僕とリムジンバスの物語~東京空港リムジンとエアポートライナーマロニエ号で成田空港経由宇都宮へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

趣味に何らかの到達目標を設定することは、危険でもある。

僕たちは、ノルマだの効率だのと何かしら目標に追い立てられている日常を忘れたくて、余暇を趣味に充てているのではなかったか。
趣味に目標を設けて自分を追い詰めるなど、本末転倒もいいところである。




そのような理屈は承知していても、僕は目標が欲しくなった。

達成すれば、漫然と趣味を続けているよりも、確かな満足感を味わえるはずである。

鉄道趣味を例に挙げれば、全線の完乗や全ての駅に乗り降りすることを目指す御仁が少なくない。

ところが、僕が好きな高速バスの分野では、全てに乗るという目標が立てにくい。
最大の理由は、路線数が膨大であることだ。
鉄道ならば、例えば東京と大阪の間を東海道本線と東海道新幹線に乗れば走破した記録になるけれど、高速バスは東名・名神高速を走る高速バスだけでも数十路線を数える。
鉄道で言うならば、「全線完乗」ではなく「全列車完乗」を目指しているようなものであろう。

鉄道に倣って、「路線バスが走る全ての高速道路を完乗すること」を目標にしてもいいけれど、それではバス趣味ではなく道路趣味になってしまう。

そもそも、高速バスの定義が難物である。
平成13年12月27日付の関東運輸局の通達「一般乗合旅客自動車運送事業の許可及び事業計画変更認可申請等の審査基準について」には、

『高速バスとは、専ら一の市町村(特別区を含む)の区域を越えて設定された概ね50キロメートル以上のキロ程の路線において、停車する停留所を限定して運行する自動車により乗合旅客を運送する形態をいう』

と記載されている。
うまい定義であると感心するけれど、どのような道路を走れば高速バスなのか、という条件が欠けているから、何となく曖昧模糊として隔靴掻痒の感がある。



高速バスが「高速道路を使う路線バス」であるならば話は簡単に思えるが、それならば、高速道路とはどのように規定されているのだろう。


かつて、首都高速2号線を経由して等々力と東京駅を結ぶ都営バス「東98系統」があり、品川や大井町を発着する湾岸地域の路線バスなども首都高速湾岸線を使う。
名古屋や福岡にも、都市高速を利用する路線バスを見かける。
2扉の一般路線車両を使用し、吊革に捉まりながら立っていても乗れるような路線に、僕は乗るべきなのか。


高速道路を定義した法律としては、昭和53年10月30日に公示された「道路交通法第108条の28に基づく国家公安委員会の告示である交通の方法に関する教則」が挙げられる。


『高速道路とは、高速自動車国道と自動車専用道路をいう。高速道路では、ミニカー、総排気量125cc以下の普通自動二輪車、原動機付自転車は通行できない。また、農耕用作業車のように構造上毎時50km以上の速度の出ない自動車やほかの車をけん引しているため毎時50km以上の速度で走ることのできない自動車も、高速自動車国道を通行することはできない』


平成16年6月9日に発令された「高速道路株式会社法」では、以下のように定めている。


『この法律において「高速道路」とは、次に掲げる道路をいう。

高速自動車国道法(昭和三十二年法律第七十九号)第四条第一項に規定する高速自動車国道道路法第四十八条の四に規定する自動車専用道路(同法第四十八条の二第二項の規定により道路の部分に指定を受けたものにあっては、当該指定を受けた道路の部分以外の道路の部分のうち国土交通省令で定めるものを含む)並びにこれと同等の規格及び機能を有する道路(一般国道、都道府県道又は同法第七条第三項に規定する指定市の市道であるものに限る。以下「自動車専用道路等」と総称する)』


視点を変えて、高速道路の分類に目を向けてみれば、省庁間の利害調整や建設財源確保のために、下記のように細分化されている。


・高速自動車国道法により指定される「高速自動車国道」

・国土開発幹線自動車道建設法に基づき建設する「高規格幹線道路国土開発幹線自動車道」

・本来高速自動車国道で整備される路線の一部区間を先行整備した「高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路」

