「何用あって月世界へ(−−月はながめるものである)」という文章を、かねがね私は書きたいと思っていた。

 

そこでこうして書いてみた。

 

「何用あって月世界へ」

 

これは題である。

 

「月はながめるものである」

 

これは副題である。

 

そしたら、もうなんにも言うことがないのに気がついた。これだけで、分かる人には分かる。分からぬ人には、千万言を費やしても分からぬと気がついたのである。

 

それでも西洋人なら、千万言を費やすだろう。幸か不幸か、私は日本人で、このごろいよいよ日本人である。

 

何度も言うが、私は自動車を認めていない。ラジオもテレビも認めていない。あんなもの、なくてもいいものである。あっても人類の福祉とは何の関係もないものである。

 

十なん年前までテレビはなかった。なかった当時の我々の生活は貧弱だったか。痛くもかゆくもなかったと言えば、分かる人には分かるだろう。ただ、出来てしまったものは、それがなかった昔には返らない。それは承知している。

 

けれども、これではあんまりだと承知しない人もあるだろう。だから同じことを、再び三たび言うことを許していただきたい。

 

私はタキシーの客となって、ためしに言ってみたことがある。

 

「このごろマイカーとやらをほしがってよだれをたらさんばかりの男がいる。なんだこんなもの、ブリキのおもちゃじゃないか」

 

このひと言で、運転手は私のすべてを理解した。

 

それは彼が運転手だからである。運転が商売で、これで妻子を養っていれば、休みの日は車なんぞみるのもいやだろう。ノルマとやらもあろうし、かせぎのいい日も、悪い日もあろう。

 

だから、これを否定する言論を、あっという間に理解するのである。ばかりか、自動車を代表とするもろもろのメカニズム −− 現代文明のことごとくを私が否定していることまで、さかのぼって洞察するのである。

 

この同じ言葉を、車がほしくてたまらぬ紳士淑女に説いても無駄である。委曲をつくせばつくすほど、そこは紳士だから、うなずきはするが、聞いてはいない。聞けば買うのをやめなければならなくなる言論を、どうして聞こう。

 

げんに松本清張氏は、「速力の告発」という小説で、自動車を告発して委曲をつくした。けれども、紳士淑女は面白おかしい「小説」だけ読んで、たらすよだれは引っ込めなかった。

 

私は運転手が利口で、紳士淑女が愚かだと言っているのではない。運転手は商売だから、これは理解したが、他を理解しないこと、紳士がこれは理解しないが、他を理解するに似ている。理解は能力ではない。願望だと私はみている。だから立証するのはしばしばむなしい。したがって、言論は自由なのである。

 

アポロは月に到着したという。勝手に着陸し、次いで他の星へも行くがいい。神々のすることを人間がすれば、必ずばちがあたると言っても、分かりたくないものは分かるまいが、わずかに望みをつないで、かさねて言う。

 

何用あって月世界へ?−− 月はながめるものである。

 

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山本夏彦(1915-2002)

「何用あって月世界へ」、『毒言独語』収録(中公文庫、1980年初版 -- 昭和46年(1971年)代に「週刊朝日」で連載されていたコラム集)

 

 

飛躍の多い文章を嫌う人も多いけれど、”くま”はやられたコラムニスト山本夏彦さんの代表作のひとつです。雑誌『諸君』の巻末コラムや『週刊新潮』の巻頭コラムで有名でした。山本夏彦のコラムのためだけに雑誌を買っていましたね。わりと多くの目に触れるところい置かれながら軽い読み物ではありません。いわば諦念と絶望と虚無が随所に手ぐすねを引いて顔を出そうとしていて、手強いものです。しかし、それでも言うべきことを言おうとする姿勢があって、多くを学びました。

 

読んでの通り、このコラムは端折って言えば、文明批判ですが、毒がいろいろ仕込まれています。文中、「それでも西洋人なら、千万言費やすだろう」と言っています。確かに西洋人はくどいですからw。そうそう、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』なんかそうですかね -- 「共同幻想論」が分かれば分かる話ですけれど -- エッセンスにおいて、通底するものはあります。

 

ともあれ、「分かる人には分かって、分からない人には千万言費やしても分からない」、と投げていますけれど、それが世の中の実相です。それは、「私は運転手が利口で、紳士淑女が愚かだと言っているのではない」というくだりにも見られます。別のコラムで、分かる人には「分かる言葉がある」と言っています。

 

そしてもうひとつ夏彦翁は言います。「理解は能力ではない。願望だと私はみている。だから立証するのはしばしばむなしい。したがって、言論は自由なのである」とあります。ものすごい飛躍です。なにに「したがって」、言論が自由なのか、ぱっと見には分かりません。そこで、”くま”はあまたいる夏彦翁ファンの誹りを恐れずに言葉を補ってみます。

 

「理解は能力ではない。願望だと私はみている。だから立証するのはむなしい。<願望を煽るだけ煽る時世にあって、誰もが願望を実現したいと思う世の中にあって -- つまり欲に目が眩んで>したがって、言論は自由なのである。

 

そう。文明批評の根底にある「願望」=「欲望」の批判が見え隠れしているように見えます。言論が自由なのは横並びの願望が自由だからで、本当の自由がそこにはないこと、別のコラムに書いています。そして、千万言費やしている方のハラリは、次のように書いています。

 

それとは対照的に、今日ではほとんどの人が資本主義・消費主義の理想を首尾よく体現している。この新しい価値体系も楽園を約束するが、その条件は富める者が強欲であり続け、さらにお金を儲けるために時間を使い、一般大衆が自らの渇望と感情にしたい放題にさせ、ますます多くを買うことだ。これは信奉者が求められたことを実際にやっている、史上最初の宗教だ。だが、引き換えに本当に楽園が手に入るのと、どうしてわかるのか?それは、テレビで見たからだ。

 

ユヴァル・ノア・ハラリ、『サピエンス全史(下)』河出書房、

 

”くま”は、どんどん、Amebloで有名な「秋子さん」のようなミニマル志向となっているので、「月はながめるもの」派ですけれど、もはやMacもiPhoneも、遠乗りして美しい景色を見にゆくためのクルマも捨てられません。消費生活においてもそれなりの望みを果たしてきたけれど、それが思うようなことでなかったこともままあり、それには後悔も残ります。願い事には気をつけなければなりません。

 

ハラリは次のようにも言っています。「私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない」。

 

 

人類は、2023年に火星にゆくそうですね。

「テレビでみた」のですよ。真面目な実験が始まっているって。

 

「2023年、人類火星移住計画」

 

 

 

 

 

新内流し

 

新内節(しんないぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。浄瑠璃の豊後節から派生したが、舞台から離れ、花街などの流し(門付け)として発展していったのが特徴。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受け、隆盛を極めた(wikipedia)。

 

 

 

Good Luckクローバー