第6章 昭和61年 東京23区最長路線バスで田園調布から羽田空港へ | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:東急バス「渋41系統」「渋11系統」・京浜急行バス「園11系統」】

 

 

昭和60年に東京に来て、品川区大井町に住むようになってから、僕が最も多く乗車した路線バスは、東急バスの「渋41系統」渋谷駅-大井町駅線かもしれない。

 

当時通っていた大学が、東急大井町線と池上線が交差する旗の台駅にあり、講義が終わると、友人と連れ立って、しばしば渋谷に繰り出した。

行きは大井町線と東横線を自由が丘駅で乗り換えるのだが、帰路は、疲れたり酔っ払っている場合が多かったので、乗り換えがなく、容易に座れる「渋41系統」のバスを重宝した。

 

まだ、東京臨海高速鉄道りんかい線が、開通どころか工事すら始まっていなかった時代だが、大井町駅には国鉄京浜東北線と東急大井町線が乗り入れて、何処に行くにも便利であった。

ところが、国電も私鉄も混雑して立ちん坊が多かったので、軟弱な僕は、時間に追われた用事でも生じない限り、鉄道より路線バスを使っていた。

 

 

残暑がまだ厳しかった昭和61年の初秋の休日に、僕は、大井町の駅舎とロータリーを挟んで向かい合う乗り場から「渋41系統」のバスに乗り込んだ。

 

大井町は、武蔵野台地の末端である目黒台地と荏原台地が、昔の海岸線に落ち込む手前の窪地にあり、殆んどが暗渠になっているものの、立会川が中央を東西に流れている。

かつての海岸線は、京浜東北線の線路のあたりであったようで、線路の東側は段差になっている傾斜地が多く、有名な大森貝塚は、大井町駅と大森駅の間の線路の西側にある。

 

 

大井町駅の国鉄の駅舎は、窪地の底に建っているが、西口のロータリーは、北側の台地に向って傾斜しており、「渋41系統」は発車と同時に、坂の上にある東急の駅舎に向けて登り、駅前通りに右折する。

国鉄大井町駅舎の標高が11m、東急大井町駅が15m、そして京浜急行や第一京浜国道が通る青物横丁が6mだと聞いた。

 

京浜東北線と東海道本線の線路を跨ぎ越えれば、すぐに「大井町駅東口」バス停である。

僕は、渋谷からの帰りにここで降り、坂の入口にある「牛友」でスタミナカレーを食べるのが常であった。

 

 

そのまま商店街を抜けて、駅前通りを真っ直ぐ東に向かっても、仙台坂を下りて青物横丁に出るが、「渋41系統」のバスは、ゼームス坂上交差点を左折し、ゼームス坂通りに歩を進める。

この通りは、目黒台地と、東海道が通る平地との落差そのままの「浅間坂」と呼ばれる急坂だったが、明治初頭に来日した英国人J.M.ゼームスが、私財を投じて傾斜を緩やかにしたことで、その名がつけられた。

ゼームスは海軍省の嘱託として技術指導にあたり、仏教に帰依して、身延山久遠寺に墓があると聞く。

 

ゼームス坂通りは、賑やかな大井町駅前通りと異なって、並木が頭上に枝を伸ばし、しっとりした雰囲気が感じられて、何度通っても心が洗われる。

 

 

天竜禅寺の手前で道路は右へ直角に曲がっており、対向車を気にしながら慎重にカーブをこなしたバスは、すぐ先の南品川四丁目交差点で第一京浜に左折する。

目黒川を渡って、京浜急行新馬場駅の高架ホームを右手に眺めながら、山手通りに左折すると、道路は裾を伸ばす丘陵を避けて左へ、右へ、更に左へとカーブしながら京浜東北線と東海道本線をくぐり、更に横須賀線と東海道新幹線、山手線の橋梁もくぐり抜けて、大崎駅前に出る。

 

幹線道路とは思えないような紆余曲折の道路を走る「渋41系統」 に揺られながら、運転手のハンドル捌きを見るのが、僕は好きだった。

僕が鉄道よりも路線バスを選ぶようになった理由の1つに、ロングシートの電車に比して景色がよく見えることと、運転手の一挙手一投足が存分に眺められることが挙げられる。

 

 

