原発事故に揺れる街へ~迂回運行を余儀なくされる水戸-仙台高速バス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成25年の6月と11月に、東日本大震災による津波と福島第一原子力発電所の事故の影響で運休が続いている常磐線の不通区間を、北と南から訪ねたことがあった。

「原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間を結ぶ仙台-相馬・原ノ町高速バス~」

「原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間の南端・広野駅を訪ねて~」

僕にとって、東日本大震災以来初めての被災地訪問であった。

南相馬でも広野でも、未だ事故が収束する見込みが立たない状況に胸が塞がる思いだったが、故郷に根ざして逞しく生活する人々の姿に救いを感じた旅でもあった。
使い物にならない常磐線に代わり、地域の貴重な足となっている鉄道代替バスや仙台-相馬・原ノ町間の高速バスの活躍を目の当たりにできたのも、嬉しい経験だった。

平成25年7月に、水戸と仙台を結ぶ高速バスが走り始めた。

当時、常磐自動車道のいわき以北は不通もしくは未開通だった時期であり、常磐道から磐越自動車道で郡山に抜け、東北自動車道を北上する迂回運行となった。
水戸駅から仙台駅までの所要時間は5時間余りで、かつては特急列車「スーパーひたち」が3時間で結んでいたことを考えれば忸怩たる思いに駆られるが、現在に至るまで、この高速バスが、常磐線沿線の街々と杜の都を直通する唯一の交通機関となっている。

平成26年12月の常磐道の全通後も、この経路は変わっていない。


平成27年8月の土曜日、仕事を終えたばかりの僕は、大急ぎで上野駅に向かった。
14時発の「スーパーひたち」に乗るためである。
上野発の中・長距離列車は同駅が始発という思い込みが、平成27年3月の東京-上野ラインの開通後もなかなか払拭できていない。
夏休みを過ごす家族連れで賑わうホームを出入りする常磐線の列車が、上り下りとも、途中駅であることが当たり前のように、乗客を吐き出しては乗せて、すぐさま発車して行く様子には、どこか違和感を感じてしまう。


つい先日までの、上り列車は上野で客室がカラになり、下り列車は発車時刻のかなり前から入線して発車を待つ姿が、脳裏にこびりついている。
真夏の日差しが容赦なく照りつけ、じっとしているだけで汗が滲んでくる暑さを我慢しながら列車を待つうちに、

そうか、「ひたち」も品川始発になったから、発車時刻の寸前までやって来ないのか──

と気づくまでに、少々時間がかかった。

何となく、上野駅が長年培ってきた終着駅としての風格が薄れてしまったように感じるのは、僕だけであろうか。


乗り込んでしまえば、「スーパーひたち」はなかなか俊足で、ごちゃごちゃと建物が密集する下町の頭上を渡っていく高架を、小気味いいほどの速度で飛ばしていくうちに、車窓は、広々とした田園地帯に変わっていく。

水戸駅のホームに滑り込んだのが15時06分で、乗り継ぐ仙台行き高速バスの水戸駅南口の発車時間は15時20分だったから、あまり余裕はない。
2階のコンコースから繋がるペデストリアン・デッキの階段を駆け下りると、少々面食らった。



水戸駅を発着する高速バスには何回か乗車したことがあるけれど、南口から乗るのは初めてだった。
初めてのバス乗り場に来ると、そこで本当に正しいのかどうか、不安に駆られることが少なくない。

いかにもこれからバスで出かけるといった身軽な風体の人々が集まっているのは、東京駅行きの高速バス乗り場である。
そこに、仙台行きの案内や時刻表はない。
少し離れて何本も停留所のポールが立ち並ぶ乗り場に、大きなトランクを脇に置いた人々がたむろして、羽田空港へのリムジンバスを待っている。

赤錆びたポールに書き連ねられた「京都・大阪」「名古屋駅」「つくばセンター」「茨城空港」「成田空港」「羽田空港」などの行先表示に遠慮しているかのように、小さく「仙台」の文字が貼り付けてあるのを見つけ、ようやく安心した。

ひと昔まで、乗り入れる路線やバス会社の数だけ停留所のポールが設置されている乗り場は、珍しくなかったものである。
最近はバス停の佇まいもなかなか瀟洒になり、すっきりまとまっている停留所も多いから、ポールが林立する様を久しぶりに目にして、懐かしさと同時に、何だか可笑しくなった。


