追憶の375M「大垣夜行」~そして中国ハイウェイバス初体験記~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

夜を迎えた東京駅9番線の人影は、予想より遥かに多かった。


 

そうは言っても、中央線快速電車や京浜東北線、山手線がひっきりなしに出入りして、発車ベルが途切れることのない国電ホームのような目まぐるしさではない。

平塚、小田原、熱海、沼津、静岡方面からの東海道本線中距離電車が次々と到着しては、清掃員が手早く車内を綺麗にして、運転手と車掌が車内を見回りながら前後を入れ替わり、瞬く間に帰宅客を乗せて発車していく隣りの7番線、8番線ホームのような張りつめた空気もない。

 

9番線も湘南電車が使用するが、21時05分発の平塚行きを最後に、発着列車がぱったり途切れている。



通勤客の代わりに、乗降口を示す札がぶら下がっている場所に大きな荷物を並べている一団が、あちこちにたむろしている。

中にはホームに座り込んで、談笑しているどころか、トランプに興じているグループも見受けられる。

人は多くてもまったりした空気が漂い、東京駅にぽっかりと出現した異空間のような9番線だった。

 

やっぱりこのような早い時刻からいるのだな、と感心し、僕は人数が最も少ない一団を見定めてから、その列に加わり、汗を拭った。

蒸し暑い日が続く昭和61年の夏休みの真っ最中で、この夜はいつもより風が涼しく感じられたけれども、身体を動かせば汗が滲む。

 

ホームの時計の針は、午後10時半を指している。

およそ1時間後の23時25分に、9番線から、大垣行き普通列車345Mが発車するのである。

東京駅と大垣駅を結ぶ下り345Mと上り340M、通称「大垣夜行」は、昭和61年当時、我が国で数少なくなった夜行の普通列車であった。

 

 

これから普通列車に一晩揺られるのか、と考えれば、我ながら大儀なことだ、と溜息が出るけれども、つい数十年前まで、僕らの国では、普通列車の旅が当たり前であった。

明治22年7月に東海道本線の新橋駅と神戸駅の間が開通し、全線を走破する1往復の夜行列車が我が国の夜行列車の起源とされているが、この列車は特に夜行を目的としていた訳ではなく、速度が遅いために走行時間帯が夜間に掛かってしまっただけとされている。 


この時の運転ダイヤは、 

 

下り:新橋16時45分⇒名古屋4時40分⇒大阪11時40分⇒神戸12時50分

上り:神戸17時30分⇒大阪18時36分⇒名古屋1時09分⇒新橋13時40分 

 

と所要20時間に及んでいた。

 

我が国随一の幹線である東海道本線における長距離普通列車の歩みを追ってみれば、大正から昭和にかけての同線には1日5~7往復の夜行普通列車が運転され、昭和17年に関門トンネルが開通すると、下りでは東京-長崎・久留米間、上りでは鹿児島-東京間1493.1kmを所要41時間25分で長駆する普通列車も登場している。


この驚くべき長距離普通列車は、

 

鹿児島21時00分⇒博多7時04分⇒広島15時37分⇒大阪0時11分⇒名古屋5時33分⇒東京14時25分

 

という運転ダイヤで、乗り通せば車中2晩を過ごしていたのである。

 

それでも、新幹線や寝台特急、航空機などが高嶺の花であった時代、人々は、これしか乗るべき交通手段はないのだ、と普通列車を利用していたのである。

 

 

太平洋戦争の後は、極度の石炭不足により、運転されるのは全て普通列車だけという時代を迎えたが、世情が落ち着き輸送力が回復しても、急行や準急列車の増発が中心となり、長距離普通列車は大して増発されなかったようである。

それでも、昭和31年に東海道本線の全線電化が完成した際には、下り4本・上り3本という夜行普通列車が東京-大阪・門司間に運転されている。

 

昭和39年に東海道新幹線が開業し、3年後の昭和42年に普通列車は東京-大阪間の1往復だけに削減されたが、それでも利用客は多く、多客期には数時間並ばなければ座れないことも多かったという。


この時の下り143列車は、

 

東京23時30分⇒名古屋6時33分⇒大阪10時58分

 

上り144列車は、

 

大阪23時50分⇒名古屋4時28分⇒東京13時45分

 

という運転ダイヤだった。

 

この列車が、合理化と称して昭和43年のダイヤ改正で廃止されることが報じられると、反対意見が国鉄に多数寄せられ、当時の国鉄総裁が「この夜行列車を存続させるべきである」と判断するに到る。

それまで運転されていた東京-大垣間の臨時夜行急行列車「ながら」を普通列車にする形で運転ダイヤが組まれ、急行形電車を投入して、存続することになったのである。

これが「大垣夜行」、後の「ムーンライトながら」の前身である。

 

当時はまだ東名高速道路も部分的にしか開通しておらず、東京と名古屋・京阪神を結ぶ高速バスもなく、格安航空会社も存在しなかったこともあって、普通列車で格安に移動する旅客が国鉄当局を動かすほど多数存在したことを物語っている。

 

 

『お待たせを致しました。間もなく、9番線に大垣行きが入線します。お下がり下さい。大垣行き、入ります』

 

長い時間押し黙ったままだったホームの拡声器が、手短に案内を流したのは、午後11時を過ぎた頃合いである。

 

ホームに座り込んでいた一群も腰を上げ、置いていた荷物を手にした待ち客の前に、風を巻き込んで153系急行型電車が滑り込んで来た。

きちんと停まるのか、と心配になる程の勢いだったが、みるみる速度を減じて、乗降口をホームの案内札の位置にぴたりと合わせる運転手の腕前には、いつも感心させられる。

 
『扉が開きます。押し合わないで、順々に御乗車下さい。業務放送、345M、扉を開けて下さい』

 

