萩エクスプレス号1075kmとアルバ号990km~2本の夜行高速バスで往復した防長二州の旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

日本の高速バスで、片道の営業距離が1000km を初めて超えたのは、平成2年10月に走り始めた、新宿と福岡を結ぶ「はかた」号である。
当初の営業距離が片道1173.4km 、片道の所要時間が15時間10分にも及ぶため、2人の運転手さんがおよそ2時間おきに交替しながら夜通し運転するという、夜行高速バスの標準的な運行方法で果たして安全性が守られるのかが危ぶまれたが、医学的な研究も重ねた上で、開業に至ったと聞く。

それほど、1000kmを超える長距離バスの開業は大ごとだったのだが、続いて、平成3年3月には、東京と下関1093.2km を14時間30分で結ぶ「ドリームふくふく」・「ふくふく東京」号(運行会社によって愛称が異っていた)が開業、平成3年12月には、それよりも長い1101.4km にも及ぶ名古屋と鹿児島の間を、14時間20 分で走破する「錦江湾」号がデビューしている。

平成5年4月に、上記3路線に次ぐ、走行距離 1074.9㎞もの夜行高速バスが運行を開始した。
東京の品川と山口県の萩を14時間03分で結ぶ「萩エクスプレス」号である。
運行会社は、東京側が京浜急行バス、山口側が防長交通バスであった。


22年も前のことになるのかと、時の流れの容赦ない早さに驚いてしまうが、記憶を探ると、僕は品川バスターミナルで行われた「萩エクスプレス」の開業式典を覗いている。
高速バスの開業という儀式に立ち会うのは初めてだったから、少々緊張した心持ちでバスターミナルに足を踏み入れたのだが、いたって気楽な雰囲気であり、停車中の初便の車内には既に乗客が乗り込んでいた。
赤絨毯が敷かれた式台に次々と入れ替わりに立つお偉いさんの挨拶の後に、テープカットが終わると、並み居る人々の拍手の中、バスはゆっくりと発車していった。
ハンドルを握る運転手さんと、乗降口に立つ交替運転手さんの晴れがましい表情が、今でも思い浮かぶ。


初日の予約はめでたく満席と聞いていたが、もし空席があったならば、僕は衝動的に乗り込んでしまったかもしれない。
表彰台には立てない順位であろうと、 1000km を越える超長距離を走るバスともなれば、マニアとしては乗ってみたくなる。

東京と山口を結ぶ交通機関と言えば、戦前に登場した特別急行列車「富士」をはじめ、関門トンネル開通前の連絡船を介して九州へ、または関釜連絡船に乗り換えて大陸への欧亜連絡の玄関口であった下関へと向かう優等列車が、何本も運転されていた歴史のことを思い浮かべる。
戦後も、寝台特急「あさかぜ」が、東京から下関止まりで運転されていた。
東京駅から下関駅まで「ふくふく東京」号に乗車した時には、そのような伝統に思いを馳せたものである。
14時間を超える長旅の末に、バスの車窓から目にした下関の風景は、本州最西端の情緒に溢れていた。

東京から山口への第2の高速バス路線は、運行するバス会社の営業エリアの違いからであろうか、起終点として萩を選んだ。
下関と異なり、東京と萩を直通する交通機関などというものは、鉄道も含めて存在した歴史がない。
バスが初めて開拓した区間なのである。
萩と言えば、幕末に、我が国を大きく動かした歴史的な地域であると言っても過言ではない。
僕はまだ訪れたことがなかったから、大いに期待したものである。
ただ、なかなか「萩エクスプレス」号に乗る機会に恵まれないまま、時が過ぎてしまった。


首都圏から山口県へ向かう高速バスは、「ドリームふくふく」・「ふくふく東京」号が初めてではなかった。
平成2年12月に、相模鉄道バスと防長交通バスが共同運行した、横浜と岩国・徳山を結ぶ夜行高速バス「ポセイドン」号が、その嚆矢である。
こちらは、営業距離が1000kmに僅かに届かない964.3kmであった。
当時、人口で大阪市を抜いて日本で 2 番目の都市になった横浜市を発着する高速バス路線が、急激に増えつつあった。
大部分は、東京発着の路線が開業した後に、同じ街に向けて、横浜からも開業するというパターンだった。
しかし、「ポセイドン」号は、東京からの高速バスがそれまで全く運行されていなかった山口県に向け、いきなり横浜を起終点にして開業したのである。
ただ、横浜だけでは心許なかったのか、パンフレットには、都心までのアクセスの良さも強調されていたことを、よく覚えている。
そこまでやるなら東京まで延長すればいいのに、と思っていたら、3年後の平成5年11月に、首都圏側のバス会社が相模鉄道バスから京浜急行バスに入れ替わり、品川を起終点にして、横浜経由で岩国・徳山に向かう「アルバ」号として生まれ変わったのである。
営業距離は、990kmであった。