じりじりと陽が照りつけるロータリーで、東京駅と羽田空港に向けて発車していくバスを見送るうちに、いかめしい面構えに「二本松・仙台」と行先表示を掲げたバスが停留所に横付けされた。

このバスは水戸市の西側にある赤塚駅が始発で、数人の乗客が既に車内に陣取っている。
水戸駅南口までに、石川三丁目、新原三差路、自由ヶ丘、大工町、泉町一丁目、南町二丁目と市内の停留所を小まめに経由して、なんと水戸駅北口にも寄ってくるのである。

1つの駅の別々の出入口を経由する路線バスを時折り見かけることはあるけれど、利用客にしてみればもどかしいことだろうと思う。
しかも、北口から南口まで15分もかかるのである。
僕のように列車からぎりぎり乗り継ぐ客にとっては、それだけ乗り継ぎ時間に余裕が生まれるから、ありがたいのも確かだった。
このバスの北口の発車時刻は15時05分で、間に合わない可能性もあったから、僕が文句を言う筋合いはない。

運転手さんは、名簿で僕の予約を確認した上で、「現金払い」と書かれたカードを渡した。
乗車・降車停留所の数が多いから、前払いという訳にもいかず、これが整理券の代わりなのだろう。




日差しが眩しく、あっけらかんと明るい水戸市内を通り抜け、バスは郊外の田園地帯に入っていく。
先はまだまだ長いのに、高速道路に入る素振りを全く見せず、稲が青々と生え揃う田圃の畦道のような道路に入り込んだりするから、ローカルバスに乗り込んだような気分で、どこを走っているのか見当がつかなくなった。

このような道筋をたどるのも、水戸駅を出た後に、幾つもの停留所に寄って乗車扱いをするためである。
じれったいけれども、鉄道と違って、見知らぬ街なかをじっくりと眺めることが出来るから、なかなか楽しい。


東京からの中距離電車が起終点とする勝田駅は、市街地よりも、広大な駅構内や留置線などの鉄道施設の方が幅をきかせている印象だった。
真っ白な「スーパーひたち」の編成が、並木の向こうでゆっくりと操車場に回送されているのが見え隠れしている。
バスは、駅の北側にある高架道路で、芋虫のように引き込み線のポイントを渡っている「スーパーひたち」の頭上を越えていく。

バスが奥の駐車場にずらりと並んでいる茨城交通勝田営業所では、1人の乗客の乗車手続きに手間取って、10分ほど待たされた。

日本の原子力発祥の地である東海駅は閑散としていたが、道路や街並み、麗々しい駅舎は、村の規模にそぐわないほど立派だった。
様々な公共施設もやたらと目に入ってくるから、思わず、原子力マネーとの関連を想起してしまう。




しばらく国道6号線を北上し、日立南太田ICからようやく常磐道に乗ると、バスは、それまでの鬱憤を晴らすかのように速度を上げた。

早くも関東平野の北端に差し掛かり、こんもりと折り重なった山々が左手から近づいてくる。
常磐道は吸い込まれるように山岳地帯に分け入り、目まぐるしくトンネルが断続する。
トンネルを1つくぐるたびに高度が上がり、右手の下方に、日立の街並みと、夕陽を反射してきらきらと輝く太平洋が垣間見える。
常磐道で、僕が最も好きな区間である。

ここを走るのは何年ぶりであろうか。
東京発の高速バスで延々と走り込んでから、やっとこさ、みちのくの入口まで来たのかと感慨深く眺めた記憶が懐かしい。
水戸から出発したこの日は、何だかあっという間に到達してしまったことに、戸惑いを覚えてしまう。

上り車線は渋滞している。
盆の終わりも近い、日立灘の日暮れ時であった。


日立中央ICで高速を降り、バスは、急坂を駆け下るように市街地に入っていく。
最後の乗車停留所である日立駅前に到着したのは、定刻16時50分より遅れて、午後5時を過ぎていた。

ここで座席はほぼ埋まった。
予想していた以上に盛況である。

始発の赤塚駅から2時間、水戸駅からも1時間半が経過しているから、車内を気怠い静寂が支配し、時間を持て余して居眠りをする人も少なくない。
日立から乗ってきた隣席の男性は、タブレットのゲームに余念がない。



