蒼き山なみを越えて 第17章 昭和64年 みすずハイウェイバス | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和63年の9月に、信州を故郷とする高速バスファンとして、見逃せない出来事があった。

長野と飯田、長野と伊那・駒ケ根、そして松本と飯田を結ぶ3系統の県内高速バス「みすずハイウェイバス」が開業したのである。

故郷の長野市に初めて登場した高速バスであり、開業を知った時は、飛び上がるくらいに嬉しかった。

 

 

「みすずハイウェイバス」の前身は、昭和26年6月から、長野と飯田の間を国道19号線と国道153号線経由で結んだ「みすず急行」である。

長野市に本社を置く川中島自動車、松本市の松本電鉄、伊那市の伊那バス、飯田市の信南交通の4社が共同で運行し、国道19号線と国道153号線を使って、179.4kmを所要5時間40分で結んでいたと聞く。

 

ところが、平行する鉄道の速度向上や、モータリゼーションの普及により、開業後26年を経た昭和53年に、運転を休止している。

 

 

川中島自動車の社史で、「みすず急行」の開業直前の試運転と、運休間際に長野バスターミナルで撮影された写真を、目にしたことがある。

試運転の写真は、犀川沿いの国道19号線だと思われるが、当時の我が国の、ろくに舗装も行き届いていなかった国道の状態がよく分かる。

廃止直前の写真の、「急行 飯田」と書かれているバスは、四半世紀で我が国のバスはこれだけ大型化したのだな、と思わせる。

 

乗ってみたかった、と思う。

子供の頃は「みすず急行」の存在など露知らず、運休したのは僕が中学生になった年であるが、耳にした記憶すらない。

 

 

長野と、父の実家がある飯田との間は、幼少時から鉄道や自家用車で何度も行き来したのに、1度も「みすず急行」を利用しなかったのは、両親が敢えて避けていたのか、鉄道の方が圧倒的に便利だったからであろうか。

 

高速道路がなかった時代の、長野と飯田の往復は、本当に大変だった。

時に鉄道も利用したが、大抵は父が運転する車で出掛け、道中は楽しかったものの、「みすず急行」と同じ時間を費やす訳であるから、大旅行だった。

 

余談になるが、タクシーを利用したこともある。

僕が小学校低学年の頃で、飯田の祖母が病を得て危篤状態に陥り、まず父が自分の運転で先行し、僕と弟が学校を終えてから、タクシーを奮発して飯田に急行したのである。

 

 
昭和40年代後半の時刻表を開くと、当時、長野と伊那谷を結んでいた県内急行「天竜」3号が、長野駅を16時59分に発車するので、小学校が終わってからではぎりぎりに過ぎるし、しかも駒ケ根止まりだった。

最終列車の天竜峡行き「天竜」4号は、長野発19時07分だが、飯田着が23時04分、最寄りの駄科に23時24分着と、深夜に食い込むので、仮に「みすず急行」と同じ所要時間で走れるならば、両親は、出発を早めればタクシーの方が早く着くと踏んだのであろう。

 

交通公社の全国版時刻表に、「みすず急行」が掲載された形跡はない。

東京と長野、志賀高原を結ぶ特急バスや、長野と上田・臼田・軽井沢を結ぶ県内特急バスまで掲載されているのに、信州を縦断する急行バスは無視されている。

平日の夕方に長野を発つ便が、「みすず急行」にあったのかどうかは分からない。

なかったから、タクシーを使ったのだろうか。

 

日が暮れた国道をひた走るタクシーの後部座席で、寂しい夜景に目を遣りながら、幼心にも張り詰めた緊張感の中で過ごした5時間あまりのことは、今でも断片的に脳裏に浮かぶ。

病気や死について実感が伴わない年齢であったが、途徹もない異常事態でタクシーに乗っているのだ、ということは理解していた。

 

この時の料金が1万円を少々超える額だったことは明確に覚えていて、その時はそんなに掛かるんだ、と驚いたものだったが、現在の感覚では、長野-飯田間の200kmがその程度で済むはずがない、と思ってしまう。

昭和40年代後半のタクシー料金を調べてみれば、2kmまでの初乗りが170~280円、加算が500mごとに30~50円という時代であったから、ほぼ合致していることになる。

急行「天竜」の長野-飯田161.3kmが、乗車870円、急行料金300円という時代の話である。

 

幸い、祖母の容態は持ち直し、翌々日に父の車で長野に帰ることが出来た。

 

 
「みすず急行」が運休して10年後に、高速バスに生まれ変わった「みすずハイウェイバス」が開業した時点で、中央自動車道は全通していたものの、岡谷JCTで分岐する長野自動車道は、昭和61年3月に岡谷JCT-岡谷IC間、昭和63年3月に岡谷IC-松本IC間、同年8月に松本IC- 豊科IC間が部分開通した段階で、豊科ICと長野市内の間は国道19号線を使うしかなかった。

長野県庁と飯田バスセンターの間の所要時間は3時間50分で、当時、平行して運転されていた快速「みすず」と大差なかったが、長野-伊那・駒ケ根系統はすぐに運休している。

 

長野側の起終点が実家に程近い長野県庁であったので、母も「みすずハイウェイバス」をよく見掛けたようで、

 

「いつもガラガラだよねえ」

 

と呆れていた。

川中島自動車が昭和58年に倒産したばかりの頃だったから、なおさら心配になった。

それでも、当時の同社は、バスの塗装を一新したばかりで、「みすずハイウェイバス」にも新塗装を身にまとったピカピカの新車が投入されていたので、街で見掛けると眩しかった。

 

 

「みすずハイウェイバス」が全線を高速道路利用になって、長野-飯田間の所要時間が3時間という、それまで鉄道も成し得なかった速達性を発揮するのは、長野道が全通した平成5年である。

 

僕は、その前の国道19号線経由の時代に、母を「みすずハイウェイバス」に乗せたことがある。

飯田の父の実家に日帰りで出掛けることになった母に頼まれて、時刻表で旅程を調べたのだが、往路は快速「みすず」に手頃な時間帯の列車が見つかったものの、帰路に適当な列車が見当たらなかった。

