前回の続きです。長文です。歌集のようになってしまいました。

 

「優」という文字は、文字自体が見ての通り「憂い」のある人に寄り添う人です。「憂」という文字は古代文字の時代に、「喪に服する人と寄り添う人」の姿から生まれた象形文字であることを書きました。また、転じて弔いの際の「泣き女」や、神事における演技、「「神を招(お)ぐ態(わざ)」=「わざおぎ」を表す文字であり「わざおぎ」と読むことも書きました。すこしづつ現代の意味に近寄ってゆきます。

 

 

 

■ 「やさし」は痩せることから始まった

 

ところで、そもそも「やさし」は日本固有の「やまとことば」です。だから前出の「漢字」とは独立して言語として成立し、その意味も変遷してきています。「やさしい」という言葉は、元々は「痩す」(やす)に由来して、身が細る様(さま)からはじまったそうです。「やさし」の語源は「痩さし」という形容動詞で、身がキュッとなるような心の動きだったのですね。

 

医者の勧告もあってダイエットしなくちゃという”くま”には気になります。太っている人はやさしくない?、と。いえいえ、そうではありませんが、やまとことばの「やす」が、どうして現在の「やさしい」になったか追ってみます。

 

面倒ですが、辞書をみてみましょう。

 

やさし・い [0] [3] 【優しい】

( 形 ) [文] シク やさ・し

① 穏やかで好ましい。おとなしくて好感がもてる。 「気立ての-・い女の子」

② 思いやりがあって親切だ。心が温かい。 「 - ・い心づかい」

③ 上品で美しい。優美だ。 「 - ・い物腰の婦人」

 

① 身もやせるような思いでつらい。他人や世間に対してひけ目を感ずる。恥ずかしい。 「世の中を憂しと-・しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば/万葉集 893」

 

② 心づかいをして控えめである。つつましやかである。 「されば重木は百八十に及びてこそさぶらふらめど,-・しく申すなり/大鏡 序」

 

③ (節度をもって振る舞うさまが)殊勝である。けなげである。 「己が振舞-・しければ,一筋取らするぞ/保元 中」 〔動詞「やす(痩)」の形容詞形で,身もやせ細る思いだというのが原義。平安時代には二 ② の意でも用いられ,つつましくしとやかなさまを優美と感ずることから一 ③ の意が生じた。二 ③ は優位の者がほめことばとして用いた。→やさしい(易)〕

 

Weblio 掲載:「三省堂大辞林」

 

「ー」が現代の意味と用法ですね。「二」の方に注目してみると、用例として古いものが揃っています。①には「身もやせるような思いでつらい。他人や世間に対してひけ目を感ずる。恥ずかしい」とあって、現代の意味とは全く異なることがわかります。「痩す」が物理的に痩せること、「やさし」は身も痩せるような心持ちのことのようです。それが平安時代に変化して、②の「つつましくしとやかなさま」となり、やがて鎌倉時代には③のような褒め言葉になる。辞書の説明はかなり圧縮されていますので、少しつぶさにみてみます。

 

 

 

■ 次に「やさし」は「恥」だった

 

『大辞林』の「二」の①に書かれた『万葉集』(783年完成?)の一首をあらためてみてみます。

 

世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 

山上憶良(660-733?)

 

世の中は、つらくて、身も細くなるほど耐え難いと思うけれども、鳥でもないのでどこかへ飛んで行くこともできない。そんな意味ですね。この歌は『貧窮問答歌』への返歌として詠まれたそうです。『万葉集』の「やさし」が「やさしい」の日本での文献上もっとも古いもののようです。 「やせる」が転じて「やさし」となり、「身も細る思い」か「ひけ目を感じて消え入りたいような羞恥の情」を意味するのが奈良時代の「やさし」だということになります。「やさし」は恥ずかしさで痩せるような思いなのですね。厚顔無恥な”くま”のダイエットには役に立ちそうにありません。

 

字も「恥」を「やさし」に当てていました。同じ『万葉集』からもう一首。

 

玉島のこの川上に家はあれど君を恥(やさ)しみ顕(あらは)さずありき

 

大伴旅人(665-731)

 

山上憶良と違って、酒飲みで遊び人の大伴旅人(皇統ですので不敬ではありますが)ですから、これは実はナンパの歌だったりします。男性が若い女性に「君は漁師の娘だって言ってたけど、けっこう良い家の出なんじゃね?」という歌への返歌となっています。「家は玉島の川上にあるけど、恥ずかしいから言わなかったの」、なんてね。今様の「出会い」の駆け引きと奈良時代、まったく変わりませんね。

