大阪と紀伊半島の間は、かつて夜行列車で行き来する距離であった、と言えば驚く方々もいるかもしれない。
今ではJRの特急「くろしお」が4時間たらずで行き交っている天王寺と新宮の間に、21世紀を迎える直前の平成12年まで、夜行列車が走っていたのである。
紀伊半島の南部には、豊かな景勝を抱く観光地や釣り場、温泉が多く、紀勢本線の全通前から関西を結ぶ直通列車が多数運転され、全通以前も、日中の列車とともに、天王寺発新宮行き、南海難波発新宮行きといった下り夜行列車と、新鹿発天王寺・南海難波行きの上り夜行列車が運転されていた。
紀勢本線の全通に伴い、天王寺と名古屋の間を通しで運転する夜行普通列車が登場し、南海難波を発着する客車を併結、また従来の天王寺発新宮行き夜行列車の1本が準急に昇格したのである。
当時、大阪から紀伊半島に向かう列車は、大阪と和歌山の間で鉄道輸送を担っていた阪和鉄道と南海電鉄に乗り入れ、昭和19年に阪和鉄道が国鉄阪和線になってからも、阪和間で南海電鉄に乗り入れる直通列車が昭和60年まで運転されていた。
昭和36年に名古屋発天王寺・南海難波行きの下り列車は名古屋-新宮間と新宮-天王寺・難波間に分割れされたが、昭和41年に再び1本の直通列車となり、昭和43年に二等寝台車(後のB寝台車)が連結されたものの、昭和47年に南海難波に乗り入れる客車の連結が和歌山市駅止まりになっている。
当時の時刻表を紐解けば、天王寺を22時40分に発車した普通924列車「南紀」は、新宮に5時10分、名古屋に13時06分に到着し、名古屋を15時21分発921列車「南紀」は新宮19時43分着、天王寺5時00分着と、所要13~14時間半という気の遠くなるような長旅だった。
同時に、天王寺23時30分発、新宮5時19分着という夜行急行「きのくに」15号も運転されているが、逆方向の新宮発天王寺行き夜行急行は運転されていない。
昭和57年に「はやたま」の運転区間が亀山-天王寺に短縮され、昭和59年に寝台車の連結を取り止めて「はやたま」の愛称も廃され、運転区間を天王寺-新宮間に短縮された。
昭和61年に新宮発下り列車の運転を終了し、天王寺発上り列車のみの片道運転となった。
平成2年には始発駅を新大阪駅に変更し、列車種別を普通から快速列車に変更、それまでは天王寺から和歌山まで無停車であったものを、阪和線の快速停車駅に停車することになっている。
ちなみに、国鉄時代の紀勢本線は、東京方面に向かう列車を上りとする慣習から、名古屋から和歌山方面が下り、逆が上りとされていたが、国鉄の分割民営化を期に、紀伊半島から名古屋に向かう列車も、大阪に向かう列車も、どちらも上りに変更された。
名古屋から紀伊半島に向かう特急「南紀」の終点は紀伊勝浦、大阪から紀伊半島に向かう特急「くろしお」の終点は新宮で、紀伊勝浦と新宮の間で2つの特急が重複して走っているのだが、この区間では、紀伊勝浦発名古屋行き「南紀」も上り列車として号数も列車番号も偶数に設定され、逆向きに走る新宮発天王寺・新大阪行き「くろしお」も上りとして偶数の号数・列車番号が付されているという妙なことになっている。
JR西日本は、紀勢本線の列車が大阪環状線を経由して東海道本線の大阪-京都間に乗り入れるため、東海道本線の上り下りに合わせたと説明している。
利用客にとっても、新宮発大阪行きの列車が下りと呼ばれるのでは、何かと違和感が生じることは理解できるのだが、この記事では国鉄時代に倣って、名古屋から大阪方面を下り、逆方向を上りと統一させていただく。
紀伊半島の東海岸を津から勝浦温泉まで走る「南紀特急バス」に乗りたくて、東京を「ドリームなごや」号で発ち、名古屋発新宮行きの特急「南紀」に揺られて、津まで足を伸ばした(「紀伊半島飛び石バス紀行~南紀特急バスと名古屋-南紀高速バスが織りなす海と山の交響詩~」 )。
