蒼き山なみを越えて 第16章 昭和63年 東亜国内航空603便大阪-松本線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和60年代の羽田空港には、航空機に乗りもしないのに、よく遊びに行った記憶がある。

当時、品川区大井町に住んでいたので、食事や買い物のために、京浜東北線で隣り駅の大森と、その1駅先の蒲田に遊びに行く機会が多かったことも一因かもしれない。

大森と蒲田からは、羽田行きの路線バスが出ている。

 

 

ただ、電車で大森や蒲田に出掛けたことは滅多になかった。

何倍も時間が掛かるけれども、大森に行くならば、品川駅から大井町、大森を経て池上駅に向かう東急バス「品94」系統、もしくは大井町駅と大森駅を結ぶ京浜急行バス「井19系統」、蒲田ならば、大井町駅から蒲田駅へ行く東急バス「井03系統」にのんびりと揺られるのが常だった。

 

「井19」系統は、大井町駅から第一京浜国道に出て、途中で桜新道に逸れて大森駅に向かうという経路で、いつも空いていたからだろうか、後にチョロQのような小型バスに変わってしまった。

昔、このあたりは一面の水田で、真ん中を貫く一本道を造った時に、両側に桜の木を植えたことが、桜新道の名の由来だと言う。

春になると、必ず乗りたくなる路線バスだった。

 

 

僕のアパートは、大井町駅より、三ツ又交差点に置かれたバス停の方が近かったので、池上通りを走る東急バスが便利だったのだが、1つだけ不満があった。

路線バスに乗るならば、僕は、タイヤハウスの上に設けられた左側最前部の席に座りたい人間だった。

ところが、東急バスは、そこに金属製の箱を設置しているため、やむを得ず、運転席の後ろに座るしかなかった。

座席を1つ潰して置かれていたあの箱は、都営バスでも見られたのだが、いったい何が入っていたのだろうか。

 

右最前部の席は、運転席と幕で仕切られているけれど、右隅に隙間があって、運転手の肩越しに、前方がよく見えた。

左側より運転手を気にする必要がないし、ハンドルさばきや速度計まで覗けるから、大いに楽しんだ。

 

 

三ツ又バス停から、池上通りで鹿島神社、山王と、起伏の激しい山の手をのんびりと南下すると、大森駅西口の繁華街に出る。

今は東口に移転したイトーヨーカドーが、当時は西口にあり、大森駅付近の歩道に設けられたバス停には、路線バスがずらりと停車して、他の車は、バスの隙間を縫いながら障害物競走のような走り方を強いられた。

 

大森駅を過ぎると、路線バスが原因ではなく、渋滞が激しくなる箇所があった。

地元の人々は、それを「ダイシン渋滞」と呼んでいた。

 

 

池上通り沿いにあった「ダイシン百貨店」は、昭和39年に開店している。

創業者は信州リンゴの闇販売から身を起こした農家で、前身は信濃屋という八百屋であるから、僕の故郷にも所縁があったことになる。

「ダイシン」の名は、大森の音読み、という説が流布したことがあるけれど、大きな信州、との意味を込めて付けられたと言う。

 

昭和40年代の地方百貨店の懐かしい雰囲気を、近年まで残していたことでも知られ、街歩きを扱うテレビ番組にも、よく取り上げられていた。

休日ともなると、「ダイシン百貨店」の前に駐車場待ちの渋滞が発生するほどの、人気店だったのである。

 

僕も、学生時代に、よく買い物したものだった。

6階建ての古びた店内には高齢の客が目立ち、カートに籠を2つ載せて大量に買い込んでいく。

値段は他の店舗と大して変わらない印象だったが、食品も日用品も衣料も家具も家電も文具も種類が豊富で、一般的なものから、専門店しか扱わないような希少品、高級品まで取り揃えられていた。

客が要望する品物は、たとえ1点、1人のためでも取り寄せるという姿勢を貫き、他の小売店では見かけることがなくなった柳屋のポマード、蠅取り紙、漬物樽、スモカ歯磨、タバコライオン、VALCANの整髪材、パオンの粉末毛染め、湯たんぽまでが店頭に並んでいた。

店内を歩けば、

 

「○○が置いてある!」

「まだ製造していたのか、この商品!」

 

と、驚かされてばかりで、見て回るだけでも時が経つのを忘れた。

カネヨのクレンザー、いつも実家の台所に置かれていたっけ、などと思い出すと、切ないくらいに胸が熱くなった。

 

「ダイシン百貨店」の品揃えは、我が国が、ひたすら坂の上の雲を目指していれば良かった古き良き昭和の時代、僕らが子供の頃の家族の思い出に結びついていた。

売場には幾つも椅子が置かれ、高齢の買い物客への配慮がされているかと思えば、書籍コーナーには、「文士村馬籠茶房」と看板を掲げたカフェが併設されていて、都心の書店に似た若者向けの一角だった。

4階にあるダイシンファミリーレストランで、子供の頃に家族で行ったデパートのレストランはこのような雰囲気だったよな、と懐かしさに浸り、大森の街並みを眺めながら食事をするひとときが好きだった。

