東京発下関行きふくふく東京号~豪華2階建て夜行バスで本州最西端へ1093.2kmの一夜~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京駅八重洲口バスターミナル、午後6時20分──

小雨混じりの寒風が吹き付ける中を、次々と出発していく各方面への高速バスの利用者と、家路を急ぐ会社員が交錯して、構内には慌ただしい昼間の顔が残っていた。
それを一掃して夜の訪れを告げるかのように、1台のダブルデッカーが乗り場に横付けされた。
車体側面に、波に踊るフグがユーモラスに描かれた、山口県にあるサンデン交通の夜行高速バス「ふくふく東京」号の登場である。
サンデン交通とは耳慣れない会社名であるが、昭和元年から47年まで、下関で路面電車を運行していた山陽電軌が前身の、由緒ある事業者なのである。
 


「お待たせしました。下関行きです」

1階の中扉から降りてきた運転手さんの挨拶と、

『ただ今、1番乗り場に入線中のバスは「ふくふく」号山口・下関行きです』

という案内が重なり合う騒がしさの中で、未知の土地に旅立つ興奮が、僕の胸中を風のように駆け抜けた。

この路線は、夜行高速バスで初めて2階建てバス、つまりダブルデッカーを採用したことで知られている。
ダブルデッカーを眺めるだけで、僕はワクワクしてしまう。
子供と同じじゃないかと笑われそうだが、注目度が高いからこそ、最近では、ダブルデッカーを使った広告が街路を行き交うようになったりしているではないかと思う。
はとバスなどでも、ダブルデッカーを売りにしているコースがあるくらいなのだ。

見上げるように背の高い車体のてっぺんには、ずらりと2階席の窓が並び、眺望は素晴らしいだろうなと大いに期待してしまう。
その下には、後方をエンジンルームに占められているため、前側3分の2程度しかない1階席の車室があり、乗用車とほとんど変わらないのではないかと思うほど低い位置に窓がある。
ダブルデッカーを製造するメーカーは限られているが、どのバスも、がっしりとした武骨なスタイルで、僕好みである。
車重を分散させるため、ダブルデッカーの殆どが3軸の車輪であるのも、小さい頃から憧れ続けたアメリカの大陸横断バスを彷彿とさせて、これまた好ましい。

 


日本で初めてダブルデッカーを走らせたのは、2階建て特急電車「ビスタカー」で有名な近鉄が、昭和35年に日野自動車に発注した「ビスタコーチ」であると言う。
僕が子供の頃には、乗り物の絵本や図鑑などに必ず取り上げられて、胸を踊らせたものだった。

2階建ての貸切バスには乗った経験がないから、僕のダブルデッカー乗車歴は、路線バスに限られる。
初めて乗ったのは、昭和53年に開業した、上野広小路と浅草を結ぶ都営バスの「二階01」系統であった。
いかにも直接的な系統名であるが、大学に入るために上京してきたばかりの僕は、路線バスにダブルデッカーが使われている東京とは、何と凄い街なのか、と驚愕したものだった。
距離にして4.6km、乗車時間は僅か20分足らずで、誠にあっけなく僕のダブルデッカー初体験は終わってしまい、物足りない思いがしたのだけれど。

 

 

 


その後、横浜駅から、平成元年に開通したベイブリッジのスカイウォークへ行く、横浜市営バス「ブルーライン」や、東京駅からディズニーランドへ向かう国鉄バス(後にJRバス関東)と東京空港交通が共同運行する「ファンタジア」号にも、続け様に乗りに行った。

 

 

 

 

 

 


「ブルーライン」を降りてからは、道路の下に伸びるスカイウォークを歩いて、横浜港や、対岸のみなとみらい地区まで見晴らす眺望を堪能したから、橋の途中で引き返す構造にちょっぴり物足りなさを感じながらも、バスが運行される目的通りの乗り方をしたわけである。
ダブルデッカーが走っていなければ、僕はスカイウォークまで出かけたかどうか、わからない。
「ファンタジア」は、2階席から眺めた首都高速の都市景観に心が躍ったが、ダブルデッカーに乗ることだけが目的だったので、ディズニーランドには入らず、上野行きの高速バスに乗ってとんぼ返りしてしまった。

