蒼き山なみを越えて 第64章 平成27年 北陸新幹線「はくたか」~前編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

新宿駅西口地下街にあるカレー専門店「イマサ」は、馴染みの店である。


30年も前の話であるが、僕が通った昭和大学教養学部が富士吉田市にあり、新宿西口高速バスターミナルを発着する中央高速バス富士五湖線を使って行き来したものだった。
バスターミナルへの入口に近い「イマサ」のカレーは、休日を東京で過ごしてから、高速バスで富士吉田に帰る前の、格好の夕食であった。
 

あらかじめ食券を買う方式なのだが、入口の食券売り場のおっさんが、
 

「チキンです!」
「ジャーマンです!」
「ポークです!」
 

と、店中に響き渡る野太い声で、客の選んだカレーを厨房に伝えていた。
 

 

平成27年の初秋、人混みでごった返す新宿駅西口地下街を歩いていた僕は、イマサの前でふと足を止めると、吸い込まれるように店内に入ってしまった。
カレーなど食べるつもりではなかったのだが、どうも、ここを素通りすることは難しい。
 

いつからなのか、入口のボックスはなくなっていて、自動券売機で食券を買う。
どうして自分が食するメニューを店内にいるお客さんに晒さなければならないのかと、以前は首をすくめていたものだったが、消えてしまうと、それはそれで寂しい。
違う店に来てしまったかのようである。
 

だが、カレーをスプーンですくえば、30年間変わらない味が口の中いっぱいに広がった。
味覚の記憶とは不思議なものだと思う。
タイムスリップのように、一瞬にして時が短絡する。

 

 

大いに満足しながら店を出て、地下商店街の雑踏から外れた安田生命第二ビルの奥まった階段を昇れば、新宿高速バスターミナルに出る。
30年前に頻繁に利用していた中央高速バス富士五湖線は、もちろん健在である。
その営業距離は100kmあまりに過ぎないが、この日は、10倍を超える距離を走るバスに乗る予定だった。
 

新宿発福岡行き夜行高速バス「はかた」号は、21時ちょうどの発車である。
開業は平成2年10月のことで、四半世紀も走り続けているのかと、時の流れの早さに驚いてしまう。
 

 

当時の「はかた」号は、東京-福岡間1161.1㎞を、中央自動車道・名神高速道路・中国自動車道・九州自動車道を経由し、15時間10分もかけて結ぶ、誰もが度肝を抜かれた日本最長距離路線バスであった。
 

最初は、東京側を京王バス、福岡側を西日本鉄道バスが担当し、新宿発17時00分(京王)・19時45分(西鉄)、福岡発16時45分(西鉄)・19時45分(京王)の2往復が運転され、新宿と福岡の間に途中停留所は設けられていなかった。
2人の運転手が約2時間おきに交替していく方式で、それでも、片道で1人あたりの運転時間の総計は7~8時間、距離にして600km近くに及ぶ。
 

 

平成11年1月に京王バスが運行を取りやめ、西鉄バスだけが1往復するようになった。
1000kmを越える長距離バスを毎日走らせるということは、やはり、様々な困難があるのだろうと思う。

現在では、新宿発21時00分・福岡着11時17分、福岡発18時50分・新宿着9時25分というダイヤで運行されている。
加えて、平成24年12月からは、北九州市内の黒崎・砂津・小倉にも停車するようになった。
 

開業当時の高速バスでは最も定員が少なく、シート間隔を広げた23人乗りスーパーハイデッカーが用意され、最後部にはサロンスペースまで設けられていた。
平成21年に、横2列のプレミアムシート・横3列のビジネスシート・横4列のエコノミーシートと3クラスの座席を設けた2階建てバスが登場している。
 

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この頃から、「はかた」号は、格安の高速ツアーバスやLCCの攻勢に悩まされ始め、次々と梃子入れ策が講じられていた。
高速ツアーバスはともかく、LCCの影響を受けるとは、某テレビ番組で「キング オブ 深夜バス」の称号を与えられた超長距離バスだけのことはある。
高価な鉄道や航空機と、廉価なバスという棲み分けが破られて、一時期、「はかた」号の役割は終わった、などとも囁かれた。
 

それでも、「はかた」号は踏ん張った。
まず、平成4年から9年にかけての部分的な延伸に合わせて、少しずつ、山がちで速度が出しにくい中国道から山陽自動車道に乗せ替えた。
続いて、平成24年に中央道から東名高速道路へ、平成26年には新東名高速道路へと経路を変えてスピードアップを図り、名神高速の一部区間を伊勢湾岸自動車道・東名阪自動車道・新名神高速道路経由の直線に近いコースにすることで、営業距離を1141km、所要14時間17分まで縮めているのである。
 

 

平成26年12月には、5年間走り続けたダブルデッカーが隠退し、個室タイプのプレミアムシートと、横3列のビジネスシートの2クラスに絞った車両が投入されて、現在に至っている。
 

高速バスファンとして、様々な高速バス路線を経験したいと思っている僕が、同じ路線に乗り直すことは珍しい。
僕は、開業の1週間後に、新宿から福岡まで「はかた」号の一夜を過ごしている。
また、大宮から池袋と横浜を経由して福岡へ向かう、横4列席だけの格安便である「Lions Express」号も、平成25年に利用してみた。

 

 

3度目の東京から福岡へのバス旅になる訳だが、再び「はかた」号に乗ろうと思った理由は幾つか挙げられる。
 

まずは、北九州市内を経由する、3年前からの新しいルートを経験してみたい。
東京と福岡の間を直行するだけでも大ごとであるのに、高速道路をいったん途中で降りて寄り道し、それでもなお、僕が乗った頃より1時間も所要時間が短くなっているという走りっぷりを、実際に味わってみたかった。
 

前に乗車したのは京王バスの便で、平成11年以降も運行を続けている西鉄バスの車両に乗ったことがなかったことも、理由の1つである。
他の人からすれば、同じ経路を通って目的地に運んでもらえるのだから、どの会社のバスに乗ろうが構わないじゃないかと思われるであろうし、僕もそのように考えていた。

