伊豆の踊子 | 風又長屋

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伊豆の踊り子






「リリリ~ン リリリ~ン♪」


;或る日或る時、突然の一本の電話のベルが鳴った。
東京の陽子からであった。
その電話は、すぐる昔々の出来事を吾朗に思い出させるものであった。
大学2年の吾朗と後輩の二人は、GWを利用して伊豆の下田へ、ぶらり旅に来ていた。


一泊の予定で来てた二人、GWであったのをすっかり忘れていたのだった。泊まる宿は勿論、ホテルも予約客で満員で、全部門前払いであた。

それにしても、間の抜けた二人である。GWに、目玉観光地の下田の宿・ホテルが空いているはずがないということを考えつかなかったのであろうか?若い若い二人ゆえ、それも致し方がなかったであろうか。

伊豆急下田駅の目の前にそびえたつ寝姿山の麓の砂利道をとぼとぼと、二人はあてもなく、歩いていた。 前方から、中学生くらいの娘さんと、その母親らしき女性が歩いてきた。吾朗は躊躇なく声を掛けたのだった。

;「自分たちは東京から、GWを利用してこちらへ観光方々訪れて来た者ですが、GWであったことをうっかり忘れておりまして、宿の予約をしておりませんでしたために、どこも予約客で満員で泊まることが出来ません。どこか、泊まれるようなところをご存じないでしょうか。」

「そうですね~、時期が時期ですからもう、どこも満員でございましょうね~」

そういう母親に、傍らにいた中学生の娘さんがなにか母親に耳打ちをしていた。

「あの~、良かったら、狭いうちですけど、うちの二階が空いておりますので、お泊りになっていかれませんか?」

「ええっ?ほんとうですか。本当によろしいのですか?」

そんな訳で、二人はすっかりお邪魔させていただくことになったのであった。お大師様と近所から呼ばれているおばあちゃん・ご主人・奥さん・娘さん・息子さんの五人家族のうちであった。

吾朗はすっかり、お大師様のおばあちゃんに気に入れられ、可愛いがられた。たった一夜ではあったが。その夜は、ご主人に連れられて、その地区での共同浴場へ連れていってもらった二人であった。

共同浴場といっても、畑の真ん中にある掘立小屋の温泉である。すっかり、その湯で、旅の疲れをとることが出来た二人であった。

一夜明け、帰京した吾朗は、さっそくお礼状をしたため投函した。そのうち、予想もしていなかった便りが吾朗のもとへ届いたのだった。

差出人は、下田の奥さんからであった。「良かったら、夏休みにでもどうぞお出でください。」との内容であった。

吾朗はさっそく、その手紙を持って、同じ郷土の学生寮にいる後輩のところへ。良かったら、夏休みに行かないかとの誘いに。残念ながら、後輩は夏休みは予定が既に入っており、行くことができないとのこと。その旨を記し、自分一人でもかまわないかと返信。まもなく、その返事が届いた。内容は「O・K」とのことであった。

夏休みの前半、池袋の西武デパートの裏仕事のアルバイトで、滞在費を捻出した吾朗は、夏の或る日、伊豆急下田「踊り子号」の車中の人となっていたのだった。




抜けるような夏の青空のもと、吾朗は伊豆急下田駅に降り立った。
二か月半ほど前にきた、寝姿山の麓にある桃木家の道を、確かこの道だったなぁと想いだしながら。。。。

そうだ、この家だ!おもわず心の中で歓声をあげていた吾朗であった。懐かしい家であった。「ごめんくださ~い」「はぁ~い」。。。。。懐かしい声が聞こえた。その夜はつつましくも、ささやかな歓迎会を開いてくれたのだった。

二階は12畳間であったろうか、否、それ以上の広い畳間である。そこに一人貸切状態で三週間もの長い間、寝起きした吾朗であった。

翌日、小学六年生の息子・一郎君に案内されてバスに乗って、砂が白一色に埋もれている白浜海岸へ。ちょうど、その海岸の近くに桃木家の親戚の家があり、そのお宅で水泳着に着替えさせてもらい、目の前の真っ青な海に走っていった二人であった。まるで、歳の離れた兄弟のように。

