僕と空港リムジンバスの物語~エアポートライナーマロニエ号とマロニエ新宿号で宇都宮餃子の旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

前回では、平成の初頭から急激に拡充した成田空港のリムジンバスについて触れた。

羽田空港を発着するリムジンバスが路線網を増やしたのも、成田空港よりも若干遅かったような気もするけれど、ほぼ同時期にあたる。
 

それまでは、新宿、池袋、赤坂の主要な繁華街やホテル、蒲田駅、大森駅、田園調布駅、川崎駅、横浜駅へ行き来するだけだった羽田空港発着の路線バスが、成田空港を上回る勢いで増加するきっかけを作ったのは、昭和63年に登場した千葉線だったと思う。
続いて、平成2年に新横浜にもリムジンバスが運転されるようになり、試しに乗車してみたが、その後は雨後の筍のように続々と各方面への路線が出現して、その凄まじい勢いに、僕はこまめに追随するのを諦めた。

首都圏における複数の環状高速道路の完成に伴って、若干であるものの渋滞が緩和され、更には乗り換えが不要となる直通バスの真価が世間に浸透したのであろう。
 

現在では、下記のように膨大な路線が羽田空港を出入りしている。
 
東京都内方面:東京駅、新宿、渋谷、赤坂・六本木、秋葉原・九段・後楽園・目白、銀座・汐留・日比谷、池袋、品川・白金・恵比寿、品川シーサイド・大井町、大森、蒲田、中野・野方・練馬、石神井公園、二子玉川、田園調布、TCAT、東陽町・錦糸町・浅草、北千住、錦糸町・東京スカイツリー、葛西・一之江・小岩・亀有、豊洲、臨海副都心、町田、聖蹟桜ヶ丘・多摩センター・南大沢、吉祥寺、調布・府中・武蔵小金井・国分寺、立川・拝島、日野・八王子・高尾
 
神奈川方面:川崎、横浜駅、山下公園・みなとみらい・赤レンガ倉庫、新横浜、たまプラーザ、武蔵小杉、二俣川、大船・藤沢・鎌倉、新百合ヶ丘、港南台・戸塚・上永谷・東戸塚、本厚木・田村、相模大野、海老名、箱根
 
千葉方面:千葉・幕張・検見川浜・稲毛海岸、稲毛・四街道、大宮台・鎌取・誉田・土気・大網、西船橋・船橋、柏、新松戸・松戸、津田沼、新浦安、TDR、行徳・妙典・市川、茂原、金田・袖ヶ浦、木更津、五井・東金、君津、蘇我、大多喜、館山、成田空港
 
埼玉方面:武蔵浦和・浦和、王子・赤羽・川口、大宮、所沢、坂戸・森林公園・熊谷・籠原、和光、川越、八潮・草加・新越谷、朝霞台・志木・新座、桶川・上尾
 
群馬方面:藤岡・高崎・前橋、館林・大泉・太田・桐生・伊勢崎
 
栃木方面:佐野・鹿沼・宇都宮、日光・鬼怒川温泉
 
茨城方面:水戸・勝田・日立、つくばセンター、鹿島神宮
 
更には静岡、御殿場、勝沼・甲府、富士吉田、軽井沢など遠方に路線網が広がっているのは、成田空港と似た現象で、羽田空港発着の国際線が増加したからであろうか。
 
バスファンとしては、行き先の豊富さが羽田空港リムジンバスの魅力だった。
手軽なバス旅を楽しみたくなると、僕はのこのこと羽田空港へ出掛けていった。
 
 
当時、品川区の大井町に居を構えていた僕にとって、大井町駅と羽田空港を結ぶリムジンバスの開業ほど嬉しかったことはない。
それまでは、羽田空港への路線バスが発着する大森駅や蒲田駅まで行かなければならなかった。
京浜地区でお馴染みの青い2扉一般路線車で運行されている大森、蒲田系統とは異なり、大井町系統は、白地に赤いラインが入ったハイデッカー車両が投入されていたから、リムジンの名に相応しく格上に感じられた。
老舗の羽田-横浜線を運行していた「KEIKYU LIMOUSINE」が我が街に来てくれたのだから、心が躍った。
 
所用で飛行機に搭乗する往路では、さすがに出発時間を気にして大井町からのリムジンバスで直行したけれど、帰りは、到着ロビーの案内カウンターに寄り、各方面へ発車していく路線がずらりと表示されている案内板を眺めながら、今日はどの街へ行ってみようか、と思案する時間が楽しかった。
 