僕は巻末の高速バス欄をめくり、ちょっぴり躊躇ったけれども、

 

「高速バスなら、ちょうどいい時間にあるよ」

 

と提案した。

 

家族で遠方にドライブする際に、母が車酔いするところを見た記憶はないのだが、匂いに敏感で、ガソリンスタンドでは車の窓を閉め切り、ハンカチで鼻を押さえて堪え忍んでいるのが常だったから、バスを好んでいたとは思えない。

 

 

母がバスに長時間乗車した経験がない訳ではなく、僕が富士吉田の昭和大学教養学部に在籍中、父兄会に出席するために、前夜に東京の叔父の家に泊まり、大学が用意したバスで新宿と富士吉田を往復している。

大学が用意したのは、前部と中央部に2つの扉を備え、普段は一般路線に使い、多客期に高速バスにも使用できる座席を備えた「ワンロマ」と呼ばれる車両だったので、乗り心地はどうだったのか、と心配したものだったが、その時の母は平気そうだった。

 

嫌だよバスなんて、という返事が返って来るかと思ったのだが、

 

「いいよ、バスで」

 

と、半ば諦め顔で頷いた母の念頭にも、富士吉田の往復の経験が去来して、何とかなる、と思ったのかもしれない。

 

 

当日は長野駅まで母を送ったのだが、朝1番の快速「みすず」は瞬く間に満席になり、席を確保するのがやっとだった。

 

帰りの「みすずハイウェイバス」が県庁前に到着する頃合いを見計らって、迎えにいくと、それほどの遅れもなくバスは到着した。

しかし、鉄道と対照的に、数える程の乗客数だったにも関わらず、母がなかなか降りて来ない。

ようやく乗降口に姿を現した母は、ふらふらして真っ青な顔をしていた。

 

「酔っちゃったよ。迎えに来てくれたんだ、ありがとね」

「いやあ、19号でちょっと飛ばし過ぎたかなあ」

 

心配そうな表情で、運転手さんが頭を掻いていた。

 

国道19号線は、犀川と絡み合いながら筑摩山地を縦断する山道で、アップダウンやカーブが多かったが、一定の道幅は保たれていたので、加速と減速を巧みに使い分ければ、速度は出せる。

殆んどが高速道路である東京-富士吉田間と勝手が違い、しかも豊科ICから長野県庁まで60kmあまりを1時間40分で走る運行ダイヤだったので、車が少ない夜道でもあり、バスは前後左右に大いに車体を揺らしながら疾走したのだろう。

 

 

僕が、いつ「みすずハイウェイバス」に初乗りしたのか、という記憶は、はっきりしない。

「みすずハイウェイバス」は何度も利用したので、記憶が入り混じってしまい、どれが初乗りだったのか、判然としない。

 

乗りたくてうずうずしていたのは間違いないが、大学の講義や実習が忙しくなって、昭和63年は、実家になかなか帰省できなかった。

おそらく、年内には乗れなかったと思う。

 

 

世の中は、激動の1年だった。

 

内閣総理大臣は、前年の11月に竹下登氏に変わっていたが、昭和63年に戦後最大の贈収賄事件と呼ばれたリクルート事件が発覚し、首相をはじめ、関係した政治家があまりに多数にのぼったため、政界は騒然となった。

未公開株という形で賄賂が配られたのは、如何にもバブル期の株価上昇を反映しているが、受け取ったのが秘書や妻であると責任転嫁する政治家を皮肉った「ふつうは“汚職”と申します」という新聞の見出しが、流行語になっている。

 

 

3月に青函トンネルが、4月には備讃瀬戸大橋が開通して、発足後1年が経過したJR各社が「一本列島」のキャンペーンを打ち出し、豪華な個室を備えた上野と札幌を結ぶ寝台特急「北斗星」の切符が入手困難になるほどの人気を呈した。

「北斗星」は、それまでの高かろう不味かろう、という我が国の列車食堂の評判を覆し、高級ホテルのレストランに引けを取らないインテリアを備え、完全予約制のフレンチディナーフルコースを供することで大きな反響を呼び、「ロイヤル個室」とともに「北斗星」の名を世間に轟かせたのである。

 

 

好景気を反映して、繁華街の賑わいは衰えず、強壮剤のCMの「5時から男」なる言葉が流行し、同時にNHK大河ドラマ「武田信玄」のナレーションの「今宵はここまでに致しとうございます」が、流行語大賞の金賞を受賞した。

 

「ふるさと創生事業」と称して全国の市町村に一律1億円がばらまかれたのも、この年である。

1億円を受け取った各自治体は、地域経済の活性化などを目的に観光整備などへ積極的に投資したり、基金や補助金として活用したようである。

長野県内で目立った利用方法としては、温泉探査を行い日帰り温泉施設と温泉プールからなるスポーツ施設「YOU游ランド」を整備した高山村、ふるさと創生基金として貯蓄し利息を文化事業に活用した更埴市、埴科郡戸倉町 - 戸倉駅近くに「戸倉宿キティパーク」を整備した戸倉町、荒砥城跡を「城山史跡公園」とする整備資金として活用した上山田町、コンサートなどを開く「ふる里村塾」と称する文化事業を開始した川上村、下伊那郡喬木村 - 「椋鳩十記念館・記念図書館」を建設した喬木村、「桃介記念公園整備事業」により近代化遺産の「桃介橋」を復元整備した南木曽町などが挙げられる。

 

「地域創生事業」の当事者である自治省としては、

 

「『何でも使って下さい。その代わり、いい事業をやったところは評価されるでしょうし、ろくなことをやらなかったところは笑われるでしょうね』と言う以外には、自治省としては言いようが無い」

「ただ、せっかくみんなに1億配っているから『大いに議論して楽しんでください』とお願いしているだけです」

 

と、戸惑いを隠し切れない見解を示し、竹下首相は、

 

「これによってその地域の知恵と力が分かるんだわね」

 

と、側近に漏らしていたという。

膨大な税金を投じて、地域の叡智と力量を図ることにどのような価値があったのか、と思うけれども、バブル期らしい、何とも大らかな政策だった。

 