 

 

「ダイシン」に行けば全て事足りる、という安心感と満足感を満たしてくれた一方で、在庫管理が難しくなり、不良在庫が膨張する結果を招いたという。

加えて、100円ショップなどの格安店や、他の大型店の出店が影響して、負債が嵩み、平成28年に閉店した。

「ダイシン」のような地域に密着した素朴な店舗が成り立たなくなるような、厳しい競争と時代の変化に曝されている僕らの国の、坂の上の雲は、今、何処にあるのだろう。

 

僕が大井町で過ごしている時期は、「ダイシン百貨店」がまだ健在で、自転車やバイクが歩道に無造作に置かれ、人々が出入りしている店先を目にすれば、思わず下車して買い物をしたくなった。

 

 

その衝動を抑えながら環状7号線を横切り、池上本門寺の門前を過ぎれば、東急池上線の踏切の先は閑静な住宅街の一本道になる。

京浜東北線の電車ならば6分しか掛からない区間を、40分以上も費して、ようやく蒲田駅西口に到着である。

 

商店街を散策し、締めは、大井町にはない「ケンタッキー」で、幼少時から好きだったフィレサンドを買って帰るのが常だった。

 

 

そのうちに、僕は、蒲田駅ビルの雑踏を掻き分けて東口に渡り、羽田空港行きの京浜急行バスに乗り換えるようになった。

飛行機に乗る訳ではなく、見に行く楽しみを覚えたのである。

 

京浜急行バスは、きちんと左側最前部が座席になっている。

蒲田駅からしばらくは、京急蒲田駅の近くで踏切を2つ越える狭い路地を走らねばならない。

電車が何本も通過するのでなかなか進まないけれども、軒を並べる中華料理店を眺めながら、長い待ち時間に餃子を買えればいいのに、と思う。

 

衣をカラリと揚げて、底を繋げてしまう蒲田の羽根つき餃子は、大好物だった。

蒲田餃子の歴史は、「ニーハオ本店」の店主が、昭和58年代に我が国で初めて羽根付きの餃子を考案したことが始まりとされている。

今ではJR蒲田駅から半径500m以内に20軒の餃子の店が存在し、「ニーハオ本店」が最初につけた値段に習って、1皿300円の店舗が多いのだと言う。

 

 

第一京浜国道に出ると、バスの走りは幾分滑らかになる。

 

当時、蒲田駅と羽田空港を結ぶ路線バスは、2系統あった。

「蒲95」系統は環状8号線・日の出通りを経由し、本数も多く、羽田空港から蒲田駅に向かう人の大半はこちらを利用したのだろうが、僕が好きだったのは、萩中経由「蒲41」系統だった。

こちらは、路地裏のような狭隘な道を、民家の軒先に触れんばかりに走る。

どうやら僕は、細い道を走るバスに乗ると、胸がときめくようである。

 

 

萩中系統の車窓からは、七辻と呼ばれる交差点の入口を垣間見ることも出来た。

 

『七辻は、七本の道路が交差した地点という意味で名付けられたものである。

大正6年から10年の歳月をかけて行われた耕地整理によって完成したもので、その頃は、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、人家もまばらで水田と桃・梨・葡萄などの果樹を植えた畑が広がり、春には花見客でにぎわったという。

昭和の初期までは、農家の大八車が時折通るだけで七辻の道路も当時としては道幅が広すぎ、その両側には名もない草花が生い茂っていた。

時代が移り変わり、多くの人々が住むようになっても自然を愛し、優しさと思いやりのある心は受け継がれ、この地に事故はない』

 

と、交差点の立札に記されている地元の名所である。

七辻には、今でも信号機がない。

 

 

大鳥居交差点で、羽田空港行きの路線バスは産業道路に右折し、続けて、羽田の雑然とした街並みを貫く狭い路地に潜り込む。

 

首都の空港に向かう路線バスが、このような道を走るのか、と、最初は驚いた。

江戸時代の後期に水田開発を目的として干潟を干拓したことに始まり、幕末に江戸防衛の砲台が設置され、明治35年に干拓地に鎮座する穴守稲荷神社に向けて京浜電鉄穴守線が開通、羽田球場をはじめ遊園地や海水プールを併設した一大レジャー施設が設けられた、という歴史を彷彿とさせる古びた佇まいである。 

 

『羽田といえば、昔は漁師町と辨天とで聞こえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。

そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい二十年前で、一時、新聞で盛んに書き立てたことを私は覺えてゐる位である。

縁起といふやうなものも極く無雜作なものである。

それにも拘わらず、東京近郊の屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。

つまり、花柳界方面の信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一の理由である』

 

と、田山花袋が著しているから、花街もあったのかもしれない。

 

 

路地が尽きると、いきなり眼前に羽田空港の敷地が広がる。

 

平成5年にビッグバードが完成する以前の、旧ターミナルビルの時代である。

ロータリーは狭く、空港の敷地内に入ってからも、激しい渋滞でターミナルビルまで何十分と費やすことも珍しくなかったと聞く。

「TOKYO INTERNATIONAL AIRPORT」の看板がなければ、地方の空港と大して変わらないような印象だった。

 

