第43章 平成27年 夜行高速バスで本州最果ての下北半島を訪ねた「心の旅」 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:夜行高速バス「しもきた」号・特急バス「白樺」号・JR大湊線・八戸線・久慈線】
 
 
新宿駅西口にある高速バスターミナルの混雑は、相変わらずだった。
 
僕の視界に、次から次へと様々な人々が現れては消え、これだけ大勢の人間が集中して存在している空間は地上でも稀ではないかと思うのだけれど、大多数は、互いに言葉を交わそうとしない。
他人の視線を避けるように目を伏せ、もしくは一心にスマホの画面に見入りながら、足早に移動している。
 
30年前の大学時代に、教養学部があった富士吉田を「中央高速バス」富士五湖線で何度も行き来して以来、故郷の信州や山梨県内の各地、名古屋、高山、下呂、京都、大阪、姫路、徳島、松山、そして我が国で最長距離を走る高速バスで福岡まで15時間かけて行ったのも、この新宿駅西口からであった。
 
数え切れないほど利用してきた、馴染みの深いバスターミナルであるけれど、みちのくへ旅立つために利用するのは初めてだった。
新宿駅西口高速バスターミナルを運営する京王バスの東北方面路線と言えば、平成18年に登場した仙台・石巻行き「広瀬ライナー」号だけで、他に、青森へ向かう弘南バスの「津軽」号や「えんぶり」号、鶴岡と酒田へ向かう庄内交通の「夕陽」号が、それぞれ平成22年と平成24年から乗り入れるようになった程度である。
 
 
乗り場の向かいにある、家電量販店のどぎついネオンに照らされながら行き交う人々。
ターミナルの窓口で乗車券を求めて列をなす人々。
そして、階下の狭い待合室で、肩を寄せ合いながら、じっと発車を待つ人々──。
 
おそらく、僕の人生の中でも、我が家や学校、職場に次ぐ、と言っても良いくらいの頻度で足を踏み入れた場所であり、様々な思い出も少なくない。
何十回と見慣れた光景でありながら、この夜ばかりは、自分がその中の1人であるという実感が湧かず、どこか別の世界の出来事をテレビを通じて見ているような、ぼんやりとした感覚だった。
 
せっかく、前年の平成26年8月に開業したばかりの新宿発むつ行き夜行高速バス「しもきた」号の乗車券を手に入れて出掛けて来たのに、この覚束なさは如何なることか。
 
 
「しもきた」号が登場してからは、目覚めれば最果ての地に立てるというイメージに憧れて、乗りに行きたいものだと幾度となく心に浮かんだ。
おそらく東京発着の東北方面へ向かう高速バスで最長距離の路線と思われるのだが、利用客の見込みが少ないのか、下り便は木曜日から土曜日、上り便は金曜日から日曜日、という週末運行に限定され、しかも開業3年後の平成29年には1月上旬から2月末まで長期運休するようになった。
 
「しもきた」号を運行するのは国際興業バス1社であるが、池袋を拠点とする長距離路線を多数展開している同社が、どうして「しもきた」号だけを新宿発着にしたのか、その理由は分からない。
おかげで、僕は、都内で最も殷賑な地に設けられたバスターミナルに来なければならなくなった。
 
 
発車時刻の10分ほど前に乗り場へと横着けされた「しもきた」号で、僕が指定されていた座席は、最後列の左側だった。
座席は瞬く間に3分の2程度が埋まったが、最後列は僕1人だけであったから、周囲に気兼ねする必要がない。
 
定刻20時15分に、窓外の夜景がゆっくりと後方へ流れ出した。
警備員が吹き鳴らすホイッスルが車内にも鋭く鳴り響き、人々が道を開けてこちらを見上げる中、バスは狭い路地をゆっくりと移動してロータリーに出る。
高層ビル街を通り抜けて山手通りに入り、中野長者橋ランプから首都高速中央環状線の山手トンネルに潜り込んで、熊野町JCTで首都高速5号線に合流し、バスは次の乗車停留所である大宮駅に向かう。
この経路をバスで走るのは初めてだったが、車窓は殆ど記憶に残っていない。
 
 
21時10分発の大宮駅東口から乗車した客で、ほぼ満席に近くなり、最後列でも右の窓際席を若い男性が占めたが、僕の隣りには誰も来なかった。
案外乗っているではないか、と思う。
 
車内設備や翌朝の降車停留所の案内を終え、交替運転手さんが「何か御不明なことはございませんか」と車内を回り、2~3列前に坐っている中年の男性客と何やら長いことやりとりしているのを横目に見ながら、僕は背もたれをいっぱいに倒して、各席を隔てるカーテンを閉めた。
あっと言う間に眠りに引きずり込まれたような気がする。
 
