北陸道特急バス京都-金沢線と難波-富山間高速バス昼行便、寝台特急つるぎで行ったり来たりの北陸の旅 | ごんたのつれづれ旅日記

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東京駅八重洲南口を定刻23時に発車した京都行き「ドリーム」3号は、三菱ふそう「エアロクィーン」3軸スーパーハイデッカーだった。

 

 

見上げるような背の高いバスが乗り場に現れた時には、ツイてるじゃないか、と小躍りした。

僕は車両ファンではないけれども、車輪が3軸配置されているバスを目にすると、何故か気分が高揚する。

映画や写真で見たことのある米国の長距離バス・グレイハウンドを想起するのだろうか、どっしりと重量感のある大柄な外観に、旅心をそそられるようである。

 

子供の頃、小さな運送店を舞台にしたテレビドラマ「火曜日のあいつ」に登場する、三菱ふそうの大型トラック「バッファロー」号が好きだった。

小野寺昭と石橋正次が扮する運転手の好演も捨て難かったが、ドラマの主人公は何と言っても「バッファロー」号で、天災に遭遇して断崖を走り降りたり、特撮を駆使した活躍も多く、後部2軸のタイヤが大写しになる走行場面には大いに惹かれたものだった。

エンディングで流れる主題歌は、今でもそらで歌うことが出来る。

 

放映は昭和51年の半年間だけだったが、その頃から、車軸が多い大型車が好きだったのだろう。

集めるミニカーもバスやトラックばかりで、トミカで販売された初期の大型車は殆ど持っているのだが、当時のトミカが製造する大型トラックのミニカーは、どうしたことか前部が2軸・後部1軸の車種ばかりで、「バッファロー」号のような前部1軸・後部2軸のトラックは発売しないのか、と大いに不服だったことも、今となっては懐かしい思い出である。

前部1軸・後部2軸のトラックは小回りが利いて積載量が多く、逆に前部2軸・後部1軸では積載量は減るものの、ランニングコストが優れているのだと言う。

 

 

「ドリーム」3号は、昭和60年に、僕が生まれて初めて体験した夜行高速バスである。

 

当時は、昭和44年の開業以来ほぼ変わりのない「国鉄専用型式」と呼ばれる車両で、床からタイヤハウスが突き出している低床の旧型車両だった。

座席も横4列シートで、隣りの客に気兼ねしながらの窮屈な一夜を過ごしたものだったが、夜行高速バス独特のまったりした車内の雰囲気や、適度な気晴らしになる途中休憩、特に三ヶ日ICの「みかちゃんセンター」で味わう夜食の関西風うどんの不思議な魅力、そして夜が明ければ異郷の地に降り立てるという、鉄道とは何から何まで趣の異なる演出に、強く心を惹かれた。

 

 

その後、何度か名古屋、京都方面の「ドリーム」号を利用するうちに、昭和62年に国鉄は分割民営化されてJRグループとなり、昭和63年にバス部門が子会社として独立する中で、車両もハイデッカーやスーパーハイデッカーへの更新が進められていた。

 

今回の旅に出て来たのは、平成元年11月の週末である。

カーテンの隅をめくり、以前より高い視点で窓外を過ぎ去る東京の夜景を眺めながら、JRバスもようやく重い腰を上げたのか、と思う。

ただし、座席は横4列席のまま据え置かれているので、他の夜行高速バスでは標準となっていた横3列独立席と比較すれば、どうしても見劣りがする。

 

「ドリーム」号に横3列独立シートが本格的に導入されるのは、この旅の翌年からで、同時に、1号と2号が大阪系統、3号と4号が京都系統、5号と6号が名古屋系統と分類されていた「ドリーム」号は、それぞれ「ドリーム大阪」号、「ドリーム京都」号、「ドリームなごや」号と愛称が区別されたのである。

 

 

初めて京都行きの「ドリーム」3号に乗車した時の、隣席の客については、よく覚えている。

僕は最前列の席を指定されていたのだが、発車の直前に乗り場の係員さんがやって来て、

 

「1番後ろの席のお客様が、乗り物酔いするらしくて、代わってくれないかとおっしゃるんですが……」

 

と言われたのである。

僕は隣席の若い男性と顔を見合わせると、

 

「構わないですけど」

「いいですよ」

 

と、2人揃って腰を上げ、最後列へ移動したのである。

 

「本当にごめんなさい」

 

と、頭を下げる若い女性2人組と通路ですれ違い、

 

「ありがとうございました。この席は、エンジンの真上だから、どうしても暑くなっちゃうんですよね」

 

と、係員さんにも礼を言われた僕らは、苦笑いしながらも意気投合して、しばらく小声で話しこんだものだった。

 

 

4年後の「ドリーム」3号で、隣席の客の記憶が乏しいということは、それだけ平穏無事な道中であったことの表れであろう。

途中休憩や京都への到着時刻を知らせる案内放送の前後で流れるオルゴールだけは、古い車両の音響装置やテープをそのまま移し替えたのではないか、と邪推したくなる程にかすれた音色だったが、それもまた、バス旅に相応しい。

 

宝町のランプから首都高速都心環状線の内回りに乗り、谷町JCTで首都高速3号渋谷線へ分岐し、用賀で東名高速道路に入る頃には眠ってしまったけれども、足柄SAと三ヶ日IC、名神高速道路の多賀SAでは、きちんと車外に出て、夜空を仰ぎながら身体を伸ばした。

「みかちゃんセンター」でうどんを啜ったのは勿論である。

 

およそ9時間に及ぶ夜間航海を終え、京都南ICで高速道路を降りた「ドリーム」3号の車内から、ぼんやりと京都の街並みを眺める風情は、格別だった。

遠くまで来たものだ、と思う。

どんよりと低く雲が垂れ込める空が、今にも泣き出しそうだったが、古都によく似合う空模様だった。

今回は乗り物ばかりの旅なので、雨が降ったって一向に構わない。

 