海は穏やか、最高の海水浴日和りである。
次第に、海水浴客も増えだし、これぞ夏の海といった光景である。泳いでは休み、休んでは泳いだ二人であった。吾朗がかつて知っている海水浴の海とは、まったく異なっていた伊豆の海である。

白い砂、これは吾朗が初めてしった砂浜であった。ほんとうに、夢のようなすばらしい海水浴場である。赤く日焼けして、桃木家に戻ってきた二人、否、赤く日焼けしていたのは吾朗だけ、一郎君はすでにもうクロンボのようにまっ黒に焼けていた。

帰宅して、冷えた西瓜を御馳走になり、夜には以前にお邪魔したときに連れていってもらった、掘立小屋の温泉へ。なんともはや、こんな贅沢な、かつて経験したことのない夏休みを吾朗は過ごしていくのであった。


時々はあの田舎道で、声を掛け、母親にささやいてくれた吾朗にとっては救いの女神・陽子も一緒に、海に出掛けた。なんでも、将来はスチワーデスになるのが夢だと語っていた彼女であった。

学校では一・二番の成績を収める優秀な子であった。その娘が、高校を出てから進学もせずに本当にスチワーデスになるとは、露とも思わなかった吾朗である。まるで三人兄弟のように、楽しい毎日を過ごした、吾朗にとっては最高の思い出になる夏休みであった。

吾朗が滞在した間に、台風が襲来したことがあった.

その時は強風で、ご主人は雨戸を閉め、風雨に備えていたのを覚えている吾朗である。それまでは、台風直撃の経験をしたことのなかった吾朗にその様子は、珍しくも映った。すごい雨風の一夜が明け、翌朝は文字通りの台風一過の青空であった。

そんなこんなで、楽しい日々もあっという間に過ぎ去っていった三週間であった。もう、家族の一員にでもなったような吾朗の気持であっただけに、別れがまた格別なものであった。来年もまた、おいで!と、温かい言葉を背になごり惜しくも、伊豆下田を後にした吾朗であった。



伊豆から戻ってきた吾朗は、しばらく伊豆での桃木家での思い出が忘れられなくなっていた。
彼にとっては、今まで生きてきた中で、最高の夢のような夏休みであった。堂ヶ島へ家族で遊びに行った日・陽子が浴衣を着て行った下田のお祭り等々、長いようであったが短い三週間であった。

吾朗は、帰京するや否や、すぐ桃木家に礼状をしたため投函した。まもなく、奥さんから写真を多数同封した便りが届いた。


「。。。。。。。貴方がお帰りになられたあの日、娘息子が送りに行った駅から戻ってきてから、その日は一日、何もしゃべらず何か寂しい様子でしたよ。わずか三週間の間ではございましたが、陽子・一郎は貴方をおにいさんのように感じてきていたのではないかと察します。私どもも、息子がひとり増えたような感覚にさせていただいておりました。また、来年もぜひお越しくださいませ。。。。。。。」


吾朗が感じていたように、桃木家の家族も同じような想いをしていたのであった。
この三週間のご縁がまさか、その後35年も続くとは彼も桃木家も夢にも思っていなかった吾朗である。



翌年は、結局お邪魔することなく過ぎていった吾朗最後の学生時代の夏休みであった。その間、四季折々の時候の挨拶等の便りの交流があったが、次第にその思い出も忘れ去っていった彼であった。


再び、桃木家を訪れたのは吾朗が28歳のときであった。

そう、あの三週間の夏休み以来、8年ぶりの夏であった。桃木家の道筋は、もうはっきりと覚えていた吾朗である。

「ごめんくださ~い」「はぁ~い」と、玄関に出てきたのは、なんと大人になった陽子であった。まさか、陽子が居るとは思ってもみなかった吾朗はびっくりした。
陽子も同じ思いであったろう。