・一般国道の自動車専用道路である「国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路」


このように道路の定義まで絡んでくるから、高速バスの世界は奥が深い。

法律に拘り過ぎではないか、と思われるかもしれないが、紀行作家宮脇俊三氏の「時刻表おくのほそ道」に描かれた次の一節が、僕は忘れられない。

国鉄全線を完乗し、名著「時刻表2万キロ」を世に出した宮脇氏の自宅に、編集者の名取氏がやってくる。

『「私鉄を全部乗りつぶしましょう。わあーっと派手に」

と彼は言った。

「そりゃ大変だ」
「全部で何キロありますか」
「よくわからない。お客を乗せて線路の上を走るのは5300キロだけど」
「国鉄の4分の1じゃないですか。国鉄の全線に乗った人なら何でもない。ぜひやりましょう」
「そのほかにも、いろんな私鉄がある。ロープウェイもそうだし、スキー場のリフトもそうです」
「あれも鉄道なんですか」

私は運輸省鉄道監督局監修の『民鉄要覧』を持ち出して名取君に見せた。
われわれが「私鉄」と呼んでいるのは法規上では「民営鉄道」で、この『要覧』には全部の「民鉄」が洩れなく記載されている。
その中には都営、市営の地下鉄や路面電車も含まれており、あれが「民営」なのかと首を傾げさせるのだが、もっと奇妙なのはロープウェイやリフトまでが「鉄道」と見なされ、そこに収録されていることである。
これらは「特殊索道」と呼ばれる。
索道(ケーブル)は鉄で出来ているから、確かに「鉄の道」ではあるが。

(中略)

「リフトなんて、いやだ、いやだ」
「あれは日本中にどのくらいあるのですか」
「1700本もある。ここに全部出ている」
「そんなにあるのですか。そうですか。じゃあ、リフトは省きましょう。それからロープウェイも」
「そう勝手に削ってはいけません。私鉄全線に乗るという場合、拠りどころになるのは、この『民鉄要覧』しかないのだから」』

このくだりで、僕は心底驚いたのである。
達人とは、役所の文書まで引っ張り出して自分の趣味を規定するものなのか、と。
もっとも、名取氏には、

「もっと常識的に処理できませんか。そんなお役人みたいなことを言わずに」

と返されてしまう。


仮に高速道路の定義を苦労して決めたとしても、世の中には、高速道路を一切使わず、一般道だけで長距離を走りつつ、高速バスと同様の役割を担っている路線も少なくない。
北海道では、札幌と函館、帯広、釧路、根室などを結ぶ長距離バスが一般道だけで300~500kmも走破していた時代がある。
高速道路網が発達する前の四国にも都市間路線は存在したし、九州でも、大分と熊本を結ぶ「やまびこ」号は高速道路を全く利用していない。

交通新聞社の「高速バス時刻表」や、JTBやJRが発行する時刻表の高速バス欄に掲載されている路線は、どのような基準で取捨選択しているのだろう。
取り上げている路線が、この3つの時刻表で全て異なるのである。
時刻表の編集者に聞いてみたいと思う。
僕の趣味の目標を「時刻表の高速バス欄に掲載されている全路線に乗る」と定めるのも一案であるけれど、あまりにも他人任せである。


僕は、路線や道路で目標を立てることを諦めて、地域を目標にすることにした。
乗車したバス路線を地図に記入した場合に、居住する東京から全ての道府県庁所在地へと切れ目なく線が繋がる状態を目指したのである。
日時は問わず、複数回の旅の積み重ねでも良いこととした。

平成5年12月に、福岡発の高速バス「フェニックス」号で宮崎に行ったことで、47道府県庁所在地全てにバスで足跡を印すことができた。
その2年前に、東京から福岡まで夜行高速バス「はかた」号に乗車しているから、2つの乗車記録を合わせれば、東京と宮崎がバス路線で繋がった、という理屈である。


