第5話
愼二郎の帰りが遅いことに気がついたのは京子だった。朝、怒ったように飛び出したまま帰って来ない。学校が休みだった京子は一日幼い由起子の世話をしながら母の営む和菓子屋の手伝いをしていた。働くこと、体を動かすことは京子には苦痛でも何でもなく当たり前のことだと思っていたし、むしろ色んな手仕事が身に付いていく手応えが楽しくもあった。
母トリに似て、京子もまた働き者であった。
ねえ、おかあちゃん、
シンちゃんお昼なんば食べたとやろ?
夕餉の支度に入るころ京子はそう聞いてみた。さっきからぐずり出した由紀子をあやしながらも、
京子の関心は愼二郎だった。
トリは芋を洗いながら京子を振り返る
そうそう、シンちゃんやろ、あの子、昼すぎに一回帰ってきたと思ったらくさ、井戸の水ばガブガブ飲んで焼き芋ば1個だけ口にくわえてね、すぐまた走っていったとよ。
そう言って、いかにも嬉しそうな顔で
あの子
まーたなんか企んどるとやなかやろかい。
と笑った。
母は愼二郎を心配する風でもなく、むしろ楽しんでいるようだ。これも楽天家の母らしいといえば母らしい。
しかし、京子は不安だった。心配性気質なのかあるいは母親がおっとりしている分、京子が代わりに気が利いてしまったのか、いずれにせよ外は夕暮れが迫ってきている。京子でなくても心配な時間であった。
おかあちゃん
あたし
ちょっとシンちゃんばさがしてくるよ
そげん心配せんでよかさ
そのうち帰ってくるけん
でも、もう暗くなってきたし
京子はやはり母にあの老婆のことは言い出せなかった。その話しをすることに気が引けていた。
昨日から色んなことが続いている。
不思議な老婆のこと、愼二郎を無理やり連れ帰ってきたこと、、あの爆発音、銭湯とコーヒー牛乳、
そして、少年の死、、
京子はまだ何か起こりそうな嫌な予感がしてならなかったのだ。
おかあちゃん、、
あのね、シンちゃんがさ、、
京子の不安を分かっていたのか、トリは手を止めてから
愼二郎はまだ小さかけど、あの子は大丈夫よ。
無茶はしよってもバカはせん。
ね、京子ちゃん
シンちゃんば信じてやらんね
と言って、また手を動かし始めた。グズっていた由紀子も今はおとなしく眠っている。
自分もシンちゃんを信じて待つしかない。
京子はそう決めて
針仕事の支度を始めるのだった。
辺りがすっかり暗くなったころ愼二郎は無事に帰ってきた。
汗まみれ泥だらけなのはいつものことだし、その頃の男の子は誰でもそんな風に真っ黒になるまで外で遊んでいたものだ。
けれど、その日の愼二郎の様子はいつもと違っていた。京子はすぐにそれに気がついた。
あんた、その手はなんね?
愼二郎の両手、手首から先が爪の一枚一枚まで灰色がかったヌメヌメとした泥で汚れている。
その手はどうしたと?
黙っている愼二郎にトリが珍しくキツい口調で言った。
ね、シンちゃん。
皆んな心配したとよ。わかるやろ?
だったらちゃーんと話しんしゃい。その手はどげんしたと?あんた、こんな時間までご飯も食べんち、なんばしよったとね。はい、とにかくくさ、その汚れた手ば洗ってきんしゃい、説明はそれからたい。
話しばするまで晩ご飯はなかとけんね!
よかね?
ほれ、返事は?
そこまで言われて愼二郎はしぶしぶ
生返事を返した。
なんねその返事は!やり直し!
ちゃんとせんかったら今夜は何も食べさせんよ!
さすがに晩メシを抜かれてはまずいと思ったか、
愼二郎はすかさず
はい!
と元気に返事をした。
やれば出来るたい。
ほれ、その調子で、もう一回!
はいくさ‼️
そげんときにくさはいらんくさ!
母が先に笑いだして、皆んなお腹を抱えて笑い出した。冨田の家に無駄な緊張は似合わない。
そして
腹は減っていても、どんなに貧乏であっても
笑えるうちはまだ幸せであるのだ。
つづく
(この物語は事実を元にした創作です。
登場人物の名前は全て仮名です)