蒼き山なみを越えて 第64章 平成27年 北陸新幹線「はくたか」~後編~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

「蒼き山なみを越えて 第64章 平成27年 北陸新幹線『はくたか』~前編~」 の続きです)


小松空港で金沢カレーを食べたおかげで、次の金沢行きリムジンバスの発車時刻まで、かなりの時間が開いたので、僕は小松駅行きの小柄な路線バスに乗り込んだ。

 

 

北陸新幹線の開業と、航空機の羽田-小松線の縮小は、当然のことながらリムジンバスにも影響を及ぼしている。

かつては、武蔵が辻、香林坊、片町といった市内停留所を経由する特急便と、金沢駅と小松空港をノンストップで結ぶスーパー特急便を合わせて、1日30往復近くが運行されていた北陸鉄道のリムジンバスも、特急便が廃止され、20往復に満たない本数に減っていた。

 

小松駅から金沢駅まで普通列車に揺られ、乗り換えたのは、10時31分発の「はくたか」560号である。

 

 

北陸新幹線には4種類の列車が設定されている。

 

途中停車駅を富山・長野・大宮・上野だけに絞った「かがやき」。

金沢-長野間で基本的に各駅に停車する「はくたか」。

富山まで運行されていた名古屋・大阪からの在来線特急「しらさぎ」「サンダーバード」が金沢止まりになったことで、金沢-富山間を特急に接続する「つるぎ」。

長野と東京の間を区間運転する「あさま」。

 

本来ならば速達型の「かがやき」に乗車して、北陸新幹線の威力を存分に味わいたかったのだが、この頃の「かがやき」は朝夕中心の運転だけで、日中に都合の良い列車が見当たらず、初乗りは「はくたか」の利用と相成った。

 

「はくたか」560号の東京到着は13時28分で、所要2時間57分は、それでも驚異的な速さである。

時刻表を紐解けば、似た時刻を運行していたかつての在来線特急「白山」2号は、金沢を11時28分に発車して、津幡、石動、高岡、富山、滑川、魚津、泊、糸魚川、直江津、高田、新井、妙高高原、黒姫、長野、戸倉、上田、小諸、中軽井沢、軽井沢、横川、高崎、大宮と丹念に停車しながら、上野へ17時45分に到着するという6時間17分の行程であったことを思えば、隔世の観がある。

 
 
東京と金沢の間の陸上交通は、長いこと不便を強いられてきた。

 

直線距離ならば300km程度である両都市の間を、平成27年に開業した北陸新幹線は454.1kmの走行距離で結んでいる。

直線距離がほぼ400kmの東京と大阪の間を東海道新幹線は路線長515.4kmで結び、東京と青森の間の直線距離が約580km、東北新幹線の走行距離が674.9kmなどという数値を見れば、地形や途中駅の位置関係から100kmくらいは直線距離よりも新幹線の距離が水増しされてしまうのはやむを得ないことのようであるけれど、北陸新幹線の直線距離と運行距離の差は、他に比して飛び抜けて多い。

 

ちなみに、羽田と富山の間の航空機の飛行距離は176マイル(282km)、羽田を発着する国内線の中で大島線と三宅島線に次いで3番目に短い。
羽田-小松線の飛行距離も211マイル(337km)で、本来ならば、東京と北陸はそれほど遠くないのである。

 

 

北陸新幹線の路線図を見れば、長野以北で、いったん富山や金沢に背を向けて東側へ大きく膨らむ線形になっている。

この迂回路の内側にすっぽりと飛騨山脈が嵌まり込んでいることから、首都圏と北陸地方の間では、峻険な中部山岳地帯に陸上交通機関が阻まれていることが理解できる。

 

昭和60年代まで、東京から金沢へ向かうためには、上越新幹線で長岡に出て信越本線・北陸本線の特急列車に乗り継ぐ距離520.9km・最速列車での所要4時間03分という東回りの経路と、東海道新幹線の米原から北陸本線の特急列車に乗り継ぐ距離520.3km・最速4時間23分という西回りの経路が、ほぼ拮抗していた。