 

土曜日であっても人々が忙しく行き交う京都駅烏丸口に、定刻7時45分に到着した「ドリーム」3号を降りた僕は、構内でゆっくり朝食を摂ってから、再びバス乗り場に踵を返した。

駅舎の中で過ごしている間に、小雨が降り始めていた。

 

僕は、これから北陸へ向かおうと思っている。

発車時刻の数分前に乗り場に横づけされたのは、京阪バスの3軸スーパーハイデッカーだった。

「ドリーム」3号と全く同じ車種だったので、この路線もか、と驚いた。

白と青のツートンカラーだった「ドリーム」号とは対照的な、白地に鮮やかな赤いラインの入った車体に、「京都-金沢 北陸道特急」と大書されているのを見れば、眠気がいっぺんに吹き飛んだ。

 

昭和63年8月に京阪バス、北陸鉄道、西日本JRバスの3社が、「北陸道特急バス」京都-金沢線を1日9往復で開業したことを耳にすると、2つの古都を結ぶ高速バスに一刻も早く乗りたくなるとともに、どうして京都なのか、と首を捻った。

そこは、まず大阪ではないのか、と思ったのだ。

 

 

金沢をはじめ富山、福井といった北陸三県の都市は、関西圏との経済的な繋がりが強く、JR北陸本線には大阪を行き来する俊足の特急列車が頻繁に運転されている。

後の話になるけれども、隣接する富山と福井からは、平成元年6月に難波-富山線、平成2年10月に難波-福井線といった高速バス路線がそれぞれ開業したのだが、どうして金沢だけ京都止まりだったのか。

 

当時は、拡張工事が未完成だった名神高速道路の天王山トンネル付近における慢性的な渋滞の影響で、定時運行の困難が予想されたことや、大阪-金沢間で片道5時間近くに及ぶ所要時間のため、乗務員が日帰りするワンマン運行が難しく人件費が嵩むことが、その理由として推測できる。

それだけではなく、特急列車の運転頻度と速達性には、とても太刀打ち出来ないと、バス事業者が逡巡した結果であると、バスファンの間ではまことしやかに囁かれたものだった。

現に、難波-福井線は僅か3年後の平成5年に廃止され、難波-富山線も平成13年に姿を消している。

 

だから天王山より手前の京都止まりにしてみました、という論理は飛躍しているようにも思えるのだが、それでも、関西と北陸を初めて結んだ高速バスに強く心を惹かれた僕は、こうしてわざわざ出掛けて来たのである。

 

 

定刻9時30分に京都駅を後にした金沢行き「北陸道特急バス」は、烏丸通りを北上して三条通りに右折し、京阪三条駅に立ち寄る。

 

「北陸道特急バス」京都-金沢線は京都南ICを使わず、国道1号線・五条通りで清水寺の南から東山トンネルを抜け、京都東ICで名神高速に乗る所要3時間57分の系統が4往復、京阪三条駅に停車して三条通りで蹴上、山科を経て京都東ICに至る所要4時間18分の系統が5往復運行されていた。

所要時間が上乗せになるものの、京阪三条駅を経由するのは「北陸道特急バス」京都-金沢線にとって重要な戦略で、京都止まりを余儀なくされる利用客に、京阪電車に乗り換えて大阪を行き来できる利便性を図ったと言われている。

そのため、当初は京都市内に停留所を設けていなかった五条通り経由便も、後に京阪五条駅に停車するようになる。

 

大阪と金沢を往来する利用者が、乗り換えまで強いられて「北陸道特急バス」京都-金沢線を利用するだろうか、と案じた通り、利用客の低迷により、平成4年には8往復、平成8年には5往復、平成19年には4往復、平成22年に2往復と減便を重ね、平成19年には北陸鉄道が共同運行から手を引き、平成23年に京阪バスも撤退、その1ヶ月後に廃止されたのである。

 

 

開業から四半世紀、よく頑張ったと労をねぎらいたくなるのだが、関西と金沢の間において、高速バスが、成す術もなく鉄道に敗退したとは言い切れない、と僕は思っている。

 

大阪と富山・福井を結ぶ高速バスが早々に姿を消し、「北陸道特急バス」京都-金沢線が孤軍奮闘していた平成15年12月に、西日本JRバスが、大阪-金沢間に1日3往復の昼行高速バス「北陸道昼特急大阪」号と、大阪-金沢・富山間に1往復の夜行高速バス「北陸ドリーム大阪」号を開業したのである。

横3列独立席を配した2階建て車両を投入し、瞬く間に人気路線に成長したため、平成16年に「北陸道昼特急大阪」号は4往復に増便され、1往復を富山発着に延伸、更に「北陸ドリーム大阪」号は京都経由となり、平成22年に「北陸道昼特急大阪」号が5往復に増便される。

平成23年には、京都-金沢間を福井経由で結ぶ横4列席を備えた「北陸道青春昼特急京都」号が登場することになり、「北陸道昼特急」号と「北陸ドリーム」号は、大阪・京都と富山・金沢・福井を結ぶ大所帯に成長する。

 

車内設備のレベルを落とす代わりに格安な運賃を設定した便を「青春」と名付けるのは、JRバス各社の常套手段であるが、「北陸道青春昼特急京都」号は、西日本JRバスの単独運行となっていた「北陸道特急バス」京都-金沢線を、横4列席のまま改名した後継路線だったのである。

 

 

平成25年に、「北陸道青春昼特急京都」号が大阪まで延伸されて「北陸道青春昼特急大阪」号に改名され、同じく横4列席の夜行便である「青春北陸ドリーム大阪」号が運行を開始する。

つまり、「北陸道特急バス」京都-金沢線は、愛称を変更して存続し、念願の大阪への延伸を果たした、と見ることも出来る。

 

「北陸道昼特急」号が急成長した背景として、開業の2年前である平成13年に、時間にゆとりのある若年層をターゲットとして、東京-大阪間を直通する昼行高速バス「東海道昼特急大阪」号が登場したことは見逃せない。