よし、今度こそ、山口まで出かけるぞ──と大いに意気込んだ。

かつて、東京と広島を結ぶ「ニューブリーズ」号と、新宿と三原を結ぶ夜行高速バス「エトワールセト」号が、平成元年の3月と4月に相次いで開業した直後に、その2路線を使って広島まで出かけ、高速バスだけで東京から広島を往復できる時代になったかとの感慨を抱いたものだったが、その4年後には、直通高速バスで山口県まで往復できるようになったわけである。
先行して、東京から、山口県をすっ飛ばして福岡までを結ぶ「はかた」号が開業しているから、登場した時に1位と2位の最距離を更新した「ニューブリーズ」号と「エトワールセト」号に比べれば、運行距離の長さについての新鮮味が薄れていたのは、やむを得ない。


出かけたのは、平成5年の師走の週末である。
開業式典の時には同じ時刻でもまだ明るかったが、午後5時を過ぎれば、すっかり暗くなる季節になっていた。
品川駅港南口から第1京浜国道を北に5分ほど歩いた、品川バスターミナルを発着するのは夜行高速バスだけであるから、僕が着いた時は、待合室にたむろする客の数もまだ少なかった。

夜の訪れを告げる第1陣として、「萩エクスプレス」号が、のっそりと乗り場に姿を現した。
ちょっとばかり、拍子抜けがした。
この日の下り便は京浜急行バスの担当であったが、バスマニアの間では、「萩エクスプレス」の京急便にはデビューしたばかりの三菱ふそう「ニューエアロクィーン」が採用されていると話題になっていた。

昭和63年に三菱ふそうエアロバスシリーズの追加モデルとして発売されたP-MS729Sシリーズ「エアロクィーン」は、折しも高速バスの開業ブームと重なり、多くの会社で導入されて、生産終了までに800台近くが販売されたという。
昭和の終わりから平成の初めにかけて、丸みを帯びた前面と2つの大型灯が印象的な、パンダのようなマスクのバスを見かけた方は多いと思う。




平成4年にフルモデルチェンジされたのがU-MS821Pで、通称ニューエアロクィーンと呼ばれていた。
前照灯が細くなり、どことなく可愛げがあった旧タイプに比して、精悍になったフロントマスクを、僕は8ヶ月前の開業式典で初めて目にしたのである。
ニューエアロクィーンのエンジンは国内最大級のV型8気筒が搭載され、排気量は2万cc、馬力は400PSに引き上げられた。
355PSだった旧エアロクィーンが4速までシフトダウンしていた東名の御殿場越えを、5速もしくは6速のまま100km/時を維持しながら、余裕で登っていける、という噂も耳にした。
昭和40年頃に開発された、国鉄東名ハイウェイバスの出力が230~320PSであったことを考えれば、隔世の感がある。

従来の横3列独立シートのバスの定員が29名であるのに対し、「萩エクスプレス」用のニューエアロクィーンは28名であった。
日本最長距離を走る「はかた」号が、シートピッチを広げて最後部にサロン席を設けた定員23名のバスを投入し、「ドリームふくふく」・「ふくふく東京」号の車両は、定員30名でありながらも1階にサロンを備えた2階建てバス、そして「錦江湾」号が、サロンスペースは造らなかったものの「はかた」号と同じシートピッチの定員26名のバスを投入、1000㎞を越える路線は、いずれも長距離・長時間乗車に対する配慮が伺えた。
「萩エクスプレス」号の定員が1人少ないのは、29人乗りの横3列シート車で最後部の座席だけ横4列となっているところを、横3列にしたためである。
それだけ?──と思ったものだった。
1000㎞を超える高速バスも4本目となれば、至極当たり前になって、特別扱いはして貰えないのかもしれない。