目標の内容を、自分の都合に合わせて妥協していることは重々承知しているが、費やすことが出来る暇や懐具合を考慮すれば、趣味とはそういうものではないか。
重要なのは、自分が満足できるか否かであるから、所詮は独りよがりなのである。

「フェニックス」号夜行便で早朝の宮崎の地に降り立った時には、さすがに嬉しくなった。
何事でも、全てを制覇すると、心地良い達成感が味わえるのだ。

東京からは、本州と四国全ての府県と福岡県に直通高速バス路線が延びている。
その他の九州各県には、福岡から展開されている九州内路線に乗車するも良し、また名古屋や大阪からも夜行路線が延びていたから、遠方の府県にバスで足跡を印すことは、それほど難しいことではない。
北海道も、東京から青森までの高速バスと、津軽海峡を渡るフェリーを乗り継げば良いことにして、季節運行ではあったが、横浜-札幌間の帰省バスに乗車したこともある。


難物だったのは、意外にも、足元の関東地方であった。
平成の初頭には、都内から関東各県に向かう高速バス路線が少なかった。
茨城県だけが例外で、複数の高速バス路線が発達している
鉄道で緻密に網羅されているから、高速バスで行き来する理由はなく、バスで行きたいなどと考える人間は、余程の物好きであろう。

ただ、普通列車よりもバスの座席の方が、座り心地は断然に良いと思う。
JR東日本の近郊電車は、ラッシュ対策と称して殆んどロングシートになっている。


重宝したのは、羽田空港を起終点とするリムジンバスである。
昭和29年に発足した東京空港交通が、日本初の空港リムジンバスの専用事業者として、羽田空港と新宿、池袋、赤坂、成田空港を結んでいた。
空港連絡を意味する「リムジンバス」の呼称は、東京空港交通が最初に使用したとされている。
使用した車両の内装が豪華だったことが由来で、各空港のバス会社が追随したらしい。
同社には成田空港を発着する路線も多く、「Airport Limousine」と書かれた白地にオレンジのラインが入ったバスを見かけるだけで、海外の匂いがして、眩しく感じたものだった。
都内の主要なホテルを発着することも高級感に繋がっていたけれど、ホテルを発着する路線には恐れ多くて乗れなかった。
ホテルの玄関でバスから降ろされ、出迎えのポーターの最敬礼を受けて、

「ようこそお出で下さいました。御宿泊ですか?」

などと聞かれたら、どう振る舞えば良いのか。


羽田空港からは、横浜駅に向かう京浜急行バスもある。
白地に赤いラインが入って「KEIKYU LIMOUSINE」と大書されたバスが、首都高速横羽線を走っていた。
羽田空港で新宿行きや横浜行きに乗れば、手軽に首都高速からの都市景観を楽しめたから、当時、大井町に住んでいた僕は、運転免許を持っていなかった学生時代の息抜きとして、よく利用したものだった。

昭和63年7月に、羽田発千葉中央駅行きのリムジンバスが加わった時は、初めての首都高速湾岸線を体感しようと勇んで出掛けて行った。


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羽田空港からのリムジンバスで横浜と千葉に行くことが出来たものの、群馬県と栃木県については頭を捻らされた。
関越自動車道も東北自動車道も開通しているのに、都内発の高速バスや羽田空港発のリムジンバスが現れていなかったのである。

業を煮やした僕は、路線バスを何本も繋げて群馬まで行ってみた。
浦和、大宮、上尾、深谷、熊谷と乗り継ぎ、途中、中山道を外れて東松山と伊勢崎に寄り道するという意外な経路で、前橋まで一般バス路線が繋がったのだ。

栃木県も、群馬県と同様に、路線バスを乗り継いで宇都宮まで行ってみるしかないか、と観念していた矢先、平成元年12月に驚くべきバスが登場した。
成田空港と宇都宮を結ぶリムジンバス「エアポートライナーマロニエ」号である。