僕は、路線バスに乗る場合に、出来る限りタイヤハウスの上に設けられた左側最前部の席に座りたい人間だった。

他の客が占めていれば、1つ便を遅らせてでも乗りたかったのだから、学生時代の僕は如何に暇を持て余していたかが分かる。

 

ところが、東急バスは、そこに金属製の箱を設置していたので、やむを得ず、運転席の後ろに座ることにした。

座席を1つ潰してまで置かれていたあの箱は、都営バスなどでも見られたのだが、いったい何が入っていたのだろうか。 

右側最前部の席は、運転席と幕で仕切られているけれども、右隅に隙間があって、運転手の肩越しに、前方がよく見えた。

左側より運転手を気にする必要がないし、ハンドル捌きや速度計まで覗けるから、大いに楽しめた。

 

 

大崎駅の北で、山手通りは、山手線の線路を陸橋で跨ぎ越す。

「渋41系統」は、同じ線路をいったい何度渡るのか、と呆れるけれども、道路がそのような線形になっているのだから仕方がないし、潜ったり登ったり、乗客としては変化があって面白い。

右顧左眄がバス旅の宿命である。

 

陸橋を駆け下りれば、山手通りの道幅が広がって、中原街道と交差する大崎広小路の先で東急池上線の煉瓦造りの古い高架をくぐる。

その先の「大鳥神社前」バス停がある目黒通りと、「正覚寺」バス停がある駒沢通りとの交差点は、山手通りの本線はアンダーパスでくぐり抜けているが、「渋41系統」は、側道に置かれたそれぞれの停留所に立ち寄らなければならない。

 

当時の僕は車の免許を持っていなかったので、他の車が速度を落とさずに通過して行くアンダーパスが羨ましくて仕方がなく、「渋41系統」に乗っていて、唯一もどかしさを感じた区間だった。

 

 

駒沢通りを渡って本線に戻ると、前方を、東急東横線中目黒駅の高架ホームが跨いでいる。

 

山手通りは、路上駐車が深刻な問題として取り上げられる代表的な道路だったが、中目黒駅の前後から駐車車両がひときわ目立つようになり、道幅が狭まったように感じられる。

交通量も増えたので、バスの行き足はこのあたりから鈍り始めた。

停留所に寄るために左車線を走りたくても、駐車車両が行く手を阻むので、何度も右に移らねばならず、運転手はサイドミラーを見たり、ハンドルをぐるぐる回したり、眺めているだけで忙しそうである。

 

 

山手通りの最後のバス停である「大橋」には、東急バスの大橋営業所がある。

「渋41系統」のバスはここが拠点で、時々、大井町や渋谷から「大橋」と書かれた出入庫目的の区間便が走っている。

渋谷や大井町に向かおうとして、「大橋」行きのバスが最初に現れて、がっかりしたことが何度かあったが、起終点を乗り通す人間など殆んどいないのだろう。

 

橋は見えても、陸橋や高架橋ばかりで、何処に地名の元になった橋があるのか、と思うが、目黒川に架かる橋が由来らしく、「渋41系統」は、「 菅刈小学校」と「大橋」バス停の間で渡っている。

大橋車庫は、平成22年に首都高速中央環状線山手トンネルが開通した際に、首都高速3号線と繋がる連絡路が、地下と高架を結ぶ巨大な円筒の中に螺旋状に建設され、その敷地として廃止されたと聞いた。

 

 

「渋41系統」が突き当たる国道246号線に、首都高速3号渋谷線が重なっていて、バスは高架下の国道246号線に入る。

神泉町の交差点の先で、右にカーブする国道本線と分かれたバスは、真っ直ぐ道玄坂に進んで行く。

道玄坂と言えばラブホテル街と聞き齧っていたけれど、沿道は瀟洒な店舗が並んでいるだけで、その気配は感じられない。

 

道玄坂上交番前、と標識に書かれた五差路で、「渋41系統」は、右斜め前の道路に入って行く。

緩やかなスロープになっているこの道路は、バス専用で、終点の渋谷駅バスターミナルへの流入路である。

 

初めて「渋41系統」を使った時は、何処へ行くのか、と驚いた。

終点です、と言われて降りた場所は、頭上が地下鉄銀座線の引き込み線になっているようだったが、渋谷駅の何処なのか、さっぱり分からなかった。

出口の通路を抜ければ、京王井の頭線の改札に出たが、それでも方向がつかめなかったので、渋谷駅とは何と複雑な構造をしているのか、と驚き、どうして「渋41系統」がこのような場所を起終点にしているのか、首を傾げた。