 
バブルと言えば、個人的には、ディスコやユーロビートの軽快な曲調を思い浮かべる。

 

昭和60年前後から、麻布十番の「マハラジャ」、青山の「キング&クィーン」、六本木の「ジバンゴ」「エリア」、日比谷の「ラジオシティ」など、豪華な内装を売り物にした大規模なディスコが次々と開店し、更に、それまで倉庫や流通関連施設が立地しているに過ぎなかった湾岸地区が「ウォーターフロント」として再開発され、「MZA有明」「サイカ」「ゴールド」などのナイトクラブやディスコ、ライブハウスなどが開店して、プレイスポットとしても注目を集めるようになっていた。

 

大学の先輩に連れられて、六本木のディスコに出掛けたこともあったが、ノリについていけず、肩身の狭い思いで、憮然と酒をたくさん飲んだ記憶だけが残っている。

大学祭のパーティもディスコ方式で開かれ、友人が有名どころのユーロビートの曲をメドレーに編曲し、片思いだった薬学部の女学生と踊った思い出は忘れられない。

メドレーのテープは、後にダビングしてもらい、今でも時々聴いている。

 

我が国の昇り龍の如き勢いを肌身に感じて、21世紀は日本の時代、と疑わなかったのは、僕だけではないと思うけれども、華やかな世相を見るにつけ、自分だけが取り残されているような焦燥感に駆られたものだった。

世間は浮かれていても、僕はしがない貧乏学生で、繁華街で友人と楽しく時を過ごし、品川区大井町の自宅に帰り着けば、6畳1間・風呂なし・トイレ共同の古びた木造アパートの部屋が待っているだけだった。

 

現実から逃避するかのように、時折りバス旅に出掛けてはみたものの、時間も経済的余裕もなく、手軽に楽しめたのは映画だった。

この年の公開映画は、「遠い夜明け」「フルメタル・ジャケット」「グラン・ブルー」「異人たちとの夏」などの印象深い作品が多かった。

 

 

クリント・イーストウッドの「ダーティハリー5」と、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「レッド・ブル」が、ほぼ同時に公開されたのも、この年の秋である。

 

外国の俳優で僕がファンになっていたのは、チャールトン・ヘストンとクリント・イーストウッドの2人で、どちらも主演映画がテレビ放映される頻度が高く、吹き替えの声優が前者は納谷悟朗、後者は山田康雄と定まっていて、声に惹かれてファンになったようなものである。

長野の実家にも大井町のアパートにもビデオデッキがなく、テレビ放映の映画をカセットテープに録音し、映像を思い浮かべながら何度も聴き直したので、ますます声優の比重が高い楽しみ方だった。

ラジオや音楽を聞きながら勉強する学生は多いが、僕は、映画の音声を聴きながら机に向かっていたのである。

 

もちろんDVDなどなく、ビデオすら家庭に普及していなかった頃に、映画を音で楽しむ需要は厳然と存在していたようで、昭和50年代の後半に「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」などをきっかけにアニメブームが起きた当初は、アニメ映画のBGM集ばかりでなく、「ドラマ編」と銘打ったレコードやカセットテープが売られていた時期があった。

街に幾つもレンタルビデオ屋が開店する時代になっても、僕は、その方法で、案外楽しんでいた。

 

 
1980年代以降、ヘストンは出演作が目に見えて減り、映画館で観たのは平成2年に公開された「クライシス2050」だけだったが、イーストウッドは脂が乗り切った時期で、年1作のペースで新作の映画を製作していた。

東京に出て、初めて映画館に足を運んだのは、イーストウッドが監督・主演した小品「センチメンタル・アドベンチャー」を五反田の小さな映画館に観に行った時で、彼の肉声が山田康雄とあまりにも異なっていることに驚いたものだった。

 

昭和63年の秋は、もちろん「ダーティハリー5」が見たくて、友人を誘って川崎の映画館へ出掛けたのだが、「ダーティハリー5」は満席で、急遽「レッド・ブル」を上映している劇場に変更した。

逃亡した麻薬密輸犯を追って、ソビエト連邦の警官がニューヨークにやって来ると言う話である。

1985年に書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフ氏による「ペレストロイカ」が、この年の我が国の流行語大賞の新語部門で金賞となり、冷戦が終わるのかもしれない、との期待を抱かせた情勢を背景にしている。

アクションシーンも迫力があったが、いがみ合いながらも心を通わせていく米ソの刑事のやりとりが、この上なく面白かった。

 

米刑事「Captain Danko, congratulations. You are now the proud owner of the most powerful handgun in the world」

ソ刑事「Soviet Podbyrin, 9.2milimeter, is world's most powerful handgun」

米刑事「Oh, come on, everybody knows the 44 Magnum is the big boy on the block. Why do you think "Dirty Harry" uses it?」

ソ刑事「Who is "Dirty Harry"?」

 

44マグナムを愛銃としているイーストウッドの当たり役「ダーティ・ハリー」の5作目を観そこねただけに、この場面には吹き出した。

 

 

大韓民国で、昭和39年の東京大会に続くアジアで2度目の五輪が開催され、隣国がここまで経済発展していたのか、と眼を見張らされたのも、昭和63年である。

NHKのソウル五輪テーマ曲となった浜田麻里の「Heart & Soul」は、未だに僕が好きな曲である。

 

一方で、同国の大統領が、光州事件など民主化運動への武力弾圧や、熾烈な言論統制を継続していることを合わせて報じたマスコミは、少なかったように記憶している。

前年には、朝鮮民主主義人民共和国の工作員による大韓航空機爆破事件が起き、朝鮮半島は華やかな五輪の陰で、東西冷戦の緩和とも関係なく、平和と安定に程遠い情勢だった。

 

 

各地で高速バス路線の開業が相次ぎ、バス業界が活気に溢れていたのも、昭和63年の特徴だと思っている。

 

昭和41年の高速バス路線は僅か8路線、1日100本程度の運行回数で、年間400万たらずの輸送人員であり、昭和51年も、のべ56路線、1日の運行回数450本、年間輸送人員1100万人という状態であったのだが、