だが、京王バスより西鉄バスの方が、スリーピングシートの構造やプライベートカーテンの設置などで、乗り心地に軍配が上がると噂されていた。
今や一般的となった、個々の座席を仕切るカーテンを、我が国で初めて取り入れたのが「はかた」号西鉄便である。
当時、様々なメディアで取り上げられたのも、西鉄の車両ばかりだった。

 

 

京王バスも、定員23名の特別車両をあつらえており、個室カーテンはなくとも、何の不満も感じなかった。
9年あまりで消えてしまった京王便に乗った経験は、逆に貴重であったと思っている。
それでも、日本一豪華なバスとの呼び声が高かった西鉄便を未体験であることが、ずっと心に引っかかっていた。
 

その後、サロンが廃止されて定員が26名に増え、普通の夜行バスと大して変わらないじゃないかとがっかりしてから、再度「はかた」号に乗ろうという意欲は失せてしまっていた。
3種類の座席を備えたダブルデッカーが投入された時に、ちょっぴり心が動いたけれども、乗るまでには至らなかった。
 

 

決定的に僕の心を揺さぶったのは、現在の3代目の車両の登場である。
 

今回の旅の前年に、東京と徳島を結ぶ海部観光の夜行高速バス「マイフローラ」号で一夜を過ごした。
「現代の寝台特急」を謳い文句に、定員を12名に抑え、全席がコンパートメント仕様となっている極上の車内にすっかり魅入られて、9時間あまりの旅が終わった時には、乗り足りない気がしたものだった。
最新の「はかた」号には、プレミアムシートと銘打って、わずか4席ではあるものの「マイフローラ」号と同様の個室が備わっていると言う。
 

俄然、乗りたくなった。
14時間もの長い乗車だからこそ、忘れがたい個室の乗り心地を心ゆくまで味わえるはずである。
 

 

問題は、個室が1便あたり4席だけと、大変に狭き門であることだった。

乗車の2~3週間前に、九州の高速バスの予約ができるネットの「@バスで」を検索してみたが、購入可能だったのは横3列のビジネスシートばかりであった。
発売直後に完売してしまうのだろうと、一度は諦めかけた。
 

ところが、もしやと思って、京王バス系列が運営する座席予約システム「Highwaybus.com」を開くと、プレミアムシートが1席だけ予約可能と画面に浮かび上がってきたのである。
逸る気持ちを抑え、日付や上下便の区別を間違えていないか丹念に確認しながら、無事に予約を入れ終わった時には、天にも昇る心地だった。

 

 

僕は、この日、福岡に行かなければならなかった。

2ヶ月前に妻を亡くした僕は、妻の生前の願いに基づいて、分骨をしていた。

信州にある我が家の墓と、妻が大好きだった東京の自宅の仏壇、そして妻が10歳の時に死んだ母親が眠る福岡の墓。

分骨の際にも福岡の埋葬に出向いたのだが、今回は、福岡の実家で執り行われる法事に出席することになっていた。

 

妻を亡くした心の痛みは、時間が解決してくれる、それまで耐えるしかない、と思っていたが、2ヶ月が経過しても癒されるどころではなかった。

前回の福岡行きは、妻の父親が同行して気が紛れたものの、今回は1人である。

母が2年前に亡くなる前に何度も見舞いに出掛けた時は、大好きな高速バスの旅が、どれほど僕を力づけてくれたことか計り知れない。

知らず知らずのうちに涙がこぼれてしまう時もあるので、個室の存在はありがたかった。

 

 

カレーの夕食を摂り、14時間を車中で過ごすための細々した買い物を忙しく済ませた僕の前に、「はかた」号はのっそりと巨大な姿を現した。
先代の車両には「HAKATA」のロゴが大書されていたが、今は 「Line connecting Hakata with Tokyo」との表記に変わり、そのような言い回しもあるのかと感心した 。
デザインは岡本太郎によるもので、太陽の塔が描かれている。
最近まで、この図案が太陽の塔と分からず、跳ねる波の上にラッコか何かが仰向けに戯れているものとばかり思っていた。
ダブルデッカーの時代に岡本太郎氏のデザインは消えてしまったが、最新の車両で復活したのである。
 

「お待たせ致しました。21時発小倉・福岡行き『はかた』号を御利用のお客様は、2番乗り場までお越し下さい」
 

路地に響き渡る案内放送に導かれて、背の高いスーパーハイデッカーの車体を見上げれば、煌々と明かりが漏れる窓越しに、車内前方に位置する個室の内部が丸見えだったから、否が応にも旅の期待が高まる。
 

 

携帯画面で乗車票を提示する方式で改札を済ませ、勇んで車内に乗り込めば、通路の両側が壁で仕切られて、それぞれ個室への入口が開いている。
奥に並ぶビジネスシートとは、扉とカーテンで画然と隔てられ、あたかも航空機のエコノミーとファーストクラスに似た区別が、かえって気恥ずかしく感じるくらいだった。
 

僕が指定されたのは、前から2番目の右側の席であった。
仕切りの内側には、幅70㎝とソファーのように広々とした、本革造りのシートが鎮座している。
リクライニングの角度は最大160度近くもあるという。
 

 

壁に備えられたスイッチを操作して、電動式の背もたれをいっぱいに倒し、レッグレストを上げれば、ベッドに限りなく近い座り心地だった。
身長175cmの僕がいっぱいに身体を伸ばしても、まだ余裕があるシートピッチである。
座席にはマッサージ機能までついているから、身体の凝りをほぐすことも出来るのだが、さすがにそれは要らないよな、と苦笑しながら試用に止めた。
 

「マイフローラ」号との差異は、フットレストがないことだった。
レッグレストを水平になるほどに上げて足先を浮かせて寝ようか、それとも少々下げ気味にして、備え付けのスリッパを履いて足を床に置こうかと迷ったが、足先が宙ぶらりんになる姿勢は何となく落ち着かず、結局は足を床につける方を選んだ。
 

