第7章 昭和62年 浅草から会津へ国鉄のない旅~東武鉄道・野岩鉄道直通快速と会津鉄道~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:東武鉄道・野岩鉄道直通快速、会津鉄道、快速「ばんだい」】



浅草駅を定刻9時10分に発車した快速電車は、時速15km制限が課せられた隅田川橋梁を静々と渡り終えてから速度を上げ、民家や雑居ビルがひしめく下町を走り抜けてから、荒川の川縁に出た。


鐘ケ淵駅と堀切駅の間で、東武伊勢崎線は荒川右岸の堤防の間際を走るのだが、僕は、この道筋の風情が好きである。

以前、堤防に設けられた都道449号線をバイクで走る機会があり、川沿いに出る手前の街なかで、くすんだ町工場や倉庫に囲まれた個人商店のような鐘ケ淵駅を目にして、ここが化粧品や薬品、繊維業を営んでいたカネボウ発祥の地だったのか、と感慨を新たにした覚えがある。


「カネボウ」とは、子供の頃からよく耳にした社名で、おそらく母が愛用していた化粧品などで目にする機会が多かったのであろうが、独特の響きがあり、「鐘ヶ淵紡績」という厳めしい正式名称であると知れば、猶更心に深く刻まれた。

我が国で有数の化粧品メーカーであったが、平成20年に倒産して各部門が売却され、跡形もなく消滅することになるとは予想もしていなかったが、それは後の話である。



当時は、一部が欠けたような古いコンクリート塀が道路沿いに延々と続き、中に煉瓦造りの工場が頭を覗かせていた光景が朧に思い出されるのだが、確かな記憶ではない。

西から流れてきた隅田川が大きく南に蛇行する様が、大工の使う指矩(さしがね)に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになり、隅田川と綾瀬川が合流していたために、舟運の難所としても知られていたらしい。


車の波に揉まれるように建て込んだ街なかを走り抜けて来た身にとって、隅田川に沿う道路をバイクで走るのは心地よかった。

脇を線路が走っていて、下町の地理に疎く、鐘ヶ淵駅が何線にあるのかも知らなかった僕は、何処の支線だろうか、と思ったのだが、後に東武鉄道の幹線である伊勢崎線と知って、無知を恥じるとともに、このような密集地を特急電車が走っていたのか、と驚愕した。



鐘ヶ淵駅の隣りにある堀切駅を過ぎると、線路は左に弧を描いて市街地に入り込み、北千住駅に停車した。

浅草では半分ほどしか埋まっていなかったクロスシートが、ここでほぼ満席になる。

地下鉄しか接続していない浅草駅よりも、JRと接続する北千住駅の方が、ホームに立つ人が遥かに多かった。


荒川を渡って竹ノ塚駅を通過すれば、電車は埼玉県に足を踏み入れる。

地図を見れば、このあたりの東京都と埼玉県の境界は、毛長川という小さな川に敷かれているが、快調に突き進む電車に乗っていると気づかないままに過ぎてしまい、住宅地が延々と続くまま、草加駅の駅名標を眺めて、県境を越えたことにようやく気づく段取りである。

町並みに隙間が目立ち始めるのは、浅草から35.3kmの春日部駅の前後からで、首都圏の広がりとは誠に凄まじいものだと思う。



東武伊勢崎線は、小学校低学年の家族旅行で日光に行った時に、特急「けごん」を利用したのが初めてである。

浅草駅から東武日光駅まで135.5kmをノンストップ、1時間40分で駆け抜けるスケールの大きさと、国鉄のグリーン車に匹敵する豪華な車内設備に、大手私鉄とは何もかも桁外れなのだな、と驚嘆する車中であった。

東京や埼玉の地理に詳しくなかったので、前半の車窓は全く覚えていないけれども、山も見えないような広大な関東平野に、山国から出て来た者としては呆れる思いがした記憶が、未だに鮮明である。



同じ鉄路を走っている懐かしさもさることながら、このレールが、遠くみちのくまで続いていることに、この日の僕は興奮が冷めやらない。


昭和61年10月に、野岩鉄道の新藤原-会津高原間が開通し、昭和28年に会津高原-西若松間を全通させていた国鉄会津線が、昭和62年7月に第三セクター会津鉄道として生まれ変わったことで、浅草と会津が私鉄路線だけで結ばれたのである。

同時に、東武鉄道から野岩鉄道に乗り入れて浅草駅と会津高原駅を直通する快速列車が運転を開始し、会津高原駅から西若松駅を経てJR会津若松駅を結ぶ会津鉄道の列車と接続する新しいルートが誕生し、僕は早速、昭和62年の初夏に乗りに出掛けてきたと言う次第である。


