第9話
福岡大空襲から少しでも逃れるために引っ越した
唐人町だったが、戦後のバタバタの中で千代町の家を手放し、その上に大黒柱の夫まで失くしてしまったトリは、一時的な避難地のはずだった唐人町の一角に小さなあばら屋を借り受けて駄菓子屋を始めることを決意する。
戦後復興の槌音が高らかに聞こえ始めていた福岡の片隅で、冨田トリ45歳、頼る人さえ誰もいない
女一人きりの出発だった。
「もうね、悩んどる暇もなーんもなかったくさ。
3人の子どもばとにかく食べさせんといかんて、
考えることはそれだけたい」
路面電車の事故で亡くなった信男に対する電鉄側からの補償金は僅かなものだった。社会資本が破壊され法的制度そのものが混乱していたその時代、弱き市井の庶民はただ泣き寝入りするしかなかったのだ。
「泣いても喚いてもなーんも変わらんとけど、わかっとるとけど、運の悪さとか、世間の冷たさばね、恨んだこともそりぁあったとよ。それでもくさ、おとうちゃんの残してくれんしゃったお金が多少なりともあったけん、それを保証金にしてあそこば借りることできたんやから、やっぱりそれだけは
ありがたかったばい。
もしあれが無かったら、
そうやねえ、、一家4人、
どげんなっとったやろ、、、、
あははは!
まあ、そんときはそんときばい
きっとどげんかなっとったくさ、あははは」
晩年のトリおばあちゃんから駄菓子屋を開いた当時の話しを聞くたびに、僕はいつも不思議な面持ちになるのだった。それは、いろんな苦労話しを語るおばあちゃん自身から哀れな悲劇性だとか不吉な暗さを感じられなかったことはもちろん、すさんだ表情や疲れた気配さえ微塵も無かったからだ。いやむしろ、昔話しを語るおばあちゃんから僕が受け取っていたのは、実にあっけらかんとした突き抜けた
ような明るさだった。
「悩んどってもしょうがなかばい、
どげんかなるくさ」
というのがトリおばあちゃんの口癖だったと、
母はよく語っていた。
戦後のバタバタの中で夫を亡くし、小さな子ども3人を育てていかなければならなかったトリの苦労は実際には僕たちが想像もつかないほど凄まじいものだったろう。けれど、子どもを守るという母としての覚悟と、それから何よりもトリの生まれ持った楽天的な気質がかろうじて当時の彼女を支えていたのかもしれない。
博多や天神といった福岡の中心部から西に位置する唐人町は、江戸の昔より商業、商家の町として栄えた土地だった。福岡の都心部が空襲でほとんど壊滅状態になった中で唐人町の商店街は奇跡的に難を逃れていた。
トリは焼け残っていた唐人町の狭い路地の一角で
駄菓子屋を始めることにした。
屋号は『福屋』とした。
何がなんでも「福」を呼び寄せたいという切実な思いからだろうか、狭くてみすぼらしい小店ではあったが何しろ物が無い時代だったから商売自体は開業してからすぐに繁盛していったという。
子ども相手の商売ではあったけれどトリの持ち前の明るさと真面目さで福屋は評判の店になっていく。
駄菓子屋のおばちゃんは親切くさ!
福屋のおばちゃんは面白くて良か人ばい!
菓子屋のおばちゃんと仲良しになったら
おまけばくれんしゃったよ!
近所に住む子どもたちの間でトリは段々と人気者になっていき、人付き合いも日に日に広がっていった。よそ者扱いされ苦労した時期もあったと聞くが、それもトリの気さくな人柄と毎日コツコツまじめに働く姿が人を惹きつけない訳はなかった。
この福屋を舞台に3人の子どもたちもいよいよそれぞれの個性を発揮しつつ、戦後復興の熱気と
高度成長期の自由な空気を胸いっぱいに
吸い込みながら成長していくのだった。
つづく
(この物語は事実を元にした創作です。
登場人物の名前は全て仮名です)