出発間際に電話で予約を入れた僕は、最後部の通路側の席を指定されていた。
窓際は既にいっぱいだと言われたが、受け付けてくれた女性係員さんは、最後部と、後ろから3番目の席とどちらがいいかを選ばせてくれたのである。

通路側でも景色は充分に楽しめるけれど、僕は、窓際に座るだけで気分が高揚する、子供のように単純な性格である。
この様子なら窓際席を譲って貰ってもいいのではないかと、内心思ったりもする。
その勇気は、仙台まで出なかったのだが。

日立中央ICから高速道路に復帰して間もなく、バスは中郷SAで最初の休憩をとった。

時計の針は、午後5時半を回っている。
日立では青空が広がっていたのに、夕立にでも見舞われたのか、駐車場の路面が濡れている。
バスを降りると、東京とはまるで違う涼しい風が、優しく身を包み込んだ。




何気なくトイレに入ると、見慣れない張り紙が、目の前の壁面に貼り付けられている。
用足しをしながら覗きこむと、

『高速道路をご利用の皆さまへ
福島の復航に不可欠な中間貯蔵施設への輸送を行っています。
(福島県内で発生した除染土壌等を輸送しています)
~7月18日より、磐越道・東北道の利用及び休憩施設の利用を開始します~』

と書かれている。

輸送で利用される高速道路は常磐道・磐越道・東北道の福島県内区間の大部分であり、1日25往復程度、磐越道差塩PA及び常磐道ならはPAに輸送車両の専用休憩場所を設置したという。
今回は試験的なパイロット輸送らしいのだが、主な安全対策として記載されているのは、

①輸送車両の輸送状況をGPSを活用して常時把握し、環境省と環境省の委託業者(JESCO)が一元的に情報を管理して、万が一問題が生じてもすぐに対応できるようにする。
②除染土壌等は遮水性を有する大型土嚢袋等に入れて輸送、破損が確認された場合は新しい大型土嚢袋に詰め込む。
③輸送車両の荷台をシートで覆うことなどにより飛散を防止する。
④輸送別に運転者や作業員の教育や研修を行い、本事業の重要性や放射性物質に汚染された土壌等を扱うに当たっての意識と技能等を高める。
⑤輸送車両が保管場から退出する前には放射線量を測定(スクリーニング)し、基準値以上であれば洗浄等を行うことにより、周辺道路等の汚染の防止を徹底する。
⑥輸送車両は専用駐車マスに停車、差塩PA、ならはPAともに監視員を配置する。

「等」がやたらと多用される典型的なお役所文書であるが、輸送の物々しさは充分に伝わってくる。

いよいよ原発事故に揺れる地域に近づいたのだと、身が引き締まる思いであった。

局所にとどまらず、広範囲に影響を及ぼすのが原発事故なのだと、僕は唇を噛み締めるより他に方法はない。


中郷SAを発車すると、ハイウェイを囲む景色は、それまでと異なる様相を見せた。

真夏らしく緑が鮮やかだった関東平野に比べて、山並みの起伏は深く、木々が心なしか白っぽく色褪せて、モノクロ映画のように寒々とした印象になる。
みちのくの入口にふさわしい車窓だと思う。
落日が山の陰に隠れたせいでもあるだろう。

程なく、「福島県 いわき市」の看板が窓外を過ぎ去っていく。

バスは、いわきJCTで磐越道に向けて舵を切った。
目的地仙台を横目に見ながらの大迂回の始まりである。
山あいに一塊の霧が流れて、水墨画のように幻想的である。
しかし、この美しい山河が、福島第一原発から50kmと離れていないのだと思うと、どこか気が滅入ってしまう。


水戸と仙台を結ぶ高速バスが避け続けている、いわき以北の常磐道に乗り入れて、相馬及び南相馬と東京の間を高速バスが定期的に走っていることを御存知であろうか。

最初は、原ノ町と仙台や福島を結ぶ高速バスを運行していた原町旅行社(現東北アクセス)が先鞭をつけてツアーバスを開業し、常磐交通がいわき-東京間高速バス「いわき」号を延伸する形で続いたのだが、原発事故以降はどちらも長期運休が続いている。

