京都から東京への長い道~周遊券で名神・東名ハイウェイバスを乗り継いだ10時間~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

四国の県都を相互に結ぶ長距離バス4本に乗車して、2泊3日の旅程をこなした僕は、早暁の坂出駅にいる(「四国ののんびり長距離バス 前編」「四国ののんびり長距離バス 後編」)。

 

平成4年7月の日曜日、四国に梅雨明け宣言が出された日のことで、みるみる明るさを取り戻していく駅前の街並みに強烈な陽の光が射し込んで、じっとしているだけで汗ばんで来る。

この太陽が真上に昇ったら、どのような暑さに見舞われるのだろうとうんざりするが、よく考えてみたら、僕は昼間にはこの土地にいない。
 

 

2日前の金曜日の夜、仕事を終えて飛び乗った東海道・山陽新幹線を岡山で乗り捨て、快速列車「マリンライナー」で備讃瀬戸大橋を渡り、高松から高知まで夜行バス「とさじ」号で一夜を過ごした。

2日目の土曜日は、土讃本線の特急と徳島本線の急行を乗り継いで徳島に抜けてから、高松行き「高徳特急バス」に乗り、土讃本線の特急で高知に舞い戻って松山行き特急バス「なんごく」号で四国山地を横断、詰めは松山発の夜行バス「いよじ」号で坂出駅に出て、日曜日の朝を迎えたのである。

 

高松-高知-阿波池田-徳島-高松-高知-松山-坂出と、同じ区間を行ったり来たり、いったい何をしておるのかと我ながら阿呆らしく思えて来た3日間は、終わってみれば長かったような短かったような、まとまりに欠ける印象を心に刻んでいる。

バスに乗っている時間は楽しく、阿呆らしく感じたのは全て合間の鉄道の車内であったから、僕も余程のバス好きなのだろう。

曲がりなりにも乗りたかった長距離バスに全て乗り終えたのだから、充実感はある。

 

四国島内に高速道路が張り巡らされる前の時代であるから、利用した長距離バスで、高速道路を利用した路線は1つもない。

その鄙びた乗り心地の余韻が、かすかな疲労感と気怠さに変じて身体の芯に残っているけれど、前途には、東京までの長い道のりが残されている。

 

 

僕の懐には、四国内で途切れ途切れに使用した「四国ワイド周遊券」が残っていた。

 

僕が今回乗車した長距離バスで、周遊券が使えたのは松山高知急行線「なんごく」号だけである。

「とさじ」号と「いよじ」号は、廃止された夜行列車の代替という謳い文句にも関わらず、周遊券が適応されないという制度で、何たることかと思ったけれども、東京から高松までは乗車券として使用できたし、バスに乗る合間に鉄道で移動した高知-徳島間、高松-高知間でも、特急・急行券を購入することなく特急・急行列車の自由席に座れたので、元は取れたかな、と思う。

 

先には、長い帰路が控えている。

坂出5時00分発の岡山行き快速「マリンライナー」2号で夜明けの備讃瀬戸大橋を渡り、岡山で新幹線特急券を購入して、6時00分発の東京行き「ひかり」60号に乗り込んだ。

そのまま席に腰を据えていれば、9時59分には東京駅に着く。

そうしようか、と少しく迷ったけれども、僕は7時16分着の京都駅で重い腰を上げた。

京都見物をしよう、などという魂胆はない。

 

 

僕は、観光客でごった返すコンコースを突っ切って烏丸口のハイウェイバス乗り場に足を運び、窓口で周遊券を提示して乗車便の指定を受けてから、8時00分発の名古屋行き「名神ハイウェイバス」急行便に乗り込んだ。

京都から東京まで、高速バスで帰ろうという趣向なのである。

 

京都と名古屋を結ぶ「名神ハイウェイバス」と、名古屋と東京を結ぶ「東名ハイウェイバス」は、周遊券が使える。

ただし、JRバス関東とJR東海バスだけが運行する「東名ハイウェイバス」と異なり、JR東海バスと西日本JRバスばかりではなく名阪近鉄高速バスと日本急行バスが運行に加わっている「名神ハイウェイバス」では、周遊券で利用できるのはJRバスの便だけという決まりになっていた。

 

このような例は他にもあり、昭和60年に開業した盛岡と弘前を結ぶ高速バス「ヨーデル」号にJRバス東北と弘南バス、岩手県交通バス、岩手県北バスが参入した際にも、周遊券はJRバスの便しか使えなかったのである。

レールウェイライター種村直樹氏が、鉄道ばかりでなく国鉄バス路線も含めた遠大な一筆書きルートをたどった記録「さよなら国鉄・最長片道切符の旅」に、その経緯が触れられている。

昭和60年の8月、「ヨーデル」号を受け持つ国鉄バス沼宮内営業所管轄の路線バスの運転手さんの話である。

 

「4社(国鉄・弘南・岩手県交通・岩手県北)で同じように運行していて、周遊券では国鉄しか乗れんなどということでは申し訳なくてね。第一お客さんの方はいちいちどこのバスかなどと考える人は少ないから、よその便に乗せろ乗れんと揉めたりして、結局現場が困るんです。どうも上の人が決めることはよく分からない。よその会社が断れば苦情は国鉄へ集まるから弱ったと見えて、確か先月中頃から全部乗れるようになったはずですよ」

 

「ヨーデル」号は周遊券の適用を国鉄、後のJRバス便のみならず民間事業者の便にも拡大したが、「名神ハイウェイバス」は旧態のまま据え置かれていた。

ただでさえ割引率が大きい周遊券でJR以外のバスに乗車されれば、その社にどのように経費を支払うのか、JRとしても頭が痛かったことと察せられる。

もしくは民間事業者の方が、周遊券の客に座席を占有されるのを嫌ったのかもしれない。

 

 

発車時刻の数分前に乗り場に横着けされた名古屋行き「名神ハイウェイバス」は、西日本JRバスの担当であった。

嬉しいことに、背が高いスーパーハイデッカーの新車である。

 

当時の「名神ハイウェイバス」は、大阪-名古屋と京都-名古屋の2系統だけになっていて、大阪系統が特急便2往復・急行便8往復、京都系統が特急便5往復・急行便22往復と、京都系統が圧倒的に多い運行本数になっていた。

大阪系統も京都系統も、東海道新幹線が強力な競合相手であることに変わりはないけれども、運賃では大きな開きがあるから、廉価な高速バスを選ぶ需要はどちらも少なくないように思える。