この頃の日本を走っていたダブルデッカーは、ほとんどがドイツ・ネオプランなどの外国製であった。
長崎と佐世保を結ぶ高速バスにも使われている写真を見て、羨ましかった記憶がある。
昭和60年代に日野自動車が「グランビュー」というダブルデッカーを製造し、北海道などの高速バスで使われた写真を見たこともある。
無性に乗りたかったのだが、TDLやベイブリッジなどと違って、さすがにダブルデッカーに乗るために北海道や九州まで出かける余裕はなかった。

 

 

 

 

 

 

 


夜行バスで初めてダブルデッカーを体験したのは、平成3年に開業したJR東海バスの夜行高速バス「ドリームとよた」号だった。
車両は、ふそうの「エアロキング」である。
夜行バスだから、景色は殆ど見えない。
ある評論家から、2階建てバスは天井が低くて居住性が劣るが、背もたれを倒して眠ってしまえば関係ないだろう、などと、褒められているのか貶されているのかわからない言われようをされてしまい、事実その通りだったのだが、それでも、乗っているだけで楽しく、他のバスとは異なる味わいがあることは確かだった。
普通のバスより定員を増やすことができるから、バス事業者にも重宝されて、首都圏と中京・関西圏など、需要の多い夜行高速路線を中心に、ダブルデッカーはあっという間に広まっていったのである。

ダブルデッカーの乗降口は前方と中央の2ヶ所にあるが、乗客の乗り降りは、中央の扉で行うのが常だった。
「ドリームふくふく」号の改札を受け、扉のすぐ右手にある狭い螺旋階段で、首をすくめながら2階へ上がると、思わず腰を屈めたくなるほど天井が低い。

 

 

 

 

 

 

 


僕に指定されている席は、前から2番目の左側だった。
ずらりと並ぶ横3列独立シートの間をすり抜けながら席につくと、前の席の頭上にある時計やテレビを納めた出っ張りが、案外圧迫感がある。
ただでさえ限られたバスの空間を上下に2分割しているから、網棚が中央列の席の頭上にあったり、テレビが小型化されていたり、他のバスには見られない工夫が見られる。

目立つのは、監視カメラである。
以前、ダブルデッカーは運転席から客室を見ることができないという理由で、運輸省がワンマン運行を禁じていた時代があた。
バス事業者の陳情により、監視カメラを設置することなどを条件に、ようやくワンマン運行が認められたという経緯があるから、ダブルデッカーの2階席に監視カメラは必須となっている。
ギョロリと目を剥いたように壁に埋め込まれたカメラの丸いレンズを目にすると、僕は、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」で、人間に反旗を翻したコンピューターHAL9000を思い出してしまう。
いきなり「私を殺そうとしたね、デイヴ」などという無機質な声が聞こえてきそうで、決して気持ちのいいものではない。

 

 

 


そのような妄想はさておき、視線を窓外に転じれば、高く広い眺望は素晴らしく、見慣れているはずのターミナルの雑踏が、なかなか新鮮で面白かった。
窓1枚を隔てて日常から隔絶された自分を、強く意識する瞬間でもある。

不意に、窓の景観が後ろに流れ始めた。
時計を見ると、18時30分定刻である。
2階はエンジン音が殆ど聞こえず、運転手さんの姿も見えないから、何の前触れもなく発車したように感じて、少し驚いてしまう。

この日の乗客数は15人ほどで、空席が目立った。
宝町ランプから首都高速都心環状線に入っていく「ふくふく東京」号の車内では、中央から窓際へ、または足元が狭い最前列から後方の席へと移る人も見受けられた。
僕の前の席に座っていたおばあさんも、手荷物を全てまとめて後ろに移っていったので、僕は最前列に移り、フロントガラスに顔をくっつけながら車窓を楽しむことにした。
まだまだ宵の口ですらない。
この最上の特等席で過ごせるならば、少しばかり足元が狭くても、全く気にならない。