そのような状況下で、福島県白河市に本社を置くさくら交通が、今年の4月から相馬・南相馬と東京・池袋を結ぶ定期路線を1日1往復で開設したのである。
以下は、 平成27年4月2日付の毎日新聞の記事である。

『相馬地方と東京都心を直結する高速バスが1日に運行を始め、始発便の起点となった相馬市の千客万来館前で出発式が行われた。
首都圏と相馬地方を直接結ぶ公共交通機関の運行は震災後初めてで、人の往来の活発化や経済活性化などに期待が集まる。
運行するのは桜交通(白河市)。
当面は1日上下1本ずつだが、本数や運行時間帯は利用者の反応を見て柔軟に対応するという。
出発式では同社の小桜輝社長が、

「避難された家族の交流や地域活性化の一助になるように、との願いで運行を決定した」

とあいさつした。
最初の予約者の青田美津子さん(70)は、東京都内に住む孫の成人祝いのために上京。
これまでは仙台市まで高速バスに乗り、新幹線に乗り換えていたため、

「直行するバスは本当に便利。値段も安いので、予約がいっぱいではないかと心配していた」

と話し、笑顔でバスに乗り込んだ。
料金は相馬-東京が4500円、南相馬-東京が4000円で、割引プランもある。
停留所は千客万来館前の他、南相馬市鹿島区役所前、サンライフ南相馬前、東京駅、池袋サンシャインバスターミナル。
当面は、上りは午前8時発で終点池袋に午後1時50分着、下りは午後4時10分発で終点千客万来館に午後9時55分着。
問い合わせはさくら観光(電話0570-666-395)』

僕が愛読するブログ「第4セクターの乗りバス・乗り船日記」にも、相馬・南相馬と東京を結ぶ高速バスのルポが掲載されている。

「さくら交通 相馬・南相馬~東京線に乗車してみる」

それによれば、この高速バスは、放射能の高線量地帯を走るため、運転手さんが線量計を携帯し、乗客の希望に応じてその数値を開示するという。

第4セクター氏は、この路線を運行するに当たっての注意点を同社に質問し、その回答を掲載しておられる。
一読すれば、この地域で公共交通機関を運行することの困難さと異常さが浮かび上がってくる。

・乗務員については専属とせず、月の乗務回数が平均的且つ最小限となるよう運行営業所の全乗務員で担当する。
・サンライフ南相馬~四倉PA間においては、内気循環に切り替える。
・不測の事態(一部区間における窓の開放など)に備え、運行車両については基本的に窓の開かない車両を配車する。
・下り便においては四倉PAでの休憩を必須とし、PAに設置されている放射線情報により異常の有無を確認する。上り便については南相馬ICの表示にて確認、および運行営業所にてWEB上の情報を確認し、異常があれば乗務員へ連絡をする。
・その他通行止めや故障または事故の発生に関してはNEXCO等との連携を密に取っており、他通行車両を含め現場滞留を最小限とするよう迅速な対応を行う。

加えて、次のような一文が付されていたという。

『常磐道のいわき中央IC以北は対面通行区間がほとんどであり、また橋梁やトンネルなど道幅も割と狭い区間が続きます。
大型車両の通行も多く、また所々の2車線区間も延長が短いため、他車両の動向に十分注意し防衛運転に努めるよう、安全運行に向けた指導教育の取組みについても継続して参ります。

最後に、福島県内に本社を置く一企業として、地域の方々はじめ遠地での生活を余儀なくされている方、また復興支援に携わって頂ける方々の足として更なる復興の一助を担うべく今後も安全運行に注力して参りますので、ご支援ならびに更なるご愛顧を賜りますよう宜しくお願い申し上げます』

さくら交通の文書を読みながら、目頭が熱くなった。
災厄に見舞われた地元の人々の役に立ちたい、という心意気が、ひしひしと伝わって来るからである。

だからと言って、どのバス事業者も出来ることではないだろうし、また、安易に真似すべきでもないと思っている。



以下も新聞記事からの抜粋である。

『昨年(平成26年)12月の常磐自動車道相馬-山元IC間の開通後、南相馬市と仙台市を1日4往復する高速バスの直行便は利用客が増え、1月は約3700人と2、3往復だった前年の約2.5倍になった。
だが、運行する東北アクセス(南相馬市) は、全線開通で直結するいわき市方面の運行には慎重な姿勢を崩さない。
南相馬周辺は関東方面からの作業員も多く、いわき方面への潜在需要は高いとみられるが、遠藤竜太郎社長(50)は「被爆が課題」と新路線開設に踏み切れない理由を説明する。