それまで、成田空港へのリムジンバスといえば、東京都心や、せいぜい横浜・千葉・大宮といった周辺の街を結ぶ路線くらいだった。
100kmを超える遠方の都市へのリムジンバスの運行は初めてのことだったから、驚くと同時に、少しばかり懐疑的になった。
栃木県には、それほど海外旅行者が多いのか。


成田空港リムジンバスの路線網が拡大するきっかけを作ったのは、平成元年4月に開業した大宮線「ONライナー」である。
当初から1日18往復が運転され、供給過剰を危惧する声も聞かれたというが、乗換えなしの利便性が好評を得て、現在まで良好な乗車率を維持している。
その後、

平成8年:高崎・前橋線「アザレア」号、水戸・日立線「ローズライナー」号
平成9年:太田・足利・佐野線「メープル」号
平成11年:桐生・足利・佐野線「サルビア」号

などと、関東各地から成田空港に向けてのリムジンバスが開業することになったのである。


現在では、

東京都内方面:TCAT、羽田空港、東京駅、新宿、日本橋、池袋・目白・九段・後楽園、芝・汐留・竹芝・お台場・有明、日比谷、銀座、渋谷・二子玉川、六本木・赤坂、恵比寿・品川、大崎、浅草・錦糸町・豊洲・東陽町・新木場、葛西・一之江・小岩、臨海副都心、吉祥寺、若葉台・稲城・調布、南大沢・多摩センター・聖蹟桜ヶ丘、立川・昭島、高尾・八王子

千葉方面:稲毛・千葉・幕張新都心・稲毛海岸、海浜幕張、松戸・柏・柏の葉キャンパス、新浦安、TDR・舞浜、木更津

神奈川方面:横浜駅・YCAT、みなとみらい、新百合ケ丘・たまプラーザ、本厚木・平塚、藤沢・辻堂・茅ヶ崎、町田・相模大野・橋本

埼玉方面:さいたま新都心・大宮、ふじみ野・新座・志木・朝霞台・新越谷・草加・八潮、和光・所沢、坂戸・川越、熊谷・鴻巣・久喜

更に、増加するインバウンド向け路線として、京都、大阪、宮城、長野、静岡、山梨、新潟、富山、石川県といった遠隔の土地まで、成田空港からの直通バスが運行されている。


ともあれ、栃木県へ向かう路線バスが初めて登場したのだから、趣味に定義を定めてしまった僕としては乗らない訳にはいかない。

「エアポートライナーマロニエ」号に乗るためには、成田空港へ出掛けていく必要がある。
最初に僕が乗車したのは、東京駅から成田空港へ向かう東京空港交通の「AIRPORT LIMOUSINE」である。
東京駅八重洲口と外堀通りを挟んだ乗り場から、ワイシャツにネクタイを締めた正装で乗り込んだ。
馬子にも衣装とはよく言ったもので、まだ大学生だったけれども、海外出張に行くビジネスマンのような引き締まった気分になる。
ジーンズ姿でリュックサックを背負う、いつもの軽装では、

「こいつ、そんな格好で、成田へ何しに行くつもりだ?」

と怪しまれないか、真剣に心配したのだ。
乗り場に常駐しているポーターに、

「トランクに入れる荷物はありませんか」

と怪訝そうな表情で聞かれた時には、海外に行くのではないことを見抜かれたか、と背中に汗をかいた。

車内は、大きな旅行カバンをトランクに預け、大声で談笑する外国人ばかりだった。
成田空港への行き来が不便とされていた時代である。
鉄道によるアクセスは、空港の手前の駅で連絡バスに乗り換えなければならない京成電鉄線か、時間が読みにくいリムジンバスだけだった。
当時の運輸大臣の鶴の一声で、計画倒れに終わった成田新幹線の敷地を利用して、鉄道がターミナルビルまで延伸したのは、2年後の平成3年3月のことである。