平成元年に開業した成田空港と宇都宮を結ぶ「エアポートライナーマロニエ」号が人気を博したことから、平成12年12月に羽田空港と宇都宮を結ぶリムジンバスが同じ愛称で登場した。
平成13年には、新宿と宇都宮を結ぶ「マロニエ新宿」号も走り始めている。
 
もっと早く開業してくれれば、成田空港で苦労することもなかったのに、と恨み節の1つも言いたくなるけれど、東京と宇都宮を直通する高速バス路線が満を持してお目見えしたのだから、早速、ハイキング気分で乗りに行った。
もちろん、成田空港の時とは異なる、気軽なジーンズ姿である。
空港に入れて貰えるのか、という不安に苛まれる成田空港と異なり、羽田空港の敷居の低さは実に気楽である。
 
 
まず、大井町から蒲田へ行く東急バス「井03系統」から、旅を始めてみた。
大井町駅からのリムジンバスがまだ開業していなかったのか、それとも久しぶりに路線バスを使ってみたくなったのか、記憶は定かではない。
 
駅前通りと池上通りが合流する三ツ又交差点には、映画「時代屋の女房」の舞台となった骨董品店が平成10年頃まで実在していた。
 
 
主演した夏目雅子が亡くなったのは昭和60年、「時代屋の女房」公開の僅か2年後のことである。
芸能界にあまり関心がない僕でも、彼女のあまりに若い死はショックだった覚えがある。
綺麗な女優だった、と思う。
 
東京に出てきた僕が最初に住んだのは、「時代屋」のすぐ近くだった。
 
 
鹿島神社、山王と起伏の激しい山の手をのんびりと南下すると、大森駅西口の繁華街に出る。
今は東口に移転したイトーヨーカドーが、当時は西口にあって、池上通りの商店街も大いに賑わっていた。
大森駅付近の歩道に設けられたバス停には、路線バスがズラリと停車して、他の車はバスの隙間を縫いながら障害物競走のように走っていた。
 

 
大森駅を過ぎると、バスが原因ではなく、渋滞が激しくなる箇所があった。
地元の人々は、それをダイシン渋滞と呼んでいた。
 
池上通り沿いにあったダイシン百貨店は、昭和39年に開店している。
創業者は信州リンゴの闇販売から身を起こした農家で、前身は信濃屋という八百屋である。
ダイシンの名は、地元大森の音読み、という説が流布したことがあるけれど、大きな信州、との意味を込めて付けられたという。
昭和40年代の地方百貨店の懐かしい雰囲気を近年まで残していたことでも知られ、街歩きを扱うテレビ番組にもよく取り上げられていた。
休日ともなると、ダイシン百貨店の前に駐車場待ちの渋滞が発生するほどの人気店だったのである。
 
 
僕も、学生時代によく買い物に出掛けたものだった。
6階建ての古びた店内には高齢の客が目立ち、カートに籠を2つ載せて大量に買い込んでいく。
値段は他の店舗と大して変わらない印象だったが、食品も日用品も衣料も家具も家電も文具も種類が豊富で、一般的なものから、専門店しか扱わないような希少品、高級品まで取り揃えられていた。
客が要望する品物は、たとえ1点、1人のためでも取り寄せるという姿勢を貫き、他の小売店では見かけることがなくなった柳屋のポマード、蠅取り紙、漬物樽、スモカ歯磨、タバコライオン、VALCANの整髪材、パオンの粉末毛染め、湯たんぽまでが店頭に並んでいた。
店内を歩けば、
 
「○○が置いてある!」
「まだ製造していたのか、この商品!」
 
と何度も驚かされ、見て回るだけでも時が経つのを忘れるくらいに楽しかった。
カネヨのクレンザー、母が使っていたっけ、などと思い出すと、切なくなるくらいに胸が熱くなった。
 
ダイシン百貨店の品揃えは、我が国がひたすら坂の上の雲を目指していれば良かった古き良き昭和の時代、僕らが子供の頃の家族の思い出に結びついていた。
 
 
売場には幾つも椅子が置かれ、高齢の買い物客への配慮がされているかと思えば、書籍コーナーには、文士村馬籠茶房と看板を掲げたお洒落なカフェが併設されていて、若者向けの都心の書店に似た一角になっていた。
4階にあるダイシンファミリーレストランで、子供の頃に家族で行ったデパートのレストランはこのような雰囲気だったよな、と懐かしさに浸り、窓から大森の街並みを眺めながら食事をするひとときが好きだった。
 