 

昭和60年:199路線・運行回数1516本/日・輸送人員2915万人/年

昭和61年:249路線・運行回数1866本/日・輸送人員3253万人/年

昭和62年:262路線・運行回数1961本/日・輸送人員3432万人/年

昭和63年:313路線・運行回数2253本/日・輸送人員4016万人/年

平成元年:478路線・運行回数2444本/日・輸送人員4395万人/年

 

と、劇的な増加を示したのである。

特に、昭和63年は輸送人員の伸び幅が最も多く、高速バスが市民権を得たのだと解釈している。

 

 

一例を挙げるならば、東京と定期の直通の高速バスで結ばれた府県庁所在地は、昭和63年末までに19を数え、昭和30~40年代から運行している8路線は別としても、9路線が昭和63年に開業している。

 

秋田:昭和63年2月 新宿-秋田「フローラ」号

岩手:同年7月 東京-盛岡「らくちん」号

宮城:昭和37年6月 東京-仙台「東北急行バス」

山形:同年6月 東京-山形「東北急行バス」

茨城:昭和63年4月 東京-水戸「常磐高速バス」

新潟:昭和60年12月 池袋-新潟「関越高速バス」

富山:昭和62年12月 池袋-富山

石川:昭和63年12月 池袋-金沢

山梨:昭和34年7月 新宿-甲府「中央高速バス」

静岡:昭和44年6月 東京-静岡「東名ハイウェイバス」

愛知:同年6月 東京-名古屋「東名ハイウェイバス」「ドリーム」号

三重:昭和63年12月 池袋-津・伊勢「ISE EXPRESS」

奈良:昭和63年8月 新宿-奈良「やまと」号

京都:昭和44年6月 東京-京都「ドリーム」号

大阪:昭和44年6月 東京-大阪「ドリーム」号

兵庫:昭和44年6月 東京-神戸「ドリーム」号

和歌山:昭和63年10月 渋谷-和歌山「ミルキーウェイ」号・「サザンクロス」号

鳥取:昭和63年5月 品川-鳥取「キャメル」号

島根:昭和63年12月 渋谷-松江・出雲「スサノオ」号

 

 

平成元年になると、青森、岐阜、福井、滋賀、広島、香川、徳島が加わり、県庁所在地以外の街を発着する路線も大幅に増えた。

運行距離も700~800kmに達し、それまで航空機が担っていた距離に高速バスが進出した、と驚きの念が混ざった注目を浴びたものだった。

 

昭和と平成を跨ぐ2年間が、令和に至る高速バス網の発展が一気に加速し、バス事業者も長距離運行に自信をつけた時期と言えるだろう。

 

 

僕は、時刻表の発売日になると書店に寄り、立ち読みで新規開業の高速バスを探すようになった。

それまで、巻末の会社線欄にバラバラに掲載されていた高速バス路線が、専用欄にまとめられたのも、昭和63年である。

 

あの街にもバスで行けるようになった、この街までバス路線が延びた、という、バスファンにはこたえられない時代が始まった。

未乗の高速バスに乗る楽しみを覚え、鉄道ならば目もくれなかっただろうという土地に足跡を記すことが面白くなった。

 

 

そのような時代を迎えても、長野市への定期高速バス路線は、なかなか開業しなかった。

ひとえに、長野市が高速道路網から取り残されていたからである。

 

昭和36年に渋谷と長野を結ぶ東急バスの路線と、上野と長野・湯田中を結ぶ長野電鉄バスの路線が開業していたのだが、前者は昭和46年に廃止され、後者は冬季運行のスキーバスとして細々と運行されているだけだった。

 

 
この頃の僕は、帰省に際して、旅費を節約するために、東京と長野を普通列車で往復することが多かった。

信越本線の特急「あさま」ならば3時間あまりで走り終えるが、普通列車は5~6時間を要した。

碓氷峠から長野県内にかけては、豊かな自然に心が和む車窓だったが、関東平野の区間は、代わり映えのない街並みが坦々と続くだけで、早く時間が過ぎることだけを念じていた。

乗り物好きを自認している僕が、早く降りたくなったのは、後にも先にもこの時だけである。

 

東京と直通する高速バス路線が東北から山陽、山陰、四国まで伸びている御時世でありながら、僅か200km圏の長野市に高速バスが運行されていないことが無性に恨めしかった。

昭和63年9月の「みすずハイウェイバス」の登場は、高速道路が長野市に通じた訳ではないにも関わらず、故郷の街が高速バスで他の地域と繋がったという一事だけで、世界が広がったように感じられた。

 

 
我が国が、突然、歴史の大きな転換に見舞われたのは、「みすずハイウェイバス」の開業とほぼ期を一にしていた。

 

前年の昭和62年4月から嘔吐を繰り返していた昭和天皇が、十二指腸から小腸にかけての腸閉塞と診断され、同年9月22日にバイパス手術が行われたのだが、病名は慢性膵臓炎と発表され、12月に公務に復帰されたので、僕はそれほど気にとめていなかった。

ところが、昭和63年の9月に入ると高熱が続くようになり、9月19日に大量に吐血して緊急輸血が行われたという一報を聞いて、愕然となった。

その後も上部消化管からの出血が断続して吐血、下血を繰り返し、胆道系の炎症と閉塞性黄疸、尿毒症を併発し、重篤な御病状に陥ったのである。

 

はっきりと病名が報じられた記憶はないのだが、少しでも医学を噛った者であれば容易に想像がつく御容態で、話題にする友人たちの表情も暗かった。

連日、「天皇陛下御重体」と大々的に報道され、繰り返される輸血の量まで事細かに知らされる中で、全国で自粛の動きが広がった。

大規模な行事がイベントが次々と取り止めになり、各国大使館もイベントを中止、在日米軍、自衛隊も観閲式や基地祭などを中止した。

この年のプロ野球セ・リーグの優勝は中日、パ・リーグは西武であったが、恒例のビールかけや優勝パレードを行わず、日本シリーズを西武が制した時も、西武百貨店が優勝セールを自粛している。

