそうであるが、東京で独り暮らしを始めて回数が増えたものの代表格に、映画鑑賞があると言えるだろう。

 

 

駅前通りには、ソープランドの看板を掲げたビルがあった。

国鉄大井町駅の南の踏切の脇にもソープランドがあって、興味がなかったと聖人君子のようなことは言わないけれど、断じて1度も利用する機会はなく、大井町とはそのような街なのか、と思っただけである。

 

中途半端に終わる駅前通りの北側を、曲がりくねって西に向かう道路が、立会川を暗渠化した立会道路である。

狭くて西行きの一方通行であったが、大井町から中延、荏原町、第二京浜国道方面を結ぶ幹線道路で、路線バスも走っていた。

一方通行の道路には、必ず折り返す別の道があるものだが、立会道路が突き当たる第二京浜に置かれた東急バス荏原営業所の北側から、大井町へ向かう三間通りがそれに当たるのだろう。

三間通りは中原街道と環状7号線が交差する長原交差点の近くで分岐し、旗の台、荏原町を通って第二京浜を横切り、二葉町を経て品川区役所の近くで区役所通りに繋がる、東行き一方通行の道路で、商店街が多かった。

 

立会川は、目黒区の碑文谷池と清水池から流れ出て、品川区内では殆んど蓋で覆われてしまい、大井町の東の第一京浜の手前でようやく顔を出し、京浜急行線立会川駅付近を通って、東京湾へ流れ込む。

川を塞いで道路にするとは、凄いことをするものだと、複雑な想いを抱いた覚えがある。

平成15年には、ボラの大群が海から上ってきて、話題になったことがあった。

 

 

大井町の1kmほど東に青物横丁があり、京浜急行線の駅が置かれ、国道15号線・第一京浜に沿っている。

青物横丁から西に延び、途中で「大井銀座」を分岐して、国鉄大井町駅の大森寄りを陸橋で横切っているのが池上通りで、三ツ又商店街と交差するのが、三ツ又交差点である。

「時代屋」も、この交差点に面していた。

 

三ツ又どころか、青物横丁からの池上通りと2本の側道、大森に向かう池上通りの続き、光学通り、駅前ロータリーに下っていく無名の一方通行のバス通り、そして三ツ又商店街の通りと、7本もの道路が集中する交差点である。

僕のアパートは無名のバス通りと三ツ又商店街の間にあり、光学通りの脇道に「末広湯」、交差点に面して「ファミリーマート」があって、この交差点近辺が僕の主な生活区域になった。


「ファミリーマート」から池上通りを大森方面に少し歩くと、レンタルビデオ・レコードの店があり、レコードプレーヤーもCDプレーヤーも、テレビすら持っていなかった僕には縁のない存在と諦観していたが、少数ながらカセットテープのソフトの貸し出しも行っていることを知り、会員になった。

安物のテレビやビデオデッキを購入したのは、大学3年生になってからだった。

 

 

大井町には、思い出の味が幾つもある。

 

後の話になるが、区役所通りの高架下に、「どん亭」という名の牛丼店が開店した。

駅の改札口からすぐの場所で、急な下り坂の途中だったので、歩道から一段低く、階段を降りなければならない奥まった店頭だった。

「どん亭」は、昭和63年創業という新しい牛丼チェーンで、その第1号店が大井町店だったと聞く。

その後、高田馬場、国領、大森、白楽、池尻大橋、三軒茶屋、登戸、百合ヶ丘、高津など、東京と神奈川、そして沖縄に出店したらしいのだが、次々と閉店して、今では沖縄に2店、川崎に1店だけとなってしまったらしい。

 

大井町の牛丼屋と言えば、大井町線のガード下を下神明方面に数百メートル歩いた「吉野家」と、後述する「牛友」しかなく、「どん亭」は正統派の牛丼が食べられたので、僕は重宝していた。

店内は常に空いていて、カウンターに、店長の自己紹介が可愛らしいイラストと合わせて書かれていて、最後に「この店長は実在する」と締めくくられていたのには、苦笑いさせられた。

 

 

この場所は、東急大井町駅から区役所まで、西側に連なる商店街の最も駅寄りで、立地は悪くないと思うのだが、出展した店舗が長続きせず、しきりと入れ替わったように記憶している。

 

「どん亭」の後釜として、一時期、手打ち蕎麦が美味しく、売り切れ御免で平日の午前中しか開いていないという、とても利用しにくい蕎麦専門店が入った。

歩道に面した大きなガラス窓の内側で、店主とおぼしきおじいさんが蕎麦を打っているのが見えたが、いつの間にか閉店してしまった。

 

僕が大井町に来たばかりの頃、「どん亭」より前にどのような店があったのかは、すっかり忘却の彼方である。

 

 

三ツ又商店街の線路側の入口近くにあった中華屋「丸吉飯店」は、僕のアパートから最も近く、最初に行きつけになった店である。

1階がカウンター席、2階がテーブル席になっていて、常連客でいつも賑わい、2階席で注文した料理がミニ昇降機で上がって行くのが珍しかった。

 