当時、新幹線に接続する北陸本線の最速の特急列車の愛称が、東回りは「かがやき」、西回りは「きらめき」であったことから、それぞれ「かがやきルート」「きらめきルート」と呼ばれていたらしい。

 

平成7年に東頸城山地を短絡する北越急行線が開通し、上越新幹線の越後湯沢から北陸に向けて特急列車が走り始めると、距離460.6km・最速3時間51分へと短縮された東回りが主流になったが、それでも大回りであることに変わりはなかった。

 

 

昭和40年に、当時の総理大臣も出席した公聴会において、東京を起点として松本を経由し、立山連峰を貫通して富山、金沢、大阪に至る新幹線の建設が提案されたことが、公式な北陸新幹線計画の始まりとされている。

 

運輸省と国鉄がルートを選定するに当たって、飛騨山脈の直下をトンネルで貫通する経路も検討されたものの、火山性地域に特有の高熱の岩盤の存在や、地表からトンネルまでの土被りが最大2000mに達することで生じる大量の湧水、山はねと呼ばれる岩盤破壊などを克服して、全長70kmにも及ぶ長大トンネルを建設することは困難と判断され、信越本線と北陸本線に沿う現ルートでの建設が決定された。

飛騨山脈のおかげで、長野市は新幹線の恩恵を享受することが出来た訳である。

 

 

北陸新幹線の初期構想にあった飛騨山脈横断ルートの周辺で行われたトンネル工事の記録がある。

 

昭和11年に着工して同15年に完成した黒部川第三発電所建設における水路・資材運搬用の軌道トンネルの工事を描いた、吉村昭の「高熱隧道」には、この地にトンネルを穿つことの苛烈さが活写されている。

工事現場の下に横たわる高熱断層により岩盤温度は最高で166度を記録し、触れただけで火傷するほどになる。

水をかけて冷却しながらも、高熱の岩盤によってダイナマイトが自然発火して暴発、雪崩で宿舎が根こそぎ吹き飛ばされるといった事故が多発し、あまりにも犠牲者が多いことを危惧した富山県警が再三に渡って工事中止命令を出すという異常事態にも関わらず、国策として工事は遂行され、史上類を見ないほどの過酷な工事として記憶されることになった。

 

三船敏郎と石原裕次郎の主演で、昭和30年代における黒部第四ダムの建設を描いた映画「黒部の太陽」では、主として異常出水との闘いが中心に描かれていたが、登場人物の人夫頭が過去に携わった工事の回想として「高熱隧道」を彷彿とさせる場面が挿入されている。

 

 

松本から飛騨山脈を貫いて高山方面に抜ける交通路としては、平成10年に完成した中部縦貫自動車道の安房トンネルがあり、一時、松本と金沢を結ぶ長距離バスが運行されていた。

 

安房トンネルは焼岳火山群の活火山であるアカンダナ山の高温帯をくり抜くために、「高熱隧道」の時代よりも技術が格段に進歩しているにも関わらず、大変な難工事だったと聞く。

平成7年には、トンネルの長野県側の取り付け口が設けられた中ノ湯温泉付近で火山性ガスを含む水蒸気爆発が起き、大規模な土砂崩れと雪崩が発生して建設中だった陸橋も破壊されて、トンネル口が位置の変更を余儀なくされるという事故も発生し、犠牲者も出ている。

北陸新幹線が飛騨山脈を避けたのは懸命であったのかもしれない。

 

 
金沢駅で新幹線ホームに駆け上がると、「はくたか」560号は既に扉を開けていたが、僕は足を止めて深呼吸した。
いよいよ北陸新幹線に乗れる時が来たのである。
 
今回の旅では、グリーン車を奢った。
学生時代を過ごした街に錦を飾りたかったのか、家族で特急「白山」に乗る時、父はグリーン車を奮発してくれるのが常だった。
北陸新幹線の初乗りを祝して、東京まで窮屈な思いをせずにゆったりと過ごしたかった、と言うよりも、40年前を偲んでみたいという思いが強かった。
 