梅雨明けが伸びていたのかもしれないが、あいにくの天候の1日で、津では土砂降りの雨に見舞われた。
黄昏時の勝浦温泉に着いた特急バスを降りた僕は、そのまま特急「くろしお」に乗り継いで大阪に向かった。
紀伊半島のバス旅を終わりにした訳ではなく、次に乗ろうと目論んでいるのは、開業したばかりの「名古屋-南紀高速バス」である。
このバスは、当時1日2往復運行されていたが、どちらも早朝に熊野市を出発し、夕方に名古屋から戻るという徹底した南紀住民指向のダイヤであったので、僕のような余所者には乗りにくかった。
熊野や新宮、勝浦に宿泊してもいいのだが、僕は「南近畿ワイド周遊券」を購入していたので、往路の「ドリームなごや」号も、名古屋から津までの特急「南紀」も、そして紀伊勝浦から大阪への特急「くろしお」も、周遊券で利用できる。
それならば、噂に聞く太公望列車「新宮夜行」をホテル代わりに体験してみようではないか、と思い立ったのである。
もちろん、「新宮夜行」も別料金を支払う必要はない。
「新宮夜行」の終点である新宮から、名古屋行き高速バスが出る熊野市まで特急列車を利用しても、追加料金は全く不要だったから、一夜を過ごす方法としてはとても安上がりであった。
ただし、気をつけなければならないこともある。
僕が大阪までの往復で一晩を過ごそうと紀伊勝浦を離れたのは、17時43分発の上り最終「くろしお」29号で、天王寺に21時18分に着いた。
「新宮夜行」は天王寺にも停車するが、始発駅は新大阪駅になっている。
何両連結しているか知らないけれど、全車自由席であり、混雑も予想されるから、新大阪駅から乗車したいと思っているのだが、「南近畿ワイド周遊券」は、湊町駅、天王寺駅、王寺駅、奈良駅、加茂駅、亀山駅、名古屋駅を結ぶ線区より南側のJR線に乗り放題、という周遊区間が指定されている。
つまり、天王寺から新大阪までの周遊区間の外で周遊券を使ってしまうと、それは帰路と見なされて、新大阪から東京行きの新幹線に乗るしかない。
周遊区間を出て、引き続きJR線を利用すれば、周遊区間の効力は失われてしまうもの、と僕は認識していた。
「途中下車」
と駅員に告げて、周遊券は懐に納め、切符売場で新大阪までの乗車券を買い直したのである。
新大阪でも、天王寺までの乗車券を購入したのは言うまでもない。
この方法で良かったのか、そのような手間を掛ける必要はなかったのか、当時の時刻表の周遊券の欄の注記を読んでも、周遊区間をいったん出てから戻る行為については書かれていない。
そのような使い方をする客は、想定外なのであろう。
新幹線から乗り継いでくる釣り客らしき人間が多いものと予想していたのだが、誰もがネクタイを締めた仕事帰りと覚しき装いの人々ばかりである。
錆びた声の放送が、静まり返った車内に響いている。
『快速の新宮行きでございます。22時44分発でございます。新大阪を出ますと、西九条、弁天町、新今宮、天王寺の順に停車を致します。電車は大阪には参りませんので、御注意下さい。新大阪を出ますと、次は西九条に停まります。間もなく発車を致します』
定刻22時44分に新大阪駅を後にした「新宮夜行」は、東海道本線の下り線で淀川を渡り、大阪駅の手前で分岐する単線の梅田貨物線に進入する。
大阪駅には寄らない、いや、寄れないのである。
阪急線の高架をくぐり、梅田貨物駅の北から西側をぐるりと回り込んで、福島駅と野田駅の北側を通過してから、桜島方面へ向かう貨物線と分かれて大阪環状線に進入し、西九条駅に停車した後に、ようやく天王寺方面に向かう。