僕の好みは味噌ラーメンだった。

カウンター席に座って眺めていると、麺に載せるあんかけをフライパンで揚げているのに感心し、僕が初めて入った大衆的な中華料理屋だったので、全てが新鮮だった。

とびきり美味しかったのは、餃子である。

調理場で、専用の焼き機で勢いよく揚げる様子が、とても面白かった。

ナマの餃子を綺麗に数十個も並べて蒸し、ホカホカと蒸気が上がる頃に、焼き板を大きく傾けて水を流し、更に焼き込めば、ジューシーで熱々の餃子の出来上がりである。

 

アパートに友人が遊びに来れば、安心して連れていける店だった。

 

 

「丸吉飯店」の隣りに「富士そば」が開店したのは、かなり後の話になる。

 

大井町駅西口に隣接して、立ち食いの「二葉そば」があったが、立ち食い蕎麦を初めて食べた品川駅の「常盤軒」がとても気に入っていたので、大井町で蕎麦を賞味することはあまりなかった。

「富士そば」も同様なのだが、同店を忘れられないのは「カツ丼」のせいである。

 

僕は丼飯の中でカツ丼が最も好きなのだが、どこで初めて食べたのか、故郷にカツ丼を出す店などあったっけ、と誠に曖昧模糊としている。

カツ丼の記憶で確かなのは、富士吉田市の大学教養学部の寮の近くに、飛びっきりのカツ丼を出す店があったことである。

寮に出前してくれたので、同室の友人たちと繰り返し注文したものだった。

 

そのような1年間を過ごしたのだから、東京は牛丼屋ばかりで、カツ丼を食べさせる店がないなあ、と恨めしかったのもやむを得ない。

現在のように、とんかつ料理の専門店「かつや」が全国に展開されたのは、平成10年とまだまだ先である。

 

「富士そば」が大井町に開店し、しばらく経ってから「カツ丼」をメニューに加えたのに気づいた時は、飛び上がりたくなるくらい嬉しかった。

肉が薄く硬い、などという評判は二の次で、卵とじのカツが熱々の御飯に乗っているだけで、僕は満足だった。

東京に出て初めて食べたカツ丼は、間違いなく「富士そば」なのである。

 

 

世の中にとんかつ専門店というものがあることを教えてくれた「丸八」は、「大井銀座」の真ん中にある店で、とんかつ屋では様々な仕来たりがあり、キャベツがお代わり自由ということを初めて知ったのも、この店である。

とんかつとビールを頼むと、御飯がなかなか出てこないということも初体験で、最初は戸惑ったものだった。

とんかつは肉厚でからりとした揚げ具合が絶妙だった。

カツ丼も出してくれればいいのに、と思ったこともある。 

 

この店も1階席と2階席に分かれていたが、気になったのは、店員の多さであった。

決して大きなお店ではなかったが、どうしてこれほど大勢の店員が店内にひしめいているのか、いつも不思議だった。

1人1人がどのような仕事を担当していたのか、観察していてもよく分からなかったが、大きな釜でジューッとカツを揚げる人だけは、決まっているようだった。

このお店は家族経営で、3世代くらいの大家族が和気藹々と仕事しているのかな、などと妄想を膨らませながら、とんかつに舌鼓を打った。

 

 

イトーヨーカ堂のある駅の東側の区画には、狭く入り組んだ横丁があり、立ち飲み屋や赤のれんなどが軒を並べて、昭和の高度経済成長期の懐かしい面影を残していた。

東京の人は、立って酒を飲むのか、と驚いたのも、この横丁だった。

僕が1人で飲み屋に出掛けることは殆んどなかったが、気軽で美味しい洋食屋「ブルドック」には、よく足を運んだ。

 

「芳林堂書店」の先、「大井銀座」の外れに「モスバーガー」が出店し、富士吉田の寮生活でファンになっていた僕がほくそ笑んだのは、数年後の話である。

内装に無頓着な店で、コンクリートの打ちっ放しの壁や天井が剥き出しで、少しばかり寒々した雰囲気だったが、美味しいハンバーガーを食べたければモス、安く手軽に行きたい時は、阪急百貨店と繋がっている「マクドナルド」と、大井町だけで使い分けが可能だったので、贅沢であった。

 

 

大井町には、昭和60年から、大田区に引っ越す平成15年まで、20年も住みついた。

生まれ故郷の金沢市に3年弱、小中高校と通った長野市に15年間住んでいたので、大井町は、僕の人生で最も長い期間を過ごした土地になる。

 