 

ターミナルビルの店舗を見て歩くだけでも楽しかったが、何と言っても、展望デッキで風に吹かれながら、航空機の離着陸や、駐機場の様々な機種を眺めていれば、時が経つのを忘れた。

 

当時の写真を見ると、懐かしい機種が、ボーディング・ブリッジに横づけすることもままならず、様々な向きで駐機され、当時の羽田空港は何と乱雑だったのか、と思う。

世界が瞠目するような短期間で、敗戦の痛手から復興した我が国の勢いを、そこに感じ取ることも出来るのだ。 

 

 

大正6年に、日本飛行学校がこの地に開校したことが、羽田と航空機との関わりの始まりで、最初の滑走路は多摩川の川崎側の河川敷に造られていた。

 

大正12年の関東大震災をきっかけに、航空輸送の重要性が見直され、それまで立川陸軍飛行場を共用していた民間航空路線の需要が増えたため、都心からの利便性が高い羽田の干拓地に空港を建設することが決定し、昭和6年8月に羽田飛行場が開港する。

総面積が53ha、長さ300m・幅15mの滑走路を除けば草地ばかりで、管制塔もないような空港が、羽田空港の元祖である。

 

記念すべき第1便は日本航空輸送の大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で搭乗客がなく、大連のカフェに送る松虫や鈴虫6000匹が積載されただけという微笑ましい逸話を残している。

 

 

その後、大阪や福岡、台北、京城など、大日本帝国領土内の主要都市に向けた国内線や、満州国への国際線の運航が活発になり、ターミナルビルや格納庫、滑走路、各種設備が体裁を整えていく。

 

昭和12年5月に欧亜連絡飛行を行った「神風」号が帰着し、同じ月に航続距離の世界記録を樹立した「航研機」の初飛行や、昭和14年8月に国産航空機として初めて世界一周飛行に挑んだ「ニッポン」号の発着地になり、昭和13年にはドイツのルフトハンザ航空が羽田とベルリンの間を飛行、昭和15年には国産旅客機三菱MC-20の完成披露式が行われるなど、航空先進国であった我が国の象徴とも言うべき空港に発展する。

昭和13年に最初の拡張工事が実施され、羽田球場が空港用地として接収されて消滅し、総面積72ha、全長800m・幅80mの滑走路2本が十文字型に配置されて、当時としては世界有数の近代的な空港になった。

 

昭和16年に、霞ヶ浦海軍航空隊の一部が駐屯して軍用飛行場としても使用されることとなり、同年12月に開戦した太平洋戦争では、国内線のみならず、同盟国の満州国やタイ王国、南方作戦で占領した香港、ジャカルタ、マニラ、シンガポール、ニューギニアのウェワク、ラバウルなどへ向けて定期便が、軍の委託を受けた日本航空輸送により運航され、捕獲した米軍や中国軍、オランダ軍などの戦闘機の展示会も行われたものの、日本の民間航空は休止状態となったのである。

 

 

敗戦直後の昭和20年9月に、羽田空港は連合軍に接収され、羽田干拓地の住民を強制退去させた上で、米軍808飛行場建設部隊による空港拡張工事が昭和21年6月に完成し、長さ2000m・幅45mのA滑走路と、長さ1650m・幅45mのB滑走路が設けられた。

空港内に残されていた航研機や日本軍の軍用機は米軍によって投棄され、現在も敷地内の地中に埋まっていると言われている。

 

この時、敷地内にあった穴守稲荷神社の大鳥居は撤去されなかった。

国家神道に繋がるとして全国で4万6000基あまりの鳥居を取り壊したGHQにとっても、昭和4年に建立された大鳥居はアンタッチャブルであったらしい。 

 

『門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。

ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。

再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。

これは「穴守さまの祟り」という噂が流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった』

 

と京浜急行電鉄の社史に記されている。

 

僕が頻繁に訪れていた旧ターミナルの時代に、駐車場の真ん中を占めていた穴守稲荷神社の大鳥居は、平成初頭の沖合展開事業における新滑走路建設の障害になるため、移設計画が持ち上がった。

事前調査では、鳥居の脚がことのほか深く地中に打ち込まれていて、横方向に引きずり倒そうとしても無理だっただろう、という結論だった。

米軍は、撤去方法で間違っていたのである。

 

平成11年2月3日に鳥居をクレーンで吊り上げたところ、それまで晴れていた天候が俄かに雨風に変わり、クレーンのワイヤーが揺れ動いたという。

幸いそれ以上の怪現象は起こらず、2日間に及ぶ工事は滞りなく終了し、大鳥居は、弁天橋のたもとの現在地に移されたのである。

 

 

占領下の我が国において、全ての日本国籍を持つ航空機の運航が禁止され、民間航空輸送が再開された昭和22年以降に羽田空港を発着したのは、ノースウェスト航空やパンアメリカン航空、英国海外航空、フィリピン航空、カナダ太平洋航空、民航空運公司など、連合国の定期便だけであった。

 