梅田貨物線内は徐行運転であるし、分岐でいちいち停車したりするからじれったいけれども、新大阪から天王寺に向かうには、この経路しか設けられていないのだからやむを得ない。
後に登場する「紀州路快速」のように、大阪駅を始発とする選択肢もあったのかもしれないが、JR西日本は新幹線と接続する新大阪駅を選んだのである。
新大阪から天王寺を経由し南紀に向かう列車の先駆けは、それまで天王寺を起終点にしていた列車の一部を、平成元年に新大阪発着へと変更した特急「くろしお」である。
僕は、その直後に新大阪から「くろしお」に乗り、紀伊勝浦で特急「南紀」に乗り換えて、名古屋まで紀伊半島を1周したことがある。
何処かで途中下車した訳でもなく、紀州灘を望む車窓の美しさと気怠い退屈が同居する贅沢な時間を過ごした記憶は、今でも鮮やかである。
今では、定期運転される大半の「くろしお」が京都発着に延伸されている。
それだけ、関西から紀伊半島への旅客需要が大きいと言うことなのだろう。
普通列車が大阪環状線に乗り入れたのは、今回の紀伊半島バス旅行の翌年である平成6年に関西国際空港が開港し、「関空快速」が関西空港線・阪和線から大阪環状線を使ってOCATと直結するJR難波駅を発着した時であり、平成11年に、「関空快速」と併結する「紀州路快速」が、大阪環状線各駅と和歌山を結んで運転されるようになったのである。
東京の山手線の線路に他の列車が乗り入れることなど、電車の運転密度を考えればあり得ないのだろうが、大阪環状線は、運転間隔に比較的余裕があったのだろうか。
後に大阪環状線を利用する機会があった時に、クロスシートを備えた「紀州路快速」や、関西本線に乗り入れる「大和路快速」に当たると、何となく得をした気分になったものである。
「新宮夜行」は弁天町と新今宮にも停車して、勝手知ったる乗客が少しずつ増えてきたけれども、その他の駅のホームをかすめて通過するのは、なかなか面白い経験だった。
平成2年までの始発駅であった天王寺駅で、「新宮夜行」は、地平のホームである16番線に入線する。
天王寺駅は、阪和線電車が発着する頭端式の1~9番線が高架に設けられ、大阪環状線と、王寺・奈良方面に向かう関西本線が発着する11~20番線が地平に置かれている。
天王寺止まりだった時代の「新宮夜行」や特急「くろしお」は高架ホームを出入りしていたが、大阪環状線に乗り入れるようになってから、地平の16番線を使い、天王寺駅の先に新設された連絡線で阪和線に入るのである。
新大阪発の西九条駅では大阪環状線の、そして天王寺駅では関西本線の対向列車用の線路にいったん足を踏み入れることになり、通勤線区として決して運転本数が少ない訳ではないのだから、只事ではないのだろうな、と思う。
天王寺ではどっと乗客が乗り込んできて、瞬く間に席は全て埋まり、立ち客も出た。
このあと日根野や和泉砂川まで行く区間運転の列車が3本ほど残っているものの、和歌山まで行く列車は「新宮夜行」が最終だったので、通勤客の比率が高く、他路線の普通夜行でよく見掛ける若いグループ客や釣り客はそれほど目立たない。
『快速新宮行きは間もなく発車しまーす!和泉砂川より先、和歌山までの最終電車です。お乗り遅れのないように御注意下さーい!』
と、けたたましく連呼するホームの案内放送と、
『お待たせしております。23時05分発新宮行きの快速電車です。天王寺を出ますと、堺市、鳳、和泉府中、東岸和田、熊取、和泉砂川、和歌山の順に停まります。その他の駅には停車しませんので御注意下さい』
という落ち着いた声音の車内アナウンスが錯綜する。
「快速新宮行き」を強調するのは、他の阪和線快速電車と同じ停車駅ですよ、という意味合いを込めているのだろう。