国鉄大井町駅舎から2階建ての雑居ビルがロータリーに面して北に連なり、不動産屋や旅行代理店などが入居していた。

人や店の出入りが激しいのは東京の常なのであろう、そこの旅行代理店は、開いているのを1度も見た記憶がなく、潰れているのかな、と首を傾げた。

そのような風潮にも負けずに、変わらぬ存在感を誇っていたのが、隅っこにある「牛友」だった。

僕が行きつけの理髪店「理髪一番」と不動産屋に挟まれて、2~3mあるかないかという狭い間口に、ゴチャゴチャと食器や調理器具、仕入れ品のダンボールなどが無造作に積み重ねられ、「大井町名物 スタミナカレー」と書かれた黄色い幟がはためいていた。

 

 

「理髪一番」は、僕が大井町に住み始めた頃に、カット、洗髪、髭剃りのフルコースで1200円と格安だったので、いつも混雑していた。

故郷では親に連れられて行きつけの理髪店に行っていたので、未知の店に入るのは、なかなか勇気が要ったけれども、すぐに慣れた。

 

最初は、値段の高い安いが分からなかったが、たまたま他の店に入って、何倍もの支払いに度肝を抜かれた時に、「理髪一番」のありがたさを噛み締めた。

「QBハウス」などの1000円カットが都市部を中心に展開されるのは、平成7年前後である。

 

†ごんたのつれづれ旅日記†

 

その隣りにある「牛友」の細長い店内は、カウンターで縦に2等分されて、座れば膝がつかえる丸椅子が5~6席あるだけである。

席の後ろは、身体を横にしてようやく通り抜けられる程度の隙間しかない。

そのうちに、あろうことか、椅子を取っ払って立ち食い方式になってしまった。

 

最初は、店の外観だけで恐れをなした。

僕が「牛友」の暖簾をくぐったのは、大井町に住んで、かなりの期間を経てからだった。

店内に足を踏み入れれば、カウンター席も、向かい合わせの調理場も、どのように贔屓目に見ても薄汚れていた。

御飯の釜と、カレー、焼き肉、牛丼が煮込まれた大きな鍋だけで一杯という空間である。

競馬新聞に書き込む赤鉛筆を耳に挟んだ瘦身のおじさんが、無愛想な表情で、鍋をかき回しながら盛り付けていた。

 

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目玉商品は、幟の通りスタミナカレーだった。

平たく大きな皿に盛られたカレーライスに、甘辛く煮込んだ焼き肉と玉ねぎがたっぷりとかけられている。

美味、とはとても言えなかったが、なぜかクセになる味わいで、量も多かった。

御飯が、時にべたべたしていたり、炊き加減にムラがあった。

 

他の店の普通盛りに当たる、御飯茶碗1杯ぶんが「小」。

御飯が茶碗2杯ぶんで「中」。

御飯が茶碗3杯ぶんの「大」を頼むと、

 

「御飯が3杯ぶんですが、大丈夫ですか?」

 

と、必ず聞かれたものだった。

カレーも甘口、中辛、辛口とあって、慣れてくると、僕は、

 

「スタミナの中を中辛で」

 

と頼むのが常になった。

初見の客が「スタミナカレー」と注文すると、中盛りの中辛が黙って出されていたような気がする。

 

辛いもの好きの僕は、時に辛口も頼んでみたこともある。

辛口は50円ほど値段が高くなった。

後に店舗数を増やした「CoCo壱番」などでも、辛さを増すと値段が上がっていくのだが、あれは何故なのだろう、といつも思う。

牛友チェーンの辛口カレーは、スパイシーで嫌いではなかったが、無難で安心できる味は、中辛だった。

 

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もう1つ、忘れられないのが、牛丼カレーである。

スタミナカレーと同じ平皿に盛られた、カレーライスと牛丼の合わせ技。

今でこそ、牛丼とカレーを合わせたメニューは、大手牛丼チェーンでも見られるようになっているけれど、当時は珍しく、画期的だった。

豚肉を使ったスタミナカレーとの違いは、スタミナカレーは御飯にかけたカレーと焼き肉が混ざっている一方で、牛丼カレーは、牛丼とカレーが画然と分けられていた。

この店の牛丼は、他のチェーン店に比べてやや薄味で、スタミナカレーのパンチ力には敵わなかったので、僕はもっぱらスタミナカレーばかり注文した。

 

メニューにはカレーライスや牛丼の単品もあったが、驚いたのは、牛丼も、カレー類と同じく平皿に盛られていたことである。

牛丼は丼、という観念があったので、とても違和感があった。

 

それに、100円のサラダ。

キャベツの千切りにまぶしたゆで卵に、フレンチドレッシングと、シンプルであるが、安くて、スタミナカレーによく合った。

 

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薄汚い店の前を通りかかると、無性に寄りたくなってしまう不思議な魅力が、「牛友」にはあった。

午後11時まで営業していたので、大学の講義や部活、後には仕事を終えて大井町駅に降り立った時や、渋谷で友人と遊んで、品川で乗り換えが必要な国電ではなく、渋谷と大井町の間を結んでいた路線バス「渋41」系統に乗って帰って来た時など、スタミナカレーを食べ終わって店を出ると、ああ、1日が終わったな、と思ったものだった。