ダイシンに行けば全て事足りる、という安心感と満足感を満たしてくれた一方で、在庫管理が難しくなり、不良在庫が膨張する結果を招く。
加えて、100円ショップなど格安店や他の大型店の出店が影響して負債が嵩み、平成28年に閉店してしまった。
 
ダイシンのような地域に密着した素朴な店舗が成り立たなくなるような、厳しい競争と時代の変化に曝されている僕らの国の、坂の上の雲は、今、何処にあるのだろう。
 
 
この旅の当時、ダイシン百貨店はまだ健在で、自転車やバイクが無造作に置かれて人々が出入りしている店先を目にすれば、バスを降りて買い物をしたくなる。
その衝動を抑えながら環七を横切り、池上本門寺の門前を過ぎて、東急池上線の踏切を渡れば、閑静な住宅街の一本道になる。
 
路線バスに乗る時、僕は、最前列左側の席に座りたくなる人間だった。
ところが、東急バスは、そこに金属製のボックスを置いているため、やむを得ず、運転席のすぐ後ろに座った。
運転席と幕で仕切られているけれど、右隅に隙間があって、運転手さんの肩越しに前方がよく見えた。
運転手さんのハンドルさばきや速度計まで覗くことが出来たから、大いに楽しめた。
昔の都営バスでも見受けられたあのボックスには、いったい何が入っていたのだろうか。
 
 
京浜東北線の電車ならば6分しか掛からない区間を、40分以上も費やして蒲田駅西口に到着すると、僕は、駅ビルの雑踏をかき分けて東口に渡り、羽田空港行きの京浜急行バスに乗り換えた。
 
蒲田駅からしばらくは、京急蒲田駅付近で踏切を2つ越える狭い路地を行かねばならない。
何度も電車の通過待ちを強いられてなかなか進まないけれども、東急バスと異なり、京浜急行バスは左側最前列の席に座れるので、全く気にならなかった。
 
踏切で待つ間に、軒を並べる中華料理店を眺めながら、この長い待ち時間に餃子を買えればいいのに、と思う。
衣をカラリと揚げて、底を繋げてしまう蒲田の羽根つき餃子は、大好物だった。
蒲田餃子の歴史は、「ニイハオ本店」の店主が、約30年前に我が国で初めて羽根付きの餃子を考案したことが始まりとされている。
今ではJR蒲田駅から半径500m以内に20軒の餃子の店が存在し、「ニイハオ本店」が最初に提供した値段の300円に習って、蒲田では1皿300円の店舗が多いのだと言う。
 
 
蒲田駅と羽田空港を結ぶ路線バスは2種類ある。
「蒲95」日の出通り系統は環八を経由し、本数も多く、羽田空港から蒲田駅に向かう人の殆どはこちらを利用するのだろうが、僕が好きだったのは「蒲41」萩中系統だった。
この系統は、路地裏のような狭隘な道を、民家の軒先に触れんばかりに走る。
どうやら僕は、細い道を走るバスに乗ると、胸がときめくようである。
 
 
萩中系統の車窓からは、七辻と呼ばれる交差点の入口を垣間見ることも出来た。
 
『七辻は、七本の道路が交差した地点という意味で名付けられたものである。
大正6年から10年の歳月をかけて行われた耕地整理によって完成したもので、その頃は、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、人家もまばらで水田と桃・梨・葡萄などの果樹を植えた畑が広がり、春には花見客でにぎわったという。
昭和の初期までは、農家の大八車が時折通るだけで七辻の道路も当時としては道幅が広すぎ、その両側には名もない草花が生い茂っていた。
時代が移り変わり、多くの人々が住むようになっても自然を愛し、優しさと思いやりのある心は受け継がれ、この地に事故はない』
 
と、交差点の立札に記されている密かな名所である。
七辻には、今でも信号機がない。
 
 
空港の手前の狭い道路をくぐり抜けると、そこは羽田空港の敷地で、いきなり視界が開けると、ビッグバードが完成する以前の、旧ターミナルビルの時代が思い出される。
その頃のロータリーは狭く、空港の敷地内に入ってからも、激しい渋滞でターミナルビルまで何十分と費やすことも珍しくなかったと聞く。
「TOKYO INTERNATIONAL AIRPORT」の看板がなければ、地方の空港と大して変わらないような外観と規模だったのである。
 