関西本線のホームを発車するのだから、王寺・奈良方面に向かう利用客の誤乗も防がなければならない。
「新宮夜行」に用いられているのは、1車両あたり2つの扉しかない165系急行用電車であるので、吊革もない客室に立つよりは良いと見定めたのか、デッキに居座ってしまった客も多く、ホームに押し寄せている客がなかなか中に入れず押しくら饅頭をしている。
新大阪やキタからの利便性を図るためとは言え、何かと手間が掛かる列車なのだな、と思う。
鈍行列車にも関わらず、途中駅に停まったり通過したり、何かとややこしい「新宮夜行」にしては、簡にして要を得た見事な案内放送だと感心したけれども、夜行列車に付き物の到着時分までは言わないのだな、と若干物足りなかった。
天王寺駅を後にすれば、そこから先は、「新宮夜行」にとっても通い慣れた道行きである。
5~6分おきに減速して停車を余儀なくされるけれども、駅間の走りはなかなか勇ましい。
阪和線は、前身の阪和鉄道の時代から、平行する南海電鉄と競争するために大変な高速運転で鳴らした線区であり、無停車の特急「くろしお」は天王寺-和歌山間を41分、快速電車も55分程度で走破してしまう。
車輪がレールの継ぎ目を噛む軽快でリズミカルな音色が、何処までも続く。
時折り、暗闇の中に浮かぶ疎らな灯を除けば、窓外は漆黒の闇に覆われている。
踏み切りが多いようで、カンカンカン、と鳴る警報音が、引きも切らずに車内にも響いてくる。
ボックス席の片隅で、前の客に触れないよう足を縮め、隣りの客と肩を触れ合いながら座っていると、このような窮屈な姿勢では寝つけないだろうな、と諦めるしかない。
このように混み合う電車に乗り合わせて、機嫌が良くなる客などいるはずもないだろうが、座っている客も通路に立っている客も、憮然とした表情を浮かべながら、高速で疾走する電車の横揺れに合わせて、同じ方向に揃って身体が揺れている。
車内の乗客が一斉にワルツを踊り出したように見えるので、ふと、可笑しみが込み上げてきた。
テリー・ギリアムが監督し、平成3年に公開された米映画「フィッシャー・キング」で、ロビン・ウィリアムズ演じるニューヨークの浮浪者が、アマンダ・プラマー演じるOLに一目惚れし、駅の構内で彼女を追いかけている場面を思い出した。
雑然と交錯する人混みの中を、ひらり、ひらりと身をかわしながら歩く2人に合わせて、コンコースを行き交う見知らぬ人々が、いつの間にか、一斉にダンスを踊り始めるのである。
僕は、このような演出にとても弱い。
友人に誘われて映画館で観賞したのだが、好きな女性を遠くから眺めているだけで幸せを感じているロビン・ウイリアムズの心境が、画面いっぱいに伝わってくるような見事な演出であり、「未来世紀ブラジル」や「バロン」「12モンキーズ」などの大作で、製作陣と対立したり制作費の枠を守らない奔放な監督として知られるギリアムが、このような心優しい場面を撮れるのか、と驚いたものだった。
僕も、列車の振動に身を任せて踊っているような心地に浸っているうちに、前夜も夜行高速バスで過ごしているためか、案に相違して猛烈な眠気が襲ってきた。
ふと気づけば、「新宮夜行」は23時59分着の和歌山に着いていて、水が引くように、降車客が乗降口に押し寄せているところだった。
乗ってくる客も幾許か見受けられたものの、客室に残っているのは20~30人程度で、1つのボックス席あたり1~2人、車内はいっぺんに閑散とした。
ふあーっ、と向かいの通路側に座っていた男性が大きく伸びをすると、無人のボックスに移って、前の座面に足を投げ出した。
「えらい空くもんやね」
「こんなもんなんやなあ。みんな、車で行くんやねえ」
と、後席の男性がひそひそと話している。