 

 

渋谷駅バスターミナルは、昭和44年まで国道246号線を走っていた玉川電車渋谷駅の跡地を使っている。

昭和45年5月から、「渋41系統」と「渋55系統」幡ヶ谷折返所行きの路線バスが乗り入れを始め、同年から昭和50年まで、渋谷と静岡・名古屋を結んでいた「東名急行バス」も、また昭和60年代に次々と開業した 和歌山、酒田、姫路、出雲への夜行高速バスも、ここを起点にしていた。

 

流入路の曲線や傾斜の具合、そしてターミナルに残っていた低いホームや待合所などは、まさに線路跡そのものである。

 

 

渋谷駅南口のロータリーにもバス乗り場があるのに、「渋41系統」と「渋55系統」だけが玉電の駅跡を利用するようになった理由は分からないが、まるで僕が住む大井町へ向かうバスが特別扱いを受けているように感じて、内心得意だった。

 

「渋41系統」を降りた乗客は瞬く間に姿を消したが、1人で踏み留まって眺めるべき儀式がある。

客を降ろしたバスは、乗降場の奥にあるターンテーブルまで、のっそりと移動する。

運転手が窓から手を伸ばし、ぶら下げられたスイッチを操作すると、バスの巨体が、ゆっくりと180度回転していく。

もともと鉄道駅だった細長い敷地であるから、バスが自力でUターンする余裕がないのである。

 

 

僕は踵を返して、南口ロータリーのバス乗り場に向かい、田園調布駅行きの東急バス「渋11系統」に乗り換えた。

乗り場は、改札の真ん前で、他の路線より便利な場所にある。

ほぼ10分間隔で運行しているので、さほど待つ必要もなくバスに乗れたが、我が国随一の高級住宅地に向かうだけあって、車体や内装が「渋41系統」より真新しく、車体に金色のラインなんぞが入っている。

 

都内の他の路線バスは、後部が横2列席になっている以外は、両側に1列の席が置かれているだけであるが、「渋11系統」のバスは、前から後ろまで横2列席が左右に並んでいた。

座面や背もたれもふかふかしているように感じたのは、僕の僻目であろうか。

田園調布に行かれるお客様はどうぞお座り下さい、という趣旨らしいが、幾ら上客でも贔屓に過ぎるのではないか、と感じたのは、僕の狭量の表れなのか。

 

他のバスに比して、自分が乗るバスの設備が貧相ならば怒るのは当たり前だが、他のバスが質素なのに高級なバスが登場するのは怪しからん、と思うのは、妬み以外の何物でもなく、建設的ではない。

この路線を大いに楽しもう、と前向きに捉えれば良い話である。

 

 

「渋11系統」の豪華バスは、渋谷駅前のロータリーを出ると、国道246号線を走り始めた。

並走する首都高速3号渋谷線の高架が空を覆い隠して、しばらく薄暗い車窓が続く。

国道246号線もアンダーパスが多く、周囲の車は凄まじい勢いで追い抜いていくが、「渋11系統」は我関せず、と左端の車線を進む。

 

「大橋」までは、「渋41系統」で来た経路であるが、その先は初めて走る区間である。

大学の合宿所が横浜市の北部にあったので、国道246号線は、環状8号線と交わる瀬田交差点や、二子橋から先は友人や先輩の運転する車で走ったことがあるけれども、都心部は初体験だった。

 

首都高速道路の太い橋脚が立つ道路の中央部分を、昔は玉電が行き交っていたのか、と思うけれども、呆れるくらいの車の量である。

それでも渋滞にならないだけ山手通りよりマシで、道幅を広げたり、バイパスの高速道路を造ったり、玉電を廃止した甲斐があったのかな、と鉄道ファンにあるまじき感想を抱いたりする。

 

 

三軒茶屋を過ぎ、上馬の陸橋で環状7号線を越え、駒澤大学前交差点で、バスは自由通りに左折した。

自由通りは片側2車線の狭隘な道路で、信号も多く、バスの走りは一転して滞り始める。

 

「渋11系統」の起終点は、どちらも東急東横線の駅であるけれど、ここまでの経路は、玉電の廃止と同時に開通した東急田園都市線に沿っている。

「大橋」(池尻大橋)、「三軒茶屋」、「駒沢大学」といったバス停も、田園都市線の駅である。

駒沢大学から、バスは自由ヶ丘、田園調布といった東横線沿線に短絡するのだから、多少細い道になるのはやむを得ないのだろう。

 