大井町行きのバスを、終点の駅前ロータリーではなく、1つ手前の東急大井町駅前停留所で降りれば、「牛友」はすぐだった。

 

飲食店ばかりの話になってしまったが、初めて独り暮らしを始めた土地とは、そのようなものではないだろうか。

振り返れば、長野での小・中・高校生時代は、買い食いや外食を全く経験しなかったのだから、多少、たがが外れてしまったのかもしれない。

 

 

昭和60年4月から、僕は、品川区旗の台にある大学に通い始めた。

旗の台駅は東急大井町線の5駅目で、毎日、ロータリーを突っ切って、坂を登って通ったのである。

驚いたことに、僕の友人や先輩の大半は、大井町線の旗の台駅以西か、旗の台で交差する池上線沿線ばかりに住んでいて、大井町側の下神明、戸越公園、中延、荏原町に住んでいるのはごく僅かだった。

大井町とはそのような街だったのか、と引け目に感じた記憶がある。

 

大学までおよそ3km程度だったので、僕は程なくマウンテンバイクを購入して、立会道路や光学通りを使い、自由度の高い自転車通学を始めた。

我が国におけるマウンテンバイクの最初のブームが、昭和60年前後から始まったとされており、新家工業が初めての和製MTBを誕生させたのが昭和57年、宮田工業と丸石自転車がMTBの販売を開始したのが昭和58年である。

 

僕が通学に使ったのは、立会道路から第二京浜国道を渡り、北側の三間通りに移って旗の台という最短の経路だったが、その北側を並行する区役所通りと三間通りで第二京浜に向ったり、南側の光学通りを通ることもあり、要は気まぐれだった。

商店街を貫く区役所通り・三間通りや立会道路に比べて、若干遠回りになるものの、光学通りが最も信号が少なくて走りやすく、小高い丘陵の上を通っていて、山の手のような雰囲気があったので、僕は勝手に「やまなみハイウェイ」と名づけて、時間に余裕がある帰路に愛用したものだった。

 

 

のんびりした教養学部とは一変して、医学部のカリキュラムは多忙で、無我夢中で過ごしているうちに、昭和60年は過ぎ去っていったような気がする。

映画や音楽、外食が、東京に出て来たばかりの僕の主な気晴らしだったが、全国で、高速バスが少しずつ路線を増やし始めた時期でもあった。

 

昭和31年から運行している「中央高速バス」新宿-富士五湖線や新宿-甲府線、昭和37年から運行している「東北急行バス」や、昭和44年に開業した国鉄「東名ハイウェイバス」と夜行高速バス「ドリーム」号などは、東京に出て早々に乗りに行っている。

昭和59年に開業した「中央高速バス」新宿-伊那・駒ケ根線と新宿-飯田線は、利用客が順調に増加して増便を繰り返し、慢性的な赤字に苦しんでいた伊那バスや信南交通が単年度黒字決算を計上する程であったので、他のバス事業者がこぞって高速バスに手を染め始める端緒となった。

 

 

京浜急行バスと弘南バスが共同運行で品川と弘前を結ぶ夜行高速バス「ノクターン」号を開業したのが昭和61年であり、人口20万人足らずの地方都市でも夜行高速バスの採算が採れることを証明し、全国の高速バス路線開設に拍車を掛けた。

昭和58年から運行されていた大阪-福岡間の夜行高速バス「ムーンライト」号が、我が国で初めて横3列独立シートを採用し、居住性を大幅に向上させたのも、昭和61年だった。

 

そのうちに、僕は、嬉々として各地の高速バスに乗りに行くようになるのだが、通学路を「やまなみハイウェイ」などと名づけたのも、バス趣味の影響だったかもしれない。

どこかで、長崎・雲仙・熊本・阿蘇・別府を結び、途中で「やまなみハイウェイ」を経由する「九州横断バス」のことを知ったのだろう。

 

 

当時、大井町駅を発着する路線バスは11系統あった。

 

第一京浜と山手通りを経由して渋谷駅に向かう「渋41」系統。

品川駅から青物横丁、大井町駅を経由して京浜東北線大森駅、東急池上線池上駅に向かう「品94」系統。

大井町駅から大森駅、池上駅を経て京浜東北線蒲田駅に向かう「井03」系統。

第二京浜国道に面した東急バス荏原営業所から、三間通り・区役所通りを経て大井町駅、立会道路を経て西大井駅に向かう「井01」系統。

そして、「井01」系統と同じ経路で荏原営業所から大井町駅に至り、立会道路を折り返して荏原営業所に足を伸ばす循環運行の「井02」系統。

これら東急バスの路線が、運行頻度も高く、大井町駅前で最も目にした路線バスは銀色の車体に赤いラインが入った同社のバスだった。

 