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結され、我が国の航空活動が解禁されたことを受けて、後に伊豆大島の三原山に墜落する日本航空のマーチン2-0-2型「もく星」号が、羽田-伊丹-板付間を、初めての民間航空定期便として、運航を開始する。

昭和27年7月1日に、滑走路、誘導路、各種航空灯などの諸施設が連合軍から日本政府に移管され、羽田空港は「東京国際空港」と改名したものの、「東京国際空港の共同使用に関する日本国と在日米軍との間の取極」により、管制権や一部施設は、引き続き在日米軍の管轄下に置かれることになる。

同月に、世界初のジェット旅客機であり、後に構造欠陥から空中分解事故を起こすデ・ハビランドDH106型「コメット」がロンドンを結ぶ南回りヨーロッパ線で就航、昭和28年には日本航空のダグラスDC-6型旅客機による国際定期路線が東京-ウェーク島-ホノルル-サンフランシスコ間に登場した。

国内ローカル線の開設も相次ぎ、連合国以外に日本の空が解放されたことによるKLMオランダ航空、エールフランス航空、エアインディア、スイス航空、キャセイパシフィック航空など外国航空会社も就航して、旅客が急激に増加したのである。

 

 

新しい旅客ターミナルが完成し、A滑走路が2550mに延伸された上で、全面的に米軍から空港機能が返還されたのは、昭和30年5月のことだった。

 

昭和30年代に入ると、旅客ターミナルの増築が繰り返されるようになり、A滑走路が3000mに延伸、長さ3150m・幅60mのC滑走路の新設、東京モノレールの乗り入れ、初の空港敷地内ホテルとして羽田東急ホテルが開業するなど、東京五輪に向けた整備拡張が次々と行われる。

 

昭和46年にB滑走路が2500mに延伸されたが、高度経済成長で我が国の経済活動が活発になり、国内線・国際線双方の急激な増加に応じきれず、羽田空港は瞬く間に手狭になってしまう。

激しい反対運動により大幅に遅れたものの、昭和53年5月に成田空港が開港すると、ごく一部を除く国際線の発着をそちらに譲ることになる。

 

A滑走路は駐機場として潰されてしまったが、昭和63年に3000×60mの新しいA滑走路が完成する前後に、僕は羽田空港に出入りするようになったのである。

 

 

後の話になるが、沖合展開事業により、3360×60mのC滑走路が完成したのが平成5年、平成12年に2500×60mのB滑走路が完成、平成22年には別の人工島に2500×60mのD滑走路が新設されて、総面積1516ha、2000~3000m級の合計4本の滑走路を備えるに至る。

平成5年に、首都高速湾岸線が羽田中央ランプまで延伸され、床面積29万平方メートル、24基のボーディングブリッジを備えた羽田空港旅客ターミナルビル・通称ビッグバードが完成し、平成16年に床面積24万平方メートル、15基のボーディングブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始することになる。

 

 

僕が初めて航空機を経験したのは、昭和60年の夏だった。

飛行機というものに乗ってみたくて、羽田空港から伊丹空港まで往復したのである。

 

大阪に、何の用事もなかった。

内田百閒の『阿房列車』は、

 

『なにも用事がないけど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思う』

 

との一文で始まるが、同じことを、僕は飛行機で実行したのである。

 

 

往路は、日本航空のボーイング747型機のフライトを選んだ。

初めて乗るならば、日本のフラッグシップであるJAL、そして当時世界最大の航空機に乗ってみたい、という単純な動機だった。

 

当時のJALは、世界最大のB747のユーザーで、最終的に113機を発注したという。

JALと言えば、鶴丸マークが垂直尾翼に描かれたジャンボジェット機を思い浮かべる人は、少なくないと思う。

昭和34年から毎週日曜日の朝に放送され、子供の頃に観ていた「兼高かおる世界の旅」のオープニングは、映画「80日間世界一周」のテーマ曲をバックに飛行するパンアメリカン航空のB747型機の映像だったし、僕は、毎晩0時になるとラジオをつけて、FM東京で昭和42年から放送されていたJALが提供する「ジェットストリーム」を聴きながら、空の旅への憧憬を募らせていた。

店に並ぶ「ジェットストリーム」のレコードやCDのパッケージには、必ずJALのB747が写っていた。

 

 

大阪への搭乗券を握りしめて羽田空港を訪れた時は、ついに航空機に乗れるのか、と心が躍ったのも確かであるが、あれほど後ろ髪を引かれるような旅立ちは、かつてなかった。

初めて体験する搭乗手続きと手荷物検査に戸惑い、搭乗口の待合室に来ると、もし自分の乗る航空機が墜ちたら親は悲しむだろうな、と後悔の念に似た不吉な思いが込み上げてきた。

 

離陸時の、身体が背もたれにぐいっと押しつけられる急加速と、機体が地を離れる独特の浮遊感に驚き、着陸までの降下の緊張感や接地時の衝撃にヒヤリとしたり、自分はどのような顔で、1時間弱の飛行時間を過ごしていたのだろう、と思うと、ちょっぴり可笑しくなる。

 