よく眠った気がしたけれども、熟睡ではなく、身体を揺さぶられてハッと目が覚めることもあった。
漆黒の闇の中でエンジン音が低く鳴り響き、自宅のベッドではなく、リクライニングシートに身を任せている自分に気づけば、少しばかり混乱する。
下北へ向かう夜行高速バスの車内にいることを思い出すには、かなりの時間を要した。
 
 
疾走する巨大なスーパーハイデッカーの片隅で、眠っているのか起きているのか定かではない時間を過ごすうちに、休憩のアナウンスがあり、「しもきた」号は、「道の駅おがわら湖」に滑り込んだ。
前方のカーテンが開け放たれると、眩暈がするような朝の光が車内に流れ込んでくる。
時計の針は午前6時半を指していた。
通過したのか、僕が眠っていただけなのか、早暁5時25分着の八戸駅東口や、6時ちょうどに到着する三沢駅、6時10分着の三沢市役所は、とっくに過ぎたことになる。
 
どんよりとした曇り空だったが、バスを降りた僕を包む空気は清々しかった。
みちのくに来たな、と思う。

 
「しもきた」号は、野辺地中央に7時35分に停車し、いよいよ下北半島に足を踏み入れていく。
 
下北半島に向かうのは、4度目だった。
僕にとっての処女地であった下北に初めて足を踏み入れたのは、東京から八戸に向かう夜行高速バス「シリウス」号からJR東北本線、大湊線、下北交通線で大畑駅まで乗り継ぎ、路線バスで本州最北端の大間岬を訪れた時である。
真冬だったこともあり、吹雪の下北半島のあまりの寂しさに、気温ばかりでなく心まで冷え切ったものだった。


2度目は、平成4年の盆に運行された、横浜と札幌を結ぶ相模鉄道の帰省バスが、下北半島の突端に近い大畑から室蘭へのフェリー航路を経由したのである。
東北自動車道を青森ICまで全線走り切ってから、国道4号線を野辺地に向かい、下北半島の西岸を遡る国道279号線に入る道のりである。
横浜を午前10時に出発したにも関わらず、下北の入口に取りついたのは宵の口で、国道4号線を離れてから野辺地の狭い路地をぐるぐると回り、道を間違えたのではないかと不安に駆られるうちに、不意に「下北半島」と書かれた案内標識が現れた。
通常、案内標識には市町村の名前が書かれているものだが、随分と大雑把な標識だと思った。

国道279号線にはカーブが殆どなく、真っ直ぐに闇の彼方まで伸びているものの、起伏が激しい。
時折、対向車のヘッドライトが前方に見えると、何度も上下に消えたり現れたりする。
札幌行きの帰省バスのヘッドライトに映し出されるのは、2車線の道路を覆って鬱蒼と枝を伸ばした木々と、ところどころに凹みがある錆びたガードレールだけであった。
左に視線を転じれば、真っ暗な陸奥湾の遥か彼方に、青森の灯であろうか、金色の細い帯が、かすかに明滅しながら横に伸びている。

下北の夜は、あまりに寂しかった。
この先に、フェリーが発着するような街が本当に存在するのだろうか、僕たちは、このまま、死者の霊が必ず赴くという恐山の賽の河原に迷い込んでしまうのではないか、と心細くなった。
その時である。
 
「おう、来た来た! JRだ」
 
と、ハンドルを握る運転手が声を上げたのだ。
つばめマークの青いバスが、一瞬、ヘッドライトの光の輪の中に浮かび上がった。
開業したばかりの、仙台と田名部駅を結ぶ夜行高速バス「エクスノース」号上り便だったのである。

「エクスノース」号との邂逅で、それまでの不安感はいっぺんに吹き飛んだ。
夜行高速バスが走っているならば、この先にも、人間の営みがある。
それだけで、死者の世界に思えた下北の地が、人間臭さを取り戻したように感じられた。
 
 
その時から、無性に「エクスノース」号に乗りたくなり、平成7年早春に出掛けた3度目の下北訪問で、実現することが出来た。
「北特急」という愛称にも惹かれたが、何よりも、下北半島を目指す高速バスの登場に、心が揺さぶられた。 
「エクスノース」号は東北道と八戸自動車道を走り、一戸ICから国道4号線を北上した。
夜半にそっとカーテンをめくると、夜露に濡れた窓の外を、寝静まった家並みがかすめ去り、時折「二戸市○○町」などと書かれた標識がヘッドライトの光に浮かび上がった。
随分遠くまで来たと思った。
 