網棚は前後とつながっているが、プライベート・カーテンの内側だから、貴重品も安心して放り上げておける。
 

 

前の壁の物入れには、鎖で繋がれたiPad mini3が置かれていた。
試しにいじってみたが、操作方法がよく分からず、コンセントで充電しながら自前のスマートホンやタブレットを楽しむことにした。
最近の高速バスは、充電用のソケットがついていることが多く、とても助かる。

それだけ、人々はスマホを手放せなくなっているのだろう。
 

発車後に回ってきた交替運転手さんから、アイマスクとウェットティッシュまで配られて、まさに至れり尽くせりである。
国鉄の寝台特急列車のA個室寝台を利用した時に、ブルートレインのヘッドマークがデザインされたタオルが用意されていたことを思い出した。
「はかた」号で配られたグッズはオリジナルではなく、市販品であったのは、コスト面からやむを得ないのだろう。
 

 

様々な設備を点検しているうちに、定刻21時きっかりに発車した「はかた」号は、狭い路地の人混みを掻き分けて、夜の副都心へ滑り出した。
 

25年前は、甲州街道から初台ランプで首都高速道路4号線の高架に上がり、中央道へ向かったが、新しい経路では、甲州街道から山手通りへ左折し、初台南ランプから中央環状線の山手トンネルへ潜り込んでいく。
平成27年3月に全線が開通した山手トンネルの総延長は1万8200mにも及び、高速道路としては世界一、一般道を含めてもノルウェーのラルダールトンネルに次いで2番目であるけれど、「はかた」号が通るのはごく一部の区間に過ぎない。
 

 

ぐるぐると螺旋状に首都高速3号線の高架へ登っていく大橋JCTは、新しい渋滞の名所で、抜け出すのに10分ほどを要した。
前途迂遠であるにもかかわらず、旅の鳥羽口で引っかかっていて果たして大丈夫なのか、と不安に駆られる時間がじりじりと過ぎていく。
 

切羽詰まった用事を抱えて高速バスには乗らないように心掛けているのだが、この日ばかりは、福岡に到着する2時間後の午後1時までに、姪浜まで行くことになっていた。
航空機や新幹線にしようかとも迷ったが、思いがけなくも簡単に「はかた」号のプレミアムシートが予約できてしまったものだから、その魅力にはどうしても勝てなかった。
早起きして羽田空港や東京駅に行くよりも、前夜から夜行に乗っていた方が楽に感じる性格である。
 

万が一、大幅に遅延した場合には、1時間前に寄る小倉駅で「はかた」号を乗り捨てて、新幹線で先行する策も検討した。

 

 

ようやく登り詰めた高架道路から見下ろす東京の街並みは、すっかり夜の帳に包まれていた。
 

まだ明るい午後5時の発車だった25年前と比べて4時間も遅い運行ダイヤであるから、何かと勝手が違う。
前回は、中央道で山梨、長野、岐阜の3県に横たわる脊梁山脈を横断してから名神高速に出るという、なかなか躍動感に溢れた前半部分であった。

日が暮れたのは甲府のあたりではなかったか。
25年後の「はかた」号の車窓が映し出すのは、次々と後方へ飛び去っていく道端の木立ちや中央分離帯の茂みの黒々としたシルエット、そして、矢のように視界をかすめる対向車のヘッドライトだけである。
 

暗い窓外を眺めながら、何もすることがないという時間は、退屈と言えないこともないけれど、目まぐるしい日常と比べれば誠に貴重である。

仕事で気が紛れるのは救いであったが、妻のことを敢えて忘れようとしているのではないか、という罪悪感が拭いきれないという、不安定な心境の日々だった。

「はかた」号ならば、妻のことを偲ぶ時間がたっぷりとある。

 

 

身体が弱く、公共交通機関を選ぶならば、出来るだけ乗車時間が短い航空機か、もしくは自家用車を好む傾向があった妻であるが、「はかた」号を利用したことがある、と聞いて驚愕したことを思い出した。

安いから選んだ、と言うので、LCCが登場するより前の社会人になったばかりの頃と推察したが、詳しくは語りたがらなかったので、良い思い出ではなかったのだろうな、と察して、詳しくは聞かなかった。

 

ところが、結婚直後の頃に、妻と福岡の実家に出掛けようとして航空機のチケットが取れず、妻が高速ツアーバスの利用を提案したことがあった。

 

「バスでいいじゃん。安いし、それしかないもん」
 

などと楽観的で、加えて我が家の財務大臣としての発言でもあったので、おやおや、と首を傾げた。

 

その時は「はかた」号も満席で、予約したのは「OTBライナー」の横4列シートのバスで  1人9000円であった。

平成13年から高速ツアーバスを主催していた老舗の旅行会社オリオンツアーが、「OTBライナー」と名乗る都市間高速ツアーバスを全国展開していた。

その1つに、東京と福岡を結ぶ路線があり、途中で山口を経由するので、所要時間が「はかた」号よりも長かった。
下り便は、東京駅八重洲口の南にある鍛冶橋駐車場を20時15分に発車し、新宿(新宿センタービルの「高速バス西新宿」乗り場)を21時00分発、そして、新山口駅北口に翌朝9時40分、小倉駅新幹線口に11時00分、終点の博多駅筑紫口 には12時10分に到着する。
終点への到着は、ほんの少しだが、午後になるのだ。
上り便は、博多駅を18時30分、小倉駅を19時50分、新山口駅を21時20分にそれぞれ発車して、新宿には10時00分に到着し、東京駅八重洲口鍛冶橋駐車場には行かないようである。
 

HPで、横3列シートのバスと横4列シートのバスの2種類が掲載されているが、検索すると、横4列席のバスがヒットすることが多かった。

 

 