飛行中の眺望は、自分が高度1万メートル近い高空にいるという、信じがたい現実への高揚感や感動とも相まって、筆舌に尽くしがたい素晴らしさだった。

時折、ちぎれ雲がふわふわと浮かび、海面が黄金色に輝く、快晴の日だったと記憶している。

生まれて初めて経験する飛行機の旅は、驚きとスリルに満ち満ちていて、すっかり僕を虜にしてしまった。

 

伊丹空港からの帰路は、同じ航空会社の同じ機種を利用するのも芸がないと思い、ANAのLー1011型トライスターを利用した。

当時の羽田-伊丹線は、JALがB747、ANAがL-1011、そしてTDA(東亜国内航空)がエアバスA300と、個性的な大型機が就航していた。

ジェット機というものは、乗ってしまえば、機体の大きさやキャビンの構造の違いを除いて、乗り心地に大きな差異があるわけでもなかったのだが。

 

 

大阪への空の旅に味をしめた僕は、2度目の飛行機旅として、生まれた土地である金沢の最寄りである小松空港への航空路線を選んだ。

JALとはひと味異なる、青いラインを纏ったANAのB747型機は、羽田を離陸すると、大島を経て西に向かう航空路V17で名古屋上空に達し、小松へ真っ直ぐ北上する航空路V62へ、機体をぐいっと右へ傾けながら針路を変える。

遠く信州の伊那谷まで見通しながら、山深い本州の中央部を横断する景観が、とても新鮮に感じられた。

 

その年の8月に、JAL123便が群馬と長野県境付近に墜落した、との第一報を聞きつけた同社の社員が、

 

「そんな所を飛ぶ我が社の飛行機はないので、全日空の小松便の間違いではないかと思いました」

 

と語っていたことが思い出される。

 

小松空港と金沢市内を結ぶリムジンバスに乗り継ぐと、松任海浜公園付近で海岸沿いを走る北陸自動車道の景観も楽しかった。

航空機で金沢に行くのも悪くないではないか、と思った。

 

 

航空運賃が、現在のような変動相場制でなく固定制で、ずっと割高感があったので、利用には躊躇いがあったけれども、空の旅にすっかり魅せられて、僕はしばしば航空機を選ぶようになった。

搭乗までに過ごす空港の雰囲気が好ましく、機内の程よく張り詰めた空気も、鉄道より大人びて感じられたからであろうか。

新幹線でも同様の感想を抱いたことがあるけれども、航空機の方が遥かに洗練されていた。

夜行列車や高速バスを利用する時のうらぶれた感覚がなく、大手を振って表街道を行く高揚感のためかもしれない。

 

出費に心は痛むけれども、経済大国日本を支えるビジネスマンになったような気分に浸っていたのだから、今、振り返れば、青臭いとしか言いようがなく、早く一人前になりたくて、必死に背伸びをしていたのだな、と苦笑いが浮かんでくる。

 

 

鉄道好きで知られる紀行作家の宮脇俊三氏が、東京から福岡に出掛けて、現地で友人と交わす会話が印象的である。

 

『「やっぱり汽車で来たのかい」

 

と彼は言った。

聞くまでも言うまでもないことである、と私は答えた。

 

「僕も汽車は好きだが、東京へ行くときは、やっぱり飛行機だなあ」 

 

と彼は言う。

汽車が好きなのに、なぜ飛行機に乗るのかと私は訊ねた。

 

「寝台車でスリにあったことがあるんだ。それいらい飛行機だ」

「飛行機にスリはいないのか?」

 

彼はそれに答えず、一度飛行機の味をおぼえてしまうと、もう汽車には戻れない、と言った』(「汽車との散歩」所収「若さは汽車旅から」)

 

飛行機の味、とは言い得て妙である。

搭乗するまでが面倒だし、落ちれば命に関わると判っていても、確かに航空機には不思議な魅力がある。

 

 

ついに、僕は、故郷信州に、航空機で行くことを思いついた。

選択肢は1つしかない。

信州を発着している定期航空路線は、東亜国内航空の伊丹-松本線のみである。

 

昭和63年3月下旬に、僕は、蒲田からの路線バスを羽田空港で降りた。

搭乗手続きと手荷物検査を済ませて、待合ロビーに入ると、かすかに窓ガラスを震わせる轟音を残して、向こうの滑走路から、ひっきりなしに出発便が離陸していくのが見えた。

雨はやんでいたが、機影が溶けるように消えていく空は、分厚い雲に覆われている。

 

『10時45分発、日本航空、大阪行き、109便は、間もなく、搭乗手続きを、開始いたします』

 

一語ずつをはっきりと区切る独特の発音で、録音された女性のアナウンスが出発ロビーに響き渡った。

 

 

この頃の羽田空港ターミナルビルは、多くの便をボーディング・ブリッジで捌き切れず、離れた駐機場にバスで移動する場合が多く、僕が乗るJAL109便の搭乗方法もバスだった。