東京から、僕の故郷の長野市までに匹敵する距離が、最後の西若松駅と会津若松駅の間の只見線を除いて全て国鉄ではない、というスケールの大きさに僕は高揚しているのだが、国鉄も半年前の昭和62年4月に分割民営化されて、いわば私鉄のようなものではないか、と水を差されれば、返す言葉はない。



そもそも、浅草からの快速電車の車内に、会津若松へ行くぞ、と考えている乗客がいるのだろうか、と思う。

浅草駅から会津若松駅まで235.8km、ほぼ5時間の行程になるが、東北新幹線を郡山で磐越西線に乗り継げば、上野と会津若松の間は2時間程度である。

上野と長野を行き来する特急「あさま」の所要時間が3時間であることを考えれば、残りの2時間は何処で費やされるのだろう、という興味はあるが、高崎線と信越本線の普通列車を乗り継げば同じく5時間であるから、理解できない数字ではない。


車両は東武鉄道の6050系で、車内は国鉄の急行用電車と似た4人向かい合わせのボックス席になっている。

国鉄の硬いシートより若干座り心地が良い気もするが、前に座る相客と膝がぶつからないように脚の位置を工夫し、隣りの人にも何かと気を遣う道中の味わいは共通である。

せっかく会津までの直通列車を走らせたのだから、特急「けごん」「きぬ」のようなロマンスシートの列車を投入すれば良いのに、と思わないでもない。

逆に、多少は居住性が劣るボックス席の車両を東北に走らせるとは、東武鉄道らしい演出と言えるのかもしれない。

ルートは新しくても、鈍行の旅なのだ、と割り切れば良い話である。



東武鉄道は、私鉄で唯一の夜行列車を運転しており、昭和30年代には浅草駅と東武日光駅を結ぶ「日光山岳夜行」や、浅草駅から赤城駅を経て上毛電鉄新前橋駅まで足を伸ばす「赤城夜行」があった。

野岩鉄道と直通運転を開始すると同時に、浅草23時55分発・会津高原3時18分着の「尾瀬夜行」が走り始め、初期は6050系が投入された。


当時、「尾瀬夜行」の存在を、6050系を大写しにするテレビCMで知った時は、夜行列車を走らせるとはさすが東日本で随一の規模を誇る東武鉄道、と感嘆した。

同時に、ボックス席の6050系で一夜を過ごすとは、何回か体験したことがある国鉄の夜行急行列車や鈍行列車を思い浮かべて、東武鉄道の接客思想は国鉄と似ているのだな、と頷いたものだった。

乗車時間が3時間23分、実際は尾瀬に向かうバスが出る午前5時頃まで車中に留まれるらしいが、丑三つ時に放り出されるのかと怖れをなして、乗ろうとは思わなかった。


色々と理屈をこね始めればきりがないし、せっかくの旅心を損ねかねないので、今は、東武伊勢崎線の線路が会津まで途切れることなく繋がった、という事実に酔うことにしよう。



春日部の北に位置する杉戸、幸手を過ぎると、快速電車は広々とした河川敷を抱く利根川を渡り、渡良瀬川の右岸を更に北上して、藤岡の先で左岸に渡る。


幼少時の僕が、特急「けごん」で関東平野の広さを目の当たりにしたのはこのあたりであろうが、関東平野は、何処までを指すのだろうか。

北西方向ならば妙義・榛名・赤城山の上毛三山、皇海・袈裟丸などの足尾山地、白根・男体・女峰・赤薙山といった日光連山、那須岳が関東平野の縁とされているが、宇都宮線が分岐する栃木駅を過ぎて思川を、更に鹿沼駅を過ぎて黒川、行川を渡るあたりでも、幾らか山並みが近づいて来たな、と感じるくらいで、まだまだ平地の趣が残っている。

地平を行く線路からは意外と眺望が開けないが、鉄橋ならば視界が広い。


この快速電車は、東武日光行きの編成を併結している。

下今市駅で日光編成を分離して身軽になった電車は鬼怒川線に入る。

大谷川を渡る鉄橋では、左手に日光連山が一望できた。

ようやく関東平野が尽きるのか、と思う間もなく、鬼怒川温泉郷の手前で鬼怒川を渡る頃には、左右から山々が怒涛の如く押し寄せて来る。

鬼怒川温泉駅も、その先の新藤原駅も、鬼怒川が山襞を刻む渓谷の中にある。



幼少時に読み耽った鉄道書籍は、東武鉄道を取り上げたページに掲載されているのが不思議と鬼怒川温泉行きの特急「きぬ」の写真ばかりで、「けごん」に乗った時の僕は、華厳の滝を知らなかったので、不思議な列車名だな、と首を傾げた記憶がある。