早足で乗降口の奥に消えていく先客に続いて、客室に足を踏み入れた僕は、ずらりと並んだ4人向かい合わせのボックス席に素早く眼を配りながら、何処に座ろうか、と一瞬躊躇したけれども、最も入口に近い一角に身体を滑り込ませた。

153系は急行用に製造された車両だけあって、乗降口やトイレ、洗面台のあるデッキと客室が画然と分かれていて、両端の座席は、ボックス席の半分、つまり車端方向を向いた2人並びの座席だけ、という構造になっていた。

腰を少し前にずらすだけで膝が壁につかえるような狭さで、足を伸ばせないから辛いかな、と心配になるけれども、向かい側に相客がいないだけ楽ではないかと考えたのである。

 

その間にも、押しくら饅頭をしているかのようにどやどやと客が乗り込んできて、振り返ってみれば、殆どの座席が埋まっている。

大きな荷物を網棚に上げてTシャツ1枚になり、座る姿勢を色々と確かめながら一晩を過ごす態勢を整えつつある大半の客に混じって、帰宅途中と思われるYシャツ姿の勤め人もちらほらと見受けられる。

4人向かい合わせで席を占めることが出来て安堵したのか、笑い声を上げているグループ客もいて、ホームの喧噪をそのまま車内に持ち込んだような華やかさが車室を支配していた。

 

 

僕の隣りには、ネクタイ姿の初老の男性が軽く会釈して腰を下ろし、鞄を膝の上に置き、ビール缶を開けてぐいっとあおっている。

そうか、アルコールの力を借りて眠ってしまうと言う手もあったか、と感心していると、

 

「どちらまで」

 

と、男性が朗らかに声を掛けてきた。

 

「終点まで行きます」

「ほう、御旅行ですか、いいですな。私は根府川で降ります。寝てたら起こして下さらんか。この前も、1つ前の電車で寝過ごしましてな」

「僕も寝てなければいいんですが」

「あはは、確かにそうですな」

 

後にバブルと呼ばれるようになる狂瀾の時代は、昭和61年に始まったとされている。

首都圏の地価高騰の影響で、東京への通勤圏が神奈川県西部から静岡県まで広がったこの頃、「大垣夜行」は、新幹線の最終列車を逃した通勤客を救済する役割も果たしていた。

うっかり寝過ごすと名古屋や大垣まで連れて行かれてしまうことから、「寝過ごしの日本記録」と紹介されたこともあるらしい。

僕は、夜行列車に乗れば必ず途中で何度か目を覚ますたちなので、静岡辺りで降りるべき人間が名古屋までぐっすりと眠り込んでしまうという逸話は、剛胆以外の何者でもないと思ってしまう。

 

乗り物では、隣席をどのような相客が占めるのか、ということは重大な関心事であるから、気さくな人で良かったと思う。

僕は乗り物で一緒になる相手のことを考える時に、北杜夫の「ドクトルまんぼう航海記」で、同じ船室を当てがわれた船員についての記述を思い出す。

 

『同室の三等航海士は、ときにフカのごとき不気味な目つきで人を睨む悪癖を有するほか、極めて気持のいい男であったのは悪魔のハカライというべきで、海上では船が全世界であり、個人の世界は居室だけに限られるから、万一カンシャクもちでネゴトもちでヤブニラミでキンキラ声の、かつ大ボラフキでオセッカイでカサッカキでダッチョウの男なぞと一緒になった日には、そのユーウツさは比類のないものであろう』

 

夜行列車は僅か一夜の袖触れ合うだけの縁であり、しかも、根府川氏は途中で降りるのだから理想的な相客と言える。

その後は2人用シートを独り占めできるかもしれない、という打算が脳裏を掠める。

 

 

『お待たせしました。大垣行きが発車します。御利用のお客様はお近くの扉からお乗り下さい。大垣行き、発車です。扉が閉まります。御注意下さい。扉、閉めさせていただきます』

 

窓ガラスの向こうで発車ベルとせわしない案内放送が錯綜し、ぎりぎりまで飛び乗ってくる客がいるのだな、と思っていると、「大垣夜行」は定刻きっかりに、ごとり、と動き出した。

窓外を、東京駅9番線の景観が流れ始め、徐々に速くなっていく。

ホームは、今までの雑踏が嘘のように人気がなくなり、腕を上げて指差確認をしている駅員が数名いるだけで、祭や宴の後のような安堵感と寂寥感が支配しているように見えた。

席取りのために何時間も前から長距離客が大勢ホームを占拠し、通勤客が発車間際まで飛び込んで来るような、騒然とした多客期の長距離夜行鈍行列車の一員となった僕は、間違いなく、真夏の祭典に参加したのだ、と思う。

寝台特急列車の発車風景は、もっと洗練されていて、祭や宴の雰囲気とは程遠い。

 

 

ホームが尽きて車窓が暗転する頃、「大垣夜行」はすっかりスピードに乗り、闇に包まれた窓は、墓石のように大小建ち並んでいるビル街と、明るい車内を鏡のように映すだけとなっている。

 

『大変お待たせを致しました。御乗車ありがとうございます。23時25分発、普通電車の大垣行きでございます。この電車は、小田原まで各駅に停まりますが、小田原を出ますと、熱海、三島、沼津、富士、静岡、浜松の順に停車して参ります。なお、浜松の駅を出ますと、終点の大垣まで、各駅に停車して参ります。途中の平塚まで、全車、禁煙でございます。お煙草は、しばらくの間、御辛抱下さい。また、1号車と9号車は、全区間、禁煙車両になっております。全区間、禁煙でございますので御了承願います。4号車と5号車がグリーン車になっております。乗車券の他にグリーン券が必要でございます。次は新橋でございます。品川、川崎、横浜、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮、国府津、鴨宮、小田原の順に停まります。小田原を出ますと、深夜、快速運転になります。御注意下さい。この電車、途中の熱海まで、東京車掌区の○○、□□、△△が乗車致しております。御用事の際は、お手近の車掌までお申し出下さい。途中駅の停車時間は、品川を出ましてから御案内致します』