駐機場に向かうバスは、一般道を走るバスよりも規格外に幅が広いが、客を目一杯詰め込むので、あまり好きではなかった。

広大な敷地をジグザグに走りながら、送迎バスにも経路が決まっているのか、よくぞ迷わずに走るものだ、と感心した。

様々な航空機や作業車を眺めながら誘導路を走るのは、現在ではなかなか経験できなくなっているだけに、貴重だったと思う。

 

広大な駐機場の真ん中でバスを降ろされて、B747型機に向かって歩いて行けば、この巨体が飛ぶことが魔法のように感じられるほどの迫力である。

やっぱり747はいいな、と思う。

 

 

タラップを昇って乗降口をくぐると、スチュワーデスが笑顔で迎えてくれた。

米国に始まったポリティカル・コレクトネスの影響で、男性の客室乗務員をスチュワード、女性をスチュワーデスと呼ぶのを止め、性別に関係のないキャビン・アテンダントの呼称に変更されたのは、ANAが昭和62年、JALが平成8年のことである。

 

指定された座席に腰を下ろして、さあ、信州への空の旅の始まりだぞ、と心が引き締まるが、500余名に及ぶこの便の搭乗客の中で、信州へ、などと力んでいるのは僕だけだろうな、と苦笑いが浮かんでくる。

 

航空機の出発時刻は、スチュワーデスが扉を閉めた時、と聞いたことがあり、

 

「業務連絡です。ドアモードをアームドに変更して下さい」

 

との放送が流れたのは、確かに定刻だったが、その後、プッシュバックで駐機場を離れ、滑走路で離陸態勢に入るまでは、前方に航空機がつかえていてかなり、待たされた。

ようやく滑走路にたどり着き、ポン、ポンとチャイムが2度鳴らされて、頭上のベルト着用サインが点滅すると、いよいよ離陸である。 

 

『皆様、当機は間もなく離陸致します。シートベルトを今一度お確かめ下さい』

 

空の旅は便利だし、キャビンアテンダントのアナウンスも耳に心地良いけれども、離陸の寸前の緊張感はどうしても慣れることが出来ない。

 

 

米映画「エアポート75」で、離陸でエンジン音が高まると、出発前からしたたかに酔っ払っていた喜劇役者が、 

 

「さあ皆さん、お祈りしましょ」

 

と、大声で十字を切る場面を思い浮かべてしまう。 

航空大国で空の旅が日常茶飯事になっているはずのアメリカ人ですらそうなのだから、日本人はもっと戦々恐々としているに違いない、と勘ぐりたくなる。

宮脇俊三氏は、飛行機が離陸するとお経を上げたくなる、とか、機内では早く降りたくてしょうがない、などと著作の中で繰り返し書いているけれど、JAL109便の席を埋める搭乗客は、誰もが澄ました表情を変えようともしない。 

 

ぐいっと身体が仰け反って、無理に首を曲げて覗き込む窓の後方に、東京の街並みが映ったかと思うと、真っ白な雲が視界を遮った。

 

 

この日はずっと雲の上の飛行になり、加えて気流が不安定だったので、なかなかベルト着用のサインが消えず、飲み物を配るサービスが押せ押せになって、スチュワーデスは忙しそうだった。

 

ほぼ満席に近い客室を見回しながら、3年前に520名が犠牲になる大事故が起きながらも、同じ会社の同じ機種を利用する客がこれだけ戻って来たのは、喉元過ぎれば熱さを忘れる人間の性なのか、と思ったりする。

僕も、他人のことは言えないのだが。

JAL123便の事故直後の同社の羽田-伊丹線に乗ったことがあるが、さすがに、その時の機内は空席ばかりで、暇を持て余したスチュワーデスとお喋りばかりしていた。

 

 

僕は、機内のオーディオ・サービスで「JAL名人会」を聞くのが好きだったが、飲み物のサービスが終わるのを待っていたかのように、

 

『皆様、当機は間もなく大阪国際空港に着陸いたします。お座席の背もたれを戻し、シートベルトをお締め下さい』

 

とのアナウンスが、落語を遮った。

 

大阪の雲は東京より低く垂れ込めているようで、高度を下げながらも、なかなか地面が見えてこないな、と首を傾げていると、不意に雲が切れて、窓のすぐ下に建物が現れたので、思わず足を持ち上げた。

 

 

伊丹空港で、僕は到着ロビーから出発ロビーに足を運び、東亜国内航空のカウンターで、14時05分発の松本行き603便の搭乗手続きを済ませた。

この年の4月に、社名を日本エアシステムに変更することが決定していたが、カウンターにポスターなどは見当たらなかった。

 

『航空輸送需要の多いローカル線については、原則として、同一路線二社で運営する。国際定期は、原則として日本航空が一元的に運営、近距離国際航空については、日本航空、全日空提携のもとに余裕機材を活用して行う。貨物専門航空については、有効な方法を今後早急に検討する』

 

との昭和45年の閣議決定に基づき、昭和47年に、航空3社に対する運輸大臣通達として、

 

『日本航空:国内幹線、国際線の運航と国際航空貨物輸送対策を行う。

全日空:国内幹線およびローカル線の運航と近距離国際チャーターの充実を図る。

東亜国内航空:国内ローカル線、国内幹線の運航』

 