京急バスの萩行きニューエアロクィーンには衛星放送受信システムが搭載され、衛星テレビ放送の他、St.GIGAによる衛星音楽放送も楽しめる、と聞いた。
平成初頭までの高速バスは、娯楽として、車載VTRでテレビやビデオ映画を流したり、マルチチャンネルステレオによる音楽や落語などの放送が定番であった。
ただ、当時のバスの衛星放送の受信映像は、従来より遙かにクリアであるものの、物陰やトンネルでは電波が途絶えて静止画像になってしまうことも少なくなかった。
この頃は衛星放送が現在ほど普及しておらず、新路線の車窓風景や、高出力エンジンの走り心地も含めて、僕は、色々と「萩エクスプレス」号の旅を楽しみにしていたのである。


しかし、この夜、「東京-萩」の標示を掲げて品川バスターミナルに入ってきたのは、日野ブルーリボン・グランデッカであった。
昭和60年代の中央高速線や、京急の夜行高速線などで、散々乗ってきた、馴染みのバスである。
僕は車両やエンジンのことはさっぱり分からず、上記の型式番号なども資料を見ながらチンプンカンプンなのであるが、車種の愛称くらいはわかる。
子供の頃は、町を走る乗用車の名前を友達と当てっこしたものだったから、車両に全く興味がないわけではない。
ニューエアロクィーンへの期待が大きかっただけに、目の前のブルーリボンを見た時には、何となく肩すかしを食った気分だった。
大抵の乗客にとっては、無事に目的地まで運んでもらえれば、どのようなバスが来ようとも関係のない話である。
ブルーリボンの定員は29名であるが、僕が指定されたのは最後部ではなく左側の7列目だったから、これも関係ない。
先の話になるが、サービスエリアでの休憩中に、乗客のおじさんが、

「今日は新しいクルマじゃないんだね」

と、一服していた運転手さんに話しかけていたから、気にする人は気にするのだろう。

「すみませんねえ、整備点検なんですよ」

と、運転手さんは苦笑いしていた。
運転手さんも、馬力のある新車を運転したかったのかもしれない。
旅行の日程を、運行担当会社まで調べて決めるわけではないし、防長交通の車両はニューエアロクィーンではなかったから、元々、新車に当たる確率は半分だったわけである。
しかも代車にめぐりあうとは、後に知人から、

「逆に貴重なクジを引いたということじゃないですか」

と大笑いされたのも、むべなるかな、である。


貴重な経験を共有する、その日の品川からの乗客数は10人に満たなかった。
定刻17時30分になると、「萩エクスプレス」号は、ターミナルの係員さんから、

「じゃあ、気をつけて」

という挨拶に送られて、ゆっくりと動き出した。

品川バスターミナルは、第1京浜国道の下り線側に建っている。
品川駅から泉岳寺駅にかけて地下に潜っていく、京急の線路の真上の敷地だという。
往復6車線の国道は中央分離帯で仕切られているから、次の浜松町バスターミナルに向かうために、道路を横断して上り線に直接入るわけにはいかない。
バスは下り線を少しだけ走って、新八ツ山橋で東海道線を跨いでから、新八ツ山橋東詰の交差点で東海道本線と京急線の間の側道に鋭角で左折、突き当たりの、品川駅東口方面から第1京浜に合流してくる都道へ左折し、三角形を描きながら第1京浜上り線へ戻る、という手間をかけなければならない。



昔、最後部に展望車を設けた特別急行列車が、大崎の貨物線を使って、編成を方向転換していたという歴史を思い出す大技ではないか。
3台以上の運行が常の品川発弘前行き「ノクターン」号などでは、隊列を組んだバスが、信号につっかえながら、次々と方向転換をしていく様が見られて、なかなか壮観であった。
品川発着の高速バスのほとんどが浜松町バスターミナルを経由するので、どうしてターミナルを上り線側に造らなかったのだろう、と、もどかしく思う箇所である。
もっとも、上り線の沿道には建物がひしめいているから、用地買収が難しかったことは容易に想像できるのであるが。

昭和61年に登場した「ノクターン」号や、昭和63年に開業した鳥取・米子行き「キャメル」号は、それぞれ、その時点での日本最長距離路線として君臨したものだったが、当時は、品川駅と国道を挟んで向かい合うパシフィックホテルを発着していた。
現在の品川バスターミナルが出来たのは、平成元年1月のことである。
品川駅は京浜急行電鉄のターミナルであるが、傘下の一般路線バスは、駅を発着する系統が1本もない。
他の私鉄のターミナルには見られないことで、非常に珍しいのではないかと思っていた。
一般路線バスではなく高速路線だけとは言うものの、品川バスターミナルが出来たことで、ようやく京急バスも品川駅に乗り入れたというわけである。