 

僕が「大垣夜行」に乗ったのは、混雑する区間を除けば喫煙できる車両が当たり前で、禁煙車の方が特別視されていた時代であった。

 

新橋駅と品川駅でも幾許かの客が乗車してきて、中には通路に立つ人も出る混雑ぶりである。

「大垣夜行」の後に、東海道本線の下り最終列車である東京23時53分発小田原行き普通列車があるので、小田原より手前の通勤客はそちらを選ぶのだろうし、立ってでも「大垣夜行」に乗るのは小田原以遠の客である可能性が高いと思われるから、お疲れ様、と気の毒になる。

 

 

品川駅を後にした「大垣夜行」は、川崎まで駅間距離が長い区間に入って、ぐいぐい速度を上げていく。

僕が住む大井町のアパートの近くにある踏切の警報音が、けたたましく一瞬だけ聞こえて、見慣れた街の夜景に眼を凝らしながら、行ってきます、と少しばかり居住まいを正した。

 

『品川から御乗車のお客様、お待たせ致しました。この電車は大垣行きでございます。川崎、横浜の順に停車になります。途中の平塚まで、全車禁煙でございます。お煙草は御辛抱下さい。また、1号車と9号車は、全区間禁煙車両になっておりますので御了承願います。4号車と5号車がグリーン車になっております。乗車券の他にグリーン券が必要でございます。途中駅までの停車駅、到着時刻を御案内致します。横浜の到着時刻は23時53分です。戸塚が0時04分、大船0時11分、藤沢0時17分、辻堂0時21分、茅ヶ崎0時24分、平塚0時30分です。平塚まで車内禁煙です。しばらくの間、御辛抱下さい。大磯0時35分、二宮0時40分、国府津0時45分、鴨宮0時49分、小田原の到着は0時53分、0時53分の到着になります。小田原の駅で8分程停まります。発車は1時01分になります。なお、小田原の次は熱海です。熱海が1時23分、三島は1時35分、沼津1時43分、沼津でも7分程停まります。富士2時05分、静岡2時38分です。静岡で7分程停まります。静岡の次、浜松です。浜松3時54分の到着になります。浜松で、約23分ほど停まります。発車は4時17分です。なお、浜松を出ますと、終点の大垣まで各駅に停まります。浜松から終点大垣までは、各駅に停まります。普通電車の大垣行きでございます。次は川崎です』

 

終点まで行く僕は、延々と続く途中駅の案内は聞き流すだけであったが、走行音や客室内の喧噪に掻き消されがちであるためか、それとも滑舌の問題なのか、1と2の発音が区別しにくい放送であった。

熱海が2時23分か、いやいや次の三島が1時35分と言っていたのだから、熱海も2時ではなく1時と言ったに違いない、などとぼんやり考えていたのである。

 

缶ビールを飲み干した根府川氏は、いつの間にか鼾をかき始めている。

 

 

川崎駅と横浜駅を過ぎた頃に、客室入口の扉が開き、走行音がどっと流れ込んできた。

デッキにも数人の客の姿が見え、中には蹲っている人もいる。

 

「お休みの所を畏れ入ります。切符を拝見します」

 

と、扉を開けたのは車掌であった。

僕の席は客室最前部の進行方向左側だから、真っ先に検札を受けることになる。

 

僕が懐に忍ばせているのは「青春18きっぷ」だった。

春休みと夏休み、年末年始に期間限定で発売される、国鉄の普通列車が1日乗り放題というお得な切符で、5枚綴りで1万円、1日2000円である。

まだ消費税がなかった時代の、切りが良い値段だった。

 

昭和57年に「青春18きっぷ」の販売が開始されると、発売期間の「大垣夜行」は、ラッシュ時の通勤電車なみの混雑を呈するようになったと言われている。

「青春18きっぷ」が登場する前は、2両連結されているグリーン車から席が埋まっていたが、「青春18きっぷ」の季節になると普通車に利用客が殺到し、東京駅では数時間前から行列が出来るようになった。

 

 

「青春18きっぷ」で夜行に乗るコツは、短区間利用になる1日目は、日付が変わる直後の駅まで、通常の乗車券を購入しておくことと聞いていた。

「大垣夜行」で日が変わるのは0時01分発の戸塚駅である。

 

僕は大井町駅から東京駅までの乗車券と、「青春18きっぷ」を差し出した。

 

「東京から戸塚までの切符を下さい」

「ああ、『18きっぷ』ですね」

 

と車掌も手慣れたもので、車内補充券を発行し、「青春18きっぷ」にパチンと鋏を入れた。

隣りで眼を覚ました根府川氏が差し出したのは定期券だったが、それを見た車掌は眉をひそめた。

 

「お客さん、根府川ですか。この列車は停まりませんが」

「何だって?」

 

大垣夜行は普通列車と称しながら、小田原から先は小駅を通過する快速運転になることは僕も知っていたが、どの駅に停車してどこを通過するのか、ということまで頭に入っていた訳ではない。

根府川氏が降りると言うのだから、根府川駅も停車するんだな、くらいに思っていたのである。

 

「この電車は鈍行なんだろう?」

「そうなんですが、深夜は通過する駅もあるんですよ。小田原の先は熱海まで停まりません」

「弱ったな。小田原からタクシーか」

「小田原駅で降りられますか?」

「しょうがないだろう」

 