 

ただ、一説によれば、「身も痩せるほどの恥ずかしい思い」や「引け目を感じる」、「肩身の狭い」思いは、身分の低い者が、身分の高い人に謁見する際に「身も細る思い」や「引け目を感じる」というのが主だったとか。その恥ずかしい思いや引け目が生んだ態度は、つつましく、控えめで、しとやかだった。それが「優美」であるとされたことから、位の高い者がそうした態度を「やさし」と褒めたといいます。

 

厳格な身分社会の中で、「ヒラメ」として汲々とした様(さま)が褒められたような言い方で、この考え方は現代的にすぎるような気がしますが、あながち否定できないところもありますな。ある部分では、当時の貴族の身分意識の高さというか、この自分を卑下するような気持ちの裏側に「…でなければならない」というようなちょっとした強迫観念すら感じます。現代の年収とか職業とか学歴のようにね。

 

むろん現代人の眼に映る「身分」と当時の人々のそれは、随分異なる部分があったのだと思います。貴族社会の中のコードだったでしょうから、そのカーストのなかでの心持ちだったことでしょう。貴族は、没後、神として祀られることもあります。神話の霊性を強く背景としていたでしょう。だから、「高貴さ」に対する至らなさは神々に対する「恥」だったのかも知れません。「穢れ」を「祓う」、そして「清める」という神道の文脈で身分を捉える心のありようが日本人の心の柱のひとつになっていたでしょうから。日本人の文化は「恥の文化」(ルース・ベネディクト『菊と刀』ほか)であるという説がありますが、ここにもその傍証を発見できます。

 

 

 

 

■ 平安時代から「やさし」は優美とされた

 

そして、平安時代になると「やさし」の意味が変わってゆきます。最初は『源氏物語』(1008年)から。

人傳ともなく、言ひなし給へる聲、いと、 若やかに、愛敬づき、やさしき所、そひたり。 

 

『源氏物語 蜻蛤』

薫(表向き光源氏の子とされるが実際には柏木の子)が、宮の君(式部卿の宮の姫君)と会話を交わす場面で、薫は宮の君の声に「若々しく、愛嬌があって、つつましさ(はじらい)もある」と評している。そんな感じですかね。

 

薫の君

 

平安後期に書かれたとされる、藤原道長の栄華を描いた『大鏡』(「世継物語」、平安時代後期)では、あきらかに「心づかいをして控えめである。つつましやかである」という意味に変わってしまっています。「身も痩せる思い」、「恥じ入る思い」の姿から蒸留され抽出されたのは「つつましさ」や「心づかい」、「控えめ」だったのでしょう。『大鏡』のテキストには「やさし」がいたるところにみられます。

 

されば重木は百八十に及びてこそさぶらふらめど,やさしく申すなり

 

『大鏡』 序

 

登場人物に夏山重木という老人が出てくるのですが、180歳生きている。『大鏡』は、190歳の老人大宅世継と、重木による、雲林院の菩提講で講師の来場を待つ間の昔語りという形式で書かれています。驚くべき長寿ですが、自らの年齢を<やさしく>控えめ、つつましく言っている、そんな情景です。

 

「『見もせぬ人の恋しきは』など申すことも、この御なからひのほどとこそはうけたまはれ。末の世まで書き置きたまひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色(けしき)あることも、をかしきこともありけるもの」とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。

 

『大鏡』 

五十七代 陽成院(やうぜいゐん)  貞明(さだあきら)

八 母后、二条の后高子と在中将

 

『大鏡』も恋バナが柱のひとつで、この在原業平と駆け落ちした後、兄弟たちに連れ戻されて入内した陽成院の母高子の様子も面白いですね。「気色ことになりて、いとやさしげなり」とはなんとも情景が眼に浮かぶようです。ここでの「やさし」の用法は、「つつまし」やかを超えて「優美さ」、「優雅さ」を含むようになります。

 

そして、奈良時代の「やさし」は自分の内側にある恥の気持ちや引け目に向けられていた用法が、平安時代後期には他人の振る舞いを表現するものに変化するという大転換を遂げています。

 

ただ、例外もあります。平安中期に成立したとされる『宇津保物語』(平安中期)では、こんな記述があります。奈良時代の記述が残っていたのでしょう。この世の中、女子はいろいろ面倒で痩せる思いだ、と言ったところでしょうか?