別の高速ツアーバスとして、大阪に本社を置く旅行会社ロイヤルホリデーが運行する「ロイヤルエクスプレス」が、東京と北九州・福岡を結んで夜行で運行されていた。

下り便は、東京駅八重洲口鍛冶橋駐車場を20時15分に出発し、新宿住友ビルのWILLERバスターミナルを21時00分発、横浜YCATを22時00分発、そして小倉駅新幹線口には翌朝10時15分、博多駅筑紫口11時30分、終点榎田ロイヤルバス車庫には11時55分に着く。
上り便は、榎田車庫17時30分発、博多駅18時00分発、小倉駅19時20分発で、翌朝は横浜には寄らずに、新宿8時20分、東京鍛冶橋には9時ちょうどの到着となる。
横3列シートのバスが用意されているようであったが、こちらは満席だった。

 

どちらのバスも、鍛冶橋駐車場を発着したり、新山口駅を経由していることで、新宿発小倉経由福岡行きの「はかた」号よりも長い距離を走っている可能性がある。

妻が耐えられるのかどうか、とても不安になった。
「新高速乗合バス」制度に移行する前であり、安いからという理由だけで選ぶことに、安全性で躊躇いがあった。
 

結局は飛行機を手配することができ、僕は、胸をなで下ろしたのである。
 

 

入口のカーテンを閉め、リクライニングを目一杯に倒し、レッグレストを上げて、バスの揺れに身を任せれば、これだけの広い空間を独り占めできる開放感と安心感は格別である。

日中の疲れも手伝って、眠気が頭の中に膜を張るように押し寄せてくる。
他人の様子を気にかける煩わしさがないのは、何よりもありがたい。
雑事に追われることが多い日々の隙間に、ぽっかりと生み出された、ひと晩の気ままな時間を、妻と乗っているつもりになって、せいぜいくつろいで過ごそうと思う。
 

ただ、周囲に相客の姿が見えないという状態に、ふと、孤独を感じることもある。
そうなれば、買い込んだビールをあおって、気分を誤魔化す他にない。
 

 

御殿場ICを過ぎると、「はかた」号は、新東名高速道路にハンドルを切った。
途端に、揺れが全く感じられなくなり、バスの走りがビシッと安定する。
幾筋ものライトが流れる旧東名高速が右側を少しずつ離れていき、「はかた」号が走る連絡路の高架をくぐり抜けて、視界から消えた。

奥まった山中を貫く新しいハイウェイを包む闇は一段と深く、夜空との境がかすかに見える山影が、のしかかるように窓を覆い尽くしている。
 

どれほどの時間が経ったのだろう。
減速の気配に身体を起こしてカーテンをめくれば、バスは本線を離れて静岡SAに滑り込んでいるところだった。
ここで約15分間の休憩である。
直前に携帯電話へ職場からの着信があったのだが、すぐ、バスから降りて折り返すことができたのは幸いだった。
 

夜行高速バスに乗っていて困るのは、かかってくる電話の扱いである。
車内で喋るわけにも行かず、留守電に「至急連絡下さい」とでも録音されていようものならば、気にかかって、悶々と過ごすことになる。
以前、やむにやまれず、トイレの中で声をひそめて電話したこともあった。
 

おかげで、静岡SAでの休憩時間がほとんど潰れてしまったけれど、話しながらトイレの往復も一服も出来たので、惜しくはなかった。
飲み物などは乗車前に充分買い込んであるから、 買い物をしたかった訳でもない。
用件が済んで気持ちが晴れ晴れとしたから、有意義な休憩であった。

 

 

再び走り出したバスの中ですっかり安心し、厚い毛布にくるまって本格的に眠り込んだ。
通路への出入口や窓に掛けられたカーテンの遮光性も申し分なく、漆黒の闇に包まれた個室は揺り籠のようである。
適度な揺れと、遠くに響く低いエンジン音も、子守歌のようで心地よい。
 

25年前の「はかた」号では最前列の席を当てがわれていたから、リクライニングも倒さず中央道から名神高速の夜景を眺め続け、吹田JCTで中国自動車道に入るまで、ずっと起きていた。
夜行高速バスの限界は、東京から西に向かうならば、せいぜい関西あたりまでと考えられていた時代から、僕は高速バスを愛用している。
昭和63年に鳥取へ向かう夜行高速バスに乗った時には、深夜の3時頃に大阪を通過しただけで、新鮮に感じたものだったが、その2年後に登場した「はかた」号は、日付が変わる頃合いに大阪まで達してしまったのだから、その感動と驚きは、今でもはっきりと覚えている。
 

今回は、静岡SA以降のことを全く覚えていない。
新東名高速から伊勢湾岸自動車道、東名阪自動車道、新名神高速、名神高速、山陽道と、昔とは全く異なる道筋を走破する「はかた」号プレミアムシートの一夜は、よく眠れたという一語に尽きる。
扉で仕切られた後方のビジネスシートも、物音1つせず、ひっそりと静まり返っている。
 

途哲もなく遠くへ向かうバスに乗っている、という感慨に浸りながら過ごす車中は、僕にとって、間違いなく至福の時だった。
 

 

目を覚ましてカーテンをめくると、朝の光が室内いっぱいに差し込んできた。

個室なので、カーテンを開けても周囲に気兼ねする必要はない。
 

高曇りの空は、今にも泣き出しそうな案配だった。
小さな集落を懐に抱いた、なだらかな山並みが、窓外をゆっくりと流れていく。
何処をどう走っているのか、知る術が全くない。
反対車線を後ろへ飛び去っていく標識が現れたら、身体を捻って確認すれば判明するのだろうが、それも億劫である。
何処にいるのか判明したところで、仮に遅れていても、僕にはどうすることもできない境遇なのだ。
 

 

間もなく、「はかた」号はサービスエリアに滑り込んだ。
ここで休憩を取る旨のアナウンスが流れたが、サービスエリアの名称がよく聞き取れなかった。
後ろのビジネスクラスが、リクライニングを戻したり、網棚の荷物を降ろしたりする気配でざわざわし始める。
通路を、眠そうな表情の乗客が列を成して降りていった。
 