浅草駅と東武日光駅を結ぶ有料急行「だいや」も、平仮名では何が由来であるのか見当がつかず、まさか中禅寺湖から流れ出る川の名前とは思いも寄らなかったので、連想されるのは宝石くらいで、「きぬ」だの「だいや」だの、東武鉄道は装飾品が好きな社員が多いのか、と勘違いしたのも、今となってはほろ苦い思い出である。

一方で、浅草から鬼怒川まで運転されていた急行電車が、鬼怒川の支流の男鹿川が由来の「おじか」であることに気づけば、おかしな思い違いをしないで済んだのかもしれない。



僕は特急「きぬ」に乗車した経験がなく、東武鬼怒川線そのものが今回初体験であったが、大半の「きぬ」が鬼怒川温泉駅を終点にしていたため、同線の終着駅である新藤原駅を知ったのは、それほど昔の話ではない。

鬼怒川温泉駅と新藤原駅の間は、野岩鉄道の開通に合わせて東武鉄道が新たに延伸したのか、と勘違いしていたくらいである。


藤原町は一大観光地の鬼怒川温泉を抱え、江戸時代に会津藩主が整備した会津西街道の宿場として栄えたのだが、よくぞ鬼怒川温泉町などと改名しなかったものと思う。

新藤原、と名乗るからには近くに藤原駅があるのか、と思ってしまうけれども、東武鬼怒川線の前身である下野軌道時代は藤原駅であり、大正11年に駅を移転させた際に新藤原駅に改名したので、意外と古い「新」駅なのである。



新藤原駅から先は、いよいよ前年に開業したばかりの野岩鉄道である。

このように急峻な山あいに、よくもまあ鉄道を敷設したものだ、と驚愕するが、18本のトンネルや64ヶ所の橋梁、そして高架で占められている高規格路線であり、地形など何するものぞ、と言わんばかりに山を貫き、深い谷を渡り、傲然と北を目指している。

表定速度は時速50kmを超え、これは会津新幹線が出来たようなものだな、と思うけれども、全線が単線でトンネルの口径も高架の幅も狭い。


沿線には民家や田畑は殆んど見当たらず、快速電車の席を占めているのも、大半が余所行きの格好をした観光客のようで、途中の停車駅から野良姿の皺深い老人が乗ってくる、ということはなかった。

新藤原駅の次の龍王峡駅、川治温泉駅、川治湯元駅、湯西川温泉駅、中三依温泉駅、上三依塩原温泉口駅、男鹿高原駅と、過ぎ行く駅名も温泉ばかりが並び、あまり生活感が感じられない。



野岩鉄道が出来る前に、このような山奥に湯治客が訪れたのだろうか、と心配になるけれども、平行する国道121号線は、車窓から見る限り走りやすそうな道路であるし、かつて鬼怒川温泉駅と会津田島駅の間に路線バスが運行されていた。


国道121号線の前身は明治期に建設された「会津三方道路」で、時の福島県令三島通庸が、会津若松から南の田島・今市方面に向かう会津西街道、西の津川・新潟方面への越後街道、北の米沢市に向かう米沢街道の三方への道路の建設を推し進めたものである。

土木県令と呼ばれた三島は、2年前に「東北急行バス」東京-山形線で走った福島・山形県境の「萬世大路」の建設でも山形県令として名前が出て来るが、建設費の捻出のために増税を課すなど手法が強引であったため、自由民権運動家などが関わった反対運動を警察力で鎮圧した明治15年の福島事件を惹き起こしたと言われている。

一方で、道路網の整備により地元の産業が潤ったのも事実であるとされ、道を築くということは大変な手間と労力を要するものの、大切なことなのだな、と思う。



野岩鉄道も、大正時代に制定された鉄道敷設法で「栃木縣今市ヨリ高德ヲ經テ福島縣田島ニ至ル鐵道」と規定された古い歴史があり、北は会津線と只見線、磐越西線を経て「山形縣米澤ヨリ福島縣喜多方ニ至ル鐵道」と定められた日中線に繋げ、南側は日光線を経て同法の「栃木縣鹿沼ヨリ栃木ヲ經テ茨城縣古河ニ至ル鐵道」と結び、山形県米沢市と茨城県古河市を南北に結ぶ野岩羽線として構想されていた。