自由通りには、現在、東京医療センターと改称されている「国立第二病院」や、運動施設を含む「駒沢オリンピック公園」があるので、通行する車が多い。

「駒沢オリンピック公園」は、もともと帝国陸軍の用地として、防空壕や農地として使われていたが、昭和15年に中止となった幻の東京五輪は、ここを会場に予定していたという。

昭和28年に、プロ野球の東急フライヤーズ(現在の日本ハムファイターズ)の本拠地として駒澤野球場が建設され、昭和39年の東京五輪では、千駄ケ谷の国立競技場に次ぐ第2会場として、サッカー、レスリング、バレーボール、ホッケーの会場になった。

 

広々と道路が整備された千駄ケ谷に比べると、駒沢公園の周辺は、五輪の関係者や報道陣、観客が押し寄せたら捌ききれたのか、と心配になるほどの隘路ばかりである。

沿道に瀟洒で新しい住宅が多く見受けられたが、このように交通量が多い道沿いに住むのは大変だろうな、と思う。

 

 

自由が丘は僕の大学に近く、気軽に出掛けられる繁華街として、友人と足繁く通った土地であるから、周辺もある程度見覚えがある。

 

この頃、僕らが自由が丘に行く理由は、ピザ専門店「シェーキーズ」の食べ放題が目的だった。

昼休みの1時間で、旗の台から自由が丘を往復するのは忙しかったが、現在のように宅配ピザ屋が隆盛を極めている時代ではなく、僕は、自由が丘の「シェーキーズ」で、生まれて初めてピザを食べたのである。

我が国におけるピザの事始めは、太平洋戦争中の昭和19年に、神戸に入港したイタリアの軍艦の乗組員が2ヶ月間だけ開いたピザ屋と言われている。

初めてピザハウスが六本木に開店したのは昭和29年で、冷凍ピザの輸入が始まったのは昭和39年、米国のチェーン店「シェーキーズ」の日本進出は昭和48年である。

 

 

僕は、同店がランチタイムのバイキングを始めたのは昭和60年前後と記憶していたのだが、同店のHPには『オープン当時、まだ日本では一般的とは言えなかったピザを「ランチバイキング」によってリーズナブルな価格で気軽に楽しめる新しいアメリカンフードとして位置づけたのです』と書かれている。

「ドミノ・ピザ」が日本の宅配ピザ1号店を恵比寿に開店したのが昭和60年であるから、今回の旅の前後は、ピザが一般化する黎明期だったと言えるのかもしれない。

 

自由ヶ丘駅前に通じる道路が、どれも一段と狭いことは分かっているし、自由通りは駅の手前で東横線の東に抜け、目蒲線奥沢駅の方角へ逸れてしまうので、「渋11系統」のバスが、西側を走る学園通りに移り、東急線沿線で有数の繁華街を「自由が丘駅入口」バス停で済ませているのも納得である。

 

踏切で東急大井町線を渡り、並木が並ぶ洒落た通りに入って、「奥沢六丁目」「玉川田園調布」のバス停を過ぎれば、終点の「田園調布駅」である。

 

 

長い序章であったが、ようやく目的地に達した。

今回の旅の主役は、京浜急行バスの「園11系統」田園調布駅-羽田空港線である。

 

大学生だった当時の僕は、趣味が高じて、神保町の「書泉グランデ」や「書泉ブックマート」の交通関連書籍売り場に通うようになったが、ある日、東京バス協会が発行した「東京都内乗合バス・ルート案内」を見つけた。

初版の発行が昭和55年で、僕が手にした昭和61年4月発行の第4版によれば、東京都内で運行する1691系統の路線バス、車両数5371台、免許された運行距離の合計3242.9kmに及ぶ全路線・全停留所を網羅した労作で、僕は自分の住む地域を中心に、眼を皿のようにして読み込んだものだった。

 

この案内を基にしてバス旅に出たことも多く、何本乗り継いでも、23区内であれば1本のバスが一律160円の時代だったから、懐もそれほど痛まなかった。

その後、激しく改変を繰り返した東京のバス事情を振り返れば、貴重な資料にもなっている。

 

 