第1京浜上り線を走りながら、左手奥にそびえ立つパシフィックホテルを見やって、「ノクターン」号や「キャメル」号に乗った当時のことを懐かしく思い浮かべた。
「ノクターン」号の発車は22時だったが、鳥取行き「キャメル」号の発車時刻は午後7時30分、米子行き「キャメル」号は午後6時30分と、夜行バスとしては前代未聞の早い時間であり、それもまた、超長距離を走る夜行バスの貫禄に感じたものだった。
「萩エクスプレス」号の発車は、更に1時間も早い。
日が替わるまで6時間半もある。

第1京浜をするすると走り抜け、大門交差点を右折して、世界貿易センターにある浜松町バスターミナルで乗車扱いになる。
品川バスターミナルは駅から離れているが、ここは駅と直結しているので、乗りこんでくる人数が品川より多いのが常である。
20人ほどの乗客が席を埋め、乗車時のざわめきが収まったところで、「萩エクスプレス」号は更に都心に近づき、外務省や財務省(当時は大蔵省だった)の脇にある霞ヶ関ランプから首都高速都心環状線の地下トンネルに潜り込み、ようやく高速走行が始まった。

高速走行と言っても、このあたりは混雑がいつも激しいところで、つっかえながらの進み具合であるが、東京タワーをはじめ、夜景が綺麗な区間でもあるから、飽きはしない。
持ち込んだビールの栓をあけながら、先はまだまだ長いのに、こんなところで時間を費やしていて大丈夫なのか、とぼんやり思う程度である。

谷町JCTで分岐した首都高速3号線を西へ向かううちに、渋滞で減速する頻度が減り、るんるんと高鳴るエンジン音が一定に定まると、東名高速道路である。
水を得た魚のように速度を上げて距離を稼いでいく「萩エクスプレス」号の車内では、ガサゴソと弁当を広げる客もいる。
午後6時前の発車ともなれば、夕食の準備は必須であろう。

この日は1人客がほとんどで、誰もが押し黙ったまま、横3列独立席の中に閉じこもっているから、車内は深閑としている。
さすがに、リクライニングをいっぱいに倒して寝入ってしまう人は、まだ見かけなかった。
今ならば、携帯を開く人が多いのだろうが、当時は、音楽を聴いたり、本を読む人が多かった。
僕は、狭いシートで本を読むのが苦手だったから、カセットテープに仕込んだ音楽を聴きながら時を過ごす。
特に大きな荷物を持つこともない気軽な1人旅だから、高速バスに合うと思われる曲を自分なりに選んで、カセットに編集する作業が、旅の準備として唯一の楽しみだった。
それ以外に、何にもすることはない。
水銀灯に映し出される車窓を、ぼんやりと眺めているだけである。
何もしなくて良いというのは、貴重な時間だと思う。
何もしなくても、バスが走ってくれるのだから、目的地には向かっているというのは、大いなる進歩だと思う。
独立シートとは言え、手を伸ばせば届く範囲に他人が座っているわけだから、何かと気遣いに腐心する、張りつめた人間関係も存在している。
弁当を使うにも、飲み物の栓を開けるにも、大きな音や匂いがしないように注意は払う。
張りつめたような、まったりしたような、どっちつかずの空気が支配する消灯時間前の夜行バスの雰囲気が、僕は好きだった。

午後8時前後に滑り込んだ富士川SAの休憩までの記憶が殆どないから、居眠りでもしたのだろうか。
ブルーリボン・グランデッカの350PSのエンジンが、どのように箱根を越えたのかも、よく覚えていない。
夜行バスに乗ると、消灯後にも何度か短く目を覚まし、案外その記憶が後々まで残っていたりするものだが、それもない。
何だかんだで、酔っていたのだろうか。

記憶がはっきりするのは、翌朝の下松SAでの早朝休憩からである。
「萩エクスプレス」号は、深夜の東名・名神・中国道を走り抜け、広島自動車道から山陽道に乗り移って、瀬戸内に出てきていた。