と定めた「45/47体制」が見直されたのが、昭和60年だった。

 

 

TDAは、国際線進出を果たすために、社名変更に踏み切ったのであるが、これをきっかけに、我が国の航空3社は激しい競争に巻き込まれていく。

 

TDAの功績は、何と言っても、国内ローカル輸送を充実させたことであろう。

時刻表の航空欄をめくっても、このような路線に需要があるのか、と目を見張ることがあった。

松本空港もそうであるが、当時、TDAしか寄港しない地方空港は少なくなかった。

 

 

松本行き603便の機材は、国産のYS-11型で、ターミナルビルに接した駐機場の脇を通り過ぎていく他のジェット機に比べると、ひときわ小ささが目立つ。

ターミナルビルから機体まで歩き、タラップを昇ると、客室も首をすくめたくなるほどに小じんまりとしていた。

 

腰を落ち着けたシートの座り心地に、他機との差異は感じなかったが、座席回りがすっきりしているな、と思ったら、オーディオ・システムがついておらず、スチュワーデスの呼び出しボタンは、頭上の送風口や読書灯と一緒に配されていた。

荷物棚は、驚いたことに蓋のない開放型で、64席の座席数といい、バスに乗った気分である。

 

 

プロペラ機に乗るのは初めてだったので、小型機とはこのような造りなのか、と頷いたが、離陸前に、再び度肝を抜かれた。
 

8割方の席を埋めて搭乗客が揃い、スチュワーデスが扉を閉めると、双発のプロペラが片方ずつ始動したのだが、そのエンジン音はジェット機よりも遥かに大きかった。

プロペラエンジンというものの特性なのか、ジェット機よりも客室の遮音性が劣るのかは判然としないが、松本までの1時間10分を、この騒音の中で過ごすのか、と思う。

 


プッシュバックして誘導路に出ると、タキシングは案外にきびきびとしていて、TDA603便は、瞬く間に滑走路の端で離陸態勢をとった。

 

自分が乗る航空機が滑走路に正対して、いったん停止してから離陸を開始するスタンディング・テイクオフなのか、それとも機体を止めずにそのまま滑走を始めるローリング・テイクオフなのか、僕は1人で賭けをすることにしている。

前者はエンジン出力が安定し、滑走路の長さを有効に使えるため、安全性が高いと言われており、後者は離陸滑走距離が長くなる短所はあるものの、CO2の排出量や騒音を削減することが出来るという。

 

ローカル空港で多用されている機種だから、離陸滑走距離は大して長くないはずであり、ローリング方式かな、と予想したのだが、ベルト着用のサインが2度瞬き、

 

『皆様、当機は間もなく離陸致します。シートベルトを今一度お確かめ下さい』

 

とのアナウンスが流れたのは、誘導路から滑走路に大きく回り込んで、停止した時だった。

おお、停まったか、と思う。

 

YS-11型機は、停止したままエンジンの唸りを高めたかと思うと、勢いよく滑走を始め、ひょいっと飛び上がった。

浮いた後も、2時間前に乗っていたB747型機に比べると、揺れの振幅が大きいように感じられたが、何かと小気味の良い乗り心地の国産機だな、と感心した。

 

 

外国製の旅客機に比べれば、何かと質素な印象を浮けるYS-11型機であるが、国産機であることを、日本人として意識しない訳にはいかない。

 

太平洋戦争の敗戦後、占領下の我が国はGHQの航空禁止令により、全ての航空機を破壊され、航空機メーカーと航空会社が解体された。

サンフランシスコ講和条約による独立後、日本企業による航空機の運航や製造が一部解禁され、昭和26年に日本航空が、翌年にANAの前身である日本ヘリコプター輸送と極東航空が、更に翌年にはTDAの前身となる日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空が発足した。

航空機産業は、朝鮮戦争における米軍機の整備・修理に携わり、昭和30年に米国の軍用機の国内ライセンス生産を開始していた。

 

通産省は、昭和31年に、民間機の開発と生産によって産業基盤を安定させ、利用客の増加が見込まれた国内線に国産機を投入し、最終的には、海外への輸出で我が国の外貨獲得に貢献する方針を打ち上げたのである。

「輸送機設計研究協会」が東京大学内に設立され、三菱重工業、川崎重工、富士重工、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機、住友金属、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気、三菱電機、東京航空計器といったメーカーが参加し、日本海軍の零式艦上戦闘機や「雷電」、「烈風」、「紫電改」、二式大艇、陸軍の一式戦闘機「隼」、三式戦闘機「飛燕」、五式戦闘機、そして「航研機」の設計と製作に関わり、戦前の航空大国日本を支えた錚々たる技術者が集まったのである。

 

 

YS-11型機の初飛行は昭和37年であったが、その飛行で数々の問題点が浮き彫りになり、更に大幅な改修を余儀なくされたため、出荷は昭和39年にずれ込んだ。

それでも、東京五輪に向けてJALがアテネから運んできた聖火を、ANAのYS-11型機が全国に運ぶという大役を果たしたのである。

 