今回の旅は、平成16年に第2旅客ターミナルビルが完成する3年前のことだった。
威風堂々たるビッグバードを見上げれば、羽田空港もようやく首都の玄関に相応しい様相を備えたのだ、と嬉しくなった。
 
 
「蒲41」系統のバスは、ビッグバード2階の出発ロビーに横づけされた。
飛行機には見向きもせずに3階の到着ロビーに歩を運びながら、羽田空港の利用客が如何に膨大であろうとも、バスの乗り継ぎに使うのは僕くらいだろうな、と苦笑した。
様々な塗装を誇る各社のバスがずらりと居並ぶ乗り場は、なかなか壮観である。
 
錯綜する人々を掻き分けるように宇都宮行きが出る場所を探し出し、乗り換えたリムジンバスは、栃の木の鮮やかなイラストが眩い関東自動車のスーパーハイデッカーである。
羽田中央ランプから首都高速湾岸線の高架に駆け上がっていく「エアポートライナーマロニエ」号に乗り合わせた客は、十数人を数えたけれど、飛行機と無関係なのは僕だけだろうな、と再び自嘲したくなる。
首都高速中央環状線を経て、都心を通ることなく、荒川を左手に見下ろす高架を延々と走り、やがて東北自動車道に歩を進める。
少しずつ建物の密度が減り、利根川を渡る頃に車窓を占めるのは、茶色く色褪せた冬の田園ばかりになっていた。
 
 
十数年前に東京駅からリムジンバスに乗り、成田空港から宇都宮まで初めてバス旅を経験した折りには、僕が50ccのスクーターに乗っていた頃を懐かしく思い出したものだったが、羽田から宇都宮への道行きで脳裏に浮かんだのは、中型二輪免許を取得し、250ccのビッグスクーター「HONDA FUSION」を購入してからのことである。
 
苦労してバイクの免許を取ったというのに、スクーターかと思われる方もおいでであろうが、僕にとっての「FUSION」には、高速バスとの浅からぬ縁がある。
東京駅を発車した高速バスで首都高速都心環状線に差し掛かった時、並走する「FUSION」を窓から見下ろして、その独特のスタイルに一発で魅了されたのである。
30年以上が経った今でも、「FUSION」に跨がっていた人物が、フルフェイスヘルメットにネクタイを締めた背広姿であったことまで、ありありと思い浮かべることが出来る。
「FUSION」の外観は、人によって好き嫌いがあるのだろうが、斜め上方から見る視点が最も洗練されていると思う。
中型二輪免許を取ったら、絶対に「FUSION」を買おう、と決心した。
 
 
「FUSION」で初めて長距離ツーリングを計画した時には、東京から京葉道路で千葉に行き、房総半島を1周するコースを選んだ。
本線が京葉道路に丸ごと合流してしまう国道14号線の篠崎ICで、千葉への旅を断念した50cc時代の悔しい思い出を上塗りしたかったのかもしれない。
 
数年後に、別のビッグスクーター「SUZUKI SKYWAVE」に買い換え、初体験となる泊まりがけのツーリングとして選んだコースが、東京から東北道で宇都宮、杉並木を経て日光、いろは坂を登って中禅寺湖、片品、尾瀬を回り、沼田へ抜けて関越自動車道で帰路につくコースだった。
仕事を終えた午後6時過ぎの出発だったので、東北道はほぼ闇の中だった。
平坦と思い込んでいた北関東の東北道も、夜を迎えてバイクで1人走ってみれば、佐野藤岡ICを過ぎた辺りからアップダウンとカーブが増え、見知らぬ山中に迷い込んでしまったかのような心細さが込み上げてきた。
 
 
明るい昼下がりに「エアポートライナーマロニエ」号の車窓から見直してみれば、確かに山がちではあるものの、ツーリングで僕を苛んだ孤独感など微塵も感じさせない。
 
坦々と走り続ける車内でぼんやりと過ごすことおよそ2時間、減速したバスが本線を離れたのは鹿沼ICだった。
宇都宮ICまで行かないのか、と驚いた。
成田空港からの「エアポートライナーマロニエ」号はどうしたんだっけ、と記憶をまさぐりかけて、あの時は一般道を迂回して東北道を使わなかったことを思い出した。
 