 
定刻10時31分に金沢駅を後にした「はくたか」560号は、ぎっしりと詰め込まれた家並みの中からこんもりと盛り上がる卯辰山を左手に眺めて、浅野川橋梁を渡る。
 
卯辰山の標高は141mと決して高くないけれども、金沢市街を一望する景勝地で、桜の名所でもあり、春に金沢に出掛けると決まって花見に連れて行かれたものだった。
卯辰山は、幕末に起きた安政の泣き一揆の舞台としても知られている。
安政5年は冷夏や長雨により米が不作で、買い占めや売り惜しみにより米の価格が高騰していたことから、約2000人の農民が卯辰山に登り、眼下の金沢城に向けて米の開放を大声で訴えたのである。
卯辰山から金沢城までは約1.7km、風に乗った声は金沢城内にいる藩主や重臣に届き、翌日、藩の御蔵米500俵が放出され、米の値段を下げる命令が出される。
しかし、直訴そのものは御法度との建前に従い、首謀者7名が捕縛されて、うち5名が打ち首、2名が獄死するという結末を迎える。
 
泣き一揆は暴力行為がなかったことから、現在のデモに通ずるものがあると言われ、戦国時代の一向一揆で100年間の長きに渡り本願寺門徒が支配する「百姓の持ちたる国」であった歴史と合わせて、加賀国は百万石というばかりではなく、民衆が強い伝統が成熟していた地域だったのだなと思う。
 
 
浅野川は、金沢市内を流れる河川として犀川とともに馴染みが深く、前者は女川、後者は男川と呼ばれているという。
金沢駅を発着する高速バスに乗ると、金沢東ICに向かう東京・新潟・仙台方面のバスは浅野川を渡り、武蔵が辻、香林坊、片町を経て金沢西ICに向かう横浜・千葉・名古屋・京都・大阪・小松空港方面のバスは犀川を渡って、市街地を出て行く。

北陸新幹線でも、車庫のある白山総合車両所へ繋がる区間に、加賀犀川橋梁が架けられている。
女川に喩えられていても、浅野川はなかなかの暴れ川で、昭和27年と28年、平成20年に集中豪雨による氾濫が起き、沿岸のひがし茶屋街や湯涌温泉街が被害を受けている。

 

 

金沢市街から東に向かうと、北陸新幹線ばかりでなく、在来の北陸本線も北陸自動車道も国道8号線も、すぐに山がちな地形になる。
「はくたか」560号は7つのトンネルを次々とくぐり抜けてから、6970mの新倶利伽羅トンネルに入っていく。
 
北陸本線や北陸自動車道、国道8号線でも、倶利伽羅峠は見所の1つであるが、北陸新幹線はトンネルばかりで、いつ峠を越えたのか判然としないまま砺波平野に飛び出し、小矢部川橋梁を渡って、10時44分着の新高岡駅に停車する。
金沢駅から新高岡駅までの39.7kmを、僅か13分しかかかっていない。
 
 
10時53分に着く富山駅までは、トンネルが1ヶ所、神通川をはじめとする橋梁が3本という平坦な地形に変わり、新高岡駅からの距離は18.9km、所要9分である。
11時06分に着く33.8km先の黒部宇奈月温泉駅まで、暴れ川として有名な常願寺川をはじめ、橋梁が断続する平坦な富山平野を貫いていくことになるが、新幹線は地上部分の殆どを高架橋が占めているため、走りっぷりや走行音が変わることもない。
 
1戸ごとにこんもりとした木々に囲まれている散居村が、飛ぶように後方へ過ぎ去っていく。
北陸新幹線は防音壁が高めで、その向こう側が見える区間はそれほど多くない。
沿線に住む人々にとって防音壁が大切であることは理解しながらも、あと少しだけ低ければ、もっと景観が楽しめるのに、と残念に感じてしまう微妙な高さである。
 
 
黒部宇奈月温泉駅が近づくにつれ、地形の起伏が激しくなり、長さ3097mの第2魚津トンネルや1293mの第2黒部トンネルなど、車窓が暗転するトンネル区間の割合が多くなる。
太平洋側の東海道新幹線では、1373mの富士川橋梁、987mの大井川橋梁、1001mの木曽川橋梁など長大な橋梁が目立つのだが、同じく海岸線に沿っていても、北陸新幹線の橋梁は200~500mの橋ばかりで、最長でも、759mの黒部川橋梁が僅かに気を吐いている程度である。
 