「エクスノース」号は、仙台を起終点にするだけでは利用客数が覚束なかったのか、東北新幹線と接続して首都圏との行き来でも使えることを、パンフレットなどで仕切りに宣伝していた記憶がある。
ならば、東京を発着して下北方面へ直通する高速バスがあっても良いではないか、と夢想していたので、「しもきた」号の開業は、まさに我が意を得た思いだった。
 

野辺地から国道279号線に入った「しもきた」号は、青々と草木が覆い尽くす朝の原野を坦々と走った。
人が住む痕跡が全く窺えない海岸線に、JR大湊線の2本の細いレールだけが伸びている。
 
ローソン横浜町道の駅前店は通過する。
コンビニが夜行高速バスの停留所名になるのは珍しく、横浜町の国道沿いは、停留所の設置場所に困るほど閑散としているのだろうか。
 
 
下北駅前に到着したのは定刻8時30分よりかなり早い時刻だった。
 
下北への旅の初回が大間岬、2回目は大畑フェリーターミナル、3回目は田名部駅が終点だったから、下北駅に降りるのは初めてだった。
東京発の高速バスが立ち寄り、終点のむつ市役所まで所要5分と言うのだから、この駅がむつ市の中心なのであろうが、背の高い建物がほとんど見当たらない町並みはあっけらかんと明るく、登校する子供たちが次々と姿を現す。
 
 
終点に向けて走り去る「しもきた」号の後ろ姿を見送り、瀟洒な駅舎の前で、これからどうしようか、と思案した。
大間岬を経由して佐井に向かう路線バスに乗って、本州最北端を目指すのも一案であったが、僕は、JR大湊線で野辺地へ戻り、青い森鉄道に乗り換えて八戸、そして八戸線で久慈まで行く乗車券を買い求めた。
 
「それならこっちの方が安いよ」
 
と、窓口の駅員は、幾分得意げに僕の知らないトクトク切符を差し出した。
何と言うことはない計らいなのであろうが、駅員の優しさが心に滲みた。
 
 
8時11分発の上り快速列車は、これまで乗って来た夜行高速バスと同じ愛称の「しもきた」である。
9時ちょうどに着く野辺地まで55.5kmを49分で走破する俊足ぶりで、そのまま青い森鉄道に直通して、八戸に9時44分着、八戸線久慈行きの発車は10時07分と、順調な乗り継ぎであった。

八戸線は、途中の本八戸駅まで利用したことがあるけれど、その先は初めて乗車する区間だった。
これを機会に、JR八戸線、三陸鉄道北リアス線、JR山田線、三陸鉄道南リアス線と、三陸地方を縦貫する鉄道に乗ってみようと思い立ったのだ。
 
 
大湊線や青い森鉄道と異なり、駅間距離が比較的短い八戸線のディーゼルカーの速度はなかなか上がらない。
ぶるんぶるんと車両を震わせるエンジン音だけは勇ましいが、時の流れはゆったりとしたものに変わった。
 
八戸市街を抜けると、左の車窓に太平洋の大海原が広がった。
列車が行くのは、山々が海端まで迫る起伏が激しい険しい地形で、木々が生い繁る崖っぷちをのんびりと上り下りする区間が殆どであるが、思い出したように入り江や海岸段丘の平地に差し掛かると、漁港や集落が姿を現す。
どんよりと垂れこめた雲と靄のために、水平線まで見通すことが出来ない。
沖合で雨でも降っているのだろうか。
 
八戸市の隣りの階上町を抜ければ、岩手県である。
八戸線には、陸奥湊、陸奥白浜、種差海岸、金浜、角の浜、侍浜と海にちなんだ駅名が多いのだが、所々で鮫だの大蛇だの、恐ろしげな名を冠した駅が見受けられる。
しかし、車窓に広がる海は、どこまでも穏やかだった。
 
 
固いボックス席に座って、ぼんやりと列車に揺られるがままの、長いような短いような2時間足らずが過ぎ、終点の久慈には11時46分に着いた。
この駅の主役は、JR八戸線よりも、久慈から南下する第3セクターの三陸鉄道北リアス線のようで、広い構内には三陸鉄道の車両が何台も留置されており、JRは1本のホームを肩身が狭そうに使用しているだけである。
 
駅舎の中に足を踏み入れると、放送を終えたばかりのNHK連続テレビ小説「あまちゃん」一色で、待合室の壁やパネルには出演者や名場面の写真などが、鉄道関係のポスターや案内板に混じって貼られていて、何やら取り留めもない印象である。
「あまちゃん」には、三陸鉄道が「北三陸鉄道」として何度も登場した。
僕は殆ど観る機会がなかったのだが、たまたまテレビを点けた時に放映していた、トンネルをくぐる列車内で登場人物が東日本大震災に遭遇する場面の緊迫感は、強く心に残っている。
 