東北道の片側3車線の区間は、平成11年に宇都宮ICまで延伸されるまで、鹿沼IC止まりであった。
長蛇の渋滞が多発するボトルネックとなっているために、ラジオのや標識の道路情報で鹿沼の名は馴染みだった。
 
「東北道は鹿沼ICを先頭に20キロ、通過に2時間掛かります」
 
とのアナウンスが、盆や暮れの風物詩だった。
 
我が国の放送局で道路交通情報を放送するようになったのは昭和32年の文化放送「交通ニュース」が最初と言われている。
昭和36年に警視庁に交通統制室が開設され、在京各局のマイクが常設されて警察から放送局へ直接情報が伝達されるようになり、昭和38年、警視庁と大阪府警本部に「交通情報センター」が開設、在京・在阪各局のスタジオが設置された。
このころには各局とも1日あたり6回~16回の放送が可能になり、。その後、地方局での交通情報の放送が開始されて、昭和45年に「日本道路交通情報センター(JARTIC)」が開設となる。
 
初期の交通情報は「今日は○○方面の道路が工事中ですから、△△通りを利用してください」などと漠然としていたらしいが、今では渋滞箇所や長さのみならず所要時間まで懇切丁寧に案内されている。
ちなみに、渋滞が起きていない場合でも「車の流れは順調です」とアナウンスし、「空いています」という表現は、その道路に車が集中してしまい、新たな渋滞を引き起こす原因となるため、禁句となっていると聞く。
 
ツーリングでは、不慣れな僕は宇都宮ICまで行き過ぎてしまったのだが、宇都宮の中心部へ行く場合は、手前の鹿沼ICで降りた方が近いのだと言う。
 
 
県道10号線を10kmほど進み、JR宇都宮駅でバスを降りた僕は、あらかじめ調べておいた餃子の店へ直行した。
 
昭和15年に、宇都宮に司令部を置いた帝国陸軍第14師団が満州に駐屯した折りに、宇都宮出身の兵士が本場の餃子の製法を持ち込んだことが、宇都宮餃子の始まりと伝えられ、最近では、これが我が国の餃子発祥とする説が有力とされている。
時は下って平成2年のこと、総務庁の家計調査における餃子の購入額において、宇都宮市が常に上位を維持していることに気づいた市の職員が、餃子による町おこしを提案したのがきっかけで、宇都宮は餃子の街として面目を新たにする。
現在、餃子の店は市内に200軒を数えるという。
 
僕が宇都宮を旅したのは、宇都宮餃子が全国的に有名になってから間もなくのことであった。
成田空港からこの街まで来た十数年前は、宇都宮餃子など聞いたこともなかったように記憶している。
今回の旅は、蒲田から宇都宮へ、餃子の街を結んでいるのか、と思うと、我ながら可笑しくなった。
これがやりたくて、僕はわざわざ路線バスで蒲田を経由したのかも知れない。
 
僕が候補に挙げていた2つの店は、すぐ近くだった。
どちらに行こうか迷ったけれども、折角だから2軒ともハシゴすることにした。
ビールを片手に、酢だけをつける宇都宮方式で味わう餃子は、香ばしくて、したたる肉汁がたっぷりで、誠に絶品だった。
2軒目の店には、アルコールが置いてなかった。
餃子だけの1本勝負である。
店先の自販機で買って持ち込んでいいよ、と言われて、17時50分にJR宇都宮駅を発車する新宿行き「マロニエ新宿」号最終便には、ほろ酔い気分で乗り込むこととなった。
 
 
宇都宮と東京を結ぶバス路線の歴史は古い。
東武鉄道、宮城交通、会津乗合自動車、関東自動車、東野交通、福島交通、山形交通の出資により設立された東北急行バスが、東京-仙台線と東京-山形線、東京-会津若松線の営業を始めた昭和37年まで遡る。
当時の時刻表によれば、途中の停留所は宇都宮、西那須野、黒磯、白河、郡山、そして会津若松系統は郡山から猪苗代、会津若松、山形系統は福島に停車してから米沢、上ノ山、山形、仙台系統は福島から白石、仙台であり、昭和39年には仙台から塩釜、松島へ足を伸ばす系統も登場している。
全ての系統が宇都宮に停車して乗降扱いを行い、東京-宇都宮間は所要3時間15分、運賃350円であった。
高速道路がなかった時代であり、東北急行バスは、国道4号線をのんびりと行き来していたのである。
 