時刻は午前5時30分であった。
あたりは真っ暗で、終点に着く2時間も前にどうして起こされなければいけないのかと、寝不足で多少ムッとしながらバスを降りた。
それでも、早朝の爽やかな冷気を吸い込みながら大いに身体を伸ばせば、そんな不機嫌さなどは瞬く間に消し飛んでしまう。
西日本の夜明けは遅い。
ここは、もう、山口県である。
遠くまで来たんだなあ、という喜びが、心の底からこみ上げてくる。

午前6時過ぎに山陽道防府東ICを降り、防府駅前で、最初の降車扱いをする。
暗がりに沈む防府の街並みを抜けて、バスは、北へ向かう国道 262 号線に舵を切った。
これから、日本海に面した萩まで本州を縦断していくのであるが、「萩エクスプレス」号は、その前に寄り道をしなければならない。
山口 IC 付近で中国道の高架をくぐった直後に、県道 21 号線に左折する。
この道は、かつての国道 26 号線で、萩往還と呼ばれている。
椹野川に沿って、山口の市街地を南から西へと大きく迂回し、国道 9 号線との交差点で右折、ホテルが建ち並ぶ国道上の湯田温泉停留所が2つ目の降車停留所である。
このあたりから、ようやく、白々と夜が明けてきた。
早朝の薄暗い温泉街は閑散として、夜の殷賑さとは対照的に、祭典の後の抜け殻のように見えてしまう。


大きな松が印象的な、中原中也記念館が左手に見える。
彼は、ここの出身だったのかと思う。
僕が好きな曲の1つである海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」は、中原中也の「頑是ない歌」にインスパイアされたことで有名である。

思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ

雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にいた

それから何年経ったことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追いかなしくなっていた
あの頃の俺はいまいずこ

今では女房子供持ち
思えば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであろうけど

生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこいしゅうては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質さが
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと

思うけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いずこ

思えば遠くへ来たもんだ、という感慨は、旅の距離感だけではなく、人生の振り返りとして胸に迫ってくることも少なくないと思う。

思い出すのは、1988年の映画「ミッドナイトラン」で、主役のバウンティ・ハンターを演じるロバート・デ・ニーロが、アメリカの砂漠でパトカーに追いかけられ、グルグルとハンドルを回しながら、

「Too close……but too far……」

と、しかめっ面でつぶやくシーンである。
近いと思っていたのに、色々と邪魔が入ってなかなか目的地に着けないことをぼやいているわけだが、吹き替えでは、

「遠くまで来ちまった……遠くに……」

と訳されていたから、セリフと、前後の場面との脈絡がつかめず、突拍子もなく思えて、逆に、強く印象に残ったものだった。
主人公が犯人を追いかけ護送するうちに、自分の人生を総括していくようなストーリー展開だったから、尚のこと、深い意味に聞こえたのだろう。
いきなりそこで人生振り返るか、と、意外に感じながら、中原中也や海援隊を思い浮かべたものだった。
翻訳者に振り回されたわけである。
それでも、中原中也や海援隊と一緒に、ロバート・デ・ニーロを想起するのは、決して不快というわけでもない。
吹き替えの方が好みだったりする。


湯田温泉を出た「萩エクスプレス」号は、国道9号線・山陰道を北東へ進むが、米屋町や西京橋、山口駅など山口市の繁華街は素通である。
湯田温泉も山口市と言えば山口市だが、開業当初のダイヤでは、東京行きの上り便は湯田温泉まで通過してしまっていた。
山口市内に停車する先輩路線の「ドリームふくふく」・「ふくふく東京」号に遠慮したのだろうか。

雑草の中に2本のレールが敷かれて朝日に鈍く光っているJR山口線が、右側から寄り添ってきた。
平野交差点で、防府からの国道 262 号線が合流する。
市街地の北の外れにある宮野駅前を過ぎ、椹野川に沿って北へ舳先を向けながら、国道 9 号線は、いよいよ山陰へと向かうべく山中へと踏み込んでいく。
曲がりくねった坂道と短いトンネルが断続する。
弱々しい冬の陽の光が、ようやく辺りに満ち始めて、窓外を流れる木々の緑が鮮やかに目にしみる。

龍門岳の南麓で、道路は T 字型に分岐し、右へ行けば山口線に沿って津和野方面へ向かう山陰道・国道 9 号線、左へ行けば萩往還・国道 262 号線である。
国道9号線と言えば、京都を起点にして山陰を東西に貫く長大な国道であり、下関まで日本海側を走るのかと思っていたのだが、萩の手前で内陸に逸れてしまうことを初めて知った。
一方、「萩エクスプレス」号の経路に何度も現れては消える国道262号線であるが、平野交差点からここまでが、9号線との重複国道なのか、262号線が途中で断絶しているのかはわからない。