天王寺から乗車したこの2人連れは、如何にも釣り人といったラフな出で立ちで、混雑にも構わず缶ビールを開けながら大声で喋っていたのだが、さすがに乗客数が減り、寝入っている客が増えると、小声になったようである。
我が国における趣味的な釣りは、江戸時代から見受けられるようになり、太平洋戦争後に釣り人口は急激に増加して2000万人とも言われていると言う。
それでも、「太公望列車」と呼ばれるような釣り客の多い列車は、寡聞にして「新宮夜行」しか僕は知らない。
釣り人を「太公望」と呼ぶようになったのは、周の文王が軍師として太公望を見出した際に、太公望が渭水のほとりで釣りをしていた故事によるものであるが、太公望は文王の目に止まるために釣りをしているふりをしていただけで、餌も釣り針もつけず、水面から三寸ほど離れてい糸を垂らしていたという。
ちなみに、中国では、釣りが下手な人を指すと言うのだから、所違えば何とやら、である。
僕の釣り体験は、小学生の頃にクラス全員で近くの川に出掛けたのが初めてで、親に釣竿を購入させる程の意気込みだったのだが、結局1匹も釣れず、それっきりになってしまった。
家族で公園の釣り堀で遊ぶことはあっても、釣りの楽しさを味わったことはないし、夜行列車で早朝に遠くの釣り場に出掛けていく熱意も解らないのだが、端から見れば、夜行列車をホテル代わりにする鉄道趣味も理解の外であろうし、趣味とはそういうものなのだろう。
和歌山を出ると、改めて全停車駅の到着時刻が案内され、ようやく夜行列車らしくなった。
和歌山から新宮まで37駅、全駅の案内と、夜行列車独特のお願い事を、次の紀三井寺駅停車までの7分間できちんと言い終えたのは、流石である。
和歌山と紀三井寺の間にある宮前駅は、車掌の長々とした案内放送を中断しないために通過するのではないか、と思ったりする。
紀勢本線に足を踏み入れると、「新宮夜行」の走りっぷりは、目一杯飛ばしていた阪和線とは別人のように伸びやかになった。
停車駅が多く、3~5分に1回は停まるのだが、明らかに走り心地が変わって、きつい曲線区間が増え、ゆっくり走っていても、身体が左右に揺さぶられる。
来る時に乗車したばかりの振り子式台車を装着した381系特急「くろしお」では、カーブで車体がぐいっと内側に傾き、多少の曲線は速度を落とさずに通過したことを思い出す。
乗り心地は悪くても速い乗り物を好む人々が多いことを、俊足の「くろしお」は体現しているのだな、と満員に近い客室を見回しながら感じ入ったものだったが、「くろしお」が3時間で結ぶ区間を6時間も費やす「新宮夜行」は、もとより浮世とは無縁の存在である。
紀行作家宮脇俊三氏が著した「旅の終りは個室寝台車」に収められている「紀伊半島一周ぜいたく寝台車」には、名古屋発着ではないけれども、亀山発天王寺行きだった時代の夜行鈍行列車「はやたま」の貴重な描写がある。
同行の編集者とともに新幹線で名古屋に着いた宮脇氏は、名古屋から亀山までも普通列車を利用する徹底ぶりであった。
『名古屋着15時37分。
ここで16時00分発の関西本線亀山行に乗りかえる。
目指すは亀山発17時21分の天王寺行である。
増水した木曽川と長良川をわたり、四日市のコンビナートを過ぎて亀山が近づくと、
「後続列車のご案内を申し上げます。奈良行は17時26分で3番線から、津、松阪方面天王寺行は17時21分で2番線から、それぞれ発車いたします」
との車内放送がある。
情報としては正確なのだが、「17時21分発天王寺行」の何たるかを知らない客が乗りまちがえないかと心配になる。
これは私のような人間や、それにそそのかされた藍君が乗るべき列車であって、まともに大阪の天王寺に向かおうとする客が乗れば大変だ。