「事故時の乗客への対応はもちろん、何度も行き来する運転手への影響も無視できない」

最終開通区間の常磐富岡-浪江IC間(14.3キロ)は、福島第1原発事故の帰還困難区域を通り、常磐道の中で最も空間放射線量が高い。
空間線量は最高地点で毎時約5.5マイクロシーベルト。
短時間の通過による影響は限定的とされるが、住宅地であれば年間20ミリシーベルト以上の被爆が想定される値だ。
東北道と磐越道を経由し、1日8往復する高速バスのいわき-仙台線。
常磐道に乗れば40キロほど距離を短縮できるが、利用を計画していない。
利用客からは「近い方がいい」と常磐道ルトを支持する声の一方で、「線量が高い場所があるので遠回りでもいい」と不安も聞かれる。
同路線をジェイアールバス東北(仙台市)と共同運行する新常磐交通(いわき市)は、

「輸送の安全確保を検討している段階」

と説明。
当面、現行ルートで運行を続ける方針だ。
福島県内の常磐道は、福島第1原発がある大熊、双葉両町に建設される中間貯蔵施設への除染廃棄物の輸送ルートにもなる。
近く試験輸送が始まる予定だが、本格化すれば大型ダンプが1日1500台以上通行する見込みだ。
こうした状況から、旅行業界も全線開通を歓迎しつつも、企画商品の販売に二の足を踏む。
地元旅行会社の幹部は、

「現時点では常磐道を使う商品を販売しにくい。東北道を使うケースが多いだろう」

と話す。
東日本高速道路がかつて想定した常磐道常磐富岡-山元IC間の交通量は、1日5000~7000台。
昨年12月の2区間開通後の実績は1日2300~8000台と近似するが、避難者の利用や工事車両が多く、原発事故前と様相は異なる。
「東北の復興の起爆剤にしたい」と、安倍晋三首相が全線開通を急がせた常磐道。
多方面に効果が表れ、被災地の再生を牽引できるかどうか。
道のりは平坦ではない』


常磐道の新開業区間を含む広野ICと南相馬ICの間には、各インター間に3ヶ所ずつモニタリングポストが設置されている。
10分間の平均放射線量を道端の電光掲示板で表示し、NEXCOのHPにも掲載される。

常磐道の開通時に、新聞の一面で「5.5μSv/時」の数値を掲示している写真を見て、仰天したことを今でも覚えている。
創業者が日本の原発導入に関わり、今でも原発稼働を支持している新聞だったから、尚更であった。

時間によって増減はあるのだろうが、単純計算で、年間48mSvにもなるではないか。
原発事故以降、我が国での年間被曝量の制限が1mSvから20mSvに引き上げられたが、その2倍を超える数値である。

原発周辺には、まだまだこのような高線量の場所が残っているのか、と目が覚めるような思いがする。
また、そのような土地に高速道路を通して、どうぞお使い下さいと言っていることに驚いた。

当時は、窓を閉めて停車しないように走り抜けるべし、などという噂が飛び交ったが、さくら交通の運行対策を読む限り、根拠がない訳ではなかったようである。
ちなみに、この日の常磐富岡ICと浪江IC間の最高線量は4.87μSv/時であった。

常磐線不通区間の相馬や南相馬、そして広野を訪ねた時にも強く感じたことであるが、この日のように、被災地を大きく迂回する高速バスに乗っていれば、やはり、僕らの国は、原発事故によって貴重な国土の一部を失ったのだと強く実感されるのだ。

黄昏の磐越道は、常磐道より遙かに交通量が少なく、のんびりしていた。
バスが走り込んでいく闇の中へ、周囲の景観が溶けるように消えていく。
夕映えの空を背景にした阿武隈山地のなだらかなシルエットが、彼方に連なっている。
暗がりに包まれた山麓には、家々の灯りが点在している。
やがて車窓に映るのは、深い闇と、照明に照らされた車内だけになった。