「東海道昼特急大阪」号は、若年層のみならず年配者にも好評を博し、予約が難しくなる程の人気路線に成長、増便を重ねた。

 

速さよりも安さを優先する客層が、何往復ものバスの座席を満たすほど存在することを証明した画期的な路線であり、平成14年度の「日経優秀製品・サービス賞」の最優秀賞を受賞している。

その余勢を駆って、各地に「昼特急」を名乗る長距離昼行路線が誕生し、「北陸道昼特急」号もその1つだった。

 

 

名神高速道路の吹田ICと京都南ICの間が往復6車線に拡張され、天王山トンネルが上下線とも2車線のトンネルが2本ずつに改良されたのは、平成10年のことである。

 

「北陸道昼特急大阪」号が開業したのはその5年後で、渋滞を緩和するためにどれほどの設備投資が必要であるのか、自動車社会を考える上で大変興味深い例であるが、大阪と北陸を結ぶ高速バスへの追い風は、それだけではあるまい。

いったん廃止された難波-富山、難破-福井間高速バスも、大阪側の起終点を梅田に変更し、阪急バスが受け皿となって、平成15年に梅田-富山線が、平成19年に梅田-福井線が運行を開始し、「北陸道特急バス」京都-金沢線から撤退した北陸鉄道も、平成16年に梅田-金沢線を開業している。

 

速達性と運行頻度で特急列車に敵わない、とバス事業者が諦観していた平成の初頭に比べれば、「北陸道昼特急」号が躍進した時代と、交通機関を選択する利用客の価値観の変化を思わずにはいられない。

黙々と走り続けた「北陸道特急」京都-金沢線が、新しい時代の礎となったと考えれば、もって冥すべきだろう。

 

 

そのような十数年先の動向を知るべくもなく、僕が乗る「北陸道特急バス」京都-金沢線は、京都市街の渋滞に揉まれながら、東山に向かっている。

 

京都駅から三条京阪まで車内から京都見物が出来るし、東山を越える旧東海道の道筋が楽しみだったので、僕は8時30分発の五条通り経由便を遣り過ごし、三条京阪経由便を選んだのである。

そのため、後の旅程が押せ押せになってしまったのだが、それもやむを得ないと考えていた。

 

三条大橋で鴨川を渡り、京阪京津線の電車が並走する旧東海道の道行きは、期待通りだった。

平成9年に、京阪京津線は三条と御陵の間が地下鉄東西線に置き換えられたが、この旅の当時は、京阪三条駅から道路上の併用軌道が混在する地上線が、浜大津駅まで敷かれていた。

東海道本線が東山と逢坂山を南に大きく迂回する経路で建設されたため、京都と大津の繁華街を直接結ぶために京津線が開通したのは、大正10年だった。

昭和50年に国道1号線は五条通りに移されたが、かつては三条通りが国道1号線であった名残りで、行き交う車は道路から溢れんばかりである。

 

その合間を縫って、2両編成の京津線の電車が行く。

京津線の電車は、蹴上付近で、信越本線の碓氷峠に匹敵する66.7‰の急勾配を越えなければならないが、バスにとっては大した坂道ではない。

山あり史跡あり、道端に残る松や桜の並木に昔ながらの街道の面影が感じられて、しっとりと潤いのある車窓だった。

 

 

東海道本線山科駅に立ち寄り、その先で五条通りと合流した直後に、バスは京都東ICから名神高速に駆け上がって、ようやく速度を上げた。

京都駅を発車してから既に小1時間が経過し、もどかしい旅の始まりであったものの、夢から覚めたような心地になった。

 

2つのトンネルで逢坂山を越え、琵琶湖畔に飛び出したバスは、伊吹山の手前にある米原JCTで北陸自動車道に進路を変えると、賤ヶ岳と柳ヶ瀬山の懐に踏み込んでいく。

雨脚が強くなった。

水滴が横に流れる窓から、ぼんやりと霞んでいる山肌を眺めているうちに、いつしか高度が上がっていて、折り重なる山並みの彼方に、敦賀湾が見下ろせた。

 

 

敦賀ICの先にある長さ2925mの敦賀トンネルは、北国街道随一の難所であり、越前、越中、越後の「越」の由来になったと言われる木ノ芽峠に穿たれている。

敦賀側の入口の標高256.9mは、北陸道の最高地点である。

下り線のトンネルが上り線トンネルを跨ぐ構造になっていて、追い越し車線側に非常口がついている珍しい構造だが、敦賀側で高架を2層構造にするため、上下線とも下り勾配になっていることに加えて、下り線の出口に急カーブが存在しているので、事故が少なくないと聞く。

バスの走りは至って滑らかで、開業して1年以上が経っているのだから、この便の運転手さんも幾度か北陸道を行き来しているのだろうな、と思う。

 

令和5年に敦賀まで延伸予定の北陸新幹線新北陸トンネルも木ノ芽峠に設けられ、北陸道の敦賀トンネルを跨ぐ形で掘り進められている。

高速道路も新幹線も、往年の街道に回帰したのである。

 

 

「越」の高みを極めたバスは、いよいよ勢いがついて、瞬く間に福井平野に駆け下ると、稲刈りを終えて土が剥き出しになっている田園地帯を進む。

木ノ芽峠の車窓が劇的であるだけに、いつも、このあたりで睡魔に見舞われる。

 

うつらうつらと過ごしていた僕が目を見開いたのは、日本海の波打ち際を走る松任海浜公園に沿う区間だった。

ともすれば松林や防音壁に隠れてしまいがちだが、高速道路がこれほど海の近くを通るものなのか、と驚くとともに、曲線も少なく、なかなか爽快な走り心地である。

この日の海は荒れ模様で、暗い海面に白い波頭が目立つ。

彼方に見える陸地は、能登半島であろうか。

北陸に来たのだな、と思う。

 