亀山-天王寺間は関西本線で直行すれば111.5キロで、所要時間は3時間弱だが、17時21分発に乗ってしまうと、紀勢本線経由で紀伊半島を丹念に1周し、走行距離は4倍の442.2キロ、天王寺着は翌朝の4時58分になる』
『亀山駅の2番線に疲れ果てたような古い列車が停車していた。
ベンガラ色のディーゼル機関車を先頭に、新宮行1両、天王寺行4両、最後尾が荷物車と郵便車の合造車という6両編成で、2両目の銘板を見ると「昭和13年、大宮工場」とある。
相当な年代物だ。
これが17時21分発の天王寺行であるが、いまのところ「はやたま号」の愛称はなく、ただの921列車で、寝台車も連結されていない。
22時26分着の新宮で寝台車が2両増結されると「はやたま号」になるのである。
鈍行列車にもかかわらず愛称が付されているのは寝台券を買う客への配慮からであろう。
私たちは先頭の車両に乗った。
もとより冷房はなく、蒸し暑い。
窓を開けると、ディーゼル機関車のすぐ後ろで、油煙の香が漂う。
往年の蒸気機関車の猛烈な煤煙にはくらぶべくもないが、新宮まで5時間かかるし、藍君は白装束である。
後尾の車両へ引越すことにして、連結器の上の貫通路を伝っていく。
古い車両だからデッキの扉は手動で、開けっ放しになっているのが多い。
自動ドアに慣れた若い世代が、こういう列車に乗ると、駅のポイントを通過する際の横揺れで振り落とされることがあるという』
『熊野市を発車したのが21時52分。
すでに車内にほとんど客はなく、ニスを塗り重ねた肘掛けや油の滲みこんだ床を車内灯が虚しく照らしている。
藍君の眼もトロンとしてきた。
熊野川の河口近くを長い鉄橋でわたり、三重県から和歌山県に入ると、すぐ新宮で、22時26分着。
亀山から180.2キロ、途中の39駅に全部停車して5時間05分の行程であった。
ここで19分停車し、その間にディーゼル機関車と座席車1両が切り離され、代りに電気機関車とB寝台車2両が連結されて「はやたま号」になる。
「はやたま」とは、新宮にある熊野三山の1つ、速玉神社に因んでいる』
『雨に濡れた構内から、電気機関車に後押しされた2両のB寝台車がこちらに向かってくる。
ホームの灯りに照らされた青い外装は、ところどころペンキが剥落し、鋼板は波うっている。
ガチャンと連結の音がホームに響いて、1号車に乗りこむ。
デッキに立った中年の寝台係が帽子をとって、「いらっしゃいませ」と慇懃に挨拶する。
ますますぜいたくな気分である。
洗面所を抜けて中扉を開くと、涼気が肌に心地よい。
冷房つきであった。
「はやたま号」は新宮を遅刻の22時45分に発車した。
通路をウロウロしていた藍君が戻ってきて、
「おどろいたなあ。女性が1人乗っているだけですよ」
「若い女性ですか」
「まあ若いほうです。もし私たちが乗らなかったら、1号車の客は彼女1人になるところです。物騒だなあ」
「彼女のほうは怪しい2人組に乗りこまれて不安におののいているかもしれない」
ボロ寝台車ではあるが、洗面所には冷却飲料水の装置がある。
藍君が紙コップに冷たい水を汲んできた。
これからポケット・ウイスキーで寝酒となる。
走る列車のベッドに腰を下ろし、通り過ぎる灯を眺めながら1杯やるのは至福の1つだが、三段式なので頭がつかえる。
前かがみで酒を飲むのは非常にむずかしい。
しかたがないので、立って飲む。
停まったり走ったりして25分ほどすると、紀伊勝浦に着く。
ここで2、3人の客が1号車に乗ってきた』
『「はやたま号」は鈍行列車だが、23時37分発の串本を過ぎて深夜になると、小さな駅は通過する。
寝台車は走っているときのほうが寝心地がよい。