以後、国内外から受注が相次ぎ、昭和48年の生産終了までに182機が製造され、我が国の民間旅客輸送は平成18年に終了したが、自衛隊や海上保安庁、そして海外の航空会社が使用を続けた。

 

 

錚々たるメンバーであったはずの設計者たちが携わっていたのは、あくまで軍用機であり、旅客機の設計どころか、乗ったこともなかったらしい。

そのため、YS-11型機は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れている反面、騒音と振動などの居住性が悪く、操縦者の負担が大きい機体になり、安全性ばかりでなく快適性と経済性を重視する航空会社から厳しい評価を受けたと聞く。

特に、頑丈である反面、重くなった機体に対し、ロールスロイス製のエンジン出力の弱さが顕著で、あるパイロットは「クラウンに軽自動車のエンジンを乗せたような飛行機」と酷評している。

 

油圧や自動操縦装置もなく、別のパイロットは、「世界最大の人力飛行機」と評したらしい。

信頼性を向上させ、軽量化を図るための人力操舵であり、油圧操舵装置の破綻が原因となったJAL123便の事故を思えば、文字通りの腕力を強いられる操縦士の苦労は察するけれども、YS-11型機のアナクロな方向性だってあって良いではないか、と思う。

 

機齢50年を超えて現役であり続ける航空機は、多くない。

TDAに至っては、国外に輸出された中古の機体を購入したことすらあったと言う。

利用者としては、色々な欠点はあっても、機体構造が原因の事故を起こさなかったYS-11型機は、世界に誇って良い航空機だと思う。

 

 

松本空港を目指すTDA603便は、僕がJAL109便でたどって来た航空路V17を戻り、名古屋上空で航空路V58に乗り換えて、内陸を目指す。

 

機体を大きく傾けて左へ針路を変えた頃から、雲にところどころ切れ目が生じて、地上が見えるようになった。

中央アルプスの上空を飛行しているらしく、右の直下に伊那谷が見える。

銀色に輝くひとすじの線は、天竜川だろうか。

ジェット機よりも高度が低いようで、豆粒のようであるけれども、意外と明瞭に、建物や道路を走る車を捉えることが出来た。

 

 

信州のほぼ中央、松本市街から南西約9kmに位置する松本空港は、我が国で最も高い657.5mの標高に設けられ、内陸県に位置する空港としても唯一の存在で、他の内陸県である埼玉、栃木、群馬、山梨、岐阜、滋賀、奈良には空港がない。

 

開港は昭和40年7月であったが、すぐに定期便が就航した訳ではなく、昭和41年8月から、東亜航空がコンベア240型機を投入して、伊丹空港との間に1日1往復の季節便を飛ばせたのが始まりであった。

昭和57年から、東亜国内航空のYS-11型機が、1日2往復で通年運航されるようになり、僕が搭乗した時も、そのままの運航本数で据え置かれていた。

 

羽田空港への航空路線を開設する動きもあったらしいが、在日米軍立川基地周辺の飛行制限により迂回ルートとなるため、採算が望めないという理由で断念されたという。

実現したら必ず乗ったのにな、と残念でならない。

 

 
早くも安曇野が眼下に見え始めたが、到着予定時刻まで、まだ20分以上も残っていた。

早着するのか、と早とちりしたのだが、ぐるぐると空港の周りを旋回しながら高度を下げていくサークリング・アプローチに入り、空港の上空に達してから着陸まで、残り時間を費やした記憶がある。

 

松本空港は、高い山岳地帯に囲まれているために、計器着陸装置が使用できず、パイロットは目視のみで着陸するため、日本一着陸の難しい空港と呼ばれているらしい。

また、YS-11型機の特性として、胴体に比して主翼が長めであるために滑空性能が良く、パイロットに言わせれば、

 

「上昇もしないんですけど、降りるのも降りてくれない」

 

と、苦笑するような飛行特性であったらしい。

伊丹空港でスタンディング・テイクオフを行ったのも、それが一因かも知れず、航空管制官も、YS-11型機の誘導は、降下指示を早めに出したり、急かさないよう配慮していると、後に聞いた。

 

 

降下が難しい機体で、難易度が高い空港に降りようとしていることなど露知らず、僕は、上空から北アルプスや南アルプス、塩尻峠の向こうに除く諏訪湖などの眺望に夢中になりながら、なるほど、山に囲まれた空港にはこのように着陸するのか、と大いに感心した。

別に急ぎの用事は何もなく、松本空港からは松本駅行きの路線バスに乗り、篠ノ井線の列車で実家へ帰省するだけである。

 

YS-11型機の初乗りも堪能できたし、何よりも、航空機だけで東京から信州まで来た、という実感に、僕は有頂天だった。

乗り継ぎの待ち合わせ時間を含めても、羽田空港を離陸して3時間25分、機内にいた時間は2時間15分であるから、やっぱり航空機は速い。

あまりに呆気なさ過ぎる。

もう少し、YS-11に乗っていたいな、と思った。

 

故郷の大地へのYS-11型機の着地は、滑走路の途中でストン、と落ちるような、面白い感触だった。

 

 

 

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