第8話
昭和20年8月
トリの夫冨田信男は満州で終戦を迎えた。
中国に満州国を建国しアジア大陸に置ける対ソ連作戦を担ってきた関東軍の、彼は名も無き一兵士
であった。
8月28日の武装解除命令から、信男がどのような経緯どのような経路で日本へ帰国できたのかは分かっていない。
当時、満州国で終戦を迎えた日本兵の実に60万人近くがソビエト軍によって拘束され、最長8年間にも及ぶシベリア抑留という過酷で悲惨な運命を辿ったことを考えれば、命からがらでも無事に故郷へ帰還できたことは僥倖の一言に尽きるであろう。
冨田信男の関東軍における師団・所属部隊等の
詳細は不明である。
ただ数少ない信男の遺品の中に満州国で撮ったと思われる馬に乗って腰に立派なサーベルを付けている写真が残されていることから推測すれば、そこそこの地位に付いていたのではないかとも思われる。
戦時中、信男は満州から何通もの葉書をトリ宛に送っていた。筆者も子どもの頃、母とトリおばあちゃんと一緒にその葉書やボロボロになった小さな手帳を見た記憶がある。
万年筆で綴られた文字はどれも見事な達筆であったが、子ども心に目を奪われたのは、祖父信男が葉書の狭いスペースに描いていた異国情緒ただよう
風景スケッチの数々であった。
大河に浮かぶ小舟や、牛を引く農夫や、
大きな嘴を持った珍しい鳥や、
それは激しい戦争中だということを微塵も感じさせない穏やかで平和な日常風景だった。
「あん人は、あげな堅物に見えとっても
絵心はあらしたとよ」
トリは葉書を優しく撫でながら懐かしそうに呟く。
「無口な人やったけど、弁も立つし頭もそりゃ
良うござった、、、ただ
戦争から帰りんしゃってからくさ、なんや気が抜けたように、、
人が違ごうたように、、」
帰還した元日本兵の多くが帰国後の職探しに苦労する中で、信男は運良く警察官の職を得た。それが彼に相応しいものだったのか、あるいは生き甲斐を
感じられる仕事だったか、は
今はもう知る由もない。
戦後の混乱の中、それでも少しずつ世の中が復興の手がかりを掴みかけていた矢先、信男は路面電車に轢かれて呆気なく逝ってしまった。
「もうくさ、あん時だけはこの世に神も仏も無か!
って、思うたばい」
往年のトリはよくそう口にしていた。
小学6年生だった京子と、小学校に入ったばかりの愼二郎、そして生後1年たったばかりの由紀子。
食べ盛り育ち盛りの3人の子どもを抱えて
一人残されたトリの本当の戦争は
ここから始まるのだった。
つづく
(この物語は事実を元にした創作です。
登場人物の名前は全て仮名です)