井上陽水が車の窓を開けて「みなさーん、お元気ですかー。失礼しまーす」と言う新車のCMが、昭和天皇の御病状の悪化に伴い、消音されて口パクになったのはその最たる例であるが、若干、行き過ぎではないかと感じられたのも事実である。

各地に昭和天皇の病気平癒を祈願する記帳所が設けられ、僕も、友人と連れ立って皇居前で記帳した。

 

「昭和」が終わるかもしれない──

 

明治以来、精一杯の背伸びをしながら列強と肩を並べ、欧米とアジア・太平洋の覇権を争い、泥沼のような戦争に大敗を喫したにも関わらず、経済大国として不死鳥の如く蘇った「昭和」という時代に対する感慨は、当時の日本人に共通のものだったと思う。

その激動の時代が、1人の天皇の御代に凝縮されていること、僕らが太平洋戦争中の国家元首を未だに戴いていることも、世界的に稀有なことだった。

 

曲がりなりにも空前の繁栄を謳歌している時期に、「昭和」が終焉を迎えようとしていたのは、多くの人々が肯定的に60余年を振り返ることが出来たという意味で、我が国も、昭和天皇も、幸運だったのではないか。

 

 

年賀状に賀詞を使うことさえもはばかられる風潮の中で、正月が明けた。

 

昭和64年1月3日に、僕は、思い出深い旅に出た。

「みすずハイウェイバス」と「中央高速バス」を乗り継いで、バスだけで長野から東京に行ってみようと思い立ったのだ。

それだけ、普通列車での行き来に飽いていたのだが、この時が「みすずハイウェイバス」の初乗りだったのかもしれない。

 

 

僕が乗り込んだのは、自宅に程近い長野県庁停留所を15時00分に発車する、飯田行きの「みすずハイウェイバス」だった。

国道18号線を南下して、長野バスターミナルに立ち寄ったのだが、乗り込んで来た乗客は僅かだった。

繁華街の中央通りや長野駅前を通らないので、県庁への用務客だけを対象にしているのか、と首を傾げたものだったが、後に、新田町交差点に近い昭和通り停留所と、長野駅近くの千歳町停留所を経由するようになった。

中御所の交差点で国道19号線に右折し、裾花川に架かる裾花橋で上流の県庁を見通しながら、玄関で見送ってくれた母の顔を思い浮かべて、行ってきます、と心を改めた。

 

善光寺平の西の縁をなす山裾に沿って、住宅や工場が目立つ郊外風景の中を進めば、少しずつ田畑の比率が高くなっていく。

傾斜地に広がる住宅地にある小市・安茂里停留所を、乗車する客がいないままに通過し、左に右にヘアピン・カーブを描くと、国道は犀川の川べりに突き当たった。

川べりを行く国道に落石防止の洞門が断続し、川面が路面のすぐ下に迫っている。

これから安曇野まで、この川を遡って行くのである。

千曲川と合流する川中島が眼の前なので、筑摩山地を刻んで来た旅の終わりが近いことを喜ぶかのように、川幅がのびやかに広がっている。

小田切ダムのすぐ下流であるため、水量は少なく、河原の石が弱々しい陽の光にきらきらと輝いている。

 

 

武骨な小田切ダムを右手に眺めながら両郡橋を渡り、その先の登り坂に設けられた秋古洞門と犬戻トンネルは、すれ違いにも苦労する狭い幅員で、暗い照明の中に、行き交う車のエンジン音と排気ガスだけがこもっている。

 

小田切ダムで堰き止められて、川幅いっぱいに濃緑色の水を湛える犀川に沿い、赤錆びた明治橋を渡れば、中条村や小川村、美麻村、大町市へ向かう県道31号線を分岐する。

中条村と小川村が、「おやき」による村おこしを始めたのがこの頃で、国道19号線にも、「おやき」の看板を掲げたドライブインが見受けられた。

 

その先の大安寺橋では、昭和60年1月に、凍結した対岸の急坂を止まり切れなかったスキーバスが犀川に転落し、26人もの生命が失われた。

川に対して橋を斜めに渡し、手前の下り坂と急カーブを直線にした新しい橋が完成する直前であっただけに、無念としか言いようのない事故であった。

左手には、古い橋の台座が残り、慰霊塔がひっそりと立っている。

 

 

その先も、水篠橋、穂刈橋、大原橋、日名橋、置原橋、川口橋、児玉橋、山清路橋、睦橋、木戸橋と、犀川を右岸、左岸と渡り歩く幾つもの橋が控えている。

似たような地形で、似たような川幅を渡る箇所も少なくないのだが、橋の形状は様々で、設計者が楽しんで造ったのかな、と妄想を膨らませたくなる。

 

「この先、〇〇から△△までの区間は連続雨量130mm以上の場合は通行止になります」

 

という標識が所々に見られ、130㎜とは、どのような降り方なのだろう、と思う。

国道19号線は、北信と中南信を結ぶ重要な幹線国道だが、頻発する落石や土砂崩れのために、いつも何処かで工事をしていて、筑摩山地の地勢の険しさと道路行政の遅れを象徴していた。

 

それでも、僕は、国道19号線が好きだった。

父や母の実家に通じる慣れ親しんだ道と言うだけでなく、信濃路の風情を強く感じる道として、国道19号線の長野-松本間と、国道18号線の豊野から信濃町までの区間が筆頭だと思っている。

その道筋を、信濃国の枕詞である「みすず」を冠した高速バスで走れるとは、何と幸せなことであろうか。

高速道路でないのはもどかしいけれども、少なくとも、高崎線の普通列車より格段に面白かった。

 

 

みすずかる 信濃の真弓 吾が引かば うま人さびて 否と言はむかも

みすずかる 信濃の真弓 引かずして 弦著くるわざを 知ると言はなくに

 

と、万葉集に詠まれた2首の相聞歌が、「みすず」の起源である。

原書には「み薦刈る」と書かれ、別名「スズ」「ミスズダケ」とも呼ばれる笹の一種の「篠竹(スズタケ)」を指している。

江戸時代の国学者が「みすゞ」と読んだことから、「みすずかる」が信濃の国の枕詞となったのだが、昭和の国文学者は「み薦」を「みこも」と読むのが正しいと提唱し、現在では「みこもかる」が通説となっている。

