動物や植物と
関係性を持つためには
声を掛けるのが一番
朝起きたら「おはよう」
出かける時は「いってきます」
帰ってきたら「ただいま」
夜寝る時は「おやすみ」
彼らはかならず
反応してくれます
それが
たとえエサや水を与えてくれるからだとしても
それが
たとえ人間の思い込みだとしても
言葉を話さない
動物や植物の
人間へのやさしさです
動物や植物と
関係性を持つためには
声を掛けるのが一番
朝起きたら「おはよう」
出かける時は「いってきます」
帰ってきたら「ただいま」
夜寝る時は「おやすみ」
彼らはかならず
反応してくれます
それが
たとえエサや水を与えてくれるからだとしても
それが
たとえ人間の思い込みだとしても
言葉を話さない
動物や植物の
人間へのやさしさです
人間の人間たるゆえんは
本音と建て前にある
たとえば
横断歩道で信号が青に変わるのを
待っているとする
見渡す限りにおいて
通り過ぎる車はない
渡ってしまうのが本音
青に変わるのを待つのが建て前
なぜ待つのだろう
人が見ているから
ルールだから
臆病だから
急いでいないから
それは
すべて受動的な理由から
もちろん自分は
建て前を否定はしない
しかし
赤信号を渡る時に感じる
罪悪感という媚薬と
優越感という麻薬の
なんと甘美なことか
いわゆる「視力」と
「目の良さ」って
違うと思いませんか
あの
切れ目が入った円によって
数値化された「視力」をもって
目の良しあしを
決めることはできないと思います
たとえば
まったく同じ「視力」の人がいて
初めての街で
遠くの同じ看板を見たとします
ある人は
看板の文字が見えないために
なんの店かわかりません
でも、ある人は
周囲の風景、文字の形、色や店構え
などの情報から
あたかも
はっきりと見えるかのように
看板の文字を読めてしまいます
つまり
目の良しあしとは
知識や経験、洞察力などから
決定づけられるものであり
決して
「視力」と同期するものでは
ないと思われます
本の内容とまったく関係ありません
しかも
だから、なに?ですね