同時期の鈍行列車を使えば、上野と宇都宮の間も3時間程度で、もっと速い急行列車や特急列車が運転されていたとは言え、本数も少なく、大半の利用客が各駅停車を選んでいた時代だった。
4人向かい合わせの固いボックス席よりも、リクライニングシートを備えながら、普通列車と大して変わらない値段の長距離バスに一定の需要があったのだろう。
 
 
昭和40年代から50年代にかけてのモータリゼーションの発達と一般国道の渋滞の増加、そして鉄道のスピードアップにより利用者数が減少し、東北急行バスは仙台と山形の2系統がそれぞれ夜行便1往復に減便され、宇都宮をはじめとする栃木県内の停留所は廃止された。
 
平成13年7月に開業した「マロニエ新宿」号は、実に30年ぶりの東京と宇都宮を結ぶバス路線だったのである。
湘南新宿ラインが開業する5ヶ月前のことであり、新宿副都心と宇都宮の間を直通する唯一の交通機関であった。
 
 
関東自動車柳田車庫を始発地とする「マロニエ新宿」号は、宇都宮大学などの市内停留所を経て、JR宇都宮駅西口に姿を現し、僕を乗せた。
県庁前、東武宇都宮駅、滝谷町と市内をぐるりとひと回りしてから、往路の「エアポートライナーマロニエ」号と同じく、鹿沼ICから東北道に乗る。
酔眼に映る車窓風景が、黄昏に溶けるように消えていく様を眺めながら、滑らかに走るバスの座席に身を任せるひとときは、良いものだった。
東領家ランプで首都高速川口線を降り、北本通りと明治通りを南下しながら王子駅や池袋三越前に寄り、20時20分に着く終点の新宿駅南口までの都内区間は、渋滞してまだるっこしかったけれど、混雑した硬い座席の電車と比較すれば、何と幸せな2時間30分だったことであろうか。
 
鉄道より遅くて所要時間が不安定であっても、快適な座席のバスを選ぶという選択は、「東北急行バス」が東京と宇都宮を結んでいた昭和30~40年代と同じではないか、と気づくと、時を遡っているかのような不思議な感覚に陥った。
 
 
残念なことに、今となっては、新宿からバスで宇都宮餃子を食べに行くことは出来ない。
 
平成13年12月に湘南新宿ラインが開通すると、「マロニエ新宿」号の利用者数は瞬く間に減少の一途をたどる。
平成16年には8往復に減便され、平成18年に東京駅を経由する系統が登場するものの、時刻表で「マロニエ新宿」号の欄を見るたびに、なかなか苦労していることが察せられた。
 
 
平成16年に転機が訪れる。
佐野プレミアムアウトレットのオープンに伴い、「マロニエ新宿」号の一部の便を途中の佐野藤岡ICで降ろし、アウトレットで乗降扱いを開始したところ、好評を得て、新宿-佐野の間の利用者が増加した。
その実績を受けて平成17年10月に運行を開始したのが、佐野経由で東京-足利間を結ぶ「足利わたらせ」号である。
当時、東京まで直通する交通機関が東武鉄道の特急電車「りょうもう」の1往復だけであったことから、佐野と都心を直接繋げた「マロニエ新宿」号と「足利わたらせ」号は、人口12万人の佐野市民にとって、東京への足として定着する。
 
 
一方、本来の東京と宇都宮の間に関しては、佐野を経由することで所要時間が伸びて利用者が更に低迷、平成21年に鹿沼止まりとなって宇都宮へ行く系統が消滅し、平成25年には全便が新宿-佐野間の運行となった。
「足利わたらせ」号も、一足早い平成19年に全便が佐野止まりとなって、愛称も「マロニエ東京」号に変更された。
軒を貸して母屋を取られる、といった恰好である。
それでも、「マロニエ」の名を残した高速バスは、新宿系統と東京系統を合わせて佐野まで平日28往復、週末33往復という人気路線に育っている。
 
救いであるのは、成田・羽田の両空港を発着するリムジンバスが、青々と繁るマロニエの木のイラストも鮮やかに、現在も餃子の街へ走り続けていることであろうか。
 
 
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