しかし、大阪系統に対しては、運賃に数百円の差しかない近鉄「名阪特急」が強力なライバルとなっており、また、大阪と京都の間の名神高速道路には渋滞が多発する天王山トンネルがあるため、定時性が保ちにくく、自然と利用者数に差が生じたものと思われる。

 

 

昭和39年10月に大阪・神戸系統が、同40年3月に京都系統が開業した「名神ハイウェイバス」は、神戸-名古屋系統が1日21往復、大阪-名古屋系統が32往復、京都-名古屋系23往復と、当初は大阪系統の本数が最も多かったのだが、京都系統には休日運行の臨時便が6往復運行されていた。

人口の比率から言っても開業時の運行本数の振り分けは頷けるのだが、しかし、昭和49年に運行3社のうち日本急行バスが大阪と神戸の両系統を休止して京都系統のみに専念するようになり、昭和52年には国鉄と日本高速自動車も神戸系統の運行を取りやめ、大阪系統の本数が大幅に減少したのも、大阪系統を取り巻く環境の厳しさの表れであろうか。

 

 

僕が四国からの帰りに利用した当時は、5年前の昭和63年7月に日本急行バスが神戸系統を11年ぶりに再開したばかりで、後に名阪近鉄高速バス、西日本JRバス、JR東海バスも同系統に参入し、「名神ハイウェイバス」も折りからの高速バスブームに乗って勢いを取り戻した観があった。

しかし、時刻表には神戸系統は別路線のように別の欄に掲載され、名阪近鉄高速バスは平成7年の阪神大震災を機に、再度神戸系統の運行を中止してしまう。

 

この旅の10年後である平成14年6月に、「名神ハイウェイバス」は、全てのバスストップに停車する急行便を全廃し、特急便が停車しない尾西、名神羽島、安八、養老口、名神関ヶ原、山東、名神米原、名神彦根、甲良、秦荘、蒲生、名神竜王、栗東、名神草津、名神瀬田、名神大津、名神山科のバスストップが廃止され、唯一、特急便の停車が追加された名神茨木バスストップだけが存続するという事態を迎える。

平成29年4月には大阪系統の特急便も廃止されて、全便がノンストップの超特急便となる。

神戸系統も復活後はノンストップ便だけの運行であったから、京都系統だけが大垣、多賀、百済寺、八日市、菩提寺、京都深草に停車する特急便を残しているのが現状である。

 

 

名神高速を走る高速バスは少なからず経験したけれども、「名神ハイウェイバス」京都系統に乗車するのは、この時が初めてであった。
 
主力系統であるだけに、運行する名阪近鉄高速バスはスーパーハイデッカーの新車を用意し、日本急行バスは、後部をサロン室にして、テーブルに京都銘菓の「おたべ」が置かれているという「サロン特急」を投入したと耳にしていた。

せっかく「名神ハイウェイバス」京都系統に乗るならば、「おたべ」をつまみながらサロンでゆったりと寛ぎたかったのだが、周遊券を持っている以上は、観念してJR便に乗るより他はない。

同じ路線であるのに、どうして周遊券で日本急行バスに乗れないのか、と恨めしくなる。

 

 

安かろう悪かろう、と言うのが周遊券旅行者の定めなのだ、と諦観していた僕の目の前に現れたのが、予想もしなかった日産ディーゼルスペースウィング3軸スーパーハイデッカーであったから、小躍りしたくなった。

僕は車両に拘るファンではないけれども、P-DA67UEと呼ばれるこの形式だけは別である。

初めてこの車両を目にしたのは昭和60年に開業した池袋と新潟を結ぶ「関越高速バス」で、その後、池袋や名古屋、京都を発着して北陸各地を結ぶ高速バス路線を中心に導入が進み、アメリカの大陸横断バス「グレイハウンド」を彷彿とさせる武骨な外観と迫力に、僕は一発で魅入られた。

 

まさか「名神ハイウェイバス」でお目に掛かろうとは思いも寄らなかったので、嬉しくてしょうがない。

なかなか豪華に演出された門出ではないか、と「おたべ」への執着が念頭から消える。

わざわざ京都で降り、高速バスを選んで良かったと思う。

 

 

20名ほどの乗客を乗せた名古屋行きの急行バスは、京都駅の西を南北に貫く堀川通りに入り、東海道本線と山陰本線、新幹線をくぐり抜けて南に向かう。

堀川通りは線路の南で油小路通りと名を変え、九条油小路交差点で九条通りに右折したバスは、京阪国道口交差点で京阪国道に左折して名神高速京都南ICを目指す。

京都市街を南北に国道1号線・京阪国道が貫いているのは方向が違うではないか、と違和感を禁じ得ないけれども、大阪から高槻を経て京都に到る京阪国道は、京都市街で九条通り、堀川通りと鉤状に北上してから、西からの山陰道・国道9号線と堀川五条の交差点で合流し、そのまま五条通りをなぞって東山を越えて山科に到っている。

 

140万人を超える人口を抱えた京都市は、六大都市の1つに数えられる大都会で、大小のビルが建ち並ぶ沿道の風景も、千年の都を感じさせるような面影が乏しい。

ところが、京都駅の南側には古い家屋が少なからず見受けられ、京阪国道口交差点に面している東寺では、白壁に仕切られた境内に五重塔を見上げることも出来る。

昭和60年5月に、僕にとって生まれて初めての夜行高速バス体験となる東京発京都行き「ドリーム」号で一夜を過ごし、京都南ICに降り立った時のことが懐かしく思い出される。

眠い眼をこすりながら未明の薄暗い街並みを眺め、古都に来たなあ、との感慨が湧いて来たのが、この辺りだった。

 

名神高速道路に入ってみるみる速度を上げたバスは、京都深草バスストップに停車してから、東山に連なる丘陵地帯を切り通しで越えて行く。

東京や名古屋、大阪、神戸と異なり、呆気なく高速走行が始まって、瞬く間に市街地と別れを告げることになるのが、京都を発着する高速バスの導入部である。

 

 

名神高速道路──我が国で初めて建設された本格的な高速道路を走る時、いつも僕の脳裏に浮かぶのは、SF作家小松左京氏が著した「妄想ニッポン紀行」の「滋賀から若桜へ」の章に記された一節である。

