第7話
冨田家は福岡藩藩主黒田家に代々仕えてきた
士族の家系である。
福岡藩は筑前藩と呼ばれることもあるが、
生粋の博多っ子は尊敬と親しみを込めて黒田藩と
いう言い方を好む。
初代黒田長政から12代長知まで
270年の長きにわたり筑前の国を治めてきた
50万石の大大名である。
冨田家の【冨】はウ冠の【富】ではなく
冠に「ヽ」のない【冨】の文字を使うことで
士族の証しとしてきたらしい。
筆者自身も生前のトリからその話しを直接聞いた
記憶があり、それを僕に語る時のトリおばあちゃんの誇らしげな表情を懐かしく思い出すのだ。
トリ自身は平民の出である。トリの二代上の姑
キヨが冨田家が初めて町家から迎え入れた嫁であった。キヨは博多小町と呼ばれるほど美しい娘だったらしい。美しい上に気立てもすこぶる良かった。そのため一目で惚れ込んだ若き冨田の当主が周りの反対を押し切って嫁に迎えたのだと伝えられている。
トリは最晩年のキヨを世話して何度か墓参りに行ったことがあるという。一緒に暮らしたことはなかったが、着物の着こなしから髪の結い方、そして線香を墓に供えて手を合わせるその姿、その所作、
全てが、ただただ美しかった。
さすがは武士の嫁さんばい!
と
女ながらに見惚れてしまったくさ!
と
トリおばあちゃんは、まるでそれが昨日の出来事のように僕に語ってくれたものだ。
冨田家の墓は福岡市博多区千代町の崇福寺にある。
臨済宗大徳寺派崇福寺
藩主黒田家の菩提寺として知られるこの名刹の墓所に眠れることを、トリは何よりも嬉しく誇らしく思っていた。
「黒田のお殿様とおんなじとこに眠れるとばい。
こんなありがたいことは他になかくさ!」
と、トリは事あるごとに楽しげに嬉しげに、まるで来月どこかの温泉旅館に行くみたいな陽気さで語っていた。
「まーた、おかあちゃんの墓自慢が始まった」
京子も愼二郎もトリのその話しが始まると必ず茶化して笑った。
「千代町の崇福寺さんの墓所のすぐ横に冨田の元々の家があったとよ」
「うんうん」
トリがお墓の話を始めると必ず千代町の話しになることを京子も愼二郎も分かっている。何度も聞いてきた話しだが、それでも2人は初めて聞いたように相槌を打ちながら耳を傾けるのだった。
「先代が建てござった木造二階建ての立派なお屋敷でくさ、うちがお嫁にきたときは本家は別なとこに移っとらして、ほら、崇福寺の隣りが九大の医学部やろ?あそこの学生さんば何人も下宿させとったとよ」
下宿させていた医学生の面白おかしい話しが一通り終わったところで京子は母に聞く
「なんで唐人町に移ったと?」
京子もまた心得たもので、母の話しに合わせての定番の質問を答えはもちろん知っていても何かの約束のように繰り返す。
「あの戦くさ。
あの戦争んときの空襲で、千代町から天神からいっぺんに燃えてしもうてね、崇福寺さんの広い広い伽藍もぜーんぶ燃えてしもうて、ほんなことあれは地獄やった。この世の地獄。冨田のその家は運良く燃えんかったとけど、もうこの辺りには住めんばい思うてそれで知り合いを頼って唐人町に来たとよ」
「そんうち、あんたたちにもあの家の中ば見せて
やりたかねー」
「今は入れんと?」
「戦後のねー、なんやかんやのバタバタで人手に渡ってから、それからもなんやかんやさ。誰かいま住まっとるとやろか?取り壊される前にうちももう
一回だけ、あの家ばよーう見ときたかねー」
トリのとりとめのない昔話しは、いつもこの辺りで終わる。千代町から唐人町に移り、見よう見まねで和菓子屋を始めた矢先に、トリたちは家の主人を失うことになるのだった。
博多の戦後復興の象徴だった路面電車に轢かれて
冨田信男は亡くなった。
享年49
男盛りの突然の別れであった。
つづく
(この物語は事実を元にした創作です。
登場人物の名前は全て仮名です)