時刻は、午前8時半であった。
バスを降り、大きく伸びをしながら、爽快な朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。
酷暑だった夏が嘘のように、いきなり涼しさが訪れ始めた時期だった。
 

 

驚いたことに、建物には「convenience drug fastfood」と書かれているだけで、サービスエリアの名称が見当たらない。
下り線の脇には、こんもりと木々が生い茂った小高い山がそびえ、エリアを囲む塀の隙間から上り線の向こうを覗いてみれば、広々とした平野が広がっている。
用足しを済ませて建物の中に入ると、「そば処 吉野家」が鍋からもうもうと湯気を上げていて、「はかた」号の乗客も含めた何人かが美味そうに蕎麦をすすっている。
 

大いにそそられる光景であるが、僕は隣りのコンビニでサンドイッチを買い込んだ。
バスに戻ると、無料の緑茶パックが配られた。
以前の「はかた」号では軽食が出されたものだったが、いつしか廃止されてしまったのは残念である。
 

 

元気な店員に「ここはどこですか?」などと聞くのも変であるし、あちこち表示を探し回って、まさか本当に「コンビニ・ドラッグ・ファーストフード」などという名じゃあるまいなと思いかけたところ、ようやく、山口県防府市の佐波川SAまで来ていることを突き止めた。
25年前の「はかた」号は山口県の鹿野SAで、一昨年に乗った「LIONS EXPRESS」号は下松SAで、それぞれ朝の休憩をとった。
下松SAは佐波川SAより40kmほど手前にあり、鹿野SAは、中国道が山陽道と合流する山口JCTより40kmほど東寄りなので、今回の「はかた」号が最も福岡寄りに来ている訳だ。
 

 

佐波川SAを出て10kmほど進めば、山陽道は終点になり、本州最西端の区間を中国道で走ることになる。
「LIONS EXPRESS」号では、下松を出た後に、きらきらと輝く瀬戸内海を望むことができたが、「はかた」号で山側の個室にいる僕は、見ることができない。
 

坦々とした田園風景が続くだけで、欠伸も出るし、睡魔に誘われる車窓であるが、二度寝してはいけないという理由はどこにもない。
早朝に慌ただしく下車する運行スケジュールより、夜が明けてからもゆっくりと過ごせる方が、僕の好みである。
東京を遅く出た分、今の「はかた」号の到着は、25年前より3時間余りも遅い。
極上の個室で伸び伸びとくつろいでいるのだから、尚更のことだった。
スケジュールが定まっているから、頭の片隅では時間も気にかからない訳ではないけれど、いつまでも乗り続けていたい気持ちもある。
 

 

ハイウェイを取り囲む山々の間隔が狭まってくる。
沿道の繁みの合間に見えた下関ICも、窪みのような地形だった。
 

本州の果てが近づいているのに、こんなに山深くなって良いのだろうか、と心配になりかけたが、いきなり視界が開け、「はかた」号は、空へ飛び出したかのように関門橋を渡り始めた。
島々が雲間に霞む海峡を、幾筋もの航跡を描きながら、船が行き来している。
 

橋長1068m、高さ61mの巨大な吊り橋を瞬く間に渡り終えれば、いよいよ九州へ上陸である。
和布刈トンネルの入口に掲げられた「ようこそ 九州へ」の看板を見たかったが、コンパートメントに収まって前方の視界も遮られている今回は、それも叶わない。

 

 

「はかた」号は門司ICで九州道を降り、北九州都市高速4号線に乗り換えた。
路肩に余裕がなく、目がチカチカするような、せわしない道路である。
 

南へ離れていく九州道との間に、陸上自衛隊の駐屯地がある足立山と鋤崎山が立ち塞がり、都市高速は、海沿いの市街地の中を真っ直ぐ西へ貫いていく。
このあたりは自衛隊の施設が多く、防人の時代から、我が国の防衛の要であることが伺える。
 

 

数年前に、妻と北九州空港でレンタカーを借りてドライブした時のことを、不意に思い出した。
福岡の実家に立ち寄ってから、関門橋を渡って壇ノ浦まで足を伸ばし、あとは最終便で東京に帰るだけの段階で、九州道の北九州JCTで東九州自動車道へ入るつもりが、気づいたら、北九州都市高速を走っていたのである。
 

日没後の都市高速は、窓の明かりが満艦飾のビルが防音壁の間近にそそり立っていたり、カーブやアップダウンが目まぐるしいジェットコースターのような道路だったから、助手席の妻は、大喜びで窓に見入っていた。
ハンドルを握る僕にしてみれば、全く土地勘のない道路で、どこを走っているのか全く見当がつかず、飛行機の時間も迫っていたから、心細さで胸が締め付けられそうだった。
レンタカーに備わっているカーナビは優秀すぎて、経路を逸れても瞬時に修正するので、僕が指示を間違えたのか、それともナビが元々選んだ経路なのかすら、判別できない。

「おかしな道を走らせるんだなあ、このナビ」
「いいじゃん、楽しいよ、この道路」

などと、妻と暢気な会話を交わしたものだった。
 

地図を見れば、門司ICから都市高速4号線に入り、紫川JCTで都市高速1号線に乗り換えて、小倉東ICで九州道に戻ったのだろうと思う。
北に大きく迂回したことになるから、ナビの指示が都市高速経由になっていたとは考えにくく、僕が間違えたのだと後になって納得した。
夜と朝の違いはあるものの、「はかた」号から都市高速の車窓を眺めれば、あの時の焦燥感が胸中にほろ苦く蘇るけれども、思い出深い妻とのドライブであった。
 

 

「はかた」号は、富野ランプで13時間ぶりに一般道へ降り立った。
沿道にぎっしりとひしめく瓦屋根の家々の古びた佇まいに心が和んだが、平和通りに入って頭上にモノレールの高架が被さると、無機質なビル群が視界を覆い尽くした。
 