 
北陸本線の特急列車に乗ると、飛騨山脈に源を発し、日本海に注ぎ込む幾つもの河川を渡りながら、上流の奥に連なる山並みまで見通せる景観が楽しみだった。
北陸新幹線の工事がたけなわになると、新幹線の橋梁に遮られて飛騨山脈が隠れてしまう鉄橋ばかりになり、車窓から山を眺めるのは北陸新幹線の開業までお預けか、と落胆半分、期待半分という心持ちにさせられた。
 
ところが、この日、せっかく右手に目をやっても、立山連峰は低く垂れ込めた雲に覆われて全貌を拝むことなど叶わず、がっかりさせられた。
福岡から小松への飛行中は快晴だったのに、いつ天候が崩れたのかと思う。
雲に隠れた峰々にはどこか無気味さを感じさせる迫力があり、北陸らしい暗さを帯びた景観である。
 
 
長さ474mの常願寺川橋梁を渡る時には、粛然とする。
 
水源から河口までの距離が56km程度にも関わらず、3000mもの高低差がある世界でも屈指の急流で、明治時代に改修工事のために派遣されたオランダ人技師が、
 
「これは川ではない。滝である」
 
と驚嘆したと伝えられている。
同時期に内務大臣へ提出された富山県知事の上申書にも、
 
「川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」
 
と書かれ、常願寺川という名の由来は、様々な説があるものの、氾濫が起きないよう常に願っていた地元の人々の追いつめられた心境を反映しているとの説もある。
 
江戸時代末期の飛越地震により、上流部の立山カルデラで大規模な山体崩壊が発生した時には、土石流により下流域が大量の土砂によってことごとく埋め尽くされ、最大で直径6.5m、重さ400tもあるような大転石と呼ばれる巨石が、今でも富山平野に点々と残されている。
水源地から流出した土砂により、下流では河床が地盤より高い天井川を形成したことで、明治期の45年間に41回もの洪水・土砂災害が発生し、多大な被害をもたらしてきた。
 
 
常願寺川の治水事業は、16世紀に佐々成政が富山城下を守るために佐々堤と呼ばれる堤防を構築したのが始まりとされ、江戸時代に富山藩主前田利與が洪水対策として植えさせた水防林も、殿様林として現存している。
明治25年には、常願寺川を滝と称したオランダ人技師の指導で新しい流路が開削され、河口付近で合流していた常願寺川と白岩川が分離された。
 
昭和24年から昭和42年にかけて大規模な河床掘削工事が行われ、現在では天井川はほぼ解消されている。
一方、上流の立山カルデラにたまった土砂は約2億立方メートルにも及び、全てが流出すると富山平野全体が平均2mもの土砂で埋め尽くされると試算されたことから、明治39年に始まった砂防工事が、現在も営々と続けられている。
暗い雲の下に険しい山裾が覗く常願寺川の上流に目を向け、気の遠くなるような自然と人間とのせめぎ合いについて、ふと思いを馳せた。
 
 
黒部宇奈月温泉駅と糸魚川駅の間では、飛騨山脈に連なる山塊が海岸までのし掛かっている峻険な地形を越えて行かなければならない。
有名な親不知も、この区間にある。
 
京から越後に向かう道中で、連れていた子供を波にさらわれた平頼盛の妻が、
 
親知らず 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く
 
と悲嘆にくれて詠んだ歌から名付けられた、北陸道随一の難所である。
 
思い浮かぶのは、幼い頃、父が運転する車で金沢を往復するたびに、目も眩むような急峻な崖の中腹を、トンネルや洞門が連続する狭隘な道路で越えていく国道8号線の記憶である。
黒煙を排気管から吐き出しながら、坂道でみるみる速度が落ちてしまうような巨大なトラックばかりが狭隘な道路にひしめき、大変な難所であることが子供心にもひしひしと感じられて、込み上げてくる恐ろしさに耐えながら車窓に見入ったものである。
 