と、根府川氏は鞄をあけて缶ビールをもう1本取り出し、栓を開けた。

小田原駅から根府川駅までは2駅、鉄道ならば6.5kmの距離であり、平行して真鶴道路も通っているから、タクシーでもそれほどの出費にはならないだろうが、何となく気の毒な話である。

本当は飲むつもりではなかったのだろうな、と根府川氏が2本目のビールをぐいぐいあけているのを眺めるともなく眺めていると、

 

「心配かけてすみませんなあ。大垣行きに乗るのは初めてだったんだが、いやまさか、停まらない駅があるなんて夢にも思わなかった。頑張って前の電車にすれば良かった」

「すみません。僕も気づきませんで」

「いやいや、間抜けなのはこっちです。次からは気をつけますわ。でも、これで、夜遅く駅から家まで歩かずに済む。小田原からのタクシー、玄関先まで乗りつけてやりますわ」

 

と根府川氏が破顔一笑したので、僕もホッとひと息ついた。

 

 

根府川氏は再び寝息を立て始め、僕は電車の揺れに身を任せながら、うつらうつらと過ごす車中になった。

すれ違う列車も殆どなく、駅に停車するたびに客室内の人数が減って行くけれど、席があく訳ではない。

ボックスシートを占めているのは、首都圏で降りるような近距離客ではないのである。

 

0時53分に到着した小田原駅で、根府川氏が寝過ごすことなく下車していき、夜行列車にお馴染みのお休み放送が流れ始める。

 

『お待たせ致しました。大垣行きでございます。禁煙車は1号車、9号車でございます。禁煙車でのお煙草は御遠慮下さい。次は熱海です。熱海、三島、沼津、富士、静岡の順に停車でございます。熱海には1時23分、三島1時36分、沼津1時43分、富士2時01分、静岡2時38分、浜松には3時55分の到着でございます。浜松から先は各駅に停車して参ります。なお、お休みの方がいらっしゃいますので、この放送をもちまして、刈谷の到着前まで、放送を一時中断させていただきます。途中でお降りのお客様は、乗り過ごしのないよう充分に御注意を願います。深夜運転のため、次の放送は、刈谷到着直前とさせていただきます。2、3、お願いを致します。音楽やラジオをお聞きのお客様はイヤホンでお願いします。グループで御旅行のお客様、大きな声でお話しておりますと、周りのお客様に御迷惑をお掛け致しますので、小さな声でお話をお願いします。また、貴重品等は肌身離さないよう御注意下さい。盗難事故がたびたび発生しておりますので、貴重品には充分御注意下さい。また、お買い物等で降りる際に、荷物には充分御注意下さい。盗難事故がたびたび発生しております。途中でお買い物等で降りるお客様は、充分御注意下さい。次は熱海です。熱海、三島、沼津、富士、静岡の順に停車致します。なお、途中、発車ベルが鳴らない駅がございますので、乗り遅れには充分御注意下さい。これより放送はしばらく休ませていただきます。次は熱海です』

 

放送の内容は寝台特急列車とも共通する部分があり、夜汽車の情緒が満載である。

これから遠くへ行くのだな、と改めて実感が湧いてくる。

 

 

デッキから移って来る客がいるかもしれない、と考えて、しばらくは隣席を空けておいたけれども、後にトイレに立ってみると、デッキの客は1人だけになっていて、新聞紙を敷いて膝を抱えて床に座り、ぐっすりと眠り込んでいた。

客室内も、この頃には、隣席を占めて身体を横にしたり、向かいの席に足を伸ばしている客もちらほらと見られるようになり、僕がいる車両は9割程度の乗車率に減じていた。

 

僕も、身体を捻って垂直の背もたれと壁に上半身を寄り掛からせながら、斜めに足を伸ばして過ごすことにした。

足を通路に突き出して完全に横になってしまえば楽かもしれないが、さすがに憚られる。

どのように身体を向けようと、国鉄のボックスシートは熟睡できないように造られているとしか思えず、不自然な姿勢を強いられるのは確かである。

座れているだけマシ、と思いながら座席の構造に忠実な姿勢を取り、腰を伸ばして垂直の背もたれに背中を合わせ、膝を揃えて座るのが最も楽なのではないか、と思ったりする。

 

なかなか寝心地の良い姿勢を決められないまま、周囲を見回せば、下半身を見なければ正座しているのではないか、と思うほど上半身を伸ばしたまま眼を瞑っている人、深く腰掛けているものの背中を丸めて狭い窓枠や通路側の手すりに乗せた腕に顔を埋めている人、腰が床に落ちるのではないかと心配になるほどずり落ちて、首から上だけが背もたれに寄りかかっている人など、人間とは様々な姿態で眠れるものだと感心する。

隣りや向かいに空席が生じて、広々と身体を伸ばしている幸運な客を目にすると、羨望の念が湧いて来るから、さもしいことだ、と自嘲したくなる。

 

 

「大垣夜行」に乗るのは、この旅が初めてではなかった。

前回は名古屋に行くだけだったので「青春18きっぷ」は用意せず、グリーン車を奢った。

「青春18きっぷ」は、たとえグリーン券や特急券、急行券を買い足してもグリーン車や特急・急行列車に乗れる訳ではなく、乗車券を別個に購入する必要があるため、普通の乗車券の代わりが務まる訳ではない。

今回、「青春18きっぷ」を購入した目的は、「大垣夜行」に乗るためだけではなく、5枚の綴りを全て使用して色々と行く所を想定していたので、グリーン車には乗れない。

 

僕は、夜行列車のグリーン車について描写した紀行作家宮脇俊三氏の次の一節が忘れられない。

 