 

金沢西ICで一般道に降りたバスは、武家屋敷の風情を残す片町や、金沢きっての繁華街である香林坊と武蔵が辻の停留所で、少しずつ客を降ろしていく。

 

定刻より少し遅れて金沢駅前に到着したバスを、僕は真っ先に飛び出した。

愉快だった車中の名残りを惜しむ暇もなく、発車ベルが鳴り響いているホームに駆け込み、北陸本線の大阪発富山行き下り特急「雷鳥」に、ぎりぎり間に合ったのである。

五条通り経由便を見送ったツケの影響で、バスが遅れれば瓦解しかねない乗り継ぎであるが、気楽な1人旅なのだから、万が一の場合は先の旅程を諦めるだけであるけれども、間に合ったと分かれば、思わず安堵の溜め息が出た。

金沢駅でかいた汗が、倶利伽羅峠に差し掛かっても消えなかった。

 

際どい思いをしてまで富山に向かうのは、この旅の半年ほど前に開業したばかりの、大阪-富山間高速バスに初乗りするためである。

京都を出てきた人間が、大阪へとんぼ返りするために、金沢から富山まで慌ただしく移動したことになる。

もとより金沢や富山に用事がある訳でもなく、端から見れば、京都から大阪行きの電車に乗れば済むことではないか、と呆れることだろう。

 

 

内田百閒氏が東北を初めて訪問した「東北本線阿房列車」で、福島の宿に1泊した百閒先生が、東北弁に苦労しながら女中と交わしたやりとりを思い出す。

 

『これから旦那様方はどこへ行くと女中が尋ねる。

明日ここを立って、盛岡へ行き、青森の方を廻って山形へ行くと云ったら、女中が飛んでもないと云う顔をした。

山形へ行くのにそんな道順はない。

福島から東北本線とは別に奥羽本線が出ている事を知らないのだろう。

奥羽本線で立てば山形まで3時間で行かれる。

急行だったら2時間しか掛からない。

それを盛岡から青森の方へ廻った日には何日掛かるか解らないでしょう。

そんな馬鹿げた廻り道はよしなさいと云う。

山形へは行くけれど、行ったところで山形に用事はないし、だれも待っていないと云う話は、言葉が通じにくい女中に云って見たところで埒はあくまい。

だから何となく話をそらし、曖昧ななりに済ましてしまう。

そこで女中としては、人が折角親切に云ってやる事を、この客はいい加減にあしらってしまう。

好かんおやじだと思うのは無理もない。

思ったかどうだか知らないが、こちらではそんな気がする』

 

我が国における鉄道ファンの祖とも言うべき百閒先生に、奥羽本線を知らないのだろうとは、よく言ったものだと思うのだが、いやいや女中さん、福島から山形へ行くのにわざわざ青森まで大回りする行為には、何か事情があるものと察してあげなさいよ、と読みながら苦笑させられた。

ところが、百閒先生が翌朝宿を発つ際に、『どこの宿屋にもここの女中の様な心事の高潔なるのはいなかった』と言わしめる珍事が勃発したのだから、人とは分からないものである。

 

我が身を振り返ってみれば、京都から大阪へ向かうのに、わざわざ金沢と富山を大回りする事情とは、未体験の高速バスに乗ってみたい、というマニアならではの自己満足に他ならず、やっぱり正常人の理解は得にくいのかな、と思う。

 

 

難波-富山間高速バスは、夜行1往復・昼1往復の運行で、僕が目指した上り昼行便は、富山駅前を15時ちょうどに発車する。

冷たい霧雨が降りしきる富山駅前に、南海電鉄バスの3軸スーパーハイデッカーが姿を現した。

おやおや、お前もか、と思う。

 

「ドリーム」号や「北陸道特急バス」京都-金沢線とは車種が異なる日産ディーゼル「スペースウィング」だったが、今回の旅で利用した高速バスが全て3軸車とは、奇遇である。

 

 

我が国の高速バスで、初めて定期運用に採用された3軸スーパーハイデッカーは、昭和60年に開業した「関越高速バス」池袋-新潟線に参入した西武バス・新潟交通・越後交通の「スペースウィング」だったと記憶している。

 

昭和62年に開業した「北陸道特急バス」名古屋-金沢線と「関越高速バス」池袋-富山線、昭和63年に開業した「関越高速バス」池袋-金沢線と「北陸道特急バス」京都-金沢線、平成元年に開業した「関越高速バス」池袋-高田線などといった高速バスに参入した富山地方鉄道、北陸鉄道、頸城自動車といった北陸の事業者も、こぞって3軸スーパーハイデッカーを採用した。

北陸方面路線に参入したJRバス関東や京阪バス、南海電鉄といった他方の事業者も3軸車を購入し、計画段階にあった大阪-金沢線への参入が囁かれていた阪急バスまで、3軸車を用意したのである。

大阪-金沢線は早期の開業が叶わなかったものの、阪急バスは3軸車を大阪-岡山・倉敷線に転用し、後に同線を利用した僕の目を見張らせることになる。

 

3軸車は2軸車に比して走行安定性は高いものの、コスト・パフォーマンスで劣ると聞いたことがあり、福井県のバス事業者や「北陸道特急バス」名古屋発着路線に参入している名鉄バスは、導入しなかった。

3軸車主体だった「関越高速バス」も、平成6年に開業した最後発の池袋-高岡・氷見線は2軸車を採用し、平成10年代を迎えると、他の路線からも3軸車は淘汰されていった。

 

北陸に乱舞した3軸車の競演を、高速バスファンとして心を踊らせながら見守っていたので、消えてしまったのは残念だった。

 

 

「N」を模したデザインを大きく掲げ、「SOUTHERN CROSS」とロゴの入った南海電鉄バスの塗装を、僕は格好いいと思っている。

他路線の2軸車で見慣れたその外観を、3軸車が身に纏っている様は、何となく違和感があって、口の辺りがむず痒くなってくるけれども、なかなか似合いますよ、と言ってあげたくなる。