 
平成元年に開通した北陸自動車道は、親不知を迂回し、海上に張り出した高架橋で越えている。
その橋脚の影響で海流が変化して崖が削られてしまい、旅人が命がけの思いで越えた砂浜は、跡形もなく消えてしまったという。
 
特急「白山」で行き来する場合には、車よりも安心感があったけれど、トンネルの合間に、無数の白い波頭を浮かべた海面が眼下に遠ざかっていく光景には、何度通っても息を飲んだものだった。
落石防止や防雪の設備なのか、トンネルの出入口に設けられている仕切り板が、一定間隔で格子のように貼られていて、高速で疾走する特急列車の窓から眺めると、日本海の青い海原や沿線の緑の木々がコマ送りの映画のように見える区間があったことが、今でも印象深く思い起こされる。
 
 
北陸新幹線も、この区間では在来線や国道と同じく海岸近くを通るより他になく、長さ7510mの朝日トンネル、7336mの新親不知トンネル、1747mの歌トンネル、4300mの青海トンネルと長大トンネルが並ぶ。
 
どのような車窓を見せてくれるのか、他の区間と同様に、かつての難所の気配など微塵も感じさせず通り過ぎてしまうのか、窓に目を釘付けにしていたのだが、次の瞬間、僕は思わず腰を浮かせた。
まさか、と思った。
錯覚だったのではないか、と自分の眼を疑いたくなるほど瞬間的な邂逅であったものの、在来線と同じく、コマ送りのような箇所が、北陸新幹線にも確かに存在していたのである。
 
 
平成7年にJR大糸線や国道を長期不通にした711水害をはじめ、幾度となく氾濫の歴史を繰り返してきた姫川の河口にある糸魚川駅には、11時20分に着いた。
糸魚川の名は、暴れ川を意味する厭い川が由来とする説もあると聞く。
 
これより先の北陸新幹線は、東から南へ向けて大きく弧を描き、日本海から離れて内陸に向かう。
長さ3951mの高峰トンネル、7035mの峰山トンネル、6777mの松ノ木トンネルなど、ひたすら真っ暗な車窓に耐えているうちに、「はくたか」560号は11時29分着の上越妙高駅に停車し、日本海に沿う旅は1時間足らずで終わりを告げてしまう。
この駅はかつての信越本線脇野田駅で、直江津駅から10kmほど内陸に位置している。
 
 
北陸新幹線は、関川に沿って南下し、妙高山、黒姫山、戸隠山、飯縄山、斑尾山から成る北信五岳の山裾を通る信越本線や国道18号線と袂を分かち、東に大きく逸れながら、飯山盆地に抜けていく。
上越妙高駅から長野県最初の駅である飯山駅まで、「はくたか」560号は12分で駆け抜けてしまう。
 
糸魚川までの暗い空模様と山並みが嘘のように、青空が広がって山々の緑が鮮やかに眼に浸みる。
早くも秋の気配が感じられた北陸路とは様相を大きく異にして、真夏の残滓を色濃く残す信濃路への変化は、劇的だった。
 
 
信越本線や国道18号線が越えていく妙高高原町と信濃町の間における信越国境は、新潟県と長野県の段差をそのまま反映したような急峻な斜面で、スノーシェッドが断続する九十九折りの山道を這うように登り下りする国道は、親不知に勝るとも劣らない難所に感じられたものだった。
昭和53年には関川の支流である白田切川の土石流により、信越本線が不通になるという被害も出ている。
 
北陸新幹線が、頸城平野から国道292号線に沿って飯山盆地に抜ける経路であることを知った時には、そのような信州への入り方があったのか、と蒙を啓かれる思いがした。
このルートも決して平坦という訳ではなく、北陸新幹線では最長、日本の鉄道山岳トンネルとしても東北新幹線の八甲田トンネルと岩手一戸トンネルに次ぐ3番目の長さを誇る、全長2万2251mの飯山トンネルが穿たれている。
 