 
間抜けなことに、久慈まで来て、三陸の鉄道が未だ寸断されていることを知った。

平成23年3月11日の東日本大震災による地震と津波は、三陸地方の鉄道に甚大な被害をもたらした。
路線の各所で駅舎や路盤が流出し、使用不能となった車両も少なくない。
しかし、地震発生から僅か5日後の3月16日には、三陸鉄道が久慈と陸中野田の間で運行を再開し、被災者を勇気づけた。
その他の区間についても、岩手県や国土交通省から復旧費用が拠出されて順次復旧工事が進み、3年後の平成26年4月に、三陸鉄道全線が復旧したのである。
 
 
一方、三陸鉄道の久慈-宮古間を結ぶ北リアス線と釜石-盛間の南リアス線に挟まれたJR山田線は、宮古-釜石間55.4kmのうち21.7kmが浸水、13駅のうち4駅、鉄橋など6か所と盛土10か所が損壊した。
JR東日本は、一般車両が立ち入れない専用道路にバスを高速運行するBRTによる仮復旧を提案したものの、沿線自治体や岩手県との協議を重ねた結果、210億円と試算された復旧費用の3分の2をJR東日本が負担し、車両も無償譲渡、三陸鉄道と同等となる高規格の新しいレールや、木製だった枕木をコンクリート製への交換などといった鉄道施設の強化を行った上で、この区間の事業を三陸鉄道に無償で譲渡する案で、平成26年に決着したのである。
 
宮古-釜石間の移管区間の路線名は「三陸鉄道リアス線」となり、同時に現在は北リアス線と南リアス線に分かれていた区間も「リアス線」に統一、第三セクターとしては日本国内最長路線となる一方で、山田町を通らなくなるJR山田線の盛岡-宮古間の線名については、この時点で、まだ白紙であった。
平成30年7月に宮古-釜石間の建設工事は全て完了し、レールが全線で締結され、施設の強度確認等のために試運転が行われている状態で、三陸鉄道はこの区間の運行再開を平成31年3月と発表している。
 
 
この旅の当時、三陸鉄道は動いているものの、山田線が復旧途上であることに気づいて、僕は、三陸縦走の旅をさっぱりと諦めた。
ならば、残された選択肢は多くない。
僕は久慈駅前に出て、バス乗り場で、盛岡行きJRバス平庭高原線「白樺」号の発車時刻を確かめた。

駅前は古びたビルが多く、駅前のデパートなどは、いつ閉店したのか、窓も外壁の塗装も朽ち果てたまま放置されている。
他の建物も、昭和の高度成長期あたりで建築されたと覚しき年季を隠そうともせず、昼下がりと言うのに例外なくシャッターを閉め切っていた。
そのようなビルの屋上に掲げられた「祝・三陸鉄道再開」の派手な大看板だけが、セピア色の町並みの中で、唯一、背景から浮き出たような色彩を感じさせる。
 
 
東日本大震災における久慈市内の震度は5弱だったが、波高8.6m、遡上高27.0m、河川遡上kmを記録する巨大津波に襲われ、死者4名、行方不明者2名を出している。
建築物の被災は全壊355棟、大規模半壊89棟、半壊410棟であり、小袖海岸の「小袖海女センター」や、久慈国家石油備蓄基地、久慈地下水族科学館といった海岸工業地帯の施設や工場が全半壊するという被害を受けた。
明治29年に発生した明治三陸津波、昭和8年の昭和三陸津波、昭和35年のチリ地震による津波など、久慈には過去にも巨大な津波が何度も襲来し、最大波高26mと記録されている明治三陸津波では800人近い死者を出している。
 
僕がJR八戸線で通過してきた、久慈市より北側の八戸市、階上町、洋野町といった太平洋沿岸地域も、東日本大震災のために甚大な被害を被っているものの、幸いなことに人的な被害は記録されていないと聞く。
だが、久慈市より南側の岩手県から宮城、福島、茨城までの海岸地域では、建築物の全壊・半壊40万2704戸、津波による浸水面積561k㎡、被害を受けた農地は2万1476ha、被害を受けた漁港数319港、被害総額は自然災害による経済損失額として人類史上最大の16兆円~25兆円と試算され、何よりも、1万8432人という多くの尊い命が失われたのである。