昭和60年代と比べて、東京のバス事情が最も変化したのは、長距離路線であろう。

 

『1950年代から60年代にかけて、いくつもの系統をつないだやや長距離(10km以上)の街路バスの系統が増えましたが、年々激しくなる交通渋滞により定時性を守りにくくなってきたため、70年以降系統の短縮再編成が行われるようになり、今日では一部を除いて50年代初めの頃の系統長にかえってきています』

 

と「東京都内乗合バス・ルート案内」の前書きに記されている。

 

都内の路線バスの長距離順位の表も添えられており、1位の「梅70系統」青梅車庫-田無本町二丁目線の30.77kmを筆頭に、7位まで三多摩地区の路線が占めている。

23区内の路線は8位にようやく顔を出し、それが運行距離20.30kmの「園11系統」であった。

23区内を発着する長距離路線を挙げれば、2位が「宿44系統」新宿駅西口-武蔵境駅南口線の18.56km、3位が「王78系統」新宿駅西口-王子駅線の18.30km、4位が「海01系統」品川駅東口-門前仲町線の17.36km、5位が「渋26系統」渋谷駅-調布駅南口線の17.10kmとなっている。

 

 
後の話になるが、「園11系統」は平成10年に廃止され、また「宿44系統」と「渋26系統」も大幅に減便されて、令和5年の時点で1日2往復と、寥々たる有様になっている。

今回の旅で、乗っておいて良かったのである。

 

僕は「最長距離」という言葉に弱く、好きな高速バスでも最長距離を更新した路線を選んで乗りに出掛ける程だった。

都内最長路線のために青梅まで行くのは躊躇われたが、せめて23区内の最長距離路線は体験しておこう、と思い立ったのである。

大井町から田園調布まで、電車ならば20分も掛からないのに、わざわざ2時間も費やして路線バスを乗り継いだのは、バス好きの虫が疼いたとしか言いようがない。

 

 

渋谷から乗車して来た「渋11系統」が着いたのは、田園調布駅を中心に放射状と同心円形の道路が整う西口だったが、羽田空港行きの「園11系統」は、東口から発車する。

東口は、閑静な西口とは異なり、雑居ビルが駅前に並んで、車や人通りが多かった。

 

「園11系統」のバスが進むのは、駅前から南東に下る六間通りで、「田園調布二丁目」「調布学園」「田園調布坂上」「田園調布一丁目」と停車するバス停だけ見れば、1丁目、2丁目があるこちらが田園調布の本家なのかと思うけれど、道端には古びたマンションやアパートが多く、道幅も狭くて雑然としている。

 

この路線は、昭和33年に京浜急行バスと東急バスが共同で運行を開始したのだが、昭和51年に京浜急行バスの単独運行となった。

青や赤のラインが入った派手な塗装の京浜急行バスが、東急線の沿線を走るのは違和感があるけれども、田園調布駅の東側の街並みは、どこか下町風で、このバスによく似合う。

 

 

先程から気になっているのは初老の運転手で、この日は秋にしては気温が高かったものの、制服のズボンを膝上まで捲り上げ、上着の前もはだけた格好に、怯んだものだった。

ステテコを着て縁側で団扇でも仰げば似合いそうなおじさんで、田園調布なにものぞ、と1人で下町を体現しているかのようでもある。

 

顔つきも強面で、最前列左側席を占めた僕を、時折り鋭い眼光で睨みつける。

東急バスと異なり、京浜急行バスはきちんと左側最前列に席がある。

この席が「おたく席」と呼ばれ、そこに座る客にバスマニアが多いために運転手が嫌っている、という話を小耳に挟んだのは、かなり後年だったが、そのような裏事情は知らなくても、そこに座っていることに罪悪感を覚えるような運転手の振る舞いである。

23区内最長路線に乗りたい、と用事もないのに出掛けてきたのだから、マニアには違いないけれども、だからと言って、せっかく乗りに来たのに、後席に退くのは面白くないし、如何にも羽田空港に用事があるのだ、という顔をして一般客を装いたいのだが、どうすれば良いのか。

飛行機の時刻表でも持ってくれば良かった、と思う。

 

 

「園11系統」は、田園調布本町交差点で中原街道を左に折れ、「六間通り入口」バス停に停車した。

逆に曲がれば、次の停留所は多摩川を渡る橋の名をつけた「丸子橋」で、東京都の西の隅まで来ていたのか、と思う。

 