バス事業者が車両を購入する経緯に詳しい訳ではないが、南海電鉄バスが「スペースウィング」を購入したことは、同社の富山線への意気込みを感じさせる。

 

特急列車が3時間半で結んでいるので、大した距離ではないのだろう、と高を括っていたのだが、高速バスは昼行便が5時間、夜行便では6時間も費やすことを知り、大阪と富山はそれほど遠いのか、と驚愕した。

 

 

関西と北陸を結ぶ夜行列車は、古くから運転されている。

昭和22年に日本海縦貫線を走破する大阪-青森間の急行「日本海」が運転を開始し、昭和36年10月には大阪と富山を結ぶ夜行準急「つるぎ」や大阪と金沢を結ぶ夜行準急「加賀」などが登場する。

昭和33年に連載が開始された松本清張の「ゼロの焦点」では、京都から夜行に乗って金沢に着いたと言う登場人物が、

 

「しばらく歩いて見物したんですが、いかにも北国の大城下町の感じでしたな」

 

などと金沢の街並みについて滔々と語ると、

 

「京都から直行で朝着く急行列車は1本しかないのです。京都を23時50分に発つ『日本海』で、金沢は5時56分です。まだ金沢は真っ暗ですよ」

 

と、指摘される場面がある。

 

北陸本線の高速化が実現し、日中に特急列車が数多く運行されるようになっても、大阪と新潟を結ぶ寝台特急「つるぎ」や夜行急行「きたぐに」が、この旅の時点でも存続していた。

ただし「つるぎ」は富山を通過してしまうし、「きたぐに」下り列車の富山到着は午前4時台、上り列車の発車時刻は午前2時前後である。

 

それだけに、大阪と富山を結ぶ夜行高速バスの登場は新鮮味があり、僕も平成7年に夜行便を利用することになるのだが、最初は、景色を存分に楽しめる昼行便に乗りたかった。

 

 

ところが、並走する特急列車より1時間半も長く掛かる昼行高速バスを選ぶ利用客は、圧倒的に少数派らしく、富山駅前を出て、繁華街に設けられた総曲輪停留所を経由し、富山ICから北陸道に入ったバスは、気の毒なくらいにすいていた。

座席指定制でありながら、改札した運転手さんが、

 

「すいてますから、お好きな席に座って構いませんよ」

 

と、苦笑いしたほどである。

 

横4列の座席配置だが、5~6人しか乗っていないから、誰もが隣りの席まで陣取って、遠慮なく身体を伸ばしている。

後ろに気兼ねせず、背もたれも存分に倒すことが出来たので、ゆったりと寛げる。

 

 

300~500kmを超える長距離高速バスを、夜行便だけでなく昼行便で折り返す運用は、「関越高速バス」各路線を開拓した西武バスの路線に多く、昭和60年開業の池袋-新潟線が昼夜行1往復ずつで運行したことが端緒である。

その後、高田、富山、氷見、金沢方面の「関越高速バス」ばかりではなく、西武バスが参入した池袋-津・伊勢線や池袋-大津線も同様の形態で運行され、東京-盛岡線や新宿-岐阜線、横浜-金沢線、八王子-金沢線、難波-広島線、梅田-高知線、北九州-鹿児島線、大分-鹿児島線など、他社が模倣する路線も幾つか誕生した。

 

僕も、日中に車窓を楽しめる昼行便を好んで乗りに出掛け、案外、世の中には乗車時間を気にしない奇特な御仁がいるものだな、と感じ入る盛況な路線もあったものの、大抵は乗客数がごく僅かで、いつしか昼行便を廃して夜行便だけに絞る路線ばかりになっていた。

 

 

後の「東海道昼特急大阪」号のように、世の中の動向を敏感に汲み取ったと言うよりは、車両や乗務員の回転を早めることを重視した効率化を優先していたのだが、「東海道昼特急大阪」号も、元はと言えば、夜行便である「ドリーム」号の間合い運用である。

平成初頭に登場した夜行便とセットの長距離昼行路線は、時代が早すぎたと言うことであろう。

 

例外的に昼行便の利用者が多く、本数を増やす結果に繋がった「関越高速バス」各路線は、北陸新幹線が開通していなかった当時、首都圏と北陸地方の往来が不便であることが最大の要因だったのだろう。

同じ発想を、所要時間の短い特急列車が直通する区間に応用した難波-富山線は、平成8年6月に夜行便のみに削減され、平成13年2月に運行を取り止めてしまう。

 

時代が早すぎたことの証は、平成15年に復活した梅田-富山線が、夜行便のみならず、3往復の昼行便を運行していることでも判然としている。

大阪と富山を結ぶ高速バスの推移もまた、時代の変遷を如実に反映していたのだ。

 

 

霧雨に煙る倶利伽羅峠を過ぎ、松任海浜公園で暗い日本海を眺め、北陸と近畿の境である木ノ芽峠を越えた難波行き高速バスの車中は、気怠く過ごした記憶だけが残っている。

数時間前に眺めたばかりの車窓は、さすがに二番煎じの観を免れなかったし、尼御前SAでしばしの休憩を取り、米原JCTで名神高速道路に合流する頃には、すっかり日が暮れてしまった。

大阪は遠いなあ、と思いながら、ひたすら退屈を持て余したのである。

車内で食べた昼食が、富山駅で購入した好物の鱒寿司だったことが、唯一の好印象だった。

 

「北陸道特急バス」京都-金沢線における4時間あまりの車中はそれほどでもなかったものの、難波-富山間高速バスの5時間は、往路に比して遥かに冗長だった印象が強い。

京都-金沢間の運行距離が262.6km、難波-富山間は372.6kmである。

 