昭和38年に尼崎ICと栗東ICの間が部分開通したばかりの名神高速上り線を走っている車中の描写は、小松氏と道路評論家三木氏が交わすやりとりばかりでなく、開通直後の記録としても貴重だと思う。

 

『「そもそも、道というものの哲学的、思想的意義をどうお考えですか?道こそ、人類の文明の始原ですぞ。人間が移動小集団の段階から、定着化して行き、地方小集団の間の、常時コミュニケーションが組織されるようになって、初めて定住と移動の両極を備えた文明と呼びうるものになる。道は中国においては哲学宗教の中核的概念となり、現代日本では文明の内的対話そのものとなりつつあります」

「日本の道がですか?」

 

私はちょっと驚いて言った。

 

「よく日本の道路は“ものすごい(テリブル)”といわれているのに……」

「道路が悪いなんて、それはもう何年も前に、政府が道路開発による経済振興策の1つとしてふきこんだスローガンです。いつまでもそれが日本の現状だと思ってたら大まちがい、いま道路が1番テリブルなのは、大都市の中で、周辺部はかえってうんと良くなりつつあります。それに本来、道がいい、悪いというのは、何を基準としていうんです?自動車でしょう?」

 

車は美しいオレンジ色の光の中へつっこんでいった──トンネルだ。

 

「日本は比較的古い時代から、ちゃんと公道の発達していた国ですよ。千何百年前、律令体制ができた時、ちゃんと京都中心に、日本全国、四方へ通ずる公道ができていた。主要街道沿いに、5里ごとに駅が設けられ、規定の駅子、駅馬をそなえて公用に供せられるようになっている。中世になれば、ほとんど今日と変わりない主要道路や脇道のコースができあがっています」

「それにしちゃあ、ずいぶん長いこと舗装することを知らなかったもんですな」

「それはあなた……」

 

三木氏は得たりとばかり答えた。

 

「日本には戦車(チャリオット)がなかったからですな」

「チャリオット?」

「そうです。そもそもヨーロッパにおける自動車道路の発想は、ローマ帝国に端を発しています」

 

三木氏はラジオのスイッチに手をのばした。

山崎のトンネルを抜け、車は水の上を走るのと変わらぬ滑らかさで、大鉄橋にかかっていた。

 

「馬に牽かせるチャリオットは、既に紀元前3000年代に中東メソポタミアに侵入した騎馬民族の発明にかかり、それが約2000年の間に東は中国、西はギリシャからローマに到ります。だが、ついに日本には入ってこなかった。ヨーロッパ四辺をおさえた、中央集権的大軍事国家だったローマ帝国では、辺境四辺にすみやかにチャリオットを主体とする軍団を移動せしめるために、石で舗装した道路を必要としたのですな。かくて、全ての道はローマに通じることになる」

「そういえば、日本では明治に至るまで、馬車による移動というのはありませんな」

 

私は首をひねった。

 

「京都あたりで牛車が使われていたくらいで……」

「思うに、あまりに山の多い地形によるんですな。日本国中いたるところで、山を1つも越えずに行ける地方というのはないでしょうが。インカ文明は車の使用を知らなかったが、橇を使ったので、あの尾根から尾根へ走る石の道を築いた。ところが“山越し文明”である日本では、馬車はかえって不便だった。だから、馬は、乗るか、駄馬として使うかで、輓馬の考え方はほとんど入ってこなかったんです。これに対して、平野の長距離旅行を交通の主な形式とするヨーロッパ、アメリカでは、馬車が発達し、馬車が動力化されるに及んで自動車道路の概念がごく自然に出てきた。もっともヨーロッパとアメリカでは、少し様相が違います。アメリカでは、あまりに広大な地域に散らばった州(ステイツ)を結びつけるための、駅馬車路線が、ハイウェイの母体です。しかしヨーロッパの場合、むしろローマ軍用道路の発想を借りたヒットラーのアウトバーンに結実しました」

「じゃ、この道路は?」

 

私は、はるか彼方の闇に向かって、一直線にのびている、幅広い、堂々とした道を顎で指した。

 

「ここ数年来、日本人は、初めて道を舗装することに目覚めたみたいに、やたらに巨大な道路をつくり出している。やたらにあっちこっちに、自動車道路をつくっている。これはどんな伝統と照応するんですかね?」

「シンボルですよ、あなた……」

 

三木氏は一種の情感をこめてアクセルを踏みこんだ。

 

「まったく、戦後、日本人は初めて、自動車に目覚めたみたいですな。普通のサラリーマンが月賦で自動車が持てるということに……。道路がやっとこれに追いついてきて、日本の“自動車文明期”はやっと緒につき出した所です。そして、新しい時代の象徴は、その時代の最盛期よりも、むしろその初期につくられる場合が多い。むしろ、シンボルの方が、その時代をつくり出すのです。たとえば、ピラミッドは……」

「シンボルか──」

 

私はつぶやいた。

 

「名神高速も仁徳天皇の御陵みたいなもんだね。そういえば、まだほとんど車が走っていないし……」

「そうです。戦艦大和を、ピラミッドとともに、世界の三バカの1つに数えたのはどこのどいつですかな?」

 

三木氏はハンドルを叩かんばかりに熱をこめて言った。

 

「6万トンのスクラップかも知れん。無用の長物だったかも知れん。大変なムダだったかも知れん。しかし、シンボルというものは、全てうつろい行くこの世界の中に、不滅の里程標を残し、一切が失われた後にでも、再び人の心と知恵と富を組織する核心となり得るのです。虎は死んで皮を残し、大和は沈んで、造船王国をつくり上げたと思いませんか?」

 

この時刻──すでに名神高速道路の上には、上りも下りも、ヘッドライトのあかり1つ見えなかった。

栗東-名古屋間未完成の故もあるという、この豪華な、片側3車線のハイウェイの上で、時たま行きかうのが乗用車ばかりというのは、たしかにこの道がまだ“シンボル”以外の何ものでもないことをしめしている。

とはいえ──

シンボルたり得るということは大したことだった。

ハイウェイなら、東京でさんざん走った。

しかし、それは空に舞い上がった自動車道路以外の何ものでもなく、決して“シンボル”ではなかった。

むしろ、いま羽田へかけてできかけているモノレールの方が“シンボル”機能を多く持つかもしれない。

しかし、名神の場合は、現状に不釣り合いなほど広く豪華なインターチェンジといい、山を抜け、河を渡り、ほぼ一直線にのびて行く沿道の景色といい、全く「今までの日本になかったもの」であり、1つの新しいシンボルかも知れなかった。