$†ごんたのつれづれ旅日記†
$†ごんたのつれづれ旅日記†
 

大井町には、青と銀のツートンカラーに細い赤線が入った京浜急行バスも乗り入れていた。

池上通りを青物横丁に向かい、第一京浜と沢田通りを使って大森駅に向かう「井19」系統。

同じ経路で、更に平和島に足を伸ばす 「平和54」系統。

青物横丁で第一京浜に入り、立会川駅で東に折れて八潮団地に向かう「井12」系統。

そして13号地の「船の科学館」に向かう「井30」系統、といった路線が、東急バスほどの本数ではなかったが、1時間に2~3本は運行されていた。

 

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東急バスと京浜急行バスは大井町駅西口を起終点にしていたが、都営バスは東口を発着していた。

池上通りから青物横丁で第一京浜を横切り、八潮団地、天王洲を通って品川駅に向かう「品91」系統。

東品川、鮫洲の免許センター(東京陸運支局)から大井埠頭、東京港の2号~8号バース、東京税関、大井と品川の火力発電所、天王洲と、東京湾岸を大回りして品川駅に向かう「品98」系統であった。

 

 

大学生活の気晴らしとして、また、なかなか座れない国電の代わりとして、これらのバスは大変に重宝した。

趣味が昂じて、いつしか大井町駅を発着する全ての路線を乗り潰していたのだが、どこまで乗っても当時160円均一の運賃だったので、それほど懐は傷まなかったし、そのうちに、品川駅、大森駅、蒲田駅と言った国電が便利な街にも、わざわざバスで行き来するようになった。

 


西大井駅前の都営住宅の1階に入っていた書店は、大井町の書店よりも書籍数が豊富のように感じられたので、「井01」系統はよく利用したものだった。

この路線に投入されていた、いすゞ「P-LR312J」のシャーシーに川崎重工の車体を乗せたバスは、狭隘路線用の小柄な車体だったが、最後部席の背もたれが厚くて丈があり、座って頭部をもたせかけると、ゆったりと寛げた。

高速バスでも一般路線バスでも、最前列の席が好みだった僕が、最後部席を好んだ唯一の車両である。

 

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僕は大井競馬場行きの「井20」系統だけは乗らなかったが、もう1本、昭和61年にたった1度しか乗らなかった路線がある。

大井町を発着した唯一の「高速バス」、と言えば、大井町に高速バスが出入りしていたっけ?──と首を傾げる方がおられるかもしれない。

その通り、とも言えるし、そうでもない、とも言える。

 

これまで、他の府県に向かうような長距離高速バスが、大井町に停留所を設けたことはない。

隣りの品川駅には、「ノクターン」号をはじめ東北、関西、中国、四国への夜行高速バスが何本も発着していたが、品川駅は、厳密に言うと品川区ではなく港区である。

品川区内を発着する高速バスは長い間1本もなく、ツアー高速バスから発展した「Willer Express」が、平成27年に大崎駅にターミナルを設け、一部の路線を停車させるようになって、ようやく品川区を発着する高速バスが登場した。

 

 

平成6年6月に開業した大井町駅と羽田空港を結ぶリムジンバスのことか、と閃く御仁がおられるかもしれない。

空港リムジンバスは都市高速道路や高速自動車道を使う路線が多く、僕は高速バスの一種として趣味の対象に加えている。

 

隣りの大森駅や蒲田駅から、一般路線バスであるものの、羽田空港を行き来する路線があるのが無性に羨ましかったので、大井町駅に羽田空港リムジンバスが登場した時は、嬉しかった。

京浜急行バスによる運行であったが、大森駅や蒲田駅と異なり、白地に赤いラインが入り「AIRPOT LIMOUSINE」と大書された専用車両だったので、大井町の方が格上ではないか、と拍手したくなった。

さっそく乗りに出掛けたのは、羽田空港で飛行機に乗る用事があった訳ではなく、新路線の初乗りが目的だった記憶がある。

 

 

羽田空港行きリムジンバスは、大井町駅西口から区役所通りと池上通りで東に進み、第一京浜を横切って湾岸方面に出て、ショッピングモールのある品川シーサイドに立ち寄った。

大井南ランプから首都高速湾岸線に入るのかな、と期待していたのだが、バスは湾岸線の両側を平行する国道357号線・東京湾岸道路で少しばかり速度を上げたものの、大井南ランプに見向きもせず、そのまま羽田空港まで下道を走り通したのである。

おやおや、と拍子抜けした。

 

羽田空港の沖合展開・拡張工事と新ターミナル「ビッグバード」の建設とともに、首都高速湾岸線東海JCTと空港中央ランプの間が開通すると同時に、同じ区間で国道357号線も延伸した。

大井町と羽田を結ぶリムジンバスは、幾つかの交差点で信号待ちはあるものの、この区間の国道357号線の流れは比較的滑らかで、高額な高速料金を払ってまで首都高速を利用する必要はない、と判断したのであろう。

 

 