しかし、信濃の枕詞は「みすずかる」ですっかり定着しているし、その美しい響きからは、誤読してくれて良かったと思う。

 

「真弓」とは、「檀」とも書くニシキギ科の落葉樹で、枝がよくしなるので、弓の材料として使われたと聞く。

真弓を詠んだ歌は他にも幾つかあるのだが、真弓の木そのものよりも、弓のことを指している場合が多い。

 

この相聞歌は、最初は男から女に、2首目は女から男への返歌であるが、女は男の誘いを諾としたのか、それとも振ったのか。

 

信濃の真弓を引くように貴女を誘ったら嫌と言うだろうか、引いてもいないのに真弓を引く技を知っているとは言えないでしょう──

 

拒絶にも誘惑にも聞こえる、微妙な言い回しだな、と迷ってしまうのは、僕が無粋な人間だからだろうか。

 

 

長野市を出て信州新町に入る水篠橋も、「みすずばし」と読む。

 

水篠橋を渡り水内ダムを過ぎた頃、たっぷりと水を湛えた犀川が巻いている山の陰に、古い石橋がちらりと覗く。

県歌「信濃の国」に「心してゆけ」と歌われた、父娘の哀しい伝説が残る久米路橋である。

病に臥している娘に、赤飯が食べたい、とせがまれた父親が、明日をも知れない娘のためならば、と地主の蔵からもち米と小豆を盗んでしまう。

外で遊べるほどに治癒した娘は、

 

「おら、うまい小豆まんま食ってるぞ」

 

と、村の子供たちに吹聴したことで、父親が捕らえられ、難工事だった久米路橋の人柱にされてしまう。

娘は傷心のあまり口を利かなくなり、ある時、猟師が雉の鳴き声を耳にして鉄砲で撃ち落としたのを見て、

 

「雉も鳴かずば撃たれまいに」

 

と一言だけ呟いた、という。

あの橋が久米路橋だよ、と、子供の頃に国道19号線を走っている時に、この伝承を聞いた。

信州が経験した貧しい時代に思いを馳せれば、粛然とする。

 

ジンギスカンによる町起こしを始めて、あちこちにカナの看板が目立つ信州新町の町並みは、眠っているかのような静けさに包まれていた。

おやきにしろジンギスカンにしろ、よく知っている町村でありながら、いきなり幼少時には聞いたこともなかった名産物が飛び出すと、戸惑ってしまう。

信州名物とされる馬刺しや、南信のソースカツ丼、伊那のローメンなども、僕は耳にしたことも口にしたこともなく、単に世事に疎かっただけかもしれないが、この頃から町おこし、村おこしが盛んになった結果かもしれない。

 

 

「みすずハイウェイバス」は、山あいに小さな村落が断続する大岡村と生坂村を走り抜けていく。

生坂村の外れにある山清路は、犀川の流れが狭まって両岸に峻険な断崖がそそり立ち、ちょっとした峡谷のようになっている。

父の実家を行き来する際に、必ず小休止したドライブインの古びた佇まいが、無性に懐かしい。

 

崇神天皇の末子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王が、都から、現在の大町市に当たる王町に下った際に、安曇平を流れる川がしばしば氾濫することを憂い、下流の川幅を広げる「山征」工事を行ったのが山清路であり、「山征地」と名づけられたのが、地名の由来であるという。

この逸話が、信州に伝わる「小泉小太郎」伝説を生んだと言う説がある。

 

自身の子育ての経験を踏まえた「ちいさいモモちゃん」をはじめ、多くの児童文学を執筆する一方で、全国の民話を採集していた松谷みよ子氏は、「信濃の民話」をまとめた際に、「民話とはこれほどまでに土地に生まれて生きた人々の喜びや悲しみがこめられているものだったのか」との思いを抱いたと記している。

数々の伝承の中で松谷氏の心を最も惹きつけたのが「小泉小太郎」伝説で、後に、代表作「龍の子太郎」の原案となった。

幼少時に、僕が夢中になって何度も繰り返し読み込んだ作品である。

 

 

呑気で暴れん坊の太郎は、祖母と2人暮らしで、両脇に3つずつの鱗の形をしたあざがあり、村の子供たちから「龍の子 龍の子 魔物の子」と囃したてられていた。

祖母が急斜面の小さな畑で転び、腰を痛めた際に、

 

「いつなんどき、ぽっくり逝ってしまうか分からないから」

 

と、太郎の母親について語り始める。

 

祖母の娘である太郎の母親たつは、太郎を身籠もりながら夫を亡くし、身重で当番の山の仕事に出掛けた際に姿を消してしまう。

探しに行った祖母は、大きな沼で龍の姿になったたつと出会い、何としてもお腹の子を産むので育ててほしいと言われ、ある日、木の枝で編んだ巣のような入れ物が川を流れてきて、中に太郎の姿を見つける。

太郎は手に持っていた水晶のような玉、実は龍と化したたつの目をしゃぶりながら成長するが、盲目の龍となったたつは、太郎が3歳になると、遠い北の湖へ行くと言い残して去る。

 

太郎は、近くの池に棲む白蛇に、龍の居所を知る老女の居所を教わり、9つの山を越えて母親を探す旅に出て、道中、多くの人々と出会い、様々なことを学んで成長していく。

目的の湖に辿りついた太郎は、たつと出会い、悪阻で何も口に出来なった時期に山で飯炊き番を任されて、捕まえた3匹の岩魚を全て食べてしまったことで、龍にされたのだと聞かされる。

 

「おかあさんはたまらなくおなかがすいてきた。さっきも言ったように、その頃のおかあさんは、なにひとつのどへとおらず、水を飲んでも吐き出すようなありさまだった。

それが、どうだろう。そのいわなの香ばしい匂いを嗅ぐと、気も狂うほどおなかがすき、食べたくなってきたのだよ。

1匹ぐらいならいいだろう、みんなが食べるとき、わたしが食べんでいればいい、おかあさんはとうとう、いわなを口へいれた。そのうまいこと……、はらわたへ浸み通るとは、あのようなことを言うのだろうか。生まれてから、本当に初めてと言っていいそのうまさ、見る間に1匹、きれいに食べてしまった。