速度計の針先は90キロ付近を上下していたが、このスピードで直線路をとばしながら、ヘッドライトの光芒の絶えるその真正面に、なお闇があるということは、不思議な感覚だった。

沿道の蛍光灯、ナトリウムランプに照らし出されたトンネル、水銀灯の光に青ざめているインターチェンジの丸くだだっ広い空間、時折り前方に、人魂色に輝き出す標識板──これらの、冷ややかで巨大で清潔な侘しさというものは、山でさえ恋するという、人くさい日本の風土に、初めて持ち込まれた“近代”かも知れなかった。

にもかかわらず、その坦々とした滑らかな道と、侘しいスピード感は、私にとってすでに親しいものだった。

鬼火燃える六道の辻を、「銀河鉄道」として表象した宮沢賢治のように、私にとっても、“近代”はむしろ大虚(プラーマン)のやさしく冷ややかな相貌が宙天に広がる仏教的世界に近いものに感じられるのである』

 

「妄想ニッポン紀行」は、発表当時はSFルポ「地図の思想」と題され、架空の人物が毎回小松氏の道連れを務めることが多い。

道路評論家三木氏は、若狭で小松氏を置き去りにして女性と姿をくらましてしまうのだが、小松氏の創作した人物であるならば、ここに書かれているのは小松氏自身の論評と考えて良いだろう。

あまりにすいていて宮沢賢治の「銀河鉄道」を想起させるという昭和30年代の名神高速の光景は、ひしめき合いながら次々とバスを抜いていく車で溢れ返っている現状からは、想像もつかない。

 

文中で、戦艦大和が造船王国の礎となった功績が語られていたが、同様に、名神高速も我が国の自動車産業に多大な影響を与えている。

昭和40年に名神高速が全面開通するや否や、同時期に登場したトヨペット・コロナが、西宮-小牧間で10万km連続高速走行公開テストを実施して58日間で276往復を走り抜き、また、国鉄が東名高速道路の開通を睨んで開発を進めていた高速バス専用車両には、時速100kmで20万kmを連続走行可能という課題がメーカーに要求されたのである。

 

 

小松氏と三木氏は京都で1泊した後、三条蹴上から国道1号線で山科に向かう行程を選ぶのだが、山科でも小松氏は忘れ難い記述を残している。

 

『京津電鉄、国鉄東海道本線、国道1号線、名神高速道路に加えて、国鉄の新東海道線までが、地峡部のごく狭い範囲に収束しているこの山科付近は、まことに壮観とも言うべく、とくに京津御陵駅をすぎて、天智帝陵への脇道を越えるあたりは、国鉄、京津、国道1号線が、左右から迫る山壁の間に三重に交叉し逢坂山にかかる。

音羽、追分あたりでは、新幹線、名神高速も身をすり寄せてきて、三木氏をして、

 

「この地域に小型原爆1発落とせば、東大動脈管束を、一挙にズタズタにできますな」

 

とはなはだ不穏な感想をつぶやかせるに足るものがあった』

 

 

前方に立ちはだかる逢坂山に穿たれた蝉丸トンネルと大津トンネルを抜ければ、湖畔に広がる大津の街並みが左手に現れる。

地図を開くと、京都から名古屋までの行程の半分以上を占めているではないか、と眼を見張らせられる巨大な湖が、我が国最大の琵琶湖である。

 

琵琶湖は、440万年前に出来た世界有数の古代湖とされているが、最初に湖が生まれたのは、現在の三重県伊賀市のあたりであるらしい。

地盤の断層運動による窪地に水が溜まり、40~50万年を掛けて浅く狭い湖になり、300万年前の地殻変動のために阿山・甲賀地方に北上、260万年前に更に北上して水口・日野・多賀地域まで広がる蒲生湖沼群と呼ばれる沼沢地になる。

180万年前に鈴鹿山脈が隆起して蒲生湖沼群は北へ押しやられ、100万年前に大津付近に堅田湖と呼ばれる小さな湖ができ、43万年前に北部で起きた大きな地殻変動により、琵琶湖の北部も湖の形を成したのである。

 

琵琶湖の歴史に比べれば、人間の文明史の短さが際立つとしか言い様がないのだが、小松左京氏は、琵琶湖と古代の街道の関わりについて次のように記している。

 

『琵琶湖南端に至れば、ここが東方三道の分岐点である。

近江の国府瀬田を発して湖南を東進する道は、野路(現在の草津付近)の分かれに一方は石部、甲賀より鈴鹿越えして桑名、四日市を経て、尾張の国の稲沢へ出て、以下熱田に南下して海岸沿いに東進し、下総の国葛飾に至るいわゆる東海道、一方は野路より東北進して、湖東部より不破の関を越えて美濃の府中に至り、信濃松本付近に北上して、上野の国を現在の中山道の途中まで行き、以下下野より白河の関を経て、会津、出羽、秋田城に至る東山道。それに、大津より湖西を北上して、湖北端塩津より愛発の関を越えて若狭の角賀(敦賀)の港に出て、以下海路または陸路で、越前、加賀、越中、越後の蒲原津に至る北陸道──この3本が湖南を出発点にして三方へ広がっているのである』

 

かつての主要街道は京都を起点としていた、と漠然と捉えていたけれども、大津は京の東の玄関だったのである。

 

 

バスは大津、瀬田、草津、栗東、竜王、八日市、多賀、彦根、米原と琵琶湖東岸の町の名を冠したインターを次々と通り過ぎていく。

名神高速は市街地が形成されている湖岸を避けて、鈴鹿山脈の北麓に造られているので、湖面を拝める箇所は大して多くない。

湖岸を走ればもっと滑らかな線形になっただろうに、と同情したくなるほど、琵琶湖に沿う滋賀県内の名神高速は、うねうねと山あいを縫う曲線ばかりが続く。

 

平行する国道1号線は、草津で袂を分かって東に進む旧東海道に沿っているものの、東海道本線や東海道新幹線、そして名神高速道路は、当時の技術では建設が難しかった鈴鹿山脈を避け、北回りの米原経由となった。