話を戻せば、リムジンバス大井町-羽田空港線は高速バスではなかったし、また平成の御代ではなく、僕は昭和61年の「高速バス」の話をしたいのである。

僕が大井町駅西口から乗り込んだのは、「井30」系統だった。

昭和61年であったことや、休日であったことは間違いないと思うのだが、季節はまったく覚えていない。

良く晴れた日で、バスの窓から眩しく陽が差し込んで来るような空模様だったのは、かろうじて覚えているが、暑かったのか寒かったのかは判然としない。

 

 

乗り場に姿を現したのは京浜急行バスだったが、前乗り中降り2扉という何の変哲もない一般路線用車両であった。

 

定刻、と言っても何時何分だったのか定かではないけれど、大井町駅西口を後にした「井30」系統は、坂を登って東急大井町駅の前を右折し、大井町駅東口、仙台坂停留所を経由して、第一京浜を渡った先の青物横丁停留所に停車する。

このバスが停車する途中停留所はそれだけで、あとは「船の科学館」までノンストップである。

 

 

「大井銀座」が尽き、池上通りと合流するあたりから、青物横丁に真っ直ぐ下っている坂が仙台坂である。

かつての仙台坂は、池上通りの南に位置し、坂の途中に仙台藩主伊達家の下屋敷が置かれていたことが名前の由来であるが、最大勾配が4.6%と、かなりの急坂であった。

池上通りが出来ると、仙台坂の名はそちらに譲り、現在は車道の傾斜を緩和するためであろうか、仙台坂トンネルが穿たれているが、側道は昔のままの勾配でかつての面影を残し、現在は「くらやみ坂」と呼ばれているらしい。

 

第一京浜に面している青物横丁は、江戸時代から八百屋が軒を並べた市場が開け、馬込や千束から野菜を運んでいたと言われているが、現在は、特に八百屋が多いようには見受けられず、個人商店やスーパーが散見される程度である。

それでも、駅の周辺は、大井町ほどではなくても、案外に車や人の行き来があって、活気ある街並みである。

 

 

青物横丁駅の裏手、旧東海道に面した品川寺には、徳川幕府第4代将軍家綱の寄進とされる梵鐘があり、幕末にパリ万国博覧会とウィーン万博に展示されたと伝えられるが、その後、所在不明となっていた。


大正8年に、我が国の文部省学芸部長が、スイスのジュネーヴ市のアリアナ美術館に品川寺の梵鐘が所蔵されていることを発見し、当時の住職が返還を求め、外務大臣などの尽力によって、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意、昭和5年に品川寺に返還された。

返礼として、品川寺から美術館へ石灯籠が贈られ、それを契機として品川区とジュネーブ市の交流が続き、平成3年に品川寺から新しい梵鐘が贈られ、同年に品川区とジュネーヴ市が友好都市となった。


ジュネーヴ市から「Avenue de la Paix」の標識が送られたことから、地元の方々の要望により、池上通りの青物横丁から東寄りは「ジュネーブ平和通り」と名づけられたのである。

 

 

当時の僕は、「井30」系統が、どのような道筋をたどって「船の科学館」に向かうのか、全く知らなかった。

スマホなどで路線バスの経路を簡単に調べられる時代ではなく、そもそも、通話専用の携帯電話を持ったか持たないか、という頃であった。

大井町駅前で、時々「船の科学館」と行先表示を掲げたバスを見かけて、バスの起終点となっている「船の科学館」とはどのようなところなのだろう、いつか乗ってみたいな、と思っていただけである。

 

 

京浜急行青物横丁駅の脇を抜け、海岸通りを横切ったバスは、大井北埠頭橋で京浜運河を渡る。

橋の東の袂の立体交差で、下を南北に走る都道316号線の南向き車線に入ると、トラックばかりが出入りする倉庫街を貫く道路は、八潮団地が視界に入る手前で左に弧を描き、掘割になっている首都高速湾岸線に突き当たる。

 

この八潮付近から城南島の東海付近まで、首都高速湾岸線は大井ランプ、大井南ランプ、大井南本線料金所、首都高速1号羽田線への連絡路を分岐する東海JCTなどの構造物も多いために敷地がゆったりと確保されており、両側を並走する国道357号線の間隔も自然と広がって、その幅は100mにも及び、我が国で最も広い国道と言われている。

せせこましい大井町と青物横丁を通り抜けて来た者としては、ぽっかりと空が開けて、眩しく感じられる。

 

初めてここを通ったのは、大井埠頭に向かう都営バス「品98」系統だったと思うが、過密な東京に、このように広大な空間があるのか、と目を見張ったものだった。

 

 

高速道路の入口を示す緑の標識が、北に折れる側道に矢印を向けている。

「井30」系統は、標識の通りにハンドルを切ると、側道の下り坂で湾岸線と並んで堀割の底を走る国道357号線に合流したかと思うと、更に右へ車線変更を続けて、首都高速の大井ランプに進入したではないか。

 

高速道路に入るのか?──と、思わず腰を浮かせかけた。

 