 
こうして、大きな災厄に見舞われた土地を訪れてみれば、人間、いつ人生が終わるのか分からないものだとつくづく思う。
それでも、三陸鉄道と山田線の物語を筆頭に、みちのくの地は、必死で立ち直ろうとしている。
寂れた田舎町にしか見えなくても、久慈をはじめとする三陸地域は、幾度となく襲いかかって来た災厄を乗り越えて復興する力強さを秘めている。
駅前を歩く人々の表情に、どこか明るさが感じられたのは救いだった。
この地を踏んだだけで、生きていく強さをいただいた、と思った。
 
いつか、久慈の町を再訪してみたい、と思った。
三陸の鉄道が完全に復旧した時に。
無類の悲しみに耐えて、新たな人生を切り拓こうとする逞しい人々が住む町に。
 この旅と同じ平成27年より、東京から盛岡を経由して久慈に至る夜行高速バス「岩手きずな」号も走り始めている。
 
 
盛岡行き「白樺」号が、久慈駅前を12時30分に発車する頃合いから、フロントガラスにぽつり、と雨が当たり始めた。
みるみる路面が濡れていき、タイヤが水を切る音が静まり返った車内に響く。
国道281号線を内陸に向かえば、程なく平地は尽き、平庭高原から葛巻高原にかけて、この路線の愛称に違わず、見事な白樺の森が続く。
白い幹と葉の緑が織りなす対比が鮮やかだった。
 
真夏とは思えないような冷たい雨が降りしきる中を、「道の駅くずまき高原」で幾許かのトイレ休憩を取ってから、バスは北上盆地に降りていく。
 
 
「道の駅くずまき高原」は、国鉄時代からバス駅が設けられていて、JRバス平庭高原線は、昭和14年に葛巻と沼宮内駅を結ぶ沼宮内線がルーツである。
昭和18年には久慈まで運転区間が伸び、昭和27年に盛岡へ乗り入れる。
昭和46年に、バス急行券が必要な「白樺」号が運行を開始、平成11年から16年にかけて滝沢ICと盛岡ICの間で東北道を使用する「スーパー白樺」号が運転されたこともあったが、今では全便が終始一般道経由となっている。
東日本大震災では、3日後の3月14日から盛岡-葛巻間で運行が再開された。
 
70年もの長きに渡り人々の喜怒哀楽を乗せて走り続けた、伝統のバス路線なのである。
 
 
岩手町で国道4号線に左折し、東北新幹線の高架が寄り添ってきて、小高い山ぎわに設けられた東北新幹線いわて沼宮内駅を、乗降客がいないままに通り過ぎると、右手に、雲を被った岩手山と、北上川の流れが姿を現した。
 
匂い優しい 白百合の
濡れているよな あの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 月の夜
 
宵の灯 点す頃
心ほのかな 初恋を
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の せせらぎよ
 
銀河の流れ 仰ぎつつ
星を数えた 君と僕
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 星の夜
 
春のそよ風 吹く頃に
楽しい夜の 接吻を
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 愛の歌
 
雪のチラチラ 降る宵に
君は楽しい 天国へ
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 雪の夜
 
僕は生きるぞ 生きるんだ
君の面影 胸に秘め
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 初恋よ
 
「北上夜曲」の美しくも悲しげな旋律が、思わず口をついて出る。
岩手に生まれ育った当時16歳の菊池規氏が、亡き恋人を偲ぶ詩を作り、意気投合した17歳の安藤睦夫氏が曲をつけたのだという。
この旅の当時の僕は、妻を病気で亡くしたばかりだったので、「北上夜曲」の歌詞は心に哀しく滲み込んだ。
同時に「僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影 胸に秘め」のフレーズが強く心に刻まれたのは、みちのくを訪れたからこそであろう。
 

次々と車窓に現れる情景は暗くて薄寒い。
内田百閒が盛岡に泊まった際に、「東北の悲哀の様な天気である」と書いていた一節を思い出す。
 
沼宮内の盛岡寄りにある渋民には、
 
やはらかに 柳青める 北上の
岸辺目に見ゆ 泣けと如くに
 
と石川啄木の歌が彫られた碑があるという。
 
前夜に新宿を発ってから20時間たらず、密度の濃い旅をさせて貰ったことに、心は満ち足りていた。
15時15分に着く予定の盛岡駅からの行程は決めていなかったけれども、生きる力を貰えたのだから、東北新幹線で真っ直ぐ東京に戻ろう、と決心した。
東京で、妻の面影を心に抱きながら生き続けよう、と思った。

「白樺」号の窓に映った、雨に濡れるみちのくの山河の緑は、今でもくっきりと脳裏に焼きついている。
 
 
 
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