平成30年に現行の区間が完成した新名神高速道路は、鈴鹿山脈を貫く旧東海道に沿って建設され、我が国の土木技術の進化を目の当たりにするようなルートとなった。

「名神ハイウェイバス」のノンストップ便も、平成20年から新名神高速を経由するようになったものの、米原経由で運行されていた「名神ハイウェイバス」京都系統の超特急便の所要時間は2時間30分、現在の新名神高速経由の超特急便の所要時間も2時間30分と変わりがなく、そんなものか、と拍子抜けしてしまうのだが、いずれにしても今回の旅の遥か未来の話である。

 

僕は、旧来の名神高速道路で、のんびりしたバス旅を楽しんでいる。

琵琶湖の南端にある大津ICから、名神高速が琵琶湖から離れていく米原ICまでおよそ70km、小1時間を費やすことを思えば、この湖の広大さが実感される。

 

 

多賀SAで7分間の短い休憩を終えて、北陸自動車道を分岐する米原JCTの標識が眼に入る頃に、ふっと陽が翳った。

梅雨が明けた地域から、梅雨が続いている土地に足を踏み入れただけ、ということではあるまい。

 

左手には標高1377mの伊吹山が聳えているが、上半分は暗い雲に覆われている。

この旅の翌年である平成5年から、「名神ハイウェイバス」に大阪駅から伊吹山頂へ向かう1日1往復の夏季運行の系統が設けられ、大阪の人はそれほど伊吹山に登るのか、と感心したことがあるけれども、それも後に聞いた話である。

何度かこの区間を走ったことがありながら、いつも低く垂れ込めた雲に遮られて、伊吹山の全貌を拝んだ記憶は少ない。

決して形の良い山とは思えず、名神高速から拝める山としては、栗東IC付近で正面に姿を現す三上山の方が整った容貌である。

 

 

それでも、伊吹山が名神高速で圧倒的な存在感を示しているのは、その武骨な威容ばかりではなく、この付近に差し掛かると北国の情緒が仄かに漂って来るからではないだろうか。

 

太古の北陸道は湖西を通ったが、草津から先の名神高速に沿う国道は北陸へ続く8号線であり、米原から伊吹山、関ヶ原にかけては、北陸の入口とも言うべき風土なのである。

伊吹山を筆頭とする伊吹山地は、岐阜県と滋賀県に跨がり、伊勢湾に流れ込む揖斐川や、琵琶湖に注ぐ姉川、天野川が端を発し、ここが関西と中京の境目であることを示している。

北は白山を最高峰とする北陸の両白山地に連なり、伊吹山地と鈴鹿山脈に挟まれた関ヶ原には、冬の季節風に運ばれてきた降雪が多く、東海道新幹線に遅れが生じる原因となっている。

 

 

幸い雨に降られることはなく、バスは小まめにバスストップの案内を車内に流しながら関ヶ原を驀進し続けているけれども、これまで、この便に途中で乗降する客はいなかった。

 

大垣ICを過ぎて濃尾平野に飛び出すと、青空が覗きはしないものの、雲が高くなって、辺りの風景が明るく陽気になる。

再び太平洋岸に戻って来たのだな、と思う。

バスは一宮ICで名神高速を離れ、国道22号線・名岐国道で、車の波に揉まれるように名古屋市街へと向かう。

 

 

定刻通りの10時42分に到着した名古屋駅桜通口のハイウェイバス乗り場は、屋内に設けられているためか、いつも薄暗く、排気ガスが立ちこめて、どことなく陰鬱である。

僕は、窓口で11時20分発の東京行き「東名ハイウェイバス」特急便の便指定を受け、早々と乗り場に立った。

 

現在のように超特急便が設定されている時代ではなく、特急を名乗りながら名古屋駅から静岡ICまで27ヶ所のバスストップの全てに停まり、静岡ICから東京駅の間でようやく停留所が東名富士、東名沼津、東名御殿場、東名江田の4ヶ所に絞られるような、なかなか間怠っこしい運行形態の時代であった。

全区間を各停留所に停車する急行便は、名古屋-浜松、名古屋-静岡、浜松-東京、静岡-東京、沼津-東京といった区間系統で運行されていた。

名古屋-静岡間における停車箇所を減らし、千種駅前・東名豊田・東名浜名湖・東名浜松北・東名吉田・東名静岡・東名江田だけに停車する超特急「東名ライナー」が登場するのは、平成11年2月のことである。

 

 

以後、「名神ハイウェイバス」と同様に「東名ハイウェイバス」も超特急便に力を入れるようになり、平成17年9月のダイヤ改正において、名古屋-東京系統は全て「東名ライナー」に統一された。

平成18年12月に名古屋-東京系統の一部が特急便に戻される一方で、東名静岡だけに停車する「スーパーライナー」が誕生、平成24年6月には、新東名高速道路経由で所要5時間きっかり、途中停留所が皆無という「新東名スーパーライナー」が運行を開始する。

 

 

未来の話ばかりして恐縮であるけれども、このような時間短縮の風潮に逆行するかのように、名古屋-東京間を全てのバスストップに停車する異端児のような急行便が、平成14年から運行されたことは特筆すべきであろう。

当時の時刻表を開いてみれば、名古屋-東京間を直通する系統は、所要5時間19分の「東名スーパーライナー」が1往復、所要5時間28分の「東名ライナー」が4往復、所要5時間50分の特急便が1日1往復、そして52ヶ所のバスストップに全て停車する所要5時間57分の急行便が、何と6往復も運行されている。

開業当初は名古屋-東京間で各駅停車の急行便が運行された記録が残されているけれども、どうして、超特急便に力を入れ始めた時期に全区間急行運転の便を再登場させたのかは、推し量る術もない。

 

名古屋と静岡の間で全停留所に停まると言う運行形態だけで、何処が特急便なのか、と、もどかしく感じていた僕にとって、この名古屋から東京までの全区間を各駅停車する急行便の登場は驚きだった。

更に戸惑ったのは、この急行便に乗りたい、と焦がれるように感じた自分の心境である。

急行便と「東名スーパーライナー」の所要時間が40分足らずしか違わないのも意外であったが、結局、体験する機会のないまま、「東名ハイウェイバス」の全区間急行便は、3年後に「東名ライナー」に格上げする形で消滅してしまった。

ほら見ろ、誰が乗るものか、と思いながらも、なぜか、惜しむ気持ちが捨て切れなかった。

 

 

話を今回の旅に戻せば、もどかしかろうが何だろうが、名古屋から東京へ高速バスで移動しようと思えば「東名ハイウェイバス」特急便しか選択肢がない、という単純な運行ダイヤの時代であった。