8年ぶりに訪れた桃木家は、家族がひとり減っていた。お大師様と近所から呼ばれていたおばあちゃんがすでに他界していた。

吾朗は仏壇に手を合わせながら、8年前のお礼を心の中で、そして今日こうして再び訪れることができたのはお大師様のおばあちゃんが引き寄せてくれたのでしょうと。。。。。

陽子は、なんと生まれて三か月ほどの赤ん坊を抱いていた。

彼女の傍には夫らしき人物が。吾朗は陽子と、彼女の息子ばかり見ていて、その男性のことはほとんど記憶がない。吾朗と陽子は6歳違い、睦まじい歳の差と覚えていた吾朗であった。

その後、いろいろ話をしていくうちに、陽子があの頃の夢であったスチュワーデスになり、しかも女性雑誌に写真入りで載ったことがあると、奥さんがその本を見せてくれた。やはり、中学生のころの彼女とは違い、大人っぽい陽子のスチワーデスの征服姿が載っていた。

そのころ、彼女に惚れた夫となる男性が、彼女のフライトが終え戻ってくるといつも、迎えにきており、求愛され、そのうち結婚したのだということであった。今日は、たまたま里帰りをしたということであった。

その日に、偶然吾朗が訪れ、彼女の息子を膝の上に抱くとは。やはり、お大師様のおばあちゃんが引き合わせてくれたように想った吾朗であった。陽子の息子の名は、誠と云った。彼女たちは、まもまく東京へ戻っていった。

陽子の弟、一郎は中学生のころ、三週間の滞在していた折に、吾朗が教えてあげた落語をすっかり覚えて、落語にはまっていたとのことで、学校の人気者になったという。彼もその頃は、東京で大学生になっていて、その時は逢う事はできなかった。

吾朗は陽子が、結婚し、子供まで出来ていたことに内心驚き、まだ若いのに。青春時代をもっと謳歌しても良かったのにと、吾朗は複雑な心境で、桃木家を後にしたのだった。 その後、桃木家と再会したのは吾朗が37歳のときであった。                                



吾朗が37歳になった夏の或る夜、一本の電話が鳴った。

なんと、10年近くも逢っていなかった陽子からの電話であった。明日、下田の家族も入れてみんなで、層雲峡温泉に行くとの内容であった。明日、東京を発って北海道家族旅行に出掛けるという。とりあえず、明後日の夜は層雲峡温泉で一泊するので、逢えたら逢いたいということであった。
 
吾朗は6時半に、層雲峡温泉グランドホテルロビーで桃木家の家族のツアーバスが到着するのを待っていた。予定時刻より20分遅れでようやく、ツアーバスがホテルに到着。吾朗は、目をさらのようにして、バスからホテルへ入ってくるツアー客の中にいるはずの桃木家の家族を追った。
 
桃木家の一同が目に入ってきた。ご主人・奥さん・陽子・一郎・そして陽子の一人息子の誠の姿が。。。。。
 
10年ぶりの再会であった。その夜は、10時ころまで昔話に花が咲いた一夜であった。その日吾朗は1時間半ほどの車で帰宅する車中、まるで10年も前に戻っている自分を感じた。
 
翌朝、札幌に向かう途中吾朗の街で、休息時間があるということで、吾朗は仕事の休みをとり、車で奥さん・陽子・一郎を載せてツアーバスの後ろについていったのだった。車中は、昔話から現在に至るまでのよもやま話に尽きる話題はなかった。
 
吾朗は卒業後、弘前に3年間暮らしていたことや、今の家庭のことやら、また桃木家では陽子が数年前に離婚して、今は、保母さんの仕事をしながら一人息子と暮らしていることなど、知らなかったことが沢山あった。スチュワーデスの仕事は結婚を機に辞めていたとのこと、なんとももったいないことであった。
 
あっという間に札幌につき、自由時間が数時間あったので、一行をあまり詳しくはわからない札幌の街を案内した吾朗である。
 
希望を聞いて、北大構内を案内した。ポプラ並木・大学構内のキャンパスの芝生の上で寝転がって、旅の疲れを少しでも取ってもらおうと吾朗は、あまりあちこちと連れまわすを控えた。
 