串本までは各駅に停まるので眠れなかったが、そこから先は3時41分着の和歌山まで何も覚えていない。
和歌山を発車すると阪和線に入り、終着の天王寺までノンストップになる。
和泉山脈を長いトンネルで抜けると、窓外が明るくなってきた。
洗面所へ行きかけると、ガラ空きだったはずの寝台にカーテンが引かれ、下段が全部塞がっている。
中段に寝ている客もいる。
合わせて約20人である。
串本では私たちを含めて5、6人だったから、白浜か紀伊田辺から乗ったのであろうか』
『定刻4時58分、天王寺の9番線に到着。
「はやたま号」との短い一夜の旅は終った』
古き夜行列車の情緒が溢れ出してくるこの一文に出会わなかったら、僕は「新宮夜行」に乗ろうと思ったか分からない。
「はやたま」号の後継である「新宮夜行」で物足りないのは、寝台車が連結されていないことである。
短い時間で、幾ら狭い寝台だったとしても、横になって過ごしたかったな、と宮脇氏が羨ましくなるけれども、加えて、上りだけの片道運転になっているのも最大の相違点である。
「はやたま」が「南紀」を名乗っていた時代に運転されていた夜行急行も、大阪発新宮行きの上りだけであった。
下り列車に乗車した宮脇氏の体験が貴重だったという所以であるが、釣り人は早朝を厭わず釣りを始めるけれども、帰りは、特急「くろしお」に間に合う時間にさっさと切り上げてしまうのだろうか。
片道運行をする夜行交通機関の例は、僕の故郷にも見受けられ、新宿と長野を結ぶ高速バスが新宿発の下りだけ夜行便を走らせている。
東京に夜遅くまで止まりたいという需要を見越しての策だと思うのだが、紀伊半島に住む人々も、同様に大阪の滞在時間を長くしたいのかもしれない。
「紀伊半島一周ぜいたく寝台車」の一節で、宮脇氏は次のように記している。
『新宮は紀勢本線の節目をなす駅で、ここから和歌山までは電化され、特急電車の「くろしお号」が新宮-天王寺間の262.0キロを約4時間で結んでいる。
特急で4時間の区間に夜行列車を運転しても利用客は少ない。
深夜勤務の駅員や信号係を配置しなければならないから経費はかさむ。
しかし、朝早く大阪に着こうとすれば昼間の特急では間に合わないし、宿泊費を節約したい客もいる。
国有鉄道としては、その客を無視するわけにはいかない』
宮脇氏が「はやたま」に乗車した昭和58年当時の紀勢本線は、早朝の下り天王寺行き特急「くろしお」1号が白浜6時51分発・天王寺9時06分着、3号が白浜8時57分発・天王寺11時06分着となっていて、3本目の5号が初めて新宮始発なのだが、発車時刻は8時20分、天王寺着12時17分と、新宮や紀伊勝浦、串本からは午後にならないと大阪に着けないと言う浮世離れしたダイヤであった。
上りも、天王寺発17時00分の「くろしお」22号が新宮行きの最終で、次の19時00分発の24号は白浜止まりだった。
ちなみに、今回の旅に出た平成5年における新宮発下りの1番列車は、新宮発5時18分の「スーパーくろしお」2号で、天王寺着が9時12分、新大阪着9時30分である。
逆に、新宮行きの上り最終列車は、新大阪発19時40分、天王寺発20時00分の「スーパーくろしお」31号になっていて、10年前に比して大阪滞在時間が大幅に増えている。
午後8時よりも遅くまで大阪に留まりたい人が少なくないことは予想がつくけれども、午前9時より前に大阪に着かなければ困るという需要は、案外少ないのかもしれない。
「新宮夜行」が片道運転になったのは国鉄最後の年であるから、時代も人々の習性も大きく変化した、ということなのだろう。
日中の行き来が便利になれば、人々は夜行を敬遠するようになる。
全国各地を結んでいた寝台特急が次々と廃止された最大の要因は、新幹線網や航空路線が拡大し、廉価なホテルが増えたためである。