ところが、こうして1匹食べると、もう、どうにも我慢ができない。2匹食べ、3匹食べ気がついたときには、いわなは1匹も残っていなかった……。

するとどうだろう。のどの奥で火が燃えているように、口の中がかっかっと火照って、のどが乾いてきた。おかあさんは手桶の水をごくごく飲んだ。飲んでも飲んでも、のどは焼けつくように乾いてくる。おかあさんはたまらなくなって、谷川へ駆け下りると、水へ口をつけ、ごくごくごくごく、飲みに飲み続けた。すると、急に体中の血が、どっと逆に流れたかと思うと、くらくらとして……おかあさんはそれっきり、気を失ってしまったのだよ。

気がついたとき、おかあさんの姿は恐ろしい龍にかわり、いつの間にできたか、それも知らない、深い沼に住んでいた……。そのとき、おかあさんは思い出したのだ。3匹のいわなを食べた者は龍になる、という言い伝えを……」

 

母親が岩魚を夢中で食べる描写は、最も子供心に強く刻まれた一節で、龍になってしまうと言う結末の恐ろしさもさることながら、岩魚とはそんなに美味しいものなのか、と大いに食欲をそそられた記憶があるから、僕も余程の食いしん坊である。

川の水まで飲み干してしまうような喉の渇きという感覚も、我が事のように実感として理解できたのは、塩漬けの魚が食卓に並ぶことが多い信州の出身だからであろうか。

 

太郎は長い旅を続けるうちに、祖母や村の人々が広く平らな土地で幸せに暮らせるようになって欲しい、そのために山を崩して湖の水を全て海へ流し、平らな土地を作りたい、と願うようになっていた。

 

「おらの国は、まんず、山、山、山ばかり。みんな、立っているのがやっとのところに畑を作って生きている。おら、昔はそれが人間の暮らしだと思っていた。 

でも、今は違う、そればかりが人間の暮らしじゃない。土地さえあればうまい米もつくれるし、もっともっと、楽しい暮らしも出来るんだってことが……おら、旅をしているうちに分かってきた。

おら、思った。おら、今まで、食っちゃね、食っちゃねするばかりだったども、やっと今、自分がなんのために生きているのか分かった、ってな。

おかあさん、お願いだ。この湖をおらにくろ。おら、山を切り開いて水を流し、ここに、見渡すかぎりの田圃を作って、山の人たちを呼び集めたい。そして、みんなが、腹いっぱい食える暮らしを作りたい。せば、もうおかあさんのように悲しい思いをする人はいなくなるんだ」

 

たつにとっては、生きて行くために必要な湖がなくなってしまうことになるのだが、

 

『たとえわたしはそのためにどうなっても……。わたしはそれでいい、この子の願いに力を貸してやろう。自分の事しか考えることができなくて龍となったわたしの、それは、たった1つのつぐないなのだ』

 

と決意する。

 

「龍の子太郎、おまえの気持ちはよくわかったよ。おかあさんは今日はじめて、龍となったことを嬉しいと思った。なぜなら、おかあさんのからだは、どんな鉄よりも堅いのだよ」

「じゃあ、おかあさんが、自分のからだを山へぶつけて、山を切り崩してくれるんか……。おら、そこまで考えなかった。おら、たったひとりででも、山を切り開こうと思っていた。やるとも、おかあさん、やるとも!」

 

という母と子のやりとりから、手強い山に挑む中で、たつの身体から血が流れ、吐く息が炎となって山肌を焼く場面までは、今でも涙なくしては読むことが出来ない。

何という凄絶な、そして純粋な母親の愛情であろうか。

 

たつの言葉遣いは、母の口調とよく似ているように思えてならず、幼かった僕は、いつしかたつの言葉を母の声に置き換えて「龍の子太郎」を読み進めていたことを、今でもよく覚えている。

 

昼夜を跨ぐ太郎と母親の挑戦にも関わらず、山はびくともしなかったのであるが、そこへ、以前に太郎が助けた鬼が雷を集めて馳せ参じ、共に山を砕く場面には、思わず喝采を叫びたくなった。

ついに山が裂け、水が流れ出て、湖の底から平坦で肥沃な土地が現れたのである。

太郎が傷ついたたつの傷口をさすり、その涙が龍の目にかかった時、

 

『龍の姿は、みるみる優しい女の人の姿に変わり、閉じられた目は開いて、そこに龍の子太郎のおかあさんが現れたのです。

 

「ありがとうよ、龍の子太郎」

 

おかあさんは、龍の子太郎の手を握りしめて泣きました。

 

「おまえがわたしを人間にしてくれたのだよ。もしおまえが来てくれなかったら、わたしは、日もささない、暗い水底で、自分を責め、あるときは恨みの声をあげながら、一生うごめいていただろう。

わたしは、いつもおまえを待っていた。おまえが強く、賢い子になって、わたしを救ってくれるだろう、と夢見ていた。だけど、おまえは、わたしが考えていたより、もっと強く、賢くなってきてくれたのだ。おまえの勇気が、わたしを引き上げ、人間に戻してくれたのだよ……」』

 

 

昭和50年から放送が開始されたテレビアニメの「まんが日本昔ばなし」のオープニングには、龍に乗った子供のシーンが描かれ、僕は「龍の子太郎」がモチーフなのではないかと思っていたのだが、「龍の子太郎」そのものを放送した回はないようである。

 

代わりに、昭和54年にアニメとして映画化され、「キューポラのある街」でメガホンをとった浦山桐郎が監督し、たつを演じる声優に吉永小百合が起用されている。

 

 

「小泉小太郎」伝説では、信州にあった大きな湖の水を落として現れたのが安曇野であり、流れ出たのが犀川であるとしている。

3匹の岩魚を食べれば罰として人の姿を失う、という伝承は、秋田に伝わる八郎伝説が基となっているらしい。

松谷みよ子氏は、食べ物は平等に分け合わねばならないと戒めた貧しい山村の掟を表したものと解釈しており、久米路橋の父娘伝承に通じる話ではないか。

 