都心の巨大なビル群には明かりが煌々と点いて、中で働く人々の姿が手にとるように見える。
ビルの谷間を縫う高速道路の濡れた路面に、ヘッドライトが映えてキラキラと輝いている。
バスの前後左右をびっしりと囲んだ車は、少しでも他者より先に進もうと血眼になっている。
イライラ、焦り、もどかしさが、排気ガスと一緒に狭い高速道路から溢れんばかりに立ちこめて、誰もが神経をすり減らしながら疾走している。
そのような無秩序の中を、乗客の安全という重責を背負いながら巨大なバスを操る運転手さんの苦労は、並大抵のものではないだろう。

東京ICから東名高速に入ると、道幅が3車線に広がって、バスの速度も上がった。
このハイウェイは、西へ、西へと一直線に伸びている。
平成4年の師走の週末、「ふくふく東京」号は、本州の最果てに向けて、1093.2㎞に及ぶ夜間航海へ船出したのである。
「ふくふく東京」号は、新宿と福岡を結ぶ「はかた」に次ぐ、当時、日本で第2位の営業距離のバスであった。
その後に開業した、名古屋と鹿児島を結ぶ「錦江湾」号や、大宮と福岡を結ぶ「ライオンズ・エクスプレス」に営業距離を抜かれたが、今でも高速バス史上4位の地位に輝いているのだ。
僕のダブルデッカーの初乗りが4.6kmであったことを思えば、夢のような進化だと思う。
運行事業者はJRバス関東とサンデン交通バスで、愛称も微妙に異なり、前者が「ドリームふくふく」、後者が「ふくふく東京」である。
いずれも、下関名物のフグを路線のアピールに採用している。

 

 

 


「ふくふく東京」号は関東平野を一気に走り抜け、箱根越えに差し掛かった。
きついカーブが連続する頃になると、雨脚が激しくなり、2階のフロントガラスでも大きなワイパーが動き出した。
車高が高いことで心配していた横揺れは、大したことはなかった。
対照的にピッチングが激しく、道路の継ぎ目を越える時などは、かなり上下に身体が揺さぶられて、暴れ馬に乗っているような乗り心地である。
ちょうど東名の拡張工事が済んだ頃で、3車線の上り線が新たに建設され、下り線は、これまでの上り線と従来の下り線を併せて4車線に増えている。
3本の高架道路が絡み合いながら、険しい山峡を越えていく様は、山肌に大蛇が巻きついているかのようだった。
この時間になると、ハイウェイの主役は夜行トラックで、巨大なタイヤから水しぶきをあげながら、バスを追い抜いていく。

一服したくなって立ち上がった瞬間、天井の出っ張りにゴツンと頭をぶつけてしまった。
狭い階段を降りれば、1階は定員9人のサロン室になっていて、電話、自販機、洗面所やトイレが設けられている。
他の夜行高速バスの1階車室は、座席として定員増、つまりは増収に貢献していることが多いから、「ふくふく東京」号の設備は破格である。
定員、つまり収益を多少犠牲にしてでも、長距離・長時間乗車を快適に過ごせるスペースを設けたバス会社に、拍手を送りたいと思う。

 

 

 


サロン室では、孫の顔を見てきたというおじさんに缶ビールを御馳走になったり、実家へ帰省する女子大生と話が弾んだ。
バスの車内で、これほど他の乗客に気兼ねなく喫煙できたことはない。
若い女性が細巻きの煙草をくゆらせている姿を、バスで見ることが出来ようとは思いも寄らなかったし、なかなか良い風情である。

「バスはええよ。安いし、乗り換えはないし、東京へ行く時にはいつも利用しとるんよ」

と、赤ら顔のおじさんがほろ酔い加減で強調すれば、女性はやや冷めた表情で、

「でも、私の友達はみんな飛行機か新幹線ですよ。大学の友達に『今度バスで帰る』って言ったら、気の毒みたいに思われたんですよ。『お金、苦しいの?大変ねえ』なんて心配されちゃった」
「うーん、今時の学生さんは金持ちやからなあ」