ここから都心に向かう中原街道は、丸子橋と品川駅を結ぶ「品90系統」で走ったことがある。

「丸子橋」バス停は、渋谷からの「渋33」系統も終点にしていたので、バスの転回場が置かれていた。

 

僕が通っていた大学は中原街道に面していたが、最寄りを走るバスは「品90系統」だけであった。

昭和30年代には、五反田駅から中原街道を経由して綱島駅まで足を伸ばすバス路線があり、昭和41年に東京駅から丸子橋に向かう路線も開設されたが、昭和54年に品川止まりになった。

僕が大学に通っていた頃は、古びた東急バスが1時間に1~2本の寂しい本数で運行するだけであった。

 

曲がりなりにも、大学の名前を冠したバス停があったので、幾度か利用してみたが、終始東急池上線と並走するためなのか、いつも乗客数は少なく、平成元年に廃止されて、母校の名のバス停も消えてしまった。

 

 
僕にとっての品川駅は、たまに品川プリンスホテルのスケート場に友人と出掛けたものの、大井町になかった「ケンタッキーフライドチキン」が駅前にあるので、そのために足を向けるだけの土地だった。

 

大井町にマクドナルドもモスバーガーもあったけれども、ケンタッキーは品川か蒲田にしかなく、僕は、子供の頃に父が下校後のおやつとして買ってくれたケンタッキーのフィレサンドが好物だった。

昭和50年前後の話であるから、故郷の長野市で最初に開店したファーストフード店が、実家の近くにあったケンタッキーだったのではないか。

東京でも無性に食べたくなる時があり、そうなると、大学の講義が終わってから「品90系統」に飛び乗ったものだった。

 

バスの話をしているのに、「シェーキーズ」の次は「ケンタッキー」か、とお叱りを受けるかもしれないが、味の記憶と結びついた路線バスは少なくない。

 

 

「園11系統」のバスは、中原街道で荏原台地を緩やかな坂で登り詰め、池上線の雪谷大塚駅に近い「雪ヶ谷」と「石川台駅」バス停を過ぎて、「洗足池」バス停の先の左手にある転回場に乗り入れた。

 

洗足池は僕の大学に程近く、部活で大学からランニングをさせられたから馴染みであるが、こうしてバスで訪れると、部活では目につかなかった遊歩道や柳の木立ちが、なかなかの風情を醸し出している。

それよりも、バスが転回場内でぐるりと向きを変えると、中原街道の反対車線に飛び出して、来た道を戻り始めたのには驚いた。

 

誘導員もおらず、往復4車線の広い道路の向こう側にバスを出すのは大変だろうが、運転手は、制服をはだけ、ズボンの裾をめくったまま、不機嫌そうな顔で、辛抱強く車が途切れるのを待っている。

狭かった六間通りでも、行く手を塞ぐ駐車車両にクラクションを鳴らすような仕草は一切なく、横道から出ようとしている車を先に行かせたり、見かけに寄らず節度ある運転ぶりだった。

厳めしい顔にも慣れて、だんだん親しみが湧いて来たのかもしれない。

 

 

「園11系統」は、中原街道を数百メートル戻ると、荏原病院通りに左折した。

一転してせせこましい道路になるが、「渋41系統」のゼームス坂や「渋11系統」の自由通りを経て来た身としては、もう慣れっこである。

 

荏原病院を過ぎると、バスは、ヒトデの触手のように延びた荏原台地の裾を、真っ直ぐな急坂で、そろそろと下り始める。

両側にひしめく建物の彼方に、池上から大森にかけての平地が覗き、屋根が陽射しを反射して輝いている。

坂を下り切ると吞川が削る谷の底で、十中通りに突き当たって右折し、新幹線と横須賀線をくぐって、二股になっている道々橋交番前交差点を右に進めば、呑川を渡る道々橋である。

 

 

道々橋は、どどばし、と読み、気になる地名であるが、かつて馬で往来をしていた時代は一本橋だったようで、馬が怖がってなかなか渡ろうとしないのを、「どうどうどう」と声を掛けて歩みを進めたところから「道々橋」という名がついた、という説があり、「池上町史」には「ドドの詰まり(とどのつまり)」との言い回しが由来となった別の説が記されている。