このあたりが分水嶺でもあり、国道 262号線が単独になると、山口市から萩市へと市域も変わる。
起伏に富んだ山あいであることに変わりはなく、佐々並、落合、明木と、小さな集落が点在するだけである。
国道262号線に寄り添う佐々並川と小野山川の清流は、国道と絡むように山を下り、徐々に水量を増して、阿武川の本流となって日本海に注いでいく。
阿武川が、河口付近で橋本川と松本川の二股に分かれた、その中州に開けたのが萩の街である。

JR山陰本線は、用地の取得が難しかったのであろうか、中州に入ることを避け、ぐるりと市街地の南を迂回するから、中心駅である東萩駅は、市街地から松本川を渡った外側に位置している。
「萩エクスプレス」号の山口市からの進路は、山陽新幹線小郡駅(現・新山口駅)に接続する特急バス「はぎ」号と同じ最短経路であるが、東萩駅が終点の「はぎ」号と異なり、「萩エクスプレス」号は、中州の街なかにある、頑丈そうな屋根に覆われた萩バスターミナルに車体を横付けした。
ほぼ定刻の午前7時30分、14時間にも及ぶ夜行バスの旅は終わりを告げたのである。






萩の街はこぢんまりとして、ここから日本の夜明けが始まったとは思えないほど、ひっそりとしていた。
それでも、街並みを歩くうちに、並々ならぬ風格と気品を感じるのも確かである。
鎖国をしていた我が国の門扉を開き、世界の荒波の中に船出させたのは、この街に生まれ育った人々である。
同志であった薩摩の人々が、どこか成熟した老獪な印象がするのに対して、長州出身の人物像は、直情型で純粋で、感情移入しやすいように思えるのだ。

幕末を扱ったドラマは多いが、僕が好きなのは、司馬遼太郎原作の、昭和51年のNHK大河ドラマ「花神」である。
不思議と薩摩の人々の配役は記憶に薄いのだが、長州側は、主役の大村益次郎が中村梅之助、吉田松陰が篠田三郎、高杉晋作が中村雅俊、桂小五郎が米倉斉加年、山縣有朋が西田敏行、久坂玄瑞が志垣太郎、伊藤博文が尾藤イサオ、井上馨が東野英心など、まさに、はまり役が揃っていた。
萩の史跡を回りながらゆかりの人物を思いを馳せる時、どうしても「花神」の俳優さんの顔が脳裏に浮かんでしまうのである。


その後の100年間に及ぶ激動の歴史を振り返れば、日本人ならば誰でも、思えば遠くへ来たもんだ、という感慨にとらわれるだろうと思う。

「遠く経て来た日や夜の あんまりこんなにこいしゅうては なんだか自信が持てないよ」

「 さりとて生きてゆく限り 結局我ン張る僕の性質さが と思えばなんだか我ながら いたわしいよなものですよ 」


何だか名残惜しくなってきたが、僕は秋芳洞行きの路線バスに乗って、萩を後にした。
「萩エクスプレス」号とは比ぶべくもない古びたバスは、ギシギシと車体を軋ませながら、国道 490 号線で、やや西寄りに南下していく。
絵道交差点で県道 242 号線、いわゆる秋吉台道路に右折し、カルスト台地を南北に縦断する。


広大な台地は色あせた緑色の草原に覆われていたが、点々と所々に顔を出している白い石灰の奇岩を含めた光景は、他に類を見ないもので、ここが非常に特殊な土地であることを物語っている。
地表には、無数の石灰岩柱とともに多数のドリーネ(擂鉢穴)を有するカッレンフェルトが発達し、地下には秋芳洞、大正洞、景清穴、中尾洞など400を超える鍾乳洞があるという。
南北方向に約16kmもの広がりがあり、総面積54平方キロに及ぶ秋吉台のカルスト台地が、1つの石灰岩の大地塊から成るというのだから、驚きである。
厚さは西端で50~200m、東北端で1000m以上に達する。

この台地の南端にあるのが、秋芳洞である。

秋芳洞バスターミナルは、小郡・山口、萩、青海島、下関方面からのバス路線が集まる要所になっている。
長年、この地域の輸送を担ってきた年輪を感じさせる旧型のバスが出入りする様を見れば、心が和む。