「はくたか」560号は信越国境を10分もかけずにすんなりと通過してしまうのだが、飯山トンネルは、幾重にも折り重なる褶曲構造や、膨張性の泥岩の存在といった複雑な地質により、「ここはトンネルを掘ってはならない場所です」と専門家がコメントしたという北越急行線鍋立山トンネルと同様の難工事になったと聞く。
メタンガスの発生や地山の膨張に次々と見舞われ、平成15年9月11日には大規模な崩落が発生して直上の地表部分まで直径190m、深さ30mに渡って陥没、土砂により重機などが500mも押し流されてしまう。
8年の歳月を費やして完成した飯山トンネルの工事を請け負った建設事業者は、「超膨張性と高圧帯水層を有する特殊地山に適したトンネル施工技術の確立」により、平成20年の土木学会技術賞を受賞している。
 
 
JR飯山線だけが発着していた時代とは見違えるように豪勢な駅舎に変貌しながらも、ひっそりとして乗降客があったのかすら定かではない飯山駅を過ぎると、742mの第5千曲川橋梁を渡って千曲川の東岸に出る。
 
4278mの高社山トンネルと6944mの高丘トンネルをくぐり抜ければ、善光寺平である。
信越本線豊野駅の手前にある第4千曲川橋梁で千曲川の西側に戻ると、列車は、一面に広がるリンゴ畑の中を長野市に入っていく。
夜間瀬川が開いた傾斜地の扇状地を眺め、東に志賀高原と菅平の山並み、西に飯綱山と地附山まで広く見渡す高架からの眺望は、どれもがこよなく懐かしい。
長野電鉄線を朝陽駅と信濃吉田駅の間で跨ぎ越し、新幹線が信越本線の敷地に割り込むあたりは、幼少時から見慣れた建物が少なからず残されていて、長野電鉄を使って通学していた数十年前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ってしまう。
 
長野駅の手前で、市街地越しに見える旭山も、子供の頃から何度も登った馴染みの山だから懐かしい。
こちら側から見ると、旭山はこのような形に見えるのか、と思う。
長野市の北東部から旭山を眺めるのは、高架の北陸新幹線ならではの視点であった。
故郷に帰って来たな、と思う。
 
 
金沢から228.1km、1時間26分の道中を経て、「はくたか」560号は、定刻11時57分に長野駅へと滑り込んだ。
特急「白山」では、金沢と長野の間に3時間半を要していたことを思えば、驚異的な時間短縮である。
 
「はくたか」の名を持つ列車が長野に停車するのは、実に46年ぶりのことであった。
昭和36年に大阪から青森と長野経由で上野に向かう分割編成の特急「白鳥」が登場し、昭和40年に上野編成が「はくたか」として独立、昭和44年に上越線経由に変更されるまで長野駅を出入りしていた。
昭和57年の上越新幹線開業時にいったん廃止されたものの、平成9年の北越急行線開業に伴い、上越新幹線に接続して越後湯沢と金沢を結ぶ特急列車名として復活している。
 
北陸新幹線の列車名を公募した結果、「スピード感があり首都圏と北陸をつなぐ列車として親しまれているため」という理由で第1位となり、「かがやき」は第5位であったという。
北陸新幹線の初乗りとして「はくたか」を選んだのは、むしろ伝統に則ったことと言えるのかもしれない。
 
 
僕が贔屓にする「白山」は、昭和29年から上野と金沢を長野経由で結ぶ急行列車としての歴史を持ち、昭和47年に特急へと昇格するものの、平成9年の長野新幹線開業で廃止されてから20年近いブランクがあるので、知名度が劣るのはやむを得ない。
 
長野には、富山、金沢と同じく北陸新幹線の全列車が停車する。
JR西日本とJR東日本の境界である上越妙高駅に停まらない速達列車もあるので、長野駅で両社の乗務員が交替するのである。
国鉄時代から、長野を通過する列車は1本もなく、そのことを心中誇りにしていた僕は、北陸新幹線では長野を通過する列車が登場するのではないかと危ぶんでいたので、胸をなで下ろした。
 