 

僕が発車時刻の30分以上も前から、人目を気にしながらも独りで乗り場に並んだのは、東京までの5時間50分を最前列の特等席で過ごしたいからに他ならない。

すると、何処から湧いて来たのか、程なく僕の後ろに10人ほどの列が出来ているではないか。

誰もが早く席取りの列に加わりたくて様子を窺っていたのかもしれず、僕が口火を切った格好になったので、笑いを嚙み殺すのになかなか苦労したものである。

発車10分前にバスが入線する頃には、待ち客の列は30人ほどに膨れ上がり、この便はかなり盛況のようであった。

 

名古屋まで乗車して来たバスとは異なる車種の三菱ふそうエアロクィーンであるものの、嬉しいことに、この便にも3軸スーパーハイデッカー車両が当てがわれていた。

 

 

この旅の時代の高速バスは、それほど距離や所要時間が長くない路線であっても、高価な車両を競い合う傾向があり、バブルの残り香の時代だったと言えるのかもしれない。

その後、2度ほど「東名ライナー」を利用した時は、1回目は今回と同じスーパーハイデッカーだったが、2度目は横3列独立シートを備えたダブルデッカーが使われていた。

何れも満席に近い混み具合で、速達便の需要の高さを目の当たりにした思いだったが、平成29年に利用した「新東名スーパーライナー」は、がっかりしたことに横4列席のハイデッカー車両だった。

 

バブルが弾け、事業者がコストを厳しく吟味する時代に移り変わっていることを思い知らされた。

 

 

東京行き「東名ハイウェイバス」特急便の名古屋市内の経路は、ほぼ市営地下鉄東山線に沿っていて、名古屋駅前から広小路通りを東へ進み、千種駅前、星が丘駅前を経て、東名高速道路の名古屋ICに向かう。

 

名古屋ICの停留所では歩道に長蛇の列が見られ、乗降口を昇って来る乗客は、鵜の目鷹の目で空席を探している。

この混み様では僕の隣席にも相客が来るな、と覚悟を決めていると、

 

「ここはあいてますか?」

 

と明るい声がして、大きなリュックを背負ったラフな装いの若い女性が、眼を大きく見開きながらこちらを見つめていた。

このような場合、ツイてるぞ、という本心を見破られないよう、僕は表情を閉ざしてしまうことが多い。

どうぞ、と、ぼそぼそ口の中で呟くと、女性は細身の身体を隣席にすっと乗せて、膝の上に大きなリュックサックを抱え、身を固くしている僕にさえずるように話しかけてきた。

 

「良かった。並んでいる時は座れないかもって思ってたんです」

「座れないなんてことはないはずですよ。高速道路を走るのだから、立って乗せる訳はないと思うんですが」

「じゃあ、席よりも多いお客さんがいる時はどうするのかしら」

「多分、次の便を待って下さいって言われると思いますよ」

「じゃあ、私、尚更ラッキーだったんだ」

 

実際、乗降口に足を掛けながら、

 

「乗れるのかい?」

 

と、運転手さんに声を掛ける男性客もいる。

 

「大丈夫です。数えてますから。まだ空席があるはずですよ」

 

と、運転手さんが太鼓判を押す。

 

名古屋IC停留所での乗り残しはなく、バスは料金所をくぐって流入路から東名高速本線へと歩を進めた。

 

「凄い、みんな乗れるなんて魔法みたい」

 

固唾を飲んで見守っていた隣席の女性が、客室を振り返りながら大いに感心している。

 

 

東名高速道路は、これまでも何度か走った経験があり、名古屋から浜名湖あたりまでの車窓は比較的平板であると思っている。

目立つ山や海が眼に入る訳でもなく、平地では沿道の建物が防音壁の上から顔を覗かせ、何の変哲もない切り通しの丘陵が繰り返されるばかりである。

緩やかなアップダウンを登り下りしながら、特急バスは小まめにバスストップに寄り、景色の良し悪しなど関係ありません、と言わんばかりに快調に距離を稼いでいく。

 

独りであれば居眠りが出るところであろうが、このような退屈な区間で、隣席の女性のような話好きの相客に恵まれたのは幸いだった。

何を喋ったのか、殆どが忘却の彼方であるから、他愛もない四方山話だったのだろう。

バスストップの案内放送が流れ、バスが減速して本線から外れると、彼女はしばしば口をつぐんだ。

リュックを抱えた上半身を捻りながら客室を見回す素振りを見せるので、この上、客が乗れるのだろうか、と案じているに違いない。

いい人なのだな、と思う。

 

「その荷物、重くないですか?網棚に上げましょうか。こちらの足元に置いてもいいですよ」

「あ、大丈夫です。それに、これ、商売品なんです」

「売り物ですか?」

「はい、私、行商してるんです」

 

と、彼女は胸元に抱えていたリュックを開けた。

中身はよく覚えていないが、酒のつまみになるような乾き物のパックがぎっしりと詰め込まれている。

行商人と言えば、地方で農業や漁業に携わるおばさんが、大きな荷物を抱えて農産物や漁獲類を町に売りに来る、といったイメージしか持っていなかったので、意外な返事に戸惑って、僕はまじまじと彼女の細い顔を見つめてしまった。

リュックに入れているような品物を、彼女が何処でどのような人々に販売するのか想像もつかないけれど、詳しく問うのは、何となく憚られた。

 

「何かお気に入りの品があります?お酒とか飲まれるんですか?」

「まあ、時々は」

「よろしければお買いになりません?」

 

と、彼女が取り出したのは、コンビニでも売っているようなありきたりの商品ばかりだったが、業務用と呼ぶのであろうか、1品の量が半端なしに多く、僕は物珍しさから1つを買い求めた。

周遊券で節約旅行をしている身としては、決して安いとは思えない値段であった記憶があるけれども、

 

「ありがとうございます」

 

と頭を下げた彼女の笑顔は、30年近くが経った今でも、ありありと思い浮かべることが出来る。

 

浜名湖SAで短い休憩がとられ、他愛もない会話を交わす間に、車窓が生き生きとして来た。

斜面に茶畑が並ぶ牧ノ原台地を越え、日本坂トンネルを抜けた先の静岡ICで、彼女は手を振りながら降りて行き、空いた席には、ほのかな香水の匂いだけが残された。

 