秋芳洞では、カルスト台地に降り注いだ降雨が石灰岩に染みこみ、地中に刻み上げた自然の芸術に、目を奪われっぱなしだった。
幅15m・長さ100mの地下川である「長淵」、幅80m・長さ175mの巨大な洞内空間である「千畳敷」、世界的にも知られている一群の畦石池からなる石灰華段である「百枚皿」、直径約5mの巨大な石柱の「洞内富士」、天井から沢山の鍾乳石が傘のようにぶら下がっている「傘づくし」、鍾乳石と石筍がつながって天井を支えているかのような「大黒柱」、高さ約15mの巨大な石柱状フローストーンである「黄金柱」、無数の鍾乳石が天井からぶら下がっている「五月雨御殿」──
ひたすら圧倒され、ひんやりとした洞内の冷気をいつしか忘れて、出口にたどり着いた時には、身体も心も火照ったように感じたものだった。










再び路線バスに乗り、秋吉台から東へ向かい、大田中央バス停に寄ってから、国道435号線で再び中国山地の山越えに差しかかった。
日本の道を地図と照らし合わせながら走ってみると、どこも、川をうまく利用した道作りだと感心する。
川に沿って山々を詰め、あまりに川の蛇行がひどかったり、目的地と違う方向へ流れ出したら、峠道やトンネルで山を越えていくのだ。
秋吉台付近の美祢市は、宇部に注ぐ大田川の流域だった。
山口市は、山口湾に注ぐ椹野川の流域であり、 2 つの川の支流と支流の間にそびえる鼓ヶ岳を、国道 435 号線は長いトンネルで抜けていく。
マイカーを運転していては、道路を走りながら地図と首っ引きになることは出来ない。
地図を広げて地形を吟味しながらの道行きは、バス旅の醍醐味である。

細長い扇状地を駆け下り、バスは湯田温泉の南に出て、国道 9 号線で山口市街へ向かった。
こうして日本海側から遙々と山を越えて来れば、内陸の印象があった山口は、決して山中の街ではないと思う。
海は想像していた以上に近い。

山口市内をゆっくり歩き回るのも初めてだった。
県庁所在地でありながら、港湾都市として栄えた下関や、重化学工業で栄えた宇部、徳山、岩国に比べて、経済的には小規模で、日本では珍しくブラジリアやキャンベラのような政治・行政・文化に特化した都市なのである。
人口は 20 万人に満たず、鳥取や甲府、松江にも抜かれて最下位であるが、戦国時代には、応仁の乱から逃れてきた中央の文化人を迎え、「西の京都」と呼ばれるほど栄えたという。
海外との交流も盛んで、 1552年12月24日に、山口の宣教師が司祭館に信徒を招いて祝ったのが、日本のクリスマスの発祥とされている。
関ヶ原の戦いで西軍に与した毛利氏を藩主とする長州藩は、山口に居を構えることを幕府から許されず、裏日本の萩に封じられた。
幕末には藩庁を萩から山口へ移し、討幕運動の拠点となったのである。藩校である明倫館は現在の山口大学の祖であり、跡地には県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備され、一帯は教育・文化の中心としての景観が整っている。
緑豊かで洗練された街のたたずまい全てが、まるで総合大学のキャンパスを思わせて、心が和んだものだった。


去りがたい思いは尽きないけれども、そろそろ帰らなければならない。
東京への長い帰路の最初の走者は、湯田温泉発徳山駅行き高速バスである。
僕は、山口から湯田温泉まで1駅だけ列車に乗り、中原中也記念館に寄ってから、道端の案内所でバスを待った。
徳山行きのバスは、市街地の南に位置する中国道山口ICに入り、いったん下り線を走り出す。
おやおや、と一瞬びっくりするが、山口JCTで山陽道上り線に乗り換えて、徳山へ向かうのである。

早くも黄昏が車窓を覆いつつあった。
徳山付近と言えば、山陽本線では、瀬戸内の景色を堪能できる区間として有名であり、東京発の寝台特急列車で夜明けを迎えた時の楽しみでもあった。
末期の寝台特急では食堂車も廃止されていたから、徳山駅で乗り込んで来る弁当売りも忘れがたい。
山陽自動車道からも瀬戸内海が見えるのかも知れないが、徳山行きのバスからは暗くて何もわからなかった。
全ての景色が、一礼して幕の中に去って行く舞台役者のように、闇の中に溶けるように消えていく。