東京駅から、このような場所に首都高速の出入口があるのか、と目を見張るような狭い路地を抜け、銀座ランプから首都高速都心環状線に乗り入れたバスは、渋滞する箱崎JCTをのろのろと進み、首都高速深川線でようやく速度を上げると、辰巳JCTで湾岸線に出る。
平成5年に完成予定のレインボーブリッジは建設中で、都心から湾岸線に出る経路は、これだけだった。
中央環状線を分岐する葛西JCTを通過しながら、高架が大蛇のように交錯する光景に感嘆しているうちに、葛西臨海公園の直径111m・地上高117mという当時日本一の大観覧車が視界に飛び込んでくる。
江戸川を渡ると、昭和58年に開園した東京ディズニーランドに林立する円錐屋根の塔が現れる。
まだ、ディズニー・リゾートになっていない時代である。
リゾートに改名したのは平成12年、ディズニー・シー開業は同13年のことだ。

「ここより別料金」の標識が見える市川JCTで、高速道路は東関東自動車道と名を変える。


東京と千葉の境を超える時、ふと脳裏に浮かぶほろ苦い思い出がある。

僕が初めて購入したエンジン付きの乗り物は、50ccのスクーター「HONDA SUPERDIO」、つまり原チャリであった。
普通免許は取得していたけれども、自動車を買う余裕もなく、必要性も感じていなかった。

初めて自分の意のままになる乗り物を手に入れた喜びは、ひとしおだった。
どこでも気儘に行ける、これが自由というものか、と思った。
当時の僕は品川区に住んでいたのだが、休日になればスクーターに跨がって、京浜国道で横浜、国道246号線で長津田、国道20号線で八王子、はたまた国道17号線で浦和や大宮などと、今では信じられないような遠方まで足を伸ばしたものである。
大宮に行く途中で新大宮バイパスに迷い込み、立体交差の地下トンネルに入った時には、バックミラーに映る後続車がみるみる距離を詰めて来るのに冷や汗をかいた。
この立体交差を50ccの原動機付き自転車でくぐり抜けることが禁じられていると知ったのは、後のことである。

こうして振り返ると、僕は、スクーターで周辺の県庁所在地を制覇しようとしていたのかもしれない。
なぜなら、次に目指したのは千葉市だったからである。
発想が高速バス趣味と変わらず、ワンパターンもいいところである。

国道14号線で両国、錦糸町、小松川と下町の風情を楽しみながら、隅田川、荒川、中川、新中川を渡っていく道行きは、頬に当たる風も清々しく、景色も新鮮で楽しかった。
ところが、右手から京葉道路の高架が寄り添い、篠崎の街並みに差し掛かった所で、国道14号線の本線が、丸ごと京葉道路の高架に合流しているではないか。
有料道路であることを示す標識と並んで、「京葉道路 成田 木更津方面入口」と書かれた表示が、頭上に掲げられている。
側道は「小岩 今井」との標識が立つ細い道で、とても千葉に繋がっている幹線道路には見えない。

千葉には高速道路でしか行けないのか、と驚愕した。
手前の東小松川交差点を左折すれば、市街地を伝って千葉方面に向かう旧道があったのだが、どうやら見逃したらしく、地図など持参していなかったし、スマホで簡単に道順を検索できる時代でもなかった。
悄然と引き返し、僕はスクーターによる千葉行きを断念したのである。

一念発起して中型二輪免許を取得し、高速道路も走れるバイクを手に入れたのは、この時の悔しさが原動力だったのかもしれない。


リムジンバスが走るのは京葉道路より海側を走る首都高速湾岸線と東関東自動車道で、習志野料金所の先にある湾岸千葉ICを過ぎれば、幕張である。
昭和61年にJR京葉線が部分開通し、平成元年に幕張メッセが開業、東京モーターショーが晴海から移ってきたばかりの時代だった。
高層ビルが林立し、新都心として飛躍するのは、平成5年のことである。