『寝台はとれないし、夜行だからいくらかでも楽をしようとグリーン車にしたけれど、あれは私には扱いにくい。

背もたれが傾くからそれだけ尻にかかる重みは分散するが、なまじ仰向け気味になるから足を伸ばしたくなる。

するとかならず足がつかえる。

床の上に足を投げ出せば背中がずり落ちてくる。

思いきって前の席の背もたれの上にのせると楽らしいが、前に客がいなくてもそれはやりかねる。

どうにも中途半端な構造である。

いっそ背を立ててきちんと坐り、「普通車よりいくらか楽だぞ」と自分に言いきかせているほうがむしろ楽なのだが、高い料金を払ったのに施設を十分に活用しないのは損な気がしてくる。

こうなると品性の問題になってきて、ますます扱いにくくなる』

 

僕も、寝台特急電車に連結されたグリーン車で一晩を過ごしたことがあり、「大垣夜行」のグリーン車の経験も踏まえると、宮脇氏の描写ほど的を得た表現を目にしたことがない。

そうそう、グリーン車ってそうだよな、と頷き、寝つけないのは僕だけではなかったのか、と思ったものだった。

 

つまるところ、グリーン車だって大して眠れた訳ではなかったではないか、夜行列車だから眠らなければならないという規則はない、目的地まで無事に運んで貰うことが重要なのだ、と、この夜は諦観することにした。

 

 

なるようになれ、と開き直って、窓外を流れ行く灯や、薄暗い照明に照らし出されている通過駅に眼を遣りながら、固い座席に身を任すことにすれば、夜行列車が醸し出す旅情は、決して不愉快ではない。

東海道の夜を衝いて、「大垣夜行」は、ひたすら西へと疾走を続ける。

線路の継ぎ目を噛んで車輪が奏でるタタン、タタン、タタンという律動的な一定音に耳を傾ければ、レールの黒光りが瞼の裏に浮かぶようである。

僕が高速バスにも興味を抱き始めた時期であるけれど、音楽を奏でているかのような心地良いリズム感は、バスが敵うべくもない。

 

明治5年に新橋駅と横浜駅の間で我が国で初めての鉄道が登場してから、津々浦々に鉄路が敷かれ、世の中は移ろい、我が国は激動の時代を乗り越えて、世界最先端の速度とシステムを誇る鉄道を持つに至った。

かつての日本人は、座り心地が悪かろうが、時間が掛かろうが、各駅停車の鈍行列車に詰め合い、譲り合いながら旅を続けてきたのだな、と思う。

混雑する車内、走行中でも簡単に開いてしまう手動の乗降扉など、戦後まで、汽車旅が女性や子供、老人には危険であると認識されていた時代もあったと聞く。

 

世の中の進歩は、快適性や安全性ばかりではなく、移動を速く短くという方向に推し進め、長距離鈍行列車の旅を時代遅れにしてしまったけれども、「大垣夜行」は、汽車旅の原点を今の世に伝えながら走り続けているのだと思えば、この旅は懐かしくもあり、愛おしささえ感じられる。

 

 

午前2時過ぎに到着した静岡駅では、ホームに降りて身体を伸ばす客も多く、台車を押した駅弁売りも出ている。

このような時間に弁当を買う客がいるのか、と首を傾げたくなるけれど、案外ぽんぽんと売れているようで、思わず僕も手を出してしまう。

この先、浜松駅で長時間停車が設けられているものの、そこから各駅に丹念に停まり始めてからは、6時10分着の名古屋駅でも5分しか停車しない。

終点の大垣駅まで、事と次第によってはその先でも、朝食を手に入れられるのかどうか分からないのである。

 

静岡から先は、比較的よく眠れたように記憶している。

いわゆる丑三つ時を過ぎ、乗り心地の悪さよりも眠気が勝ったのであろう。

浜松、豊橋、名古屋、岐阜といった大きな駅でも、乗り降りする人の気配に薄目を開き、霞む視界に駅名標を捉えただけで、すぐに瞼を閉じてしまった。

浜松から先で各駅に停まることを、もどかしいと感じるどころか、意識すらせず、ひたすら眠りを貪ったのである。

 

『皆さん、おはようございます。深夜の御乗車、お疲れ様です。ただいまの時刻は5時40分でございます。次は刈谷に停まります。刈谷、大府、共和、大高、笠寺、熱田、名古屋の順に停まって参ります。途中、名古屋到着は6時10分です。名古屋は6時10分の到着になります。尾張一宮には6時32分、岐阜には6時44分、終点大垣には6時56分の到着予定です。次は刈谷でございます。刈谷、大府、共和、大高、笠寺、熱田、名古屋の順に停まって参ります』

 

東京から浜松までは懇切丁寧に停車駅と到着時間を案内したのに、浜松以遠は簡略化するのだな、とぼんやり思いながら、車掌のおはよう放送に注意を向けるのも億劫だった。

以前に下車した名古屋駅では、ホームのきしめんを立ち食いしたことが懐かしく思い出されたが、今は、車内で眠り続けられることの方がずっと嬉しかった。

 

僕の頭がようやくはっきりしたのは、大垣駅に到着する寸前である。

 

『長らくの御乗車お疲れ様でした。あと3分程で、終点大垣、大垣に到着致します。大垣でのお出口は左側、1番線の到着です。お降りの際は車内にお忘れ物、落とし物ございませんよう御注意願います。乗り換え列車の御案内を致します。大垣より先、関ヶ原、近江長岡、米原方面に参ります普通電車の西明石行きは7時08分です。西明石行きは11分の待ち合わせで7時08分、跨線橋を渡って2番線から発車致します。美濃赤坂線美濃赤坂行きは7時14分です。16分の待ち合わせで、乗り場は同じく2番線です。ありがとうございました。終着、大垣、大垣です。お出口左側、1番線の到着です。忘れ物、落とし物のないように御注意願います。今一度お確かめ下さい』