時計は、午前10時になろうとしている。
ほぼ定刻の運行だったから、 小倉から新幹線という案は念頭から消え、 このまま博多まで腰を据えることに決めた。
 

ペデストリアンデッキに覆われた小倉駅前で数人を下ろした「はかた」号は、紫川を東へ渡り、砂津に停車した。
西鉄バスの大きな営業所があり、何となく場違いな観覧車が見える停留所では、人々が列を成して路線バスを待っている。
 

 

ぐるりと市内をひと回りしてから、バスは足立ランプで都市高速4号線に戻った。
ハイウェイは、北九州市街の背後に連なる山の中腹に退いていく。
右手には、市街地から玄界灘までが、一望のもとに見渡せる。
埋め立てられた海岸線を、幾何学的な工場群や武骨なクレーンなどがびっしり建ち並び、手前には、廃鉱のような白土の荒れ地が広がっている。
通い慣れた九州道とは異なる、荒涼とした眺めだった。
 

八幡製鉄所や筑豊の炭鉱をはじめ、この地域が、明治以降の日本の近代化を支えてきたことに思いを馳せれば、歴史の容赦ない爪痕のようにも思えてくる。
 

 

八幡ICで九州道へ復帰した。
九州の北部は平坦だとの思い込みがあったのだが、北九州市を抜けた先の地形は、実際に走ってみると意外と険しいことがわかる。
身をくねらせて山あいを縫う九州道を、「はかた」号は、ひしめくトラックや乗用車と団子状態になって走り込んでいく。
 

午前10時半に、福岡ICの料金所をくぐった。
妻の故郷に来たのだな、と僕はリクライニングを戻しながら居住まいを正した。
 

 

それまでと打って変わって、賑々しい都市景観が窓外を占める。
福岡都市高速をたどり、巨大な客船や貨物船が停泊する埠頭の合間に、倉庫や国際会議場が建ち並ぶ博多湾岸に出れば、天神北ランプは間もなくである。
 

渡辺通りに入ると、バスは、ぎっしりと車に囲まれてしまった。
西鉄福岡駅と天神バスターミナルが入っている商業ビル「ソラリア」の前に差し掛かっても、渋滞と信号に阻まれて、なかなか入口に近づけない。
やっとの思いで3階バスターミナルへの進入路を登れば、降車場から到着便が溢れ、客を降ろすまでに10分近く待たされた。
 

 

25年前の「はかた」号は、最初に博多に寄ってから天神へ向かった。
理由は分からないけれども、今と順番が逆である。
 

天神からでも、姪浜へ向かう市営地下鉄に乗り換えることは出来るが、前回の「はかた」号では博多でバスを降りてしまったことを後悔していたから、今度はきちんと終点まで向かおうと思う。
目的地に向かうのに便利な停留所で降りればいいのに、そのようなつまらないことに拘るのも、マニアたる所以であろうか。
 

 

博多駅前では、小雨の中で人々が信号を待っていた。

色とりどりの傘があるものだなあ、とぼんやりと思う。
 

博多バスターミナルは、平成22年11月まで博多駅交通センターと呼ばれていた。
駅舎の北側にある細長いビルは、名称が変わっても外観に変わりはなく、何度も出入りした記憶があるのだが、狭い入口に押し寄せる何台ものバスが全く動かず、手前の信号で長く待たされる羽目になったのは初めてだった。
 

「はかた」号は、右折してターミナルに進入する方角から来ているから、信号が青に変わっても、入口で詰まっているバスが動かなければ道路を横断できず、赤信号の間に入口があいても、反対からやって来るバスが次々と左折して再び入口を塞いでしまうので、どうにも身動きが取れない。
到着を目前にして、刻々と無為な時間が過ぎていくのはもどかしい。
こちらは東京から14時間以上かけて来たのだから、近距離の路線バスは道を譲ってくれよ、と傲慢をかましたくなる。
ターミナルの外でも構わないから降ろして欲しい、と申し出たいくらいだが、道路の中央に停車しているから、無理なことは分かり切っている。
 

いやいや、長時間乗ってきたからこそ、10分や20分の遅れに目くじらを立ててどうする、終点はすぐそこなのだから、と自分に言い聞かせて、じっと堪えるしかない。
 

 

そのうち、運転席から、
 

「ええ、ですから、上に上がらず1階で降ろしちゃいたいと思うんですけど」
 

などと、交替運転手が何処かと連絡を取り合っているのが聞こえた。
博多バスターミナルの高速バス降車場は2階にある。
ようやく建物の中に入っても、2階への上り通路いっぱいにバスがひしめいて、どうにもらちがあかない。
天神といい、博多といい、いつもこんな有様なのだろうか。
 

最後の最後でもたついたけれど、東京から福岡までの長い道のりを無事走り終え、
 

「長時間の御乗車、お疲れ様でした。終点、博多バスターミナルに到着です。混雑のため、2階ではなく1階の降り場になります」
 

とのアナウンスが流れた時には、ホッと肩の力が抜ける思いだった。
 

長旅の余韻に浸る暇もなく荷物をまとめてバスを飛び出したのは、定刻より20分ほど遅れた午前11時40分であった。
 

 

幾つものバス乗り場に長い列ができ、錯綜する人々の波に揉まれながらターミナルを後にした僕は、慌ただしく姪浜へ向かった。

 

姪浜には、妻が10歳で母親を亡くした後に、母親代わりを務めてくれた叔母が住んでいて、結婚してから何度も訪れた。
昭和59年に、大阪発の夜行高速バス「ムーンライト」号で初めて福岡を訪れた時に、不意に海が見たくなって訪れた曾遊の地でもある。
今から思えば、海の中道を行く香椎線にでも乗ればよかったのだが、筑紫線の一部が廃止されて、博多と姪浜の間が市営地下鉄に入れ替わった直後のため、車窓を楽しむどころではなかった。

 

その時は、まさか30年後に姪浜に縁が生じるとは思ってもみなかった。
 

 

霧雨に煙る姪浜駅前は、小綺麗に整備されて、こんな街並みだったのかと首を傾げたくなるほど、記憶と異なっていた。
車で迎えに来てくれた妻の叔母が、僕に気づいて手を上げた。
 