このような経路を行き来する流動があるのか、と現代の僕らは思ってしまうのだが、それは歴史を振り返る立場としての傲慢かも知れず、昭和になって最新の建設技術で実現し、東京への直通列車が走り始めたことを良しとすべきであろう。



山と谷が目まぐるしく繰り返される半時間が過ぎ、山王峠を3441mのトンネルで越えた快速電車は、とうとう福島県に足を踏み入れた。
紀行作家の宮脇俊三氏は、処女作「時刻表2万キロ」で国鉄会津線を訪れているが、その時に利用した路線バスが鬼怒川から県境まで1時間半を要したと書いているので、所要を3分の1に縮めた野岩鉄道の開通は、まさに時代の進歩と言えるだろう。


県境の次の駅が野岩鉄道の終点である会津高原駅で、浅草からの直通列車はここが終点になっている。

会津若松駅まで乗り換えなしで行ければ良いのだが、ここからの会津鉄道は、国鉄時代からずっと非電化のままである。

ホームの向かいに停車している2両連結の気動車を眺めながら、不便なことだ、とぼやいても栓ないことであるが、この旅の3年後の平成2年に会津高原-会津田島間で電化工事が行われ、浅草駅からの直通電車が会津田島駅まで乗り入れるようになった。



会津鉄道が第三セクターとして設立されると同時に投入されたAT-150型気動車は、浅草からの快速電車に比べれば質素であるが、こちらも快速運転であるから、なかなか軽快な走りっぷりである。

周囲の山々の背が低いのは、こちらがそれだけ高度を上げて来たからであろう。

鬼怒川温泉の標高がおよそ400m、会津高原駅の標高は722.5mであり、気動車はエンジンの唸りを響かせながら高原の田園地帯を行く。


阿賀川に沿う平地が開ければ、会津田島駅である。

将来、東京からの直通列車の終点となるだけあって、田島町は会津鉄道沿線でも大きな町なのであろう、2本のホームと跨線橋、側線や車庫が置かれ、久しぶりに駅らしい駅を見たな、と思う。



後の話ばかりで恐縮だが、平成14年に会津田島駅と会津若松駅の間に快速「AIZUマウントエクスプレス」が運転を始め、3年後に東武鉄道鬼怒川温泉駅まで延伸されて特急「きぬ」と接続したのは、記憶に新しい。

かつて名古屋鉄道とJR高山本線を直通していた特急「北アルプス」用のキハ8500系特急用気動車を購入し、非電化の会津鉄道と電化された野岩鉄道、東武鉄道を跨ぐ高速運転を実現したと知った時には、会津鉄道の意気込みに感心したものだった。


20年近く後に、塩原温泉の帰りに野岩鉄道を利用する機会があり、その時に「AIZUマウントエクスプレス」とすれ違い、いつか乗りに来なければ、と意気込んだのだが、つい失念してしまい、次に意識したのはキハ8500系の引退の報に接した時だった。

実際に乗りに出掛けていれば、東武特急「きぬ」と、子供の頃から憧れていた名鉄気動車特急の初乗りを果たすと言う魅力ある汽車旅になったはずなのだが、その機会がなかったのは残念でならない。



昭和初期に開通した路線らしく、会津鉄道は阿賀川の清流と絡み合いながら、山あいの平地に敷かれていて、野岩鉄道のような傲岸さは感じられない。

会津若松に買い物にでも行くのだろうか、地元のおばさんたちが連れ立って無人駅から乗り込んできたりする生活臭に溢れたローカル線である。


昼食を手に入れる機会がなく空腹を覚えるものの、昼下がりの会津の山々の佇まいは優しく、鮮やかな緑が眠気を誘う。

冗長に感じられたのは、穏やかな山村風景ばかりでなく、駅名も一因であろう。

会津鉄道の20駅のうち、会津高原をはじめ会津荒海、会津田島、会津長野、会津下郷と、会津の名を冠した駅が前半の区間で5つもあり、


「次は会津○○です」


と繰り返す録音の案内放送に、会津にいるのは分かったからもういいよ、と辟易した。


駅が置かれた土地の名に、地域名や社名をつけるのは、既に同じ名前の駅が存在するためである、と聞いたことがある。

国鉄会津線が西若松-上三寄間で開業したのが昭和2年、以後、順次延伸して会津田島まで達したのが昭和9年、一時計画が中断して会津高原(当時の駅名は会津滝ノ原)まで全通したのは、太平洋戦争後の昭和28年であるから、その頃には同名駅が他にたくさん出来てしまったのだな、と思う。