 
大いに喜んでいいことなのに、胸中に隙間風のような虚しさが込み上げてくるのは、如何ともし難かった。
 
病気のために1人暮らしが難しくなった母が、入院していた長野市内の病院から、弟が勤める金沢の病院に転院したのは、平成25年9月のことである。
母を乗せた弟の車が病院を出発するのを見送ると、強い寂寥感が込み上げてきて、思わず涙がこぼれそうになった。
故郷から母がいなくなるという事態は、それまで予想もしなかったことであった。
あたかも、故郷そのものを失ってしまったかのような心細さだった。
母が長野に帰って来られる可能性がないことも分かっていた。
 
その8ヶ月後の平成26年5月に、母は金沢で生涯を閉じる。
 
 
長野駅の構内を出た直後に、「はくたか」560号は裾花川の橋梁を渡る。
在来線では、鉄橋でガラガラと走行音が変化したものだったが、新幹線の車内は静まり返ったままである。
長野県庁の大きな建物が顔を覗かせている、上流方向の光景だけは変わっていない。
長野から東京に戻る時、県庁のすぐ近くにある実家の窓から手を振って見送ってくれた母の姿を思い浮かべ、1人暮らしをさせている親不孝を詫びながら、頭を垂れるのが常だった。
 
上野行きの在来線特急「あさま」や「白山」の時代も。
東京行き長野新幹線「あさま」の時代も。
 
ようやく、北陸新幹線「はくたか」に乗って金沢と長野を行き来できる時代を迎えたのに、母はこの世にいない。
北陸新幹線の金沢開業を迎えて、真っ先に心に浮かんだのは、父や母、妻を乗せてあげたかったということだった。
母を見舞いに金沢を往復していた数年前、北陸新幹線があれば便利なのに、との思いを抱くと同時に、開業まで母に生きていて欲しいと心から祈っていた。
叶わぬ願いと知りつつも、母を北陸新幹線に乗せて長野に連れ帰ってあげたかった。

 

言っても詮ないことと分かっているものの、北陸新幹線がもっと早く金沢に伸びていれば、身体が弱かった妻を母の所に連れて行くことも出来ただろうに、それも叶わなかった。

 
 
長野駅を出た「はくたか」560号は、そのまま在来線の敷地に建てられた高架を走り続けるので、善光寺平の眺めは「あさま」や「白山」と同じである。
 
青々と広がる水田の向こうに、筑摩山地の山並みが連なっている。
信越本線の列車ばかりではなく、国道18号線を走る車からも何度も目にした、僕の原風景とも言うべき景観である。
父と母、そして妻が眠る墓は、その山々に抱かれている。
肉親が誰もいなくなっても、信州の山河には、家族や友人との思い出がぎっしりと詰め込まれている。
 
身を置いて心が最も安らぐ場所が故郷であるとするならば、僕にとっての故郷はやはり長野市しかない、と思う。
 
 
518mの犀川橋梁、552mの第3千曲川B橋梁で瞬く間に川中島の三角州を走り抜け、五里ヶ峯トンネルに突入して車窓が暗転すると、善光寺平ともお別れである。
 
長野駅と上田駅の間の33.3kmのうち、半分近い1万5175mを占める五里ヶ峯トンネルは、 長野新幹線の開業当時で最長、国内トンネルでも5位の長さを誇っていた。
県内でも人口が稠密なこの区間に、これほど長大なトンネルが設けられたことは驚きであった。
在来線が走る千曲川沿岸は人家が密集していて、市街地を避けて新幹線を新たに建設するためには、北側に外れた山中を選ぶより他に方法がなかったのであろう。
 
長野新幹線は、平成10年の長野冬季五輪開催に向けて着工が決定したという経緯から、着工から3~4年で開通させる必要に迫られていた。
このため、五里ヶ峯トンネルは通常の2倍の6基に増やした大型削岩機を活用した急速施工システムを採用し、月100mすら難しいと言われている掘進速度が平均150m、平成6年10月には281mを記録するという突貫工事であった。
 