「まあまあ、遠い所からよう来んさった。結局、飛行機で来たと? それとも新幹線?」
 

刻限に間に合ったことを安堵しながらも、朝に羽田を発つ航空機どころか、新幹線でもとっくに着いている時間なのかと思う。
物好きとお思いでしょうがバスで来ました、とは答えづらくて、言葉を濁すしかない。
 

「お昼、まだでしょ? 簡単で申し訳ないんやけど、あとの予定が押してるから、そこにあるパンでも食べて。夕食は御馳走するからね」
 

車の座席に置かれたコンビニ袋の中にカレーパンが混ざっているのを見つけ、思わず手が伸びた。
「イマサ」のカレーライスで始まった「はかた」号の旅は、山崎製パンのカレーパンで締めくくられたのである。
意外とボリュームがあってスパイシーなカレーパンを頬張りながら、2つのカレーの間に詰まっている途方もない距離と時間に思いを馳せた。
 

 

今回の旅とカレーとの関わりは、まだまだ続く。

 

福岡での法事を済ませた僕は、翌々日に、福岡空港を7時40分に離陸する小松空港行きIBEXエアラインズ84便に搭乗した。

父が大学時代を過ごして長野にも増して愛し、僕と弟が生を受け、母が最期を迎えた街として、金沢は、僕ら一家にとって切っても切れない縁で結ばれている。

だが、今回は、金沢に所用がある訳ではない。

 

平成27年3月の北陸新幹線の長野駅から金沢駅への延伸は、金沢市に生まれて3歳まで過ごし、以後は長野市で育った僕にとって、飛び上がりたいくらいに嬉しい出来事だった。

早く乗りに行ってみたい、と気が急くものの、なかなか機会に恵まれなかった。

 

昭和43年に金沢から長野へ引っ越す途中で、当時は急行だった「白山」車中で父が写したと覚しき、白黒写真が、実家に残っている。

4人向かい合わせの固いボックス席にいる僕と弟、そして母の姿を見て、思わず胸が熱くなった。

父が1人で金沢と長野を行き来する際には、長野0時55分発・金沢5時59分着、そして金沢21時44分発・長野2時37分着という夜行急行列車「越前」を愛用していた。

交通が不便な時代から、信州と金沢を繰り返し行き来しながら、父と母は、どのような思いを胸に抱いていたのだろうと思う。

 

 

幼少時は特急「白山」か、もしくは父の運転する車で、年に1~2回は長野と金沢を往復した。

高校を卒業して間もなく父が病死した。

東京で大学生活を送るようになってからは、首都圏と金沢を結ぶ高速バス路線が次々と開業する時期と重なっていたこともあり、僕は新路線が開業すればいそいそと乗りに出掛けたものだった。

 

弟が父の母校に入学し、金沢で1人暮らしを始めていたが、金沢に旅しても滅多に会うことはなかった。

男兄弟が顔を付き合わせるのは、何だか照れ臭いものである。

 

僕が特急「白山」を乗り通したのは、運転本数が1日1往復に減らされていた平成7年の1度だけで、上野を8時30分に発車し、長野11時18分、直江津12時30分、そして金沢には14時36分に着く下り列車であった。

上野からはそれなりの数の乗客が見受けられたが、長野までに殆どが降りてしまい、直江津から糸魚川、魚津、富山、高岡と僅かに区間利用の客が出入りする様子を見ながら、これでは上野と長野を結ぶ特急「あさま」と変わらないではないか、と思った。

最盛期には3往復が運転され、僕ら家族が利用していた時代と比べることが気の毒なくらいの衰退ぶりで、在来線特急としてはかなり遅くまで残されていた食堂車も廃止されてラウンジと化し、長いなあ、と落剥した気分で6時間あまりを持て余したものだった。

 

その時に、金沢で弟と久しぶりに会ったのだが、「白山」を乗り通して来た、とは恥ずかしくて言えなかった記憶がある。

平成9年の長野新幹線開業で「白山」は廃止され、その後、金沢と東京を直通する在来線特急列車は2度と復活することがなかったから、乗っておいてよかったと思っている。

 

 

母が病に倒れて、弟が勤める金沢の病院に入院してから、僕は幾度となく東京と金沢を往復した。

高速バスをはじめ、長野・上越・東海道新幹線と接続する列車や航空機を駆使したので、北陸新幹線が開業する前の交通地図を体感したのだと思っている。

 

母の死に、北陸新幹線は間に合わなかった。

いつの日か北陸新幹線を乗り通して、父と母を偲んでみたいと願い続けていたのだが、今回の旅は、1つの機会であった。

福岡から東京への帰路として金沢を経由するとは、突拍子もなく思われるだろうが、北陸新幹線の金沢延伸は、思いも寄らない副産物を生んでいた。

 

 

妻の法事の関係で、福岡と長野を行き来する方法をネットの交通案内で検索する機会が増えたのだが、

 

福岡空港-(航空機)-松本空港-(路線バス)-松本駅-(JR特急列車)-長野駅:所要4時間25分

博多駅-(山陽・東海道新幹線)-名古屋駅-(JR特急列車)-長野駅:所要6時間43分

博多駅-(山陽・東海道新幹線)-東京駅-(北陸新幹線)-長野駅:所要6時間46分

福岡空港-(航空機)-羽田空港-(東京モノレール)-浜松町-(山手線・京浜東北線)-東京駅-(北陸新幹線)-長野駅:所要4時間27分

 

などといった選択肢が提示される。

 

松本空港を使う経路や、新幹線から中央西線の特急列車「しなの」に名古屋で乗り換える方法ならば、誰もが思い浮かべるのであろうが、前者は航空機の便数が少なく、後者は7時間近くの長時間を要する。

新幹線で東京まで足を伸ばして300km近く遠回りしても、費やす時間が大して変わらないという驚くべき結果である。

振り子式台車を使用して曲線の多い山岳区間の速度を向上させた特急「しなの」も健闘しているけれど、新幹線の威力が桁違いなのである。

 

 