この日、僕は左側最前列の座席をせしめて、かぶりつきの車窓を大いに楽しんでいたのだが、路線バスに乗っていて、あれほど驚いた経験はなかったと思う。

運転手は何食わぬ顔で料金所の係員と短く挨拶を交わし、バスを首都高速本線に乗り入れさせていく。

次々とギアが入れ替えられ、それまでより速度は上がったものの、速度計の針はぴったり時速60kmを指して動かなくなった。

 

 

国道357号線は、大井ランプから先のお台場までが未完成で、大井、八潮方面から船の科学館がある13号埋立地に渡るには、昭和51年に完成した首都高速湾岸線の東京港トンネルを使うより方法がなかったのである。

まして、レインボーブリッジなど、影も形もなかった時代である。

 

当時、首都高速道路の大半が時速60kmに制限されていて、唯一、湾岸線だけが時速70km制限の時代だったと記憶している。

V字型に傾斜している東京港トンネルの前半は下り坂で、制限速度を守っている車の方が少なく、遠慮がちに左車線を走るバスをどんどん追い越していく。

市街地用に製造されたバスであるから、それ以上の速度が出ないのかもしれないが、高速バスに乗っていて、速度がもどかしく、後続車に迷惑ではないか、と気が引けたのは、「井30」系統が唯一ではなかったか。

 

それでも、「井30」系統が高速道路を使うとは嬉しい誤算であり、気分が高揚したのは間違いない。

 

 

「井30」系統を高速バスと呼んで良いのかどうかは、異論があるところであろう。

 

そもそも、高速バスの定義が難物で、平成13年12月27日付の関東運輸局の通達である「一般乗合旅客自動車運送事業の許可及び事業計画変更認可申請等の審査基準について」には、

 

『高速バスとは、専ら一の市町村(特別区を含む)の区域を越えて設定された概ね50キロメートル以上のキロ程の路線において、停車する停留所を限定して運行する自動車により乗合旅客を運送する形態をいう』

 

と記載されている。

うまい定義であると感心するけれど、どのような道路を走れば高速バスなのか、という条件が欠けているから、何となく隔靴掻痒の感がある。

 

 

仮に、高速バスが「高速道路を使う路線バス」であるならば、高速道路をどのように規定すれば良いのか。

 

高速道路を定義した法律としては、昭和53年10月30日に公示された「道路交通法第108条の28に基づく国家公安委員会の告示である交通の方法に関する教則」が挙げられる。

 

『高速道路とは、高速自動車国道と自動車専用道路をいう。高速道路では、ミニカー、総排気量125cc以下の普通自動二輪車、原動機付自転車は通行できない。また、農耕用作業車のように構造上毎時50km以上の速度の出ない自動車やほかの車をけん引しているため毎時50km以上の速度で走ることのできない自動車も、高速自動車国道を通行することはできない』

 

 

高速道路の大半は、国が法律を定めて予算を立てて建設するので、省庁間の利害調整や建設財源確保のために、下記のように細分化されて分類されており、これを高速道路の定義と読み替えることも可能である。

 

①「高速自動車国道法第四条(高速自動車国道の意義及び路線の指定)に基づく高速自動車国道の路線を指定する政令で指定される路線」という「高速自動車国道(A路線)」
②「国土開発幹線自動車道建設法に基づき建設することが予定されている、高規格幹線道路」とされる「国土開発幹線自動車道(国幹道)」
③「高速自動車国道として建設すべき道路の予定路線(国土開発幹線自動車道の予定路線を除く)のうちから政令でその路線を指定したもの」として指定されている成田国際空港線・関西国際空港線・関門自動車道・沖縄自動車道の4路線
④「本来高速自動車国道で整備される路線のうち全区間整備の必要性は低いが、部分的にこれに並行して混雑解消や山間部の隘路解消のため一般国道の整備が急務となっている一部区間を先行整備した道路」とされる「高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路(A'路線)」
⑤「道路法第48条の2に基づき、国土交通大臣が指定した道路」として挙げられる本州四国連絡道路、地域高規格道路、都市圏自動車専用道路、都市高速道路などの「国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)(B路線)」

 

首都高速道路は上記の⑤に相当し、曲がりなりにも「高速道路」の1種と分類することは可能であるが、一方、「道路法」では「一般国道・都県道」に分類されているため、法律によって厳密には「高速道路」ではないということも出来る。

 

 

首都高速湾岸線を使う「井30」系統ばかりでなく、昭和61年の当時、首都高速2号線を経由して東京駅と世田谷区の等々力操車場を結ぶ都営バス「東98系統」があり、名古屋や福岡にも、都市高速を利用する路線バスを見かける。

横浜にも、第三京浜に乗り入れる路線バスがある。

 