徳山西ICで高速を降り、バスは国道 2 号線を東へ進む。
コンビナートで有名な徳山は、この旅で最も情緒とかけ離れた印象だったのだが、徳山駅前のロータリーは、こんもりと繁った背の高い木々に囲まれた街並みに潤いを感じて、意外だった。




18時45分発の岩国経由徳山行き「アルバ」号が駅前に姿を現した時には、かろうじて薄暮が残っていた。
東京ならば真っ暗な頃合いである。
明日の朝には仕事に戻らなければならないのに、日没時間がこれほど東京と差がある遠くの街で、まだ愚図愚図していることが、無性に心細くなっていた。
まさに、

「遠くまで来ちまった……遠くに……」

という心境である。

徳山駅前の街の灯は暖かかったが、用もないのにバスに乗りまくっている僕にとっては、彼岸のことだった。
日常生活では満たされない何かを求めて旅に出てきたはずなのに、この期に及んで、その日常がこよなく懐かしい。
紀行作家の宮脇俊三氏が、自らを「時刻表の極道者」と、自嘲気味に呼んでいたことを思い出す。
既に東京行きの最終の新幹線は出た後だったけれど、間に合うならば、「アルバ」号の乗車券なんぞうっちゃって、飛び乗ってしまったかもしれない。

それだけに、「東京・横浜」との標示を掲げた、カラフルな塗装の防長交通バスが目の前で扉を開けた時には、心から安堵したものだった。
車種は日野セレガGD、出力は380PSで、ニューエアロクィーンには及ばないが充分に強力なエンジンを備えている。
東京まで、力強い走りを味わわせてくれることだろう。
防長交通の高速バスには、山口の名所のイラストと英語の説明文が車体側面に描かれて、なかなか手の込んだ塗装になっている。
「アルバ」号の横浜到着は明朝7時15分、品川バスターミナルには8時01分着の予定である。
東名横浜ICから保土ヶ谷バイパス、そして首都高速横羽線などの朝の渋滞に巻き込まれないか、ちょっぴり心配になる運行予定であるが、少しくらい遅れようとも、そんなことは些細なことだった。

このバスに乗れば、間違いなく東京へ、日常生活へ連れ戻してもらえる──

スペイン語で夜明けを意味するという「アルバ」の名を冠した夜行高速バスで、今でも真っ先に思い浮かぶのは、徳山駅前の暗い停留所でバスの巨大な車体を見上げながら感じた、この安心感なのである。



この旅の5年後の平成10年3月、「アルバ」号は「萩エクスプレス」号に統合され、運行形態は品川・浜松町-岩国・徳山・防府・湯田温泉・萩となった。
乗客数が、2本の路線を維持するには不足していたのであろう。

平成15年3月には、山口宮野にバス停を新設し、山口市内の停留所が1つ加わった。
平成19年8月には、京浜急行が運行担当から離脱し、東京側の発着地が品川・浜松町から東京駅に変更された。
同時に、山口側の停留所も更に増えている。


現在の運行経路は、東京駅-大竹IC入口・岩国駅前・玖珂IC・熊毛IC・徳山駅前・防府駅前・山口宮野・山口西京橋・湯田温泉・大田中央・萩バスセンターである。
山口市の中心部を含めて、随分とこまめに停まるようになったものと、感心してしまう。

「萩エクスプレス」号より長距離を運行していた「錦江湾」号は平成8年に、「ドリームふくふく」・「ふくふく東京」号は平成18年に、それぞれ姿を消した。
平成23年には、日本最長距離路線として、大宮・池袋・横浜と福岡を結ぶ「ライオンズ・エクスプレス」号が走り始めたが、僅か4年後の平成27年5月に早々と廃止されてしまった。
紆余曲折が激しい長距離高速バス業界にあって、「萩エクスプレス」号は、「はかた」号に次ぐ長距離路線として、今も君臨している。
山口県内で100kmを超える一般道の区間があり、停留所の数も多いことから、東京と萩の間の所要時間は約14時間30分にも及び、「はかた」号の14時間20分をしのぐ長時間路線でもある。

首都圏と山口県の広域を直結する貴重な交通機関として、開業から20年以上を経た現在に至るまで、進化しながら走り続けている実績には拍手を送りたい。



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