もう1つ、意外な経路が登場した。

 

福岡空港-(航空機)-小松空港-(リムジンバス)-金沢駅-(北陸新幹線)-長野駅:所要4時間21分

 

福岡から長野へ、金沢を経由する方法が最短時間になる日が来ようとは、呆気に取られた。

時間帯によって所要時間に多少の差は生じるのであろうが、福岡-小松便は福岡-松本便よりも運航本数が多く、使い勝手は決して悪くない筈で、交通案内のサイトでも、この経路は上位に登場する。

まさに北陸新幹線がもたらした、意外な交通革命と言えるだろう。

 

今回の僕の帰路の目的地は長野ではなく東京なのだから、結局は迂回になるけれども、北陸新幹線の初乗りを兼ねて、この画期的なルートを体験してみたい、と思った。

 

 

全日空とのコードシェアであるが、IBEXの航空機に乗るのは初めてのことだった。

ヨーロッパアルプスに生息し、大きな角を生やした山羊に似ている動物の名を社名につけているこの航空会社は、航空業界の規制緩和と歩調を合わせるように平成11年に創立されて以来、

 

仙台-千歳・成田・中部・小松・伊丹・関西・広島・福岡

伊丹-千歳・秋田・庄内・福島・新潟・成田・松山・福岡・大分・宮崎

千歳-松山

中部-松山・福岡・大分・宮崎

成田-小松・広島

福岡 - 新潟・小松・福岡

 

といった地方都市相互間を結ぶローカル路線を積極的に展開していたが、このうち3分の1の路線は廃止されていて、御多分に漏れず、地方都市を結ぶ航空路線を維持することの難しさを浮き彫りにするような歩みになっている。

 

 

同社が採用するボンバルディアCRJ700NGは、機体の長さ32.3m、胴体の最大直径2.7mという細長い胴体にT字翼と2発の後部エンジンをつけ、地を這うような低い機体である。

 

天候に恵まれた1時間15分の飛行は順調で、沖合に能登半島の山影を望み、なだらかな砂浜が続く日本海を左手に見下ろしながら小松空港に着陸すれば、地上係員がタラップを手で押しながら近づいて来る姿に、地方空港に来たという実感が湧いてきて、思わず笑みがこぼれた。

 

 

昭和19年に、当時むじなが浜と呼ばれていた砂丘に日本海軍が飛行場を建設したのが、小松空港の始まりである。

 

敗戦で一時米軍に接収されていたが、返還後の昭和30年に日本ヘリコプター輸送が小松-大阪線を開設、昭和36年に小松-名古屋-羽田線が運航を開始する。

昭和48年にはジェット化に向けて滑走路の延長工事が行われ、全日空のボーイング737型機が小松-羽田線に就航した。

昭和61年には日本航空が、平成5年には日本エアシステムがそれぞれ小松-東京線に参入してトリプルトラックとなり、合計1日18往復が小松と羽田の間を飛び交ったのである。

 

現在では、羽田以外にも、千歳、仙台、成田、福岡、那覇への航空路線が就航し、かつては新潟、静岡、名古屋、伊丹、岡山、広島西、出雲、高松、松山、鹿児島への路線も展開された北陸の一大拠点であった。

 

 

僕が初めて小松空港を利用したのは昭和60年のことで、初めて飛行機を体験した羽田-大阪線に次ぐ2番目の空の旅として、羽田-小松線を選んだのである。

 

僕が搭乗した便は、羽田を離陸して大島上空に達し、静岡上空を経て名古屋に至るV17航路と、名古屋から小松に北上するV52航路を経由した。

小松空港に全日空しか発着していなかった時代で、ボーイング747型機の窓から中部山岳地帯の重畳たる山々を見下ろし、本州を横断していく航路は、とても新鮮に感じられたものだった。

飛行しているのは岐阜県の上空であるけれど、8000mを超える高度から眺めれば、右手に赤石山脈と木曽山脈に挟まれた細長い伊那谷や、その彼方の飛騨山脈や諏訪湖まで、信州を一望する景観を見通すことが出来た。

 

小松空港は、航空自衛隊との供用である。

羽田行きの便に搭乗を終えて乗降扉が閉められ、タキシングする寸前に、

 

「自衛隊機の離陸がありますので、しばらくお待ち下さい」

 

と機内アナウンスが流れ、こちらの機体をびりびりと震わせる轟音と共に、スクランブルなのか、並んで発進していく2機の戦闘機を窓から見送ったこともある。

 

 

福岡からの航空機を降りた乗客は、金沢や福井市内へ向かうリムジンバスに乗り込んでそそくさと姿を消したが、僕は悠然とターミナルビルの食堂の暖簾をくぐり、金沢カレーで遅めの朝食とした。

 

金沢カレーを初めて食べたのは、加賀温泉駅の近くにあるCoCo壱番屋であるが、濃厚でもったりしたカレーは、幼い頃から慣れ親しんできた母の手作りカレーにそっくりだった。

我が家独特のカレーなのかと思い込んでいたけれど、信州出身でありながら、母は金沢カレーの影響を受けていたのだろうか。

 

 

母を見舞いに何度か小松空港を利用した際に、たまたま入ったこの食堂のメニューに金沢カレーを見つけてから、僕は必ず立ち寄ることにしていた。

これを食べたいがために、福岡で敢えて朝食を摂らなかったのである。

 

ただし、小松空港の金沢カレーを食べるのも、これが最後かも知れないと思った。

金沢と東京を最速2時間28分で結んでしまう北陸新幹線の登場は、小松-羽田間の航空路線にとっては少なからず打撃だったようで、瞬く間に利用客数が4割減となり、大型機ばかりが就航していた人気路線も、ボーイング767型機や787型機へと機体が小型化され、1日18往復から14往復へ減便されてしまう。

 

今後、僕が小松空港を利用する機会は、殆どなくなるような気がしたのである。

 

 

 (「蒼き山なみを越えて 第64章 平成27年 北陸新幹線『はくたか』~後編~」 に続きます)

 

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