郡山JCTで東北道に合流すると、途端に車の密度が高くなる。

午後7時過ぎに到着した、福島県内で唯一の停留所である二本松バスストップで、1人の若い女性が降りていった。
今年から立ち寄ることになったバス停である。
僕は、二本松という土地の存在感を全く知らないのであるが、仙台と並ぶ東北側の停留所として選ばれたのが、郡山や福島ではなく、どうして二本松なのだろうと思う。

東北道は、奥羽山脈の山麓をうねうねと曲がりくねりながら北上していく。

カーブやアップダウンがきつく、ひっきりなしにギアが入れ替えられて、エンジンの唸りも併せて上下する。
バスを取り巻く車の速度も目まぐるしく変化し、バスを勢いよく抜き去っていったトラックが、前方の勾配でみるみる速度を落としたりするから、こちらが慌てて追越車線に移らなければならない。
なかなか気が休まらない区間である。

2度目の休憩のために、バスが福島市の手前にある松川SAに滑り込んだのは、午後8時になろうかという頃合いで、いつの間にか30分ほど遅れての運行であることに気づいた。
大した渋滞に巻き込まれた覚えはないのだが、どこでこんなに遅れたのだろうか。

下山事件、三鷹事件と並ぶ戦後三大事件の1つとして知られる松川事件の現場は、この近くである。

エリア内は煌々と照明に照らされているが、ふと見上げれば、天空は漆黒の闇に覆い尽くされている。
星は見えないから曇っているのであろうが、いたずらに空を染め上げる明かりを発する大きな街もなく、吸い込まれるように澄みきった夜空だった。

若い女性の2人連れが、預けた荷物から取り出したい物があるらしく、運転手さんがトランクの扉を開け閉めしてからの発車となった。




ここから仙台までは、まだ、小1時間はかかるはずである。

アーサー・ヒラー監督のアメリカ映画「大陸横断超特急」で、ロサンゼルスからシカゴまで2泊3日の旅に出たジーン・ワイルダー演じる主人公が、食堂車で懇ろになった女性客に、

「どうして汽車にしたの?」

と聞かれて、

「退屈したいから」

と答えるシーンを思い出す。

そのあと、主人公はある事件に巻き込まれてしまい、退屈どころか、3度も列車から突き落とされたり飛び降りる羽目になる。
DVDには、テレビ放映時の吹き替えも収録されており、名優広川太一郎節で、

「僕は3回も列車から飛び降りるなんて、絶対、イヤなんだからぁ!」

と叫びながら川に落ちていくシーンなどは、抱腹絶倒である。

広川太一郎氏の吹き替えはアドリブで有名だった。
原作の脚本がダメだ、と思えば、どんどん脚本にない台詞が飛び出したというから、この映画でも、元のシーンでは単に悲鳴を上げて飛び降りただけという可能性もある。

1等個室でシャンパンを傾けながら美女と甘い時間を過ごすならば、退屈も捨てたものではないだろうが、高速バスの狭い座席に収まりながら、脇目も振らずゲームに熱中する男と隣り合い、闇の中をひたすら走り込む1時間は、決して短くなかった。
常磐道経由ならば運行距離が40kmほど短くなるはずだったのかと、考えても詮ないことを考えてしまう。

ようやくたどり着いた仙台宮城ICで高速を降り、広瀬川に沿う仙台西道路の長いトンネルを抜けると、いきなり煌びやかな市街地に飛び出す演出は、何度経験しても鮮やかである。

街路から溢れんばかりにひしめく車の波に揉まれて歩みが遅くなり、バスがあおば通りの仙台駅前停留所に到着したのは、定刻より20分ほど遅れた20時40分であった。

すぐ後ろで、羽後本荘からの高速バスが客を降ろしている。
全く正反対の土地からやって来たバスであるが、こうして揃っている姿を見れば、お互いにお疲れ様、と親近感が湧く。




仙台に長居をする暇はなかったが、せめて、名物の牛タン弁当で遅い夕食にしようと思っていた。
だが、上りの新幹線は全て満席で、立席指定券を手に入れるより他に、その日のうちに東京へ帰る手段はなくなっていた。

貧相な気分で東京まで帰ってきて、自宅で牛タンをつまむことになったが、水戸-仙台高速バスの車窓から眺めた浜通りの美しい自然は、今でもありありと脳裏に浮かぶのである。
夢のような5時間の旅路だった。




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