と、おじさんは天を仰ぐ。

「困ったお友達ですな」

と僕が苦笑いすると、女性は我が意を得たかのように身を乗り出した。

「でしょ?でしょ?──どうせ、急ぐことなんて何にもないし、夜行明けでも家でシャワー浴びればさっぱりするし、飛行機代とバス代の差額で、何か美味しいものでも食べた方が得だと思うのよね。分かってくれます?」

 

 

 


灯が点在するだけの闇の中を走りこみ、午後11時頃、愛知県の上郷サービスエリアで15分の休憩をとった。
席に戻る時に、再び頭をぶつけてしまい、呻いている間に消灯時間が来て、交替運転手さんがカーテンを閉めて回った。

バス旅に出かけると、興奮のためか、どうしても眠る時間が遅くなりがちだ。
おかげで旅先の肝心なところで睡魔に襲われて、後悔する羽目になる。
だから、下関までしっかり寝るぞ、と心に決めていたけれども、東京から西行きの夜行に乗ると、大抵、名神高速の逢坂山あたりで自然に目が覚めてしまう。
その夜も、ふと起き上がってカーテンの隅をめくると、「京都南出口」という標識が後ろに飛び去っていった。

それでも、どれくらいまどろんだことだろうか。

車内に明かりがともり、瞼をこじ開けられるように目を覚ました。
まだ外は真っ暗だが、バスは停まっている。

「おはようございます。ただ今、バスは下松サービスエリアに到着しております」

という囁くようなアナウンスが、既に山口県に足を踏み入れていることを告げた。
下松SAは、徳山東ICの手前である。
眠っている間に、「ふくふく東京」号は、東名・名神・中国道を走破し、広島岩国道路を経て、当時は部分開通だった山陽道に入っていたのである。
雨はやんでいて、駐車場のアスファルトも乾いていた。

うす明るくなった山陽道を防府ICで降り、国道262号線を北上する。
最初の停留所は、山口市随一の繁華街、米屋町だった。
山口市へ来たのは初めてだった。
窓外はまだ暗闇の底に沈んでいて、街並みを伺うことはできない。
出迎えに来た数人の他に人影はなかった。

今でこそ山陽新幹線に新山口駅があるけれど、昔は小郡駅と言って、山口市内の駅ではなかった。
小郡町と山口市が合併したのは平成18年のことである。
最寄りの空港も、リムジンバスで1時間ほどかかる宇部にあり、瀬戸内の表街道から内陸に引っ込んでいる山口市には、東京や大阪からの直通交通機関はなかった。
平成元年に大阪阿部野橋から萩行き夜行高速バス「カルスト」号と、梅田から下関行き夜行高速バス「ふくふく大阪」号が同時に開業し、山口市でも乗り降りできるようになった。
平成3年に、東京からの「ふくふく東京」号が走り始めたことで、山口市は初めて、乗り換えなしで東京と行き来できるようになったのである。

国道9号線を数㎞ほど進み、ホテルが建ち並ぶ湯田温泉で数人の乗客を降ろしてから、再び中国道に戻り、今度は美祢バスストップに停車する。
小月ICを出て、国道2号線上にある小月局前バス停、長府鳥居前バス停と、山口県西南部の町々を目まぐるしくたどるうちに、長い冬の夜もすっかり明けていった。

美祢や小月のあたりは、山々の狭間に停留所が立っているだけだったが、やがて、道路沿いに家々が建てこみ始めた。
町工場や商店なども目立つようになり、バス停では、路線バスを待つ人々が、横付けされる「ふくふく東京」号の巨体を、おっ!と仰け反るように見上げる。
こちらは、2階最前列の席から、皺が寄った服も伸ばさないまま、寝ぼけまなこで見下ろしている。
昨夜の東京とはうって変わって、見事な青空が広がり、窓から射し込む日の光が眩しい。