僕がリムジンバスで旅をしたのはバブルの真っ最中で、湾岸地域が大きく様変わりする過渡期だったのだな、と思う。


稲毛海岸の手前では、内側に湾曲した背の高い防音壁が本線にのしかかるように視界を塞ぎ、京葉道路と交差する宮野木JCTまで、殆ど直角に針路を変える急カーブが待ち構えている。

大学時代に、硬式野球部に属していた友人と、木更津に住んでいた彼のお兄さんと連れ立って、湾岸線をドライブしたことがあった。
この友人は豪放磊落な男で、捕手を務めていた僕とバッテリーを組む投手であったのだが、重い剛速球を投げる腕力を持っていたにも関わらず、制球力がなく、苦労させられたものである。
僕より年上で、自然と同学年の部員を束ねる風格を備えていた。
出身は和歌山県の新宮で、彼の振る舞いを見ていると、小松左京氏のSF小説「日本沈没」で、列島の地殻変動を予測した地球物理学者の出身地について言及するくだりを思い出したものだった。

『和歌山だ。あそこはふしぎな所だね。紀伊国屋文左衛門の伝統かしらんが、時々ああいう、スケールの大きい学者が出る。南方熊楠とか、湯川秀樹とか……』

「細かいことをぐちゃぐちゃ言うなや」が口癖であったその友人は、愛すべきエピソードが豊富な人柄で、後輩の女子マネージャーから積極的なアタックを受け、硬派が揃っていた同期の中で真っ先に彼女が出来たのも彼であった。
部活の荷物運びのために借りたレンタカーにサンルーフが備わっていて、助手席の部員がそれを開けながら、

「ほう、今夜は満月か」

と感嘆を漏らした時に、ハンドルを握っていた彼も、

「どーれ」

と一緒に夜空を見上げた瞬間、前のタクシーに追突したことがあり、僕らは後々まで冷やかしの種にしたものだった。

お兄さんも細かいことを気にしない類いの運転をする人物で、走行速度は法令上の制限を遥かに上回っていた。
かなりのスピードで、殆ど減速することなく稲毛の急カーブに突っ込んでいったから、助手席にいた僕は、思わず足を突っ張りながら、息を詰めた。
後席にいた友人も、さすがに険しい表情をした。

「おい、友達を乗っけているんだから、もっと気をつけて運転しろや」

30年以上が経過した今でも、東関東自動車道と言えば、この急カーブが思い浮かぶ。


四街道、佐倉、酒々井、富里と進んでいくうちに、平坦な田園にぽっこりと湧き上がるように、小さな丘陵が点在する光景が目に入ってくる。
他の土地ではあまり見掛けない、独特の地形である。
この景観に接すると、北総に来たな、と実感する。
どのような自然の摂理で、このような地形が形成されるのだろうか。

東京駅からおよそ1時間半で新空港自動車道へ分岐し、新空港ICを降りたところで、この旅で最大の難関が待ち受けていた。
激しい反対運動の歴史を経て、昭和53年にようやく開港した、新東京国際空港。
地元住民と警官隊の双方に少なからず犠牲を強いた内戦とも言うべき反対運動が、開港後も続いていたため、成田空港は長いこと厳しい警戒が必要だった。
我が国の空港で唯一の検問が実施され、入場者全員に身分証明書の提示が課せられていた。
機動隊が空港内を巡回するなど、世界的にも異例の厳重警備が敷かれ、戒厳令空港と呼ばれていたのである。


リムジンバスが近づいていく制限区域の入口には、高速道路の料金所のような幅広いゲートが姿を現す。
バスが停車すると、扉が開けられて、

「どうも御苦労様です」

と、警備員が車内に乗りこんで来た。
脳裏に昔のトラウマが蘇って、僕の緊張感が高まる。

僕が初めて成田空港に足を踏み入れたのは、昭和58年の夏、高校3年生の夏休みだった。
予備校の講習を受けるために上京していた僕は、休日に、開港5年目の成田空港に行ってみようと、上野から京成スカイライナーに乗った。
成田空港駅で電車を降りると、改札のすぐ先に、空港の手荷物検査場に似た検問所が設けられている。
びっくりしたけれど、引き返す訳にもいかず、そのまま列に加わって順番を待っていると、初老の警備員さんに呼び止められた。