「みすずハイウェイバス」の車窓から、切り立った峡谷に満々と水を湛えた山清路を眺めながら、山国の信州で、貧しさに屈することなく、血の滲む思いで農地を切り開き、営々と米作りに携わってきた先人たちに、改めて思いを馳せた。

 

犀川を渡る最後の橋となる木戸橋は、それまでと趣が異なり、山なみが後退して広い河川敷に飛び出すので、ようやく山越えが終わって安曇野に出たのだな、という感慨が湧く。

龍の子太郎と母龍が湖の堰を切ったのは、まさにこの辺りではなかろうか、と思わせる地形である。

河原を照らす夕日が、川面を鈍く染めていた。

 

 

明科町と豊科町の集落の軒先をかすめるように走り抜ければ、「みすずハイウェイバス」は国道19号線に別れを告げて、豊科ICから長野道に乗る。

それまでの遅々とした走りっぷりが嘘のように、バスはぐいぐいと速度を上げたかと思うと、不意に減速して、梓川SAで休憩した。

梓川とは安曇野における犀川の別名で、源流は飛騨山脈の槍ヶ岳であり、有名な上高地の大正池も梓川の上流で、大正4年の焼岳の噴火による溶岩流で堰き止められて形成された。

普段ならば、川ごしに飛騨山脈の秀峰が一望できるのだが、この日は、分厚い雲にすっかり覆われて、山裾しか見えなかった。

 

左手に小さく松本城を抱く松本市街を見遣り、塩尻峠の折り重なる山々に連続して穿たれたトンネルをくぐって、岡谷ICの先の岡谷トンネルを抜けると、バスは、いきなり岡谷市の上空へ放り出された。

下り線578.3m、上り線593mの橋長を持つ岡谷高架橋で、川岸山地と西山の中腹にある中央自動車道岡谷JCTを結ぶために、最高所で60mの高さがあり、よくぞ市街地の上空にこのような橋を建設したものだ、と息を呑んだ。

このあたりは、中央構造線と糸魚川静岡構造線の断層帯が重なっているために、岡谷高架橋には耐震性が強い「多径間連続ラーメン箱桁橋」構造が採用され、騒音の減少や維持管理費の削減、曲線を多用した仕上げによるつらら防止や電波障害対策に効果を発揮していると聞く。

ラーメン箱とはなんぞや、などと首を傾げてしまうが、拉麺ではなく、ドイツ語で骨組みを意味する「Rahmen」である。

 

 

水晶のように丸く輝いている諏訪湖を見下ろしながら対岸に渡った「みすずハイウェイバス」は、上り線に背を向けて、10kmほど伊那谷方面に向かい、辰野PAに滑り込んだ。

小ぢんまりとした駐車場の隅にある辰野バスストップでバスを降りると、長野県庁を出て2時間半ほどが経過していた。

 

身を切るような寒風に吹かれながら駐車場の出口を探し、下道で高速道路の盛り土をくぐって、下り線から上り線へと移動した。

パーキングエリアから徒歩で高速道路の外に出たのは、初めての経験だった。

 

新宿行きの「中央高速バス」は、飯田発と駒ケ根・伊那発の系統を合わせれば、1時間に1~2本程度運行されており、待つ程のこともなく京王バスが姿を現した。

乗降口を昇って車内を見渡せば、「みすずハイウェイバス」より遙かに混雑している。

長野市から来た乗客など1人もいないのだろうな、と思うと、誇らしいような、何やら馬鹿馬鹿しいような気分になったが、それよりも、空席があるのかどうかが問題である。

 

「予約をしていないのですが、新宿まで乗れますか」

「お1人ですか。3120円になります。8番のD席にお座り下さい」

 

と、運転手は事もなげに乗車券を発行した。

初めて経験する高速バス同士の乗り継ぎは、拍子抜けするほど、すんなりと運んだ。

 

 

僕が着席するのを確認した運転手は、「中央高速バス」を発車させた。

このバスに乗れば、無事に東京へ運んでもらえるのだ、とすっかり安心して、僕はシートに身を沈めた。

 

道端の木立ちの間からコマ送りのように見える諏訪湖が、夕景の中に溶けるように消えていく。

ぐんぐんと高度を上げて、標高1015mの中央道最高地点を通過すると、バスは、色褪せた木立ちやススキの原っぱに囲まれた長い下り坂を、甲府盆地に向かって駆け下りていく。

すっかり日が暮れた双葉SAで休憩し、「中央高速バス」は、笹子峠、相模湖、高尾山と連なる関東山地の山越えに挑んでいく。

 

八王子ICの手前で、前方に折り重なる山裾の合間から東京の夜景が見えた時には、鉄道で上京した時と全く別の街に来たような錯覚に襲われた。

大回りしたので300km近い道中となり、信越本線の普通列車と変わらない5時間を費やしたけれども、生まれて初めて、高速バスだけで故郷から東京に来た、という満足感は覆らなかった。

 

 

思い起こせば、この時代は、昭和60年の通信自由化に伴い、ポケベルが急速に広まった時期で、昭和62年から、ポケベルのディスプレイに数字が表示されるようになっていた。

「14106」=「アイシテル」、「114」=「イイヨ」、「4510」=「シゴト」などと、主として女子高生の間でポケベルを使ったやり取りが流行し、アルファベットや記号、後にはカタカナなども表示可能な機種が出回って、僕は電話番号などのメモに使うようになっていた。

緊急に故郷を往復する必要性が生じ、かつJRが止まっている場合を想定して、「NGO(長野)1500-TATN(辰野)1725-1750-SJK(新宿)1956」などと、「中央高速バス」と「みすずハイウェイバス」の乗り継ぎ時刻表をポケベルに打ち込んだのも、懐かしい思い出である。

ただ、他の経路で故郷を行き来する方が面白かったので、この2路線の乗り継ぎを使う機会は、二度となかった。

 

この旅の4日後に昭和天皇が崩御して、僅か7日間だった昭和64年が幕を閉じ、年号が平成に変わった。

 

 

 

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