あと、案内したのは「時計台」「ラーメン横町」であった。ラーメン横町では、ちょうど、ラジオの番組で、観光客のインタビューをされていた。陽子にマイクが回ってきて、なにか旅の感想を語っていたようであった。
 
自由行動の時間もあっというまに過ぎ去り、再び別れの時間が迫ってきた。ひとりひとりと、固い握手を交わしながら、今度再開出来るのはいつになることやらと、心中、とても寂しくなりその想いで熱いものが瞼に浮かんでくるのを必死に抑えていた吾朗であった。
 
逢うは別れの始めとやら、再会は本当に嬉しいが、別れがまたその倍辛いものであることを痛切に感じた吾朗であった。



吾朗が上京したのは、52歳のころであった。


池袋の西武デパートから、陽子のところに今、東京に来ている旨の電話をかけた。留守だったら、それでもかまわない、運命だろう故と割り切ってダイヤルを回した。なんと、陽子が電話口に出た。すぐ、吾朗だとわかったらしく、ぜひ自宅に来るように言われた吾朗であった。

運良く、陽子の自宅は池袋のすぐ近くの板橋にあった。
駅まで迎えにきてくれ、徒歩で行けるほどの近くの家であった。東京の家は隣との間がほとんど無いと言っても過言でないくらい、隣合わせであるのに吾朗は改めて気がついた。

陽子は、再婚したご主人との二人暮らしだった。陽子は、息子の誠が大学を卒業させてから、再婚していたのである。ご主人は、なんと初婚だった。温厚な優しい方であった。

陽子は、その夜ぜひ泊まっていけと吾朗にせがんだ。一人息子の誠夫婦を紹介したかったからだ。誠は大学を卒業し、小学校の教師になっていた。最初の赴任地はなんと、北海道の稚内に近い片田舎の小学校に赴任していたのだった。

東京の大都会から、北の大地の果てに赴任してきた誠は、しばらく北国の生活や人間関係になじむことが出来ずに、東京に戻りたいと陽子に電話で何度も、云ってきたらしい。

その時も陽子は、吾朗のところへ電話してきて、なんとかなだめて欲しいと頼まれた吾朗であった。車で3時間半のその片田舎の一郎のもとへ車を走らせた吾朗である。

いろいろ話を聞くと、どうやら環境が問題なのではなく、人間関係が問題だったようだ。一生、この片田舎にいるものでもなく、いずれは母親のいる東京勤務への希望が必ず叶うからと、説得に努めた吾朗、その甲斐あって、辛抱して頑張ってくれることを約束して、彼のもとを去った吾朗であった。そんな昔のことを思い出しながら、誠との再会を楽しみに待っていた。



夜になって、誠夫婦と一人娘が来宅してきた。1歳になったばかりだという。めんこい娘さんで、じいちゃんばあちゃんになった、陽子夫婦は満面笑みが絶えなかった。陽子の発案で、吾朗の来宅記念ということで記念写真を撮ることになった。

なんと、中央に吾朗がその一郎夫婦の一粒種を膝の上に抱いて記念写真を。

そういえば、一郎も生後3か月のころ、吾朗の膝の上で写真を撮っていたのを思い出した吾朗であった。陽子の息子・その息子誠の娘を膝に上に抱いての記念写真を撮るとは夢にも思ったことのない吾朗であった。遠い北国に暮らしている吾朗にとって、それは奇跡に等しい出来事であった。陽子の息子・孫娘を同じ年頃に抱くとは。



川端康成の名作「伊豆の踊り子」の名は「薫(かおる)」、主人公の書生と出合った時は14歳、ちょうど吾朗が陽子に出会った時の、陽子の歳であった。

天城峠で二人は出会い、下田まで、彼女ら旅芸人と一緒に旅をする話が、どこか、吾朗と陽子がその後の薫と、その書生のその後の物語を継いでいるかのように想えるのは、吾朗のみの心の奥深くであったであろうか。


このような吾朗と陽子のつながりは、純粋であった故に、陽子が14歳からいまの58歳にいたるまで、切れない糸がつながっているのであろう。


                     完

     HP 2012年3月09日より                         




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