高速道路に乗り入れる路線バスでありながら、2扉の一般路線用車両を使用し、吊革に捉まりながら立っていても乗れるのは、「道路法」の定義が根拠となっているからだろう。

大井町に高速バスが発着していたのか、との問いに、僕が、その通り、とも言えるし、そうでもない、とも言えると記したのは、そのためである。

 

 

バスファンになったばかりの僕が、そのような小難しい理屈を知る訳もなく、「井30」系統が首都高速湾岸線を走るという意外性に、有頂天になった。

 

1325mの東京港トンネルを抜け、次の13号地ランプまで僅か1.8kmの高速走行は瞬く間に終わりを告げ、車内に13号地海底トンネル入口停留所の案内が流れた。

数分足らずの首都高速ドライブの記憶は、30年以上が経った今でも明瞭なのだが、13号地に渡った後の車窓は、全く忘却の彼方である。

 

ただ、高速走行である証に、風圧で前扉がかすかにバタバタと鳴っていたような記憶だけが残っている。

時速60kmとは言え、街なかで一般路線バスがこの速度を出すことすら殆んどないのではないか。

トンネル後半の登り勾配で、バスの速度が殆んど落ちなかったので、市街地用の車両とは言え、底力はあるのだな、と思った。

 

 

船の科学館が開館した昭和49年前後から、13号埋立地で臨海副都心の整備が計画されたものの、周辺は緑地とコンテナ、材木置き場や倉庫ばかりだったと言われている。

 

本格的な開発が始まったのは、バブル絶頂期の平成元年前後と言われており、レインボーブリッジが開通したのが平成5年、東京臨海新交通「ゆりかもめ」の開業が同7年、東京臨海高速鉄道りんかい線の新木場駅-東京テレポート駅間が開業し、東京国際展示場「東京ビッグサイト」や「デックス東京」、お台場海浜公園が完成したのが同8年、フジテレビの移転が同9年、「パレットタウン」開業が同11年、「アクアシティお台場」開業が同12年、りんかい線が東京テレポート駅から大井町駅を経て大崎駅まで延伸されたのが同14年と、13号地が臨海副都心として発展するのは10年以上先の話である。

 

「井30」系統で、それより以前の13号地の様子を目に焼き付けておけば良かった、と思っても、後の祭である。

何の印象も残らないような、荒寥とした埋立地だったのであろう。

 

 

同じく、終点の「船の科学館」の印象も、極めて曖昧である。

 

英国の豪華客船「クィーンエリザベスⅡ世」を模したという外観と、敷地内に係留されていた南極観測船「宗谷」の姿は、はっきりと脳裏に刻まれているが、内部についてはとんと記憶がない。

財団法人「日本船舶振興会」が、競艇の収益金を生かす事業として「船の科学館」を構想したのは知っていたので、頻りとテレビCMで「世界は1つ、人類は皆兄弟」と叫んでいる創設者の顔を思い浮かべただけである。

 

 

「ゆりかもめ」も「りんかい線」もなかった時代であるから、僕が本土に帰る手段は、路線バスしかない。

 

僕は、大森駅に向かう「森30」系統もしくは「森40」系統で帰路についた。

首都高速湾岸線東京港トンネルを折り返し、大井埠頭中央公園に立ち寄ったので、大井ランプではなく、大井南ランプまで1区間だけ足を伸ばしたのかもしれない。

東京モノレール大井競馬場駅と京浜急行大森海岸駅を経て大森駅に向かう「森30」系統だったのか、平和島と平和島駅を経由する「森40」系統だったのか、明確に覚えていないのだが、おそらく前者であった気がする。



大井町への乗り継ぎも、電車を使ったのではないだろうと思うのだが、同じ大森駅東口から出る京浜急行バスを使ったのか、駅舎を渡って池上通りを走る東急バスを使ったのか、定かではない。


大森駅周辺で、僕が重宝した飲食店は、東口の脇にある「松屋」である。

板橋区蓮根に住んだ浪人時代に、通学途中の巣鴨駅にある「松屋」の牛丼や豊富な定食に嵌まっていた僕は、大森駅でもよく立ち寄ったものだった。

大井町に「松屋」があれば、「牛友」なみに通ったことであろう。

「松屋」に近い大森駅北口の自由通路を使えば、池上通りに出るのも便利だった。


東急バス「品94」系統や「井03」系統が、大井町駅の手前で停まる三ツ又停留所で降りれば、アパートに帰るのに便利だったから、そちらを使った可能性が高い。

 

 

他の記憶を霞ませるほど、大井町で唯一の「高速バス」だった「井30」系統の短い車中の印象は、強烈だった。

その後、このバスに乗る機会がなかったのは、全国に高速バス路線が開業して、そちらに心を奪われたためであろう。

 

平成28年3月に、国道357号線の東京港トンネルが完成し、大井ランプの構造が変わって、首都高速湾岸線に入れない構造になった。

「井30」系統は現在も走り続けているが、国道357号線だけで13号地に渡れるようになったので、首都高速を使わなくなり、「高速バス」ではなくなったのである。

 

 

 

 

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