4時間の壁、という言葉が巷で囁かれるようになったのは、平成29年に北海道新幹線が函館まで開通し、東京-函館間の最速列車の所要時間が4時間02分と発表された頃のように記憶しているが、僕は、関西と北陸を結ぶ2路線に乗車した平成元年に、4時間の壁を実感したのかもしれない。

 

 

名神高速を豊中ICで降り、阪神高速道路の道頓堀ランプでミナミの繁華街の真っ只中に舞い降りると、派手な色合いのネオンの光が、薄暗い車内を煌びやかに彩った。

 

山科から天王山トンネルにかけて、予想通り渋滞に巻き込まれたので、定刻20時より20分ほど遅れて到着した難波高速バスターミナルは、難波駅に直結した南海サウスタワーホテルの5階にある。

重厚な照明が照らし出すホテルの玄関に降り立った僕は、人混みを掻き分けるように地下街を一目散に歩き、地下鉄御堂筋線を梅田駅で降りて、JR大阪駅に歩を運んだ。

夜の大阪の街を歩くと、陽気な酔客に混じって一献傾けながら、商都に溢れる殷賑な空気に身を任せたくなるのが常だったが、今回の旅でそのような暇はなかった。

 

僕は、大阪駅を22時に発車する新潟行き寝台特急列車「つるぎ」のB寝台券を手に入れていた。

東京からの夜行高速バスで京都に着いて、金沢行きの高速バスに乗り継ぎ、難波行きの高速バスで折り返すために金沢から富山まで大汗をかいて、更に難波から大阪へ息せききって急いだのは、ひとえに新潟まで行くためである。

こうでもしないと、東京と全く無関係な区間を走る列車を捕まえる機会は作れないのだが、同じ区間を行ったり来たり、いったい自分は何をしておるのか、と我ながら溜め息が出る。

 

福島の旅館の女中が聞けば、新潟へ行くのにそのような道順はない、東京から上越新幹線が出ている事を知らないのか、と呆れてしまうだろう。

 

 

大阪駅で買い求めた駅弁を手にして、11番線に駆け上がると、僕は思わずたじろいだ。

寝台特急「つるぎ」は既に入線し、24系客車の扉も開け放たれていたけれども、コンコースから改札にかけての雑踏とはあまりに掛け離れた静けさに、ホームを間違えたか、と勘違いしたのである。

 

この旅の当時、大阪駅を起点とする夜行列車はまだまだ健在だった。

隣りの10番線や、東海道本線下り列車が出入りする3番線、4番線からは、

 

17時35分発:函館行き寝台特急「日本海」1号

20時20分発:青森行き寝台特急「日本海」3号

20時31分発:西鹿児島行き寝台特急「なは」

20時44分発:西鹿児島行き寝台特急「明星」(季節運転)

20時56分発:都城行き寝台特急「彗星」

21時07分発:長崎・佐世保行き寝台特急「あかつき」

21時10分発:長野行き急行「ちくま」

22時00分発:新潟行き寝台特急「つるぎ」

22時10分発:東京行き急行「銀河」

22時20分発:出雲市行き急行「だいせん」

23時20分発:新潟行き急行「きたぐに」

 

と、多数の列車が発車し、加えて東京発着の山陽、山陰、九州方面の寝台特急の停車も少なくなかった。

大阪駅11番線からは、この後に「銀河」や「きたぐに」が発車するはずなのだが、この寂れ方はどうしたことなのか。

 

ホームの縁やバラストは濡れているけれども、雨は上がっている。

それでも、低く垂れ込めた雲が、街の明かりを反射していて、冷たい風が容赦なく身体に吹きつけて来た。

 

 

『お待たせを致しております。22時ちょうどの発車になります、新潟行きの寝台特急「つるぎ」です。全車両、2段式のB寝台で、座席車、食堂車、ビュッフェは繋いでおりません。また終点の新潟まで車内販売もございませんので、御了承下さい。ジュース等のお買い物は、ただいまの大阪駅でお願い致します。発車まであと3分程ございます。しばらくお待ち下さい』

 

気を取り直して、指定された車両に足を踏み入れ、歯切れの良い案内放送を聞き流しながら、通路にずらりと並ぶ2段式B寝台を目にすれば、今宵一晩を憧れの寝台特急で過ごせることが、無性に嬉しくなった。

 

かなり無理な旅程を組んでまで、この旅に寝台特急「つるぎ」を組み込んだ理由は、定かではない。

紀行作家宮脇俊三氏の「時刻表ひとり旅」で、当時は青森まで走破していた夜行急行「きたぐに」について書かれた章を読んだことが一因かもしれない。

 

『大阪発22時10分の急行「きたぐに」は11番線から発車する。

11番線は大阪駅のいちばん北のはずれにある片面ホームで、駅舎から遠く離れている。

コンコースの賑わいの届かない、やや淋しいホームである。

まだ9時30分で、22時10分発の「きたぐに」は入線していない。

向かい側の10番線から22時00分に発車する寝台特急「つるぎ」新潟行も入線していない。

ホームで待つ客も少なく、号車番号ごとの入口を示す白線のあたりに、それぞれ2、3人たむろしている程度である。

少ない客ながら、寝台特急を待つ10番線と「きたぐに」の11番線とでは肌合いが違うようだ。

10番線のほうには、小さな車のついた色あざやかなスーツケースがちらほら見える。

こちらの11番線は、もっと地味な荷物が多い。

特急券とか寝台券とか指定券とか「みどりの窓口」とか、そうした面倒なことはいっさい関係なし、長旅は普通急行の自由席、と昔から決めてしまっていっこうに動じないような客、それと学生が目立つ。

チロリアンハットに赤いチョッキの登山客のグループが幾組かいるので、そのあたりは華やいでいる。

9時35分、先発の「つるぎ」より先に「きたぐに」が入線してきた。

直流電機のEF58を先頭に11号車のB寝台、以下B寝台、A寝台、B寝台2両、6号車が指定席の普通車、そのあと自由席普通車が5両、最後に号車番号のない郵便車と荷物車、計13両である』