「とどのつまり」は魚のボラが由来で、成長に従ってオボコ、スバシリ、イナ、ボラと名前が変わり、最後はトドと呼ばれることから、「とどのつまり」との言い回しが生まれたらしい。

 

かつては池上村に含まれていたこの地域に、何らかの結論を必要とする逸話があったのかと言えば、呑川に架かる橋の修繕費の負担で村と対立した結果、道々橋村として独立する紛争があったらしい。

 

 

呑川は、東急田園都市線桜新町駅の近くに水源があり、緑ヶ丘や大岡山、雪ヶ谷、久が原、池上、蒲田、糀谷の街並みを抜けて、東京湾に注いでいる。

桜新町に水源となるような何かがあるのか、と首を傾げてしまうが、湧水があるらしく、更に九品仏や大岡山などあちこちの湧水が注ぎ、下水としても使われている川で、両岸も川底もコンクリートで覆われて、かつては水質汚濁や悪臭が当たり前だった都市型河川である。

 

呑川を過ぎると再び登り坂が始まり、出世観音前交差点を左折した道路で、再び下り坂が始まる。

坂の入口に、枝が路上にはみ出すほど、こんもりと木々を繁らせた末広稲荷神社があり、緩やかな右曲線を描きながら、急勾配の下り坂が始まる光景は、「園11系統」を代表する車窓として、強く心に刻まれている。

 

家々が建て込んでいて、また新幹線も一瞬で通り過ぎてしまう場所であるから、大田区にこれほど複雑な地形があったとは驚きであるが、バスでなければ分からない感触だろう。

バスの乗客とは勝手なもので、道路が走りにくければ、不安よりもワクワク感が高じるのだが、起伏に加えて道も細く、運転手はハンドル捌きと言いギアの切り替えと言い、なかなか大仕事のように見受けられる。

 

 

道々橋交番から出世観音と、そこから池上三丁目までの道路は、地図に道路名の記載がなく、標識は道路名を書かずに行先の地名を表示しているだけで、電柱にも通りの名は貼られていない。

後者の道路脇に「久が原バス通り」という看板を見つけただけである。

この道路は、「園11系統」ばかりでなく、田園調布駅と蒲田駅を結ぶ「蒲12系統」や、大森駅と洗足池を結ぶ「森05系統」も行き来しているので、この名がついたのであろう。

 

先程から、東急バスとひっきりなしにすれ違うが、当然のことながら運転手同士の挙手の挨拶はない。

バス旅は右顧左眄、と観念していても、中原街道から第二京浜国道まで、もう少し単純な経路はないのだろうか。

 

 

久が原は、荏原台地の末端の久が原台に広がる地域で、標高は10m前後、大田区では田園調布や山王と並ぶ高級住宅街とされているが、碁盤目に敷かれている街路に面影はあるけれども、「久が原バス通り」の両脇は事業所や倉庫も多く、新開地のように乾いた印象だった。

 

池上三丁目交差点で第二京浜国道を右折したバスは、「池上警察署」バス停の先の、交差点名が書かれていない交差点で、一方通行の道路に右折するが、この通りも名前が判然としない。

「徳持神社」バス停を経て、池上通りに右折したバスは、東急池上線の池上駅に立ち寄った。

ここは、品川駅と池上駅を結ぶ「品94系統」と、大井町駅と蒲田駅を結ぶ「蒲03系統」で何度も訪れたことがあり、地元に帰って来たな、と思うけれども、「園11系統」の旅は、まだ道半ばである。

田園調布からここまで、約40分が経過していた。

 

 

池上通りを北に向かった「園11系統」は、「大田区役所」バス停を過ぎると、春日橋の立体交差の側道に右折して環状7号線に入り、東海道本線と京浜東北線の線路を跨いだ先の沢田交差点で沢田通りに左折、大森北の街並みを抜けて、大森駅東口のロータリーに滑り込んだ。

 

大田区役所から大森駅まで、この経路を走るバスは「園11系統」だけである。

大森駅を起終点にして、田園調布や雪ヶ谷、洗足、久が原など、東海道本線より西側の地域を網羅している東急バスの路線は、1系統たりとも線路を東に越えない。

大森駅から羽田、六郷、大森東、平和島などの東側地域を結ぶ京浜急行バスも、東海道本線を西へ越えるのは「園11系統」が唯一であった。

 

 