名古屋では満席に近かったこの便も、そこまでは降りていく客ばかりが目立ち、静岡ICで数人が乗り込んで来たにも関わらず、僕の隣席は終点まで空いたままだった。

「名神ハイウェイバス」より途中乗降が多いのだな、と思う。

 

 

「名神ハイウェイバス」から「東名ハイウェイバス」に乗り継いでみれば、「名神ハイウェイバス」に国鉄と共に参入した名阪近鉄高速バスや日本急行バスのように、東名高速道路にも「東名急行バス」という名の民間の合弁会社が登場していたことを忘れる訳にはいかない。

 

昭和44年6月11日付の交通新聞に、両線の開業時の模様が記されている。

 

『国鉄と民間12社でつくられた東名急行バスの東名ハイウェーバスがきのう10日から営業を開始、ひと足早くスタートしている小田急電鉄、静岡鉄道、遠州鉄道とあわせて5社のハイウェーバスが出そろった。

この朝は雲ひとつない好天に恵まれ、東京、静岡、浜松、沼津、名古屋で行われた出発式もいちだんと花やいだ雰囲気に包まれていた。

前売り乗車券の売れ行きも各区間の運賃が国鉄の急行電車より安いうえに所要時分も急行並みとあって上々の人気。

新しい旅のスタイルをつくる。

“バスの新幹線”登場で東海道の道のりはいっそう縮められた感じだが、今後乗客勤務をめぐる安全性とサービス面の競争ははげしさを増しそうだ』

 

 

『【国鉄バス~初日から臨時を出す盛況~】

 

定刻8時、国鉄バスは東京駅八重洲南口のハイウェーバス乗り場につけられ、山田国鉄副総裁がテープを切断、海沼関東地方自動車局長がクス玉のひもを引くと色とりどりの紙吹雪が舞い散り、オール東鉄吹奏楽団の演奏するメロディに送られて、アイボリーホワイトとブルーに塗り分けられた国鉄ご自慢の350馬力、12気筒ディーゼルエンジン高速車、特急名古屋行きが軽やかにスタート、続行車両3両も拍手の波をかきわけるようにこれに続いた。

これより前に行われた出発式では山田副総裁、中牟田関東支社長、畑川国鉄自動車局長、海沼関東地自局長、小宮山東京駅長、竹垣重嘉運転士にグリーンの制服をまとった日本交通観光社の山口光子さんらから花束が贈られた。

ところでこの日6時10分頃には、乗車券発売開始を待ち切れない約30人がつめかけるほどの盛況で、下り第1便の6時30分発急行名古屋行きには61人が乗車を希望、続行車両1両を出す幸先のよいスタートぶり。

9時発特急名古屋行きまでの9便に16両が出動、511人が利用した。

国鉄東名ハイウェーバスは長い旅行にも快適なように5段切り替えのリクライニングシートで、ゆったりとした40座席。

冷暖房付きで“黄害”防止に120リットル入りタンクをつけたトイレも備えられ、大きくとったガラス窓などとともにサービス面には細かく気を配っている。

しかも時速100キロの走行でも安全なように高速用チューブレスタイヤを使用、無線電話など各種の優れた機器類も正確に働くので乗り心地は満点。

ベテラン運転士のハンドルさばきも信頼される。

開業区間は東京-名古屋359.9キロで特急なら5時間20分、急行は5時間40分で走破する。

このほか東京-沼津など5区間とドリーム号の名称で夜間便東京-大阪・京都間を運転、走行回数46回。

運賃は東京から静岡まで800円、名古屋まで1600円、大阪まで2250円で、乗車券は「みどりの窓口」や東京、名古屋、京都、大阪のドリーム号乗車駅で7日前から買える。

 

【東名急行~初特急はほぼ満員~】

 

一方、東名急行バスの出発式は10日8時30分から東京・渋谷の東京急行本社横東名急行バス発着所で行われた。

式には柏村日本バス協会副会長、五島社長のほか関係者約200人が出席、東急ブラスバンドがマーチを奏でる中で、まず今井運転士に東急から花束が贈られたあと、柏村副会長と五島社長が紅白のテープを切り、色とりどりの風船が青空に舞う中を、アイボリーホワイト、レッド、シルバーの3色に美しく塗り分けられたスマートな名鉄バスターミナル(名古屋)行きの特急初バスがスタートした。

初バスは中年の夫婦や若いグループなどでほぼ満員となり、人気は上々。

初日の前売り規定枚数1600枚のうち580枚が売れた。

東名急行バスは1日に特急4本、急行12本、快速12本、普通4本を運転する』

 

 

『【合同祝賀会~「安全性では競争」~】

 

営業開始の前日、9日には国鉄の試乗会が東京-沼津インターチェンジ間であり、東京-名古屋間359.7キロにちなんで招待された一般360人や、賀原夏子さん、山田吾一さん、山本嘉次郎さんら芸能・文化人、都内小学生の豆記者などがデモンストレーションした。

ついで17時からは東京・銀座の東急ホテルに原田運輸、坪田建設副大臣、根津東武鉄道社長ら多数の来賓を招いて国鉄、東名急行バスの合同祝賀会が開かれたが、磯崎国鉄総裁が「安全性、サービス面では徹底的に競争するが、そのほかはできる限り協調したい」とあいさつ。

これを受けて五島東名急行社長が「兄貴分の磯崎総裁がすべてを言い尽くした。それにしてもつい4、5年前までバス業者は自分の地盤にそっくりかえっていて、一緒に事業をはじめるなどは想像もしていなかった。まったく“時代なるかな”の感が深い。ルールとエチケットを護って磯崎さんに負けずに頑張る」と述べた。

同社の皮算用では1日延べ乗車人員約3000人あれば採算ベースになるそうだ。

 

【名古屋でも開業式】

 

国鉄の東名ハイウェーバスの名古屋における開業式は10日8時40分から国鉄名古屋駅北口の東名ハイウェーバス乗場で国鉄をはじめ関係者40余名が列席して行われた。

武田朝日神社宮司の神事についで、参列者代表が次々と玉串を奉奠、国鉄バスの安全運転を祈った。

このあと9時30分東京行き上り4便を前にして発車式が行われ、日本交通観光社名古屋支店の酒井春美さんら4人のお嬢さんから松本中部支社長、相沢中部地自局長、菱谷本社自動車局営業課長、広瀬伍助運転士に花束が贈られ、ついで伊江名古屋管理局長がクス玉を割り、岡田名古屋陸運局長、松本中部支社長、相沢中部地自局長が紅白のテープを切ると、名鉄局音楽隊の演奏のなかを満員の客を乗せたバスは瀬田名古屋駅長の発車合図で同駅を静かにスタートした。