 

 

『定刻22時00分、寝台特急「つるぎ」が10番線から発車した。

11番線の端に立って眺めていると、EF81に牽引された「つるぎ」は右に急カーブし、すぐに左にカーブする。

いったん見えなくなった赤いEF81が、左方向へふたたび姿を現わす。

駅舎から遠く離れた番線から発車する列車は、一般にこういう急カーブのS字型を描くが、後ろから眺めると大蛇が身をくねらせているようで、妙に生々しい。

そういう寝台特急「つるぎ」の発車ぶりを普通急行「きたぐに」の客である私は、若干の妬みをこめて眺めたのだが、なぜか「つるぎ」の姿に精細がない。

これから新潟まで夜を徹して走らなければならないのか、といった億劫さが漂っている。

「つるぎ」が人気のブルー・トレインでも何でもなく、ただの「夜汽車」に見えた。

私が感じたのは、夜行列車の醸し出す「古さ」のように思う。

夜行列車がはじめて走り出したのは明治22年7月で、既に91年もたっている。

その間、日本と日本人は欧米に追いつけ追い越せで前へ前へと突進していた。

戦争に勝てばもちろん、致命的と思われる敗戦からも不死鳥のように甦生して夜も日もなく前進した。

夜行列車はそれに大いに貢献した。

しかし、時代は変わってきた。

夜を徹して走りまくってきた高度経済成長時代の働き蜂たちは衰えを見せはじめ、それに代わるべき次の世代は夜行列車よりもマイホームやホテルの夜を優先するようになった。

夜行列車の客は航空機へ移っていった。

いつだったか、正直で、ちょっと口の軽い運輸大臣が「夜行列車廃止案」を打ち出したことがあった。

夜間勤務の削減が廃止論の主眼であったから、夜行列車は廃止でいても貨物列車のスジは夜の時間帯でなくては引けないと反対されて沙汰やみになったが、ダイヤ改正のたびに夜行列車が減っていくことは間違いないだろう。

「つるぎ」は絵入りのヘッドマークをほの暗く光らせて消えて行った』

 

 

立山連峰の名山にあやかった「つるぎ」の名は、昭和36年に、大阪駅と富山駅を結ぶ準急列車に命名されたことが最初である。

2年後に大阪-金沢間が急行となり、昭和40年に全区間が急行化され、昭和47年に寝台特急に昇格、運転区間が新潟まで延長されている。

 

昭和55年に記した寝台特急「つるぎ」と夜行急行「きたぐに」の描写で、宮脇氏は、夜行列車の衰退を併せて予言している。

その後の10年間で、急行「きたぐに」は新潟止まりになり、「つるぎ」の発車ホームは「肌合いが違う」はずの11番線に移されていた。

 

5年後の平成6年に「つるぎ」は廃止され、日中に大阪と新潟を6時間半を掛けて直通していた特急「雷鳥」も、平成13年に富山止まりとなる。

大阪と新潟を行き来する人々は、航空機、もしくは東海道新幹線と上越新幹線の乗り継ぎに移っていた。

 

昭和63年に、大阪と新潟の間に夜行高速バス「おけさ」号が開業しているが、昼行便は最初から設定されていない。

大阪と新潟の間は湖西線と北陸本線、信越本線で581.2km、元々東京-神戸間に匹敵する遠距離なのであって、昨今の趨勢では、夜行で移動する需要がバスで事足りるくらいに減少してもおかしくない距離だった。

鉄道でも所要時間の壁は厳然と立ちはだかっていたのである。

 

僕はこの旅の前の年に「おけさ」号に乗車しているが、曾遊の区間であっても、この時「つるぎ」に乗っておいて良かったと思う。

僕はかろうじて間に合ったのだ。

 

 

発車ベルが車内にも聞こえ、

 

『お待たせしました。寝台特急「つるぎ」、間もなく発車です。全車両、2段式のB寝台の車両です。座席の車両はございません』

 

と車掌の案内が繰り返されるのを聞いているうちに、ふと、デッキに出たくなった。

たまには、発車の光景を乗降口から眺めたくなったのだ。

 

乗降口では、したたかに聞し召した中年の男性客が見送りの男性と談笑していて、発車寸前にも関わらず、

 

「頼むぞ、任せた」

「おお、俺も後から長岡に行くからな」

「うむ、待ってる」

 

などと、固く握手を交わしている。

ベルが鳴り終わり、折り戸がバタリ、と閉められても、2人はガラス越しに何やら声を掛け合っていた。

見送りの男性の立ち位置があまりに列車に近いので、発車の合図をする駅員も車掌も困ったのではないだろうか。

 

僕は、夜行列車での旅立ちを見送られた経験がないので、男性客がそそくさと客室に姿を消した後も、何となく胸が熱くなって、扉越しに流れ行く大阪の夜景を眺め続けた。

照明が煌々と照らし出しているホームが過ぎ去り、窓外が暗転すると同時に、大きく列車が左右に揺れたので、宮脇氏が描写したように、幾つもの転轍機を通過しているのであろう。

ガラスに水滴が弾け、また降り出したのか、と思う。

 

 

身体が冷えてきたので寝台に戻ると、物悲しい音色の「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールに続き、改めて案内放送が始まった。

 

『お待たせを致しました。大阪を22時ちょうど、定刻の発車です。新潟行きの寝台特急「つるぎ」です。今日は御乗車ありがとうございます。既にお休みのお客様もいらっしゃいますので、明朝6時30分、新津到着まで、放送による御案内は休ませていただきます。どうかごゆっくりお休み下さい。全車両2段式のB寝台で、座席車、食堂車、ビュッフェは繋いでおりません。また終点新潟まで車内販売はございませんので、御了承下さい。これから先、停まります駅は、新大阪、京都の順に停まります。京都を出ますと、明朝、糸魚川です。糸魚川には明朝4時04分に着きます。直江津4時40分、柏崎5時10分、長岡5時41分、見附5時52分、東三条6時05分、加茂6時15分、新津6時30分、終点新潟には6時46分です』