周防灘に沿って海岸線を進むと、左手の目と鼻の先に、緑に覆われた九州の地が迫り、前方には、関門大橋が流麗な姿を現した。
その下では、日本3大急流の1つである早鞆ノ瀬戸が、ここで滅びた平家の怨念を表すかのように白く渦を巻き、岬に立つ巨大な電光掲示板が、様々なサインを行き交う船に送っている。
まさに、ここが本州の果てなのだと、目に入る風景全てが主張している。
遠くまで来たなあ、と思う。
バスに乗ってはるばる来たのだから、飛行機や新幹線に比べて、その感慨はひとしおである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山裾に建つ関門人道トンネルの入口と、松林が並ぶ海岸沿いの壇ノ浦古戦場公園の間を走るうちに、国道の右側に連なっていた山陵の斜面がぐいぐいと迫ってくる。
のしかかって来るような関門大橋の雄姿を、首が痛くなるほどに見上げながら、その下をくぐり抜ければ、いきなり左右に市街地が開けて、車窓が賑々しくなった。
日清戦争の講和条約が締結されたと言う春帆楼と、派手な社殿が丘の上に垣間見える、安徳天皇を奉った赤間神宮を右に見ながら、河豚の競りで有名な唐戸市場を過ぎると、長旅の終点は近い。

下関駅前は大規模な工事中だった。
平成11年9月に起きた通り魔事件や、平成18年1月の放火事件で全焼する前の、穏やかなたたずまいの駅舎の時代である。

「ふくふく東京」号は、輻輳する地元の路線バスに遠慮するかのように、臨時のバス停で慌ただしく僕らを降ろし、あっという間に姿を消した。
14時間以上に及ぶ長旅だったけれども、あまりにあっけない幕切れに、僕はなかば呆然として、バスを見送った。

 

 

 

 

 


「ふくふく東京」・「ドリームふくふく」号のその後は、決して順風満帆とは言えなかった。

ダブルデッカーを投入した事業者の意気込みは評価したいが、普通の人ならばためらうくらいの長距離・長時間乗車であり、決して流動が多い区間でもなかったのかもしれない。
ダブルデッカーは維持費がかかると聞く。
平成8年の車両更新時に、ダブルデッカーの採用は見送られ、JRバス関東のバスは、後部のみ2階建て構造のいわゆるセミダブルデッカーであるボルボ・アステローペに変更された。
それでも、後部の階下席はサロン室として活用されていた。
サンデン交通バスは、平成10年に、一見、平凡なスーパーハイデッカータイプの車両を採用したから、外見を見ただけでは、えらく格下げしたものだと愕然としたものだった。
それでも、「はかた」号の初期車両のように、後部にサロン席を設置していたと聞く。
「はかた」号などは、いつしかサロン・スペースを廃止してしまったものだったが、「ふくふく東京」・「ドリームふくふく」号は、最後まで、くつろげるフリースペースに拘る姿勢を見せてくれていたように思う。

 

 

 

 

 

 


一時は、東京から下関までノンストップの直行便も多客期に運行されていた。
山口県だけでなく、関門トンネルをくぐる鉄道を乗り継いで、北九州からの利用者も少なくなかったと聞く。

だが、平成12年にJRバス関東が撤退し、代わりに中国JRバスが担当し始めた頃から、衰退が目に見えてきた。
ボルボ・アステローペも運行からはずされて、サロン室のないバスに置き換わった。
長いデフレ不況の影響で、高速バスの乗客は豪華さよりも廉価さを求めるようになり、航空運賃の値下げも逆風となって、車両に投資することがままならない時代になってきたのである。

 

 


平成17年には横浜駅を経由するなどのテコ入れ策が講じられたが、同時に、ノンストップ便の運行が中止された。
平成18年11月いっぱいで、寂しいことに、路線そのものが廃止されてしまったのである。

我が国で最後までダブルデッカーを製造していた三菱ふそうも、平成22年8月をもって生産を終了している。
ふと気づけば、高速バスでも、ダブルデッカーが少しずつスーパーハイデッカーやハイデッカー車両に置き換えられているのは、如何ともしがたい時の流れなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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