初日第1便からの乗車人員は、7時から9時30分までの間の発車台数は11台、367名で、乗車率は82%と幸先のよい出足であった。

この日民間の東名急行バスも、同日8時30分から名鉄名古屋駅前名鉄バスセンターで発車式を行い、同バスセンター4階8番乗り場で乗務員に対する花束贈呈が行われたあと岡田陸運局長、唐沢東名急行バス専務が紅白のテープを切り、8時30分同センター発東京渋谷行きの急行便はすべるようにホームを離れた。

また浜松、静岡、沼津、御殿場の各発着所でも同様発車式が行われた』

 

 

この記事を読むと、国鉄「東名ハイウェイバス」と「東名急行バス」の登場は近年になく華々しく、当時の運行事業者や利用者の期待が非常に大きかったことが伺える。

ハイウェーバス、という表記に時代を感じたり、当時の「東名ハイウェイバス」の所要時間が現在より短いのは渋滞の程度の差かな、と思ったり、名古屋で双方の出発式に参列した陸運局長はさぞかし忙しかったであろうと微笑ましかったり、我が国の本格的な高速バスの黎明期を克明に記録しているだけあって、何かと感慨が湧いて来る記事である。

 

「東名ハイウェイバス」の出発式に名を連ねている国鉄の海沼関東地方自動車局長は、休日になると、夜行高速バス「ドリーム」号上り便が早朝に休憩する足柄SAに出掛けては、運転手や乗客に茶を振る舞って労をねぎらったという逸話を、何かで読んだ覚えがある。

 

開業当初の国鉄「東名ハイウェイバス」には1日43往復の便が運行され、内訳は東京-名古屋系統17往復、東京-浜松系統6往復、東京-静岡系統8往復、東京-沼津系統8往復、静岡-名古屋系統2往復、浜松-名古屋系統2往復というものであった。

 

 

「東名ハイウェイバス」は様々に進化しながら今も健在であるものの、「東名急行バス」は短命に終わった。

渋谷駅-東名横浜・御殿場駅・沼津駅・東名静岡・新静岡駅・浜松駅・名古屋名鉄BC、そして名鉄BC-御殿場駅・沼津駅・新静岡駅・浜松駅といった多数の系統が設けられていたのだが、僅か6年後の昭和50年に全路線が廃止され、会社も解散に追い込まれている。

 

昭和50年3月の時刻表を開けば、「東名急行バス」は国鉄東名高速線に続いて名神高速線と同じページに掲載され、渋谷-名古屋系統が特急・急行合わせて18往復、渋谷-新静岡系統が急行・快速合わせて15往復、そして渋谷-沼津系統の快速が10往復運行されている。

欄外には『東名急行バスは3月31日かぎりで運転をとりやめる予定です』と注釈がつけられているけれども、とても廃止寸前とは思えない大所帯である。

 

 

僕が「東名急行バス」を知ったのは、幼少時に、親に買って貰ったミニカーだった。

米澤玩具のミニカーシリーズ「ダイヤペット」の1品で、1/50スケールの迫力と、流麗な外観や精巧な造り込みに魅入られたものだった。

いつの間にか失くしてしまったけれども、大人になって、然るべき値段で中古品を購入したのは、思い出に見合う額に思えたからだろう。

 

僕が子供の頃の絵本などにも「東名急行バス」の露出が多く見受けられただけに、僅か6年で消えてしまったのが不思議でならない。

交通新聞の記事には華々しく扱われているけれども、よく読めば、初日の利用者数が国鉄に比べて少ないように思えるのも、不吉な予兆だったのであろうか。

 

1度は乗っておきたかったな、と「東名急行バス」を思い出すたびに時を巻き戻したくなる。

 

 

静岡ICから東京駅までは、10年ほど前に「東名ハイウェイバス」静岡-東京系統の上り急行便に乗って、初めて高速バスを体験した曾遊の区間である。

「東名ハイウェイバス」の沿線では、浜名湖とともに途中下車が可能なバスストップに指定されている日本平は、雄大な名前に反して高速道路からは普通の切通しにしか見えず、拍子抜けしてしまうけれども、薩埵峠を越えて由比の清見潟で波打ち際を走り、富士川を渡って沼津ICから先の箱根越えまで、前半部分に比して、変化に富んだ車窓を楽しむことが出来る。

この区間で高速バスを初体験したことが、僕を高速バス旅の虜にしたと言っても過言ではない。

 

天候に恵まれれば、清見潟から御殿場まで、富士山の秀麗な山容を何度も目にすることが出来るのだが、この日は低く垂れ込めた梅雨の雲に覆われて、富士山を拝むことは叶わなかった。

御殿場ICを過ぎ、きついカーブの多い下り坂を左右に身体を揺さぶられながら勢いよく駆け下りれば、建物が途切れることがない関東平野の車窓に、帰って来たな、と思う。

 

東京駅八重洲口への到着は、17時48分の予定である。

 

 

京都駅烏丸口を出て10時間近く、関西と首都圏の間をバスだけで移動したのは、この日が初めてだった。

 

平成13年に大阪や京都と東京を直通する昼行高速バス「東海道昼特急」号が走り出して、長距離長時間乗車にも関わらず、時間に余裕のある若者を中心に思わぬ人気を博する。

四国からの帰り道では、いくら周遊券で利用が可能であっても、このように酔狂な行程を計画するのは僕くらいだろう、と自嘲していたので、後に「東海道昼特急」号に乗車した時には、時代は変わったものだ、と感慨深かった。

 

前述したように、この旅の後に「名神ハイウェイバス」も「東名ハイウェイバス」も運行系統が激変することになるのだが、開業当初に近い形態を残していた時代に体験することが出来たのは、幸せだったと思っている。

周遊券も、平成10年に制度変更して「周遊きっぷ」と名を変えた後、平成25年に廃止された。

 

東京駅に降り立った時は、まだ明るかった。

自宅へ向かう電車の中で、Kioskで買い求めた新聞に眼を通して、四国で梅雨明け宣言が出されたことを知った。

窓越しに東京のどんよりとした空模様を見上げながら、もう1度西へ戻りたくなっている自分に気づいて、まだ乗り足りないのか、と苦笑いが込み上げて来た。

 

 

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