 

 

1時間20分後に発車する急行「きたぐに」と異なり、福井、石川、富山県内には全く停車せず、富山に由来する列車名を冠しているにも関わらず、新潟の列車と割り切った停車駅である。

ブルートレインのはしりとなった東京-博多間の寝台特急「あさかぜ」の計画段階で、列車名の候補に「富士」の名が挙がったものの、富士山が見える時間帯を走らないことで見送られた推移と対照的である。

立山連峰を望む区間は白川夜舟で過ごすのだろうな、と思う。

 

「つるぎ」の名は、平成27年に開通した北陸新幹線の、名古屋・大阪方面からの特急列車に接続する金沢-富山間のシャトル列車で復活することになる。

新幹線のおかげで、名古屋・大阪-富山間の行き来が乗り換えを強いられることになったのは首を傾げざるを得ないのだが、「つるぎ」は、劔岳が見える時間帯に運転されるようになったのだな、と思った。

 

 

『車掌の乗務位置は、中程5号車です。終着駅新潟まで御案内をさせていただきます車掌はJR西日本〇〇と△△です。よろしくお願い致します。また、夜行列車でございますので、幾つかお願いを致します。現金、貴重品の保管には充分お気をつけ下さい。現金、貴重品は身につけてお休み下さい。洗面所御利用の際、洗面台に時計、指輪、眼鏡等お忘れにならないよう、併せて御注意下さい。少々致しますと車内灯を暗く致します。それでは、既にお休みのお客様もいらっしゃいます。周りのお客様の御迷惑にならないよう、お静かにお休み下さい。それでは皆様、お休みなさい』

 

締めくくりの挨拶は一段とはっきりした声色で、これで朝まで放送をしなくて済むぞ、と手を払っているかのような、断固たる恣意が感じられた。

僕の中学時代の担任の先生と似た口調だったので、ほろ苦さが込み上げてくる。

5分後に着く新大阪や40分後の京都を待たずして、始発駅の発車直後にお休み放送が流れたことにも仰天したが、これほどきっぱりと就眠を念押しされたのも初めてだな、と思う。

大阪を発着する夜行列車を利用したのは、この時が初めてだったが、これがJR西日本の流儀なのであろうか。

 

言われなくても、2夜連続の夜行利用で、日中も慌ただしい乗り換えを何度も強いられたから、先程から瞼がくっつきそうになっている。

新大阪の停車すら覚えていないので、ひたすら眠りを貪ったようである。

検札が来たのかどうかすら、覚えていない。

 

 

『皆様、おはようございます。11月〇日日曜日、6時20分です。大阪からの寝台特急「つるぎ」、列車は定刻に運転致しております。新津まで、あと10分少々です。あと10分少々で新津に着きます。新津でお降りのお客様、お支度してお待ち下さい。新津には6時20分に着きます。終点新潟には6時46分です。お客様にお願い致します。これから先、洗面所を御利用の際、洗面台に時計、指輪、眼鏡等お忘れにならないよう御注意下さい。次は新津です』

 

目を覚ましたのは、予告通りのおはよう放送が流れる頃合いで、カーテンを開ければ、外は白々と明け始めていた。

あまりに熟睡し過ぎて、本当に新潟まで来たのか、と現実味に乏しいけれども、窓は新潟平野の広大な田園を映し出している。

よく眠るために寝台特急を選んだのだから、目論見通りの結末と言えるのだが、せっかくの「つるぎ」の初体験があっという間に終わってしまうのが、残念でもある。

 

僕が利用している寝台区画の、向かいや上段が使われた形跡はなく、通路に出てみても、姿が見えたのは数人に過ぎなかった。

 

 

新津を発車して間もなく、最後の案内放送が流れた。

 

『長らくの御乗車お疲れ様でした。間もなく終点新潟に着きます。どちら様もお忘れ物がございませんよう、お支度してお待ち下さい。ホームは左側7番線です。各線の連絡ホームを御案内致します。羽越本線新発田行きの普通列車は、着きましたホーム、7番線より7時38分です。村上行きの特急「いなほ」1号は、6番線より8時42分、鶴岡、酒田、秋田方面青森行きの特急「いなほ」3号は、同じく6番線より9時24分です。越後線、吉田行きの普通列車は5番線から7時38分です。今日は大阪からの寝台特急「つるぎ」を御利用下さいましてありがとうございました。終点新潟、6時46分定刻の到着です。またの御乗車をお待ち申し上げております。また、この列車は、新潟に着きますと、車庫の方に引き上げさせていただきます。お忘れ物ございませんように御注意下さい。ありがとうございました』

 

最後に添えられた感謝の言葉は、昨夜の「お休みなさい」と同様に紋切り型だったものの、どこか晴れ晴れと聞こえた。

乗客にとっては物足りなく感じるほど呆気ない一夜でも、車掌にとっては長い9時間だったのだろう。

 

終わった!──という安堵が伝わって来るように感じられたのは、穿ち過ぎであろうか。

 

 

「つるぎ」を降りてからどうするのか、全く決めていなかった。
東京には夜までに帰れば良い。

雨は上がっている。

湿っぽい空気を胸に吸い込みながら、車庫に入るために機関車を前後で付け替える作業を眺めながら、どちらに足を向けるべきか、しばし思案に暮れた。

 

前々から乗り歩いてみたかった新潟交通線やJR越後線を初乗りする良い機会である。

朝食でも摂りながら、時刻表をめくってじっくり研究してみようと思う。

東京までの切符も早めに購入しておけば安心なのだが、月並みな上越新幹線ではなく、倍以上の時間を費やす「関越高速バス」だって面白いぞ、などと心中囁きかけてくる悪魔のような誘惑には、全くもって困り果てた。

 

 

 

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