今回の旅から6年後の平成11年に、「新宮夜行」の運転は終了し、紀伊田辺止まりの最終列車となって、時たま臨時列車として新宮まで延長運転されるだけとなった。
平成12年に紀伊田辺-新宮間の臨時運転も廃止され、「太公望列車」は名実ともに姿を消す。
僕が乗車した日も、和歌山から先の乗客数は予想以上に少なく、この列車の命運も長くはないのだろうな、という予感があった。
だからこそ、「新宮夜行」の一夜をせいぜい楽しもうではないか、と思ったのだが、和歌山から新宮までの記憶は定かではない。
ホテル代わりに利用したのだから、それで良いはずなのだが、今から思うと勿体ない気がしないでもない。
1時37分に到着した、和歌山県第二の都市である紀伊田辺までは、まだ仕事帰りと思しき客が降りていく姿が散見された。
2時10分に白浜駅に滑り込んだ時に、薄目を開けてみたけれども、10分の長時間停車にも関わらず、ホームに降りて身体を伸ばしたり、自販機で飲み物を購入する元気はなかった。
車内を見回すと、誰もが狭いボックス席に器用に身体を合わせて沈没しており、背もたれの上に首を出している客は1人もいなかった。
紀伊半島の日の出は、決して早い方ではない。
今回の旅に出た7月中旬の日の出時刻は、北海道最東端の納沙布岬が3時51分、岩手県の浄土ヶ浜が4時16分、千葉県犬吠埼が4時32分であるのに対し、潮岬は4時58分である。
「新宮夜行」が、本州最南端である潮岬の付け根に位置する串本に着いた3時40分は、辺りはまだまだ漆黒の闇に覆われていた。
ここで、後席の2人連れをはじめ、まとまった釣り客らしき客が数人、眠そうな顔を隠そうともせず、どやどやと降りて行った。
紀伊勝浦に着いたのが4時33分で、彼方の水平線が白々と明け始めていた。
紀州灘が初めて姿を見せてくれたのは、この前後であったように思う。
沖合にぽつりと光点が現れたかと思うと、鋭い光芒が四方に広がって、闇と一体化して眠りについていた海面が、瞬く間に神々しく輝き始める。
瞼がくっつきそうではあるけれども、1日とはこのように始まるものなのか、と荘厳な気持ちになる。
新宮の1つ手前の三輪崎駅着が4時55分、そして終点の新宮に電車が到着したのは5時01分であったから、日の出とほぼ同時に、「新宮夜行」の一夜が終わったことになる。
紀伊勝浦と新宮の間は海沿いの区間が多く、那智駅などは波打ち際にホームがあるような造りになっているし、また、「初日の出列車」と名づけて、新宮発6時58分の紀伊田辺行き下り定期列車が新宮と三輪崎の間で速度を落として運転したこともあると言う。
前日の天気がすぐれなかっただけに、今日は晴れるのか、と気分まで爽やかになった。
夜行列車から、これだけはっきりと日の出を拝むことが出来たのも初めての体験で、「新宮夜行」に乗って良かったと思う。
『大変長らくの御乗車お疲れ様でした。次は終点の新宮です。お出口は右側、2番線の到着です。どちら様もお忘れ物のございませんようお願いします。接続列車の御案内を致します。紀勢線熊野市、尾鷲、紀伊長島方面の普通列車松坂行きは 降りましたホームの向かい側、3番線から6時05分です。名古屋行き特別急行「南紀」2号は、2番線から6時23分の発車です。本日はJR西日本を御利用下さいましてありがとうございました。間もなく終点の新宮に到着です』
思ったよりも眠ることが出来た「新宮夜行」の余韻を楽しみながら、僕は改札を出て駅そばを啜り、熊野発名古屋行きの高速バスに乗るべく、「南紀」2号の発車を待ったのである。
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