 

同じ内容を何度もくどいほど繰り返す放送は、乗客の眠気を覚ますためであろうか。

深夜とは別の声に聞こえたが、1と2が判然としない口調に聞き覚えがあるような気もしたので、夜通しの勤務で車掌の声が嗄れてしまったのかもしれない。

 

放送の途中から席を立ってデッキに向かう客が多く、僕もそれに倣って席を立った。

 

 

「大垣夜行」が滑り込んだのは、改札口と繋がっている1番線で、ここが目的地である客には便利だろうが、乗り継ぎの西明石行き745Mが待機しているのは隣りのホームである。

扉が開くと同時に、デッキに詰め掛けた乗客が一斉に飛び出して、跨線橋の階段を我先に駆け上がり始める。

僕も訳が分からないまま2番線ホームに駆け下りると、そこで、皆が走る理由をようやく理解した。

9両編成の「大垣夜行」を受ける西明石行き745Mは、僅か4両編成だったのである。

 

乗り継ぎのために乗客が走る姿は、青函連絡船に接続する青森駅、宇高連絡船から四国各線に乗り継ぐ高松駅、土讃線から中村行きのバスに乗り換える窪川駅などが有名で、それぞれ「青森走り」「高松走り」「窪川走り」と呼ばれていたが、「大垣夜行」から745Mへの席取り合戦は「大垣ダッシュ」と名付けられていることを後に知った。

 

 

この旅の翌年である昭和62年4月に、国鉄は分割民営化される。

 

半年後の同年9月に、新宿-新潟間に夜行快速列車「ムーンライト」が運転を開始した。

普通乗車券や「青春18きっぷ」に座席指定券を購入すれば良いだけでありながら、全席指定の座席は全てグリーン車のお下がりという破格な設備を誇っていた。

上越線に、東海道本線よりも豪勢な電車が登場したのはなぜ?──といぶかしかったが、その理由は、昭和60年に開業した関越自動車道を使う高速バス路線に対抗するためと推察される。


さすがはJR、分割民営化の甲斐があったではないか、と喜んだものである。

 

 

利用客にも概ね好評であったことから、昭和63年12月に大阪-広島間「ムーンライト山陽」が登場し、平成元年に京都-博多間に「ムーンライト九州」、京都-出雲市間「ムーンライト八重垣」、京都-高知間「ムーンライト高知」が、平成7年に京都-松山間「ムーンライト松山」、平成14年に新宿-白馬間「ムーンライト信州」、平成15年に東京-仙台間「ムーンライト仙台」など、同様の夜行快速列車が全国に波及したのである。

「大垣夜行」も、平成8年に373系特急用車両を投入した「ムーンライトながら」に生まれ変わった。

 

「ムーンライトながら」は東京-小田原間が全車座席指定で、東京駅で長時間待つ人々の姿は、切り替え当日から見られなくなったという。

車両も、後に373系特急用車両から183系または185系特急用車両に変更され、165系急行用車両のボックス席に比べれば居住性は向上した。

 

 

一方、終点大垣駅への到着が5時50分に早まり、接続する米原行き普通列車が5時53分発であったことから、席取りのみならず時間に追われて、より切迫した「大垣ダッシュ」になった。

この頃の「ムーンライトながら」に接続する米原行き普通列車は、乗り換え時間がぎりぎりであるばかりではなく、「大垣夜行」時代の西明石行き普通列車よりも運転区間が短縮されて、乗り継ぎの手間が増えた。

大きな話題にはならなかったものの、「米原ダッシュ」が出現しただけではないか、と時刻表をめくりながら懸念したものである。

米原駅で接続する姫路行き新快速電車は、北陸本線長浜駅が始発であり、12両編成であるものの先客も乗っていることから、大垣-米原間では立っている方が早く降りることができ、姫路行き新快速電車で座れる確率が高くなる、などと囁かれた。

 

だからと言って「大垣ダッシュ」がなくなった訳ではなく、他の一般客と摩擦を起こす要因となり、大垣市議会で取り上げられる程であった。

構内に、「制限10km/h」の標識が掲げられた時代もあったが、時速10kmでは走って良いと言っているようなもので、いつしか「走らないでください」という掲示に変更されている。

要は、大垣-米原間の普段の流動が少ないため、「ムーンライトながら」に合わせた車両の増結が困難であったことが原因であり、平成28年に米原行き普通列車は8両編成になった。

 

令和3年に「ムーンライトながら」が廃止されて、我が国から夜行普通列車の姿が消え、「大垣ダッシュ」をはじめとする「大垣夜行」時代からの様々な風物詩も過去のものとなった。

決して安楽な一夜だったとはとても言えないけれども、未だに強烈な印象を心に刻み込んだ「大垣夜行」の旅が、今となってはこよなく懐かしい。

 

 

国鉄が分割民営化される前後は、特急・急行料金の徴収が増収に繋がり、また人々の速達性への要望を満たすために、特急・急行列車が主役という風潮が確立していた。

たとえ近距離でも特急列車を利用することを厭わない利用客が増え、地方では、普通列車よりも特急列車の運転本数が多い線区まで出現した。

特急・急行料金を払わないと鉄道を利用できないではないか、と言いたくなるような運転ダイヤが蔓延していたのである。

 