 
長野まで各駅停車だった「はくたか」560号は、12時40分着の高崎までノンストップとなり、第1・第2千曲川橋梁で千曲川とからむように進む塩田平と佐久平、そして白樺の木立ちの合間に別荘やペンションが垣間見える軽井沢すら、見向きもせずに通過してしまう。
長野県内を乗降する客は、長野新幹線時代と同様に「あさま」を御利用下さい、ということなのだろう。
 
 
平成9年に長野新幹線が開業した時には、1往復だけであったが、東京10時20分発・長野11時39分着という、全区間無停車の「あさま」3号が設定されていた。
当時のキャッチコピーである「最速79分」とは、この列車を指していて、上りの最速は、大宮だけに停車する所要1時間23分の列車だった。
 
起終点以外に停まらないという破天荒な列車は新幹線史上初の存在で、長野の出身者としてはこの列車を是非とも体感してみたくなり、1度だけ利用したことがある。
 
東京を発車すると、
 
「次は終点の長野です」
 
という素っ気ないアナウンスが流れただけで、当然のことながら、途中駅で客室を出入りする乗降客の騒々しさもなく、静けさだけが支配する車内で、新幹線というものは、案外、勇ましく走るものなのだな、と当時のE2系車両のモーター音の唸りに耳を傾けながら過ごしていた。
 
車内には空席が目立ち、次のダイヤ改正でノンストップ列車は姿を消したと記憶しているが、北陸新幹線が金沢まで開業した時には、速達列車の「かがやき」に、大宮のみ停車して長野まで停まらない列車が何本か登場し、現時点では「かがやき」509号の東京10時24分発、長野11時44分着、所要1時間20分が最速である。
 
 
長野と群馬県境の碓氷峠は、在来線では全ての列車に補助機関車EF63型機を連結しなければならない66.7‰という我が国最大の急勾配区間であったが、従来の新幹線規格である12‰で建設するためには、70kmもの迂回をする必要があった。
鉄道建設公団は、高崎と長野を最短で結ぶ鳥居峠経由の長野原ルートを検討したが、活火山である白根山に長大トンネルを建設することは不可能であった。
高崎から信越本線松井田駅の上空を高架橋で通過し、国道18号線碓氷バイパスと国道254号線内山峠の間にそびえる物見山にトンネルを穿ち、佐久へ抜ける南回りのルートも検討されたものの、年間80万人もの観光客が訪れる軽井沢を経由しないという難点があったことから、結局は、信越本線の北側を山伝いに30‰の勾配を設けて軽井沢へ向かい、中間に1km程度の水平部分を造って安中榛名駅を置く現在のルートに変更された推移がある。
 
軽井沢駅のホームをかすめた「かがやき」560号は、すぐに6092mの碓氷峠トンネルに入り、6165mの一ノ瀬トンネル、8295mの秋間トンネルなどを続け様にくぐり抜けながら、大して傾斜を感じさせない軽やかな走りっぷりで関東平野まで降りていく。
軽井沢から安中榛名まで10分とかからず、飯山トンネルから碓氷峠トンネルまでの120kmに及ぶ信州横断に費やされたのも、たった40分足らずであった。
 
 
「便利になったもんだねえ、大したもんだよ」
 
不意に、母の呟きが耳元で聞こえたような気がした。
 
「速いね。あっという間じゃん」
 
という妻の声も。
 
「はくたか」560号のグリーン車の座席を向かい合わせに回転させて、家族で乗っている光景が脳裏に浮かび上がったのは、白日夢だったのか。
 
父が乗り物に対して感想を述べた記憶がないので、どのような言葉を発するのか想像もつかない。
無口に車窓を見つめるだけであったのかもしれない。
それでも、学生時代を過ごした街と故郷が、新幹線によって短時間で結ばれたことを、父が喜ばない筈はない。
今回の旅で、確かに、僕は父や母、妻と一緒に北陸新幹線に乗ったのだ、と思った。
 
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
 
僕のかけがえのない「ふるさと」信州を駆け抜け、真夏の陽射しが眩しい昼下がりの関東平野をひた走る「はくたか」560号の旅も、13時28分に帰り着く「遠きみやこ」の東京駅まで、残り1時間たらずとなっていた。
 
 
 
ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>