「身分証は?」

高校の学生証でいいのだろうか。

「パスポートはないの?飛行機に乗るんじゃないの?」

僕はまだ1度も飛行機に乗ったことはございません、という台詞が口先まで出かけたが、慌てて飲み込みながら、僕は首を振った。

「じゃあ、何しに来たの?」
「えっと……け、見学です」
「ちょっと、こっち来て」

周りの客からジロジロ見られながら、僕は列の外に連れ出された。
もしかして、不審者として逮捕、事情聴取されてしまうのか。
親に連絡でも行こうものなら、何と言い訳すればいいのだろう。

「はい、キミ、これ書いて」

と渡されたのは、「空港見学届け」であった。


数年前の失敗を繰り返さないために、僕はそれなりの準備を整えていた。
ワイシャツにネクタイ姿にした最大の理由も、せめて身なりだけでも怪しまれないように、と思ったのだ。
ところが、警備員がバスに乗り込んでくるとは思いも寄らなかった。
バスから降ろされて、成田空港駅と同じような検問所を徒歩で通り抜けるものと思い込んでいたのだ。

「身分証を拝見します」

最前列の座席に座っていたから、真っ先に警備員さんが声をかけてくる。
僕は大学の学生証を取り出した。

「飛行機に乗るのではないのですね?」
「はい」
「空港へ来た目的は?」

飛行機に乗らない人間が空港に足を踏み入れるという理屈は、通じにくいものだと思う。

「友達の出迎えなんです。○○航空××便でロサンゼルスから来る予定なんですけど」

などと、もっともらしい口実を考えて、便名も前もって調べておいたけれど、土壇場で怖じ気づいた僕は、嘘が言えなくなった。
通じにくい理由かも知れないけれど、正直に言おう、と咄嗟に決めた。

「見学と、バスです。宇都宮に行く高速バスに乗りたいのです」
「そうですか……」

品定めするかのように、警備員は、僕の顔と学生証をじっと見比べた。
長い長い時間に感じられたけれど、

「ありがとうございました」

と、警備員は丁寧に学生証を僕に返して、後ろの席に移っていった。
他の乗客の視線が恥ずかしくて、振り向けなかった。
バスはそれほど混んでいなかったから、数分でセキュリティチェックは終了し、検問ゲートを後にした。


ターミナルビルが1棟しかなく、滑走路も1本だった当時の成田空港は、何となく手狭で、大変な混雑だった。
世界最大の規模を誇る第2旅客ターミナルビルが完成するのは平成4年、第2滑走路の供用が開始されたのは、平成14年のことである。

敷居の高い空港だから、今度は、いつ来ることが出来るのか分からない。
すっかり安心した僕は、ターミナルビルで食事をしたり、免税店をひやかしたり、展望デッキで各国のカラフルな飛行機を眺めたりして時間を潰してから、15時発の宇都宮行き「エアポートライナーマロニエ」号に乗り込んだ。
栃木県の県木であるトチノキの一種、セイヨウトチノキ(Marronier)が愛称の由来で、葉が大きく、華やかでお洒落な感じの木が描かれたバスだった。


車内は空いていたから、左側最前列の席に陣取って、のびのびとくつろいだ。
成田空港を後にするバスに、警備員が乗り込んでくることはない。
東関東道、首都高速湾岸線、東北道を経由して、宇都宮まで3時間のハイウェイ・クルージングが目一杯楽しめるものと心を踊らせていると、運転手さんが、

「本日は湾岸線が工事のため大変混雑しており、経路を変えて運行致します」

と、事もなげに案内した。
行きのリムジンバスから眺めた対向車線が、ぎっしりと渋滞していたことは、僕も気づいていた。
先を急ぐ旅でもなし、渋滞の手前で一般道に降りるのだろう、と高をくくっていた。