昭和の末期から平成の初頭にかけて特急・急行料金が不要な夜行快速列車が全国に登場したのは、時代の揺り戻しだったとも思える。

同時期に急増した夜行高速バスに対抗することが、それらの列車の役割であったと見ることも出来るけれど、航空機や新幹線による高速時代を迎えても、時間が掛かろうが乗り心地が悪かろうが、安く移動したいという需要が厳然と存在し、鉄道もかろうじてそれに応えていた最後の時代であったのかもしれない。 

 

 

そのような未来を僕が知るべくもなかったが、今回の旅の当時、「大垣夜行」に接続する電車が西明石まで足を伸ばしていたのは、普通乗車券だけで東京と関西を行き来する利用客に、国鉄の眼がきちんと向けられていた証と言えるのではないだろうか。

その時代に間に合ったことは幸せだったな、と思う。

 

大垣で乗り換えた745Mで、僕はかろうじて座ることが出来たけれど、4人向かい合わせのボックスシートの通路側後ろ向きの席であった。

不機嫌そうな表情で立っている客も多く、それに比べれば恵まれていると感謝しながら、膝に抱えたリュックサックに顔を埋め、大阪までの3時間半を朦朧と過ごす羽目になった。

米原で車両を増結する、という放送が流れた気もするが、そちらに移る気力はなかった。

 

琵琶湖の南岸に沿い、逢坂山や天王山を越え、大津や京都、山崎の里を通り抜けていく745Mの車窓は、今にして思えば風情があったに違いないと思うのだが、殆ど記憶に残っていない。

「大垣夜行」の旅情は忘れ難いけれども、寝不足になってしまっては、せっかくの汽車旅の味わいが相殺されてしまうことを思い知った。

 

 

定刻9時42分に到着した大阪駅は、すっかり昼間の顔になっていて、電車を降りればホームを行き交う人々のせわしなさに、眼がぱちぱちする。

東京から大阪まで普通列車だけでやって来たんだぞ、と自らに言い聞かせても、何となく現実感がない。

身体の芯に残っている夜行明けの気怠さだけが、昨夜からの長旅を物語っているだけであった。

 

東京-大阪、所要10時間17分。

 

途中で乗り換えを要するにも関わらず、昭和43年まで同じ区間を直通していた143列車の11時間28分より1時間以上短縮されているのは、快速運転の区間があるためなのか、客車列車と電車の性能の差であろうか。

地味であっても、鉄道は進化しているのだと思う。

 

 

大阪まで遥々と旅をして来たのには、理由がある。

大阪と津山を結ぶ国鉄「中国ハイウェイバス」に初乗りするためである。

 

しばらく前に新幹線と近鉄特急を乗り継いで大阪を訪れ、復路として大阪駅と名古屋駅を結ぶ「名神ハイウェイバス」の旅を楽しんだ。

その際に、大阪駅で津山行きと落合IC行きの2系統の「中国ハイウェイバス」を見掛けて、心を惹かれた。

その時は、東京を背にして更に西へ向かう時間も財布の余裕もなく、戻り道を選ぶしか手がなかったのだが、大阪から下関まで延々540.1km、中国山地の懐を貫く中国自動車道を、いつか走ってみたいものだとの思いが募った。

 

その願いを叶えるべく、今回は「大垣夜行」で出掛けて来たという次第である。

残念なのは、国鉄全線乗り放題の「青春18きっぷ」を持っているのに、歴とした国鉄路線でありながら、国鉄バスには一切使えないことであった。

国鉄以外の事業者のバスだから、という訳でもなく、各駅停車の便であるにも関わらず、僕は津山までの乗車券を別途購入しなければならない。

 

 

昭和45年3月に、吹田と豊中の間が暫定的に2車線で開通したのが中国道の始まりである。
同じ年の7月に豊中-宝塚、昭和48年11月に小月-下関が開通して関門橋と接続、昭和49年6月に西宮北-福崎、7月に小郡-小月、12月に美作-落合、昭和50年4月に山口-小郡、10月に宝塚-西宮北と福崎-美作、昭和51年12月に落合-北房、昭和53年10月に北房-三次と順次開通し、昭和54年5月に中国道吹田ICと名神高速と接続する吹田JCTの間が延伸されて、東京から三次までが高速道路で結ばれる。

同年10月に三次-千代田間が、昭和55年10月に鹿野-山口間が開通し、最後まで残された千代田-鹿野間が完成して全線が開通したのは、この旅の3年前の昭和58年3月であった。

 

 

この年に、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号が運行を開始し、また昭和41年から運行されていた大阪と鳥取・倉吉・米子を結ぶ「山陰特急バス」が昭和50年に経路を中国道に乗せ換え、昭和56年に大阪-新見間高速バスが、昭和59年に大阪-東城・三次間高速バスと大阪-千代田・加計間高速バスが開業するなど、中国道を使う高速バス路線も何本か登場したけれど、この旅の当時は、その数は多いとは言えなかった。

 

関西と四国・九州を結ぶ動脈として高速バスが中国道を多数行き交うようになるのは、大阪と熊本を結ぶ夜行高速バス「サンライズ」号と大阪と長崎を結ぶ「オランダ」号が登場する昭和63年、更に大阪-松山・八幡浜間夜行高速バス「オレンジライナーえひめ」号、大阪-松山間「どっきん松山」号、大阪-高知間「よさこい」号が開業する平成2年まで待たなければならなかった。

 

 
僕がこれから乗ろうとしている国鉄バス中国高速線「中国ハイウェイバス」は、大阪駅と津山駅の間163.6kmを結んで、昭和50年11月に開業した、中国道を走る高速バス路線では最も老舗である。

神姫バスも共同運行に加わり、同社は単独で新大阪駅と西脇・柏原、福崎・粟賀、山崎・波賀を結ぶ区間便も同時に運行を開始している。

この旅の時点で、津山系統が1日10往復、落合ICまで足を伸ばす系統が2往復、更に西脇線3往復、柏原線2往復、山崎線1往復、波賀線1往復、粟賀線1往復の計20往復が中国道を行き交っていた。