僕の眠気を吹き飛ばしたのは塔のへつり駅で、今、何つった?──と、思わず目を見開いた。

着いてみれば、線路の片側に設けられた簡素なホームに、ログハウス風の小さな駅舎がちょこんと建っているだけの駅である。


凝灰岩が阿賀川によって長い歳月をかけて侵食され、あたかも塔が並んでいるような断崖を形成している景勝地が、駅の近くにある「塔のへつり」で、へつりは「岪」と書き、会津の方言で崖を意味している。

昭和34年に仮乗降場として設置され、10年後に廃止されたものの、第三セクター化にあたって復活した駅なのだと聞いた。


不思議なことに、塔のへつり駅から先は会津若松駅まで会津のついた駅はなく、なるほど、と思う。



江戸時代の会津西街道は、田島宿の先でも、八幡峠、中山峠、大内峠、氷玉峠と幾つも峠を越えていたらしいが、会津鉄道も、こんもりとした山中に再び足を踏み入れていく。


上三寄駅と湯野上駅の間は、昭和52年に建設された大川ダムが堰き止めた若郷湖に水没し、新線に付け替えられている。

ここだけは、スラブ軌道を備えた3本のトンネルや曲線を緩めたカーブなど、野岩鉄道と似た高規格の線路に生まれ変わっていたのだが、僕は乗り心地の変化に気づかず、線路端の木立ちの合間から見下ろす湖が綺麗だな、と思っただけだった。


とろとろと過ごしているうちに盆地が開けて車窓が賑々しくなり、車内の乗客数も増えた。

西若松駅でJR只見線の線路に入った快速列車は、14時07分に会津若松駅に滑り込んだ。


駅名標を眺めれば、紛れもなく僕は会津の地を踏みしめている。

5時間前に発ったのは、東京駅でも上野駅でもなく、浅草駅である。

新幹線も特急列車も使わず、遥々と来たものだ、という感慨が湧いて来るが、何となく現実味に乏しいのはどうしたことか。



ここまで来れば、残る選択肢は、同じ道筋を戻るか、磐越西線と東北新幹線を使うしかないけれども、さすがに前者は食指が動かない。


後者は便利であるし、磐越西線は使ったことがなく、磐梯山や猪苗代湖を望む車窓はさぞかし魅力的であろうが、ならば、東北新幹線が開業してもなお、会津若松と上野の間を3時間半で走り続けている特急「あいづ」に初乗りしてみたい、という欲が出る。

ところが、「あいづ」は、午前の上りと午後の下り列車の1往復しか運転されていないので、端から諦めるしかない。



東武鉄道と野岩鉄道、会津鉄道の体験が鮮烈だった反動なのか、 会津若松から先の記憶は曖昧なのだが、当時の時刻表をめくれば、東北新幹線を軸とした東北各地への乗り換え案内のページが実に懐かしい。
盛岡乗り換えの青森、秋田方面や、福島乗り換えの山形方面の特急列車と並んで、郡山乗り換えの会津若松への快速列車、そして宇都宮乗り換えの日光線の普通列車まで掲載されている。

この頃の磐越西線は、郡山駅と会津若松 ・喜多方駅を結ぶ 快速「ばんだい」が1日6往復、郡山駅から会津若松駅を経て新潟駅まで足を伸ばす快速「あがの」が2往復、 そして上野駅に直通する特急「あいづ」が運転されていた。
昼下がりのこの時間帯は、14時01分に郡山行き「ばんだい」が発車したばかりで、磐越西線が浅草や鬼怒川からの列車の接続を図る必要はないのかも知れないけれど、会津田島あたりから東北新幹線で東京に出たい人もいるのではないか、と首を捻りたくなる。



次の快速列車は会津若松を15時36分に発車する「ばんだい」だが、これに乗れば、接続する東北新幹線「やまびこ」の上野着が18時24分、明るいうちに帰り着いてしまう。
せっかく来たのに、これでは何となく勿体ない。
その次の「ばんだい」は18時01発と間があいているけれども、日の長い季節だから、19時05分着の郡山まで、まだ残照の車窓が楽しめるだろう。


会津で何かをするつもりはなかったが、戊辰戦争の激戦地となった若松城でも見物しようか、と考え直して、僕は、5時間の汽車旅の余韻に浸りながら、駅舎を背に歩き始めた。


 



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