現在は蒲田駅の南に移転しているが、平成10年まで池上通り沿いの新井宿にあった大田区役所は、東海道本線の西側に位置していたので、東側に住む住民の大田区役所へのアクセスを図るために、「園11系統」が開設されたと聞いたことがある。

 

「園11系統」の廃止は、大田区役所の移転と同じ年であった。

末期は運行本数が減らされ、平成5年に沖合に移った新しい国内線ターミナルビル「ビッグバード」に延伸せず、手前の国際線ターミナルを発着していたという。

「園11系統」は空港利用者を運ぶのが主目的ではなく、羽田空港はバスを停められる用地がある、とどのつまりは転回場所として使っていただけで、大田区内の地域輸送に徹する路線だったのである。

 

 
僕が乗車したのは日曜日であるから、「大田区役所」バス停での乗り降りはなかったが、東海道本線を跨いで、東急バスの領域から京浜急行バスの領域への移動は、なかなか興味深かった。

 

沢田通りには、大森駅と蒲田駅を結ぶ「森50系統」が頻回に運行しており、大森駅東口のバス乗り場に出入りするのも京浜急行バスばかりであるから、「園11系統」も、ようやく我が家に帰って来た気分であろう。

すれ違うバスに手を挙げる運転手も、この人、こんなに可愛い笑顔が作れるのか、と呆気にとられた。

いつの間にか制服のボタンを閉め、ズボンの裾を下ろしているのに気づいて、思わず吹き出しそうになった。

 

 

大森駅前から第一京浜国道に出て、平和島駅の先で産業道路に左折する道行きは、大森と羽田空港を結ぶ「森21系統」で通ったことがあった。

 

後の話になるが、僕が大学を卒業して就職した職場は大森東にあり、後に、大森南の呑川沿いのマンションに引っ越した。

その頃の呑川は、悪臭もなく、川沿いで眺めが良いから選んだのだが、コンクリートで囲まれた味気なさは上流と変わりはなかった。

驚いたのは、産業道路から何区画か離れていたにも関わらず、数週間で網戸が真っ黒になり、職員の子供に喘息持ちが多いことだった。

いずれも産業道路を行き来する大型車の排気ガスが原因と教えられたが、凄まじい地域だな、と恐ろしくなった。

 

 

埃っぽい産業道路を南下して、「北糀谷」と「仲糀谷」バス停の間で呑川を渡り、環状8号線と交わる大鳥居交差点を過ぎた羽田二丁目交差点で、「園11系統」は弁天橋通りに左折した。

両側に、海苔の卸問屋をはじめとする店舗がひしめいている、往復2車線だけの道路であるから、この先に、首都の玄関たる我が国随一の空港があるとは信じられないような車窓である。

 

初めて大森駅や蒲田駅から羽田空港に向かった時に、どうして、路線バスは環八を使わず、狭隘な弁天橋通りを通るのか、と不思議だったが、今では、弁天橋通りから眺める羽田の風情が好きになっている。

空港が出来るずっと前から、この地に根ざして生きて来た人々について考えさせてくれるからだろう。

 

振り返れば、乗車した3本の路線バスで訪れた土地と人々の営みを、じっくりと味わえた1日だったな、と思う。

空港行きのバスでありながら、大森駅で乗車した客は、途中停留所で半分ほどが下車した。

空港に向かうと思しき、よそ行きの服装をした人々も残っているけれども、田園調布駅から乗り通したのは、僕だけだったと思う。

 

 

海老取川の河口にかかる弁天橋を渡って、視界いっぱいに広々と羽田空港が開ける演出は、大好きである。

当時の羽田空港は、昭和30年に完成した旧ターミナルビルの時代で、敷地には車やバスがひしめいていたが、それほど流れが滞ることなく終点に到着した。

田園調布から1時間半が過ぎていたが、定時運行なのかどうかは分からない。

 

はるばる空港に来たけれども、飛行機に乗る予定はない。

飛行機を見るのは好きなので、ターミナルビルの展望デッキに足を運ぶのも一興だが、車中でケンタッキーなんぞを思い浮かべてしまったから、空腹である。

ここまでバスに拘ったのだから、日の出通り経由蒲田駅行きの「蒲31系統」か、萩中経由蒲田駅行きの「蒲41系統」で折り返して、ケンタッキーのフィレサンドを買い、「井03系統」で大井町に帰るのが、最も魅力的な案だった。

 

 

 

 

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