ところが、「エアポートライナーマロニエ」号は、新空港ICを素知らぬ顔で通過し、高架道路の脇道を走るばかりである。
いやいや、渋滞の手前までは高速を使ってもいいのではないですか、と呆気に取られている僕を乗せて、ついに高速道路から離れてしまったバスは、国道408号線を北上し始めた。
予想外の展開となって、無性に不安に駆られる道中が始まった。

成田空港の周辺の地形は起伏に富んでいて、ホテルなどは斜面を削った平地に建っている。
建物と建物の間は鬱蒼たる雑木林が占め、荒削りな新開地の面影が残っている。
成田山新勝寺の北側を回って利根川を渡り、刈り入れが終わった田畑や、なだらかな丘陵の間を縫いながら、鄙びた町を紡ぐ下道を、バスは延々と走り続ける。
首都圏とは全く別の地域を走っているような気分にさせられる。
空港がなければ、鄙びた田舎だったのだろう。

手元に地図がないので、何処を走っているのかさっぱり分からず、全ては運転手さん任せである。
「エアポートライナーマロニエ」号は、僕を、きちんと宇都宮まで連れて行ってくれるのか。

太平洋戦争末期のレイテ海戦で、日本海軍の捨て身の囮作戦に引っ掛かった米海軍のハルゼー提督が、ニミッツ司令長官から、

「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや。全世界は知らんと欲す)」

との電文を受けたエピソードを思い出した。
「エアポートライナーマロニエ」号の所在など、全世界は知りたくないだろうけれど、僕は現在地が何処であるのか、ニミッツ司令長官以上に知らんと欲している。


大仏で有名な牛久でJR常磐線を越え、更に常磐道もくぐり抜けて、バスはつくば市へ足を踏み入れる。
黄昏の筑波山を見遣りながら、隣りの下妻市から関東鉄道常総線に沿って下館、真岡へと進む。
色褪せた木々に覆われた丘を越え、山あいをすり抜けて、坦々とバスは走る。
収穫は終わっている筈なのに、土が剥き出しの田畑で農作業をしている人がいる。
古びて傾きかけた廃屋が、道端で埃を被っている。

キョロキョロと車窓に気を取られて落ち着かないのは僕だけで、車内は取り澄ました空気が支配している。
宇都宮に連れて行って貰えるならば、何処をどう走ろうが、誰も気にしないのだろう。
外国人は見当たらず、東京駅からのリムジンバスとは異なる素朴な雰囲気のバスだった。
それでも、乗り合わせた客は大半が海外帰りなのだろうから、長時間の空の旅で疲れたのか、居眠りをしている姿が多い。


生い繁る木々が水面に揺れる鬼怒川を渡ると、そこはもう宇都宮市域だった。
宇都宮駅前に降り立って時計を見れば、成田空港を出発してからちょうど3時間、何と予定通りの到着である。

お見事!──

と拍手したくなるような迂回運行だった。
しかし、これでは、「エアポートライナーマロニエ」号が高い料金を支払って高速道路を使う必然性が、全くないではないか。

以上が、東京から栃木県までバスで走った顛末である。
色々とやきもきしたけれども、振り返ってみれば珍しくも楽しい道中だったし、バスだけで宇都宮に来た、という達成感はやっぱり心地良かった。
趣味に目標を定めなければ、「エアポートライナーマロニエ」号に乗ることもなかったであろう。

政治家と官僚が公式に謝罪し、地元住民との和解が成立して、成田空港の警備が解かれたのは、平成27年のことである。
成田空港には行きやすくなったけれども、この旅の後に、僕が趣味の一環として成田空港を起終点とするリムジンバスに乗ることは、二度となかった。
わざわざ成田まで出掛けて行かなくても、新しく開業した他の高速バスを利用して、関東各地へ行くことが可能となったからである。

唯一の体験となった「エアポートライナーマロニエ」号の、奇跡のような、少しばかり狐に騙されたかのような旅路の記憶だけが、今でも鮮やかに心に刻まれている。


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