 

 

僕が乗車したのは大阪駅桜橋口のバスターミナルを10時30分に発車する各駅停車の急行便で、神姫バスの車両だった。

 

横4列、縦11列の座席がずらりと並ぶ車内は、あっという間に席が埋まって行く。

ホームからバス乗り場に直行して早くから並んでいた僕は、幸いにして最前列左側の席を占めることが出来たけれども、乗降口のステップを上がって来る乗客は、誰もが一瞬足を止めて、どの席に坐ろうか吟味しているように見える。

誰が相客になるのだろう、と固唾を呑んでいるうちに、1人のおじさんが、

 

「ここ、よろしいですか」

 

と声を掛けて来て、僕の隣りに腰を下ろした。

 

「東名ハイウェイバス」や「名神ハイウェイバス」よりも座席の間隔が狭いように感じられて、振り向いてみれば、トイレもついていない。

東京から一晩かけて、このようなバスにわざわざ乗りに来たのか、とがっかりする。

 

新幹線や東海道本線と平行している東名・名神高速線と異なり、中国山地に抱かれた中国道沿線の市町村は、大阪と直通する交通手段を持っていなかった。

「中国ハイウェイバス」をはじめ、大阪と津山、新見、東城、三次、千代田、加計を直結した高速バス路線の誕生は、この地域にとって画期的な出来事であり、利用者数も好調に推移していると聞く。

混雑は便利さの裏返しなのだから、僕のように、ふらりと用事もなく乗り合わせた酔狂な客は、混雑くらい我慢しなければならないだろう。

 

「大垣夜行」で隣り同士になった男性と異なり、「中国ハイウェイバス」での隣席氏は、ニコリともせずに押し黙ったままであるのが、窮屈さを増長させているような気もするが、これはお互い様であろう。

何処まで行くのだろう、と思うけれど、そのうちに隣席氏はリクライニングを倒して眼を瞑ってしまい、結局は終点津山駅までの連れ合いとなったのである。

 

 

定刻に大阪駅を後にした急行津山行きは、新御堂筋を北上して新大阪駅と千里ニュータウンに寄り、千里JCTで府道2号中央環状線を左へ折れる。

 

起点である吹田JCTや中国道吹田ICは千里JCTより東側にあり、中国道本線を右手に見ながら進んで最初に眼に入る豊中ICは、吹田方面だけに出入りが可能な構造である。

どこから中国道に乗るのだろうと思っていると、バスは千里JCTから6kmほど西に設けられた池田ICから、ようやく高速道路へ移った。

 

 

そこから先の中国道の車窓について、特に記すべきことはない。

 

宝塚ICの辺りで、丘陵のようになだらかな山々が左右から押し寄せて来て、同じく平野部から山岳地帯に足を踏み入れる東名高速の秦野中井IC付近や中央自動車道八王子ICの先と似た地形に見えるけれども、何処か没個性だな、と感じたことや、神戸三田ICを通過する際に、このような山奥に神戸の名をつけるのか、と驚いた程度である。

中国山地は日本列島でも飛び抜けて古い地層で、浸蝕作用がほぼ終わっているために、険しい山や谷がある訳でもない。

高速道路は山々を縫うように狭い平地をうねうねと進み、長閑な田園と重厚な佇まいの農家が繰り返し現れるばかりで、時速80kmで突っ走ることが不似合いに感じられるほど鄙びた車窓である。

 

宝塚IC、西宮北IC、長尾、吉川IC、東条、社、滝野社IC、泉、加西IC、北条、福崎IC、夢前、安富、山崎IC、葛根、南光、佐用IC、上月、作東、美作IC、勝間田、津山IC──

高速道路上やインターに付属するバスストップの中で、僕が耳にしたことがあるのは、戦国時代に毛利氏に囲まれて落城、籠城していた尼子氏が滅亡したと伝わる古城が置かれた上月くらいだろうか。

聞き慣れない地名ばかりが高速道路の標識に記されているのは、紛れもなくこの地域が僕にとっての処女地であることを示しているのだが、見知らぬ土地を、このようにのんびりと旅が出来るのは至福のひとときであることに間違いはない。

 

 

ただ、僕には1つだけ気がかりなことがあった。

それは、深夜2時過ぎに静岡駅で購入した駅弁のことである。

 

「大垣夜行」の車内では、朝を迎えたら何処かで食べようと考えていたのだが、乗り継いだ大阪駅までの普通列車では睡魔に襲われて朝食を摂る余裕はなく、「中国ハイウェイバス」でも、隣席を不愛想な相客が占めている限り、がさがさと弁当を開くどころではなかった。

 

僕が幕の内弁当にありつけたのは、バスが定刻13時40分に津山駅前に到着し、引き続いて13時53分発の津山線岡山行き633D列車に乗り込んでからのことである。

15時36分着の岡山駅まで、鳥取が始発のディーゼルカーの車内は程良くすいていて、弁当を開くには何の問題もなかった。

岡山駅に近づくと多少混み合って来たけれども、かつては津山線と新幹線を乗り継いで津山と大阪を行き来していた利用客は、高速バスに移ってしまったのだろうな、と思う。

 

購入して11時間が経過し、暑い夏の最中に持ち歩いたのであるから少しばかり心配したけれども、包みを開いて、俵御飯に鯖の照焼き、海老フライ、蒲鉾、鶏の挽肉を挟んだ玉子焼などが詰め込まれた折詰を目にすれば、到底食べずに済ませられるはずがなかった。

 

 
 
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