 

ある世にだに、女子は萬の事むつかしくやさしきもの (也 )。

 

 『宇津保物語』國譲上


 

■「やさし」が「すぐれた」となったこと

 

ここまで、「やさし」は「やせる→はずかしい」という自分の気持ちから、「つつましやか→優美」と他人の振る舞いの様子を表現する言葉に変遷してきました。それが『平家物語』(1212年以降)を境にさらに変わってゆきます。

 

當時みかたに東國の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上膓は猶もやさしかりけり」

 

『平家物語』巻九・敦盛最期

 

かっこいいですよね。平清盛の甥、敦盛は源氏の攻勢に退却を余儀なくされますが、退却の船に乗ろうとした時に愛用の笛をとり忘れたことに気づきます。それを取り戻ったところ、退却船に乗り遅れてしまいます。そこを熊谷直実とその手勢に見咎められ、熊谷との一騎打ちにて討取られてしまいます。「いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上膓は猶もやさしかりけり」 -- (当時、東国勢<源氏>にも何万の武士がいたけれど)いくさに笛を携える人はいない。身分の高い人はかくも優美なものか、という意味となります。熊谷直実は、自分の子供と同じ年頃の敦盛を殺したことを悔やみ、後に出家します。

 

深山木のそのこずゑともみえざりしさくらは花にあらはれにけりと云名歌仕て御感にあつかるほどのやさ男に、時に臨んで、いかがなさけなう恥辱をばあたふべき。

 

『平家物語』巻 一・御輿振

 

でました「やさ男」。「深山木のそのこずゑともみえざりしさくらは花にあらはれにけり」、そんな歌を詠んで周りを感動させる。それほどの才能じゃないと「やさ男」とは言えないってことですかね。現代の「やさ男」は、女性に甘い態度や言葉でつけいる男のイメージか、なよなよした柔弱なイメージに傾いた言葉になりましたね。ここでの「やさ男」は優美な男、という意味も含まれていますが、和歌という「貴族文化」の粋を身につけた「優れた」、「立派な」という賞賛の意味に転じているように見えます。下の『曽我物語』(1100年頃)では確定的です。

 

此事をききて、もとより此女の心さま、尋常にして、歌の道にもやさし。

 

『曽我物語』巻五 ・五郎が情かけし女出家の事

 

曽我五郎が情けをかけた女性というのは、歌舞伎で助六を愛した傾城揚巻のモデルとなった女性のことでしょうかね。「歌の道にもやさし」の「やさし」は、優れている以外の意味は見えません。「痩せ」や「恥」が随分遠のきました。

 

さらに平安時代から鎌倉時代への移ろいは、治世の担い手が貴族から武士に移行する大転換を遂げる時代でもあります。

 

大辞林の用例として引かれている『保元物語』(1297年に初出の記録)の該当部分を前後を含めて改めて紹介します。身長が2メートルほどあったという大男で怪力の武士にして喧嘩と弓矢の名手、鎮西八郎こと、源為朝のセリフです。為朝は、五人がかりで引く弓矢を一人で引いたといいます。

 

実に弓矢取る者はかうこそあらまほしけれ。平氏が郎従、今更心悪うこそ思ゆれ。為朝が矢は惜しけれども、己が振舞ひのやさしければ、一筋取らするぞ。命があるまじければ、今生の思ひ出はあるまじ。後生のつとに仕れ

 

『保元物語』白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事

 

保元の乱で、平清盛の家人、山田惟行という武者が源為朝に挑んだ際のことです。惟行の矢は見事為朝の鎧に当たり、首の骨をかすめるほどでした。それを、為朝は、弓矢を扱う者はこうでなければならない、「おのれの振る舞いやさしければ」と褒めています。「見事」、「殊勝」、あるいは「あっぱれ」という意味ですかね。この後、為朝の矢が放たれ、惟行の乗る馬の鞍を射抜き落馬します。惟行は為朝の手勢に討たれます。

 

 

『太平記』(14世紀中頃)ではついに「優」の字が当たります。武者の武勇について「優れた」の意味で使われています。読みは「やさし」ですが。「敵ながらも、やさしい<優れた>者たちとみた」。この用法は「優勝」などの「優れた」という意味に通じてゆきます。

 

印具尾張守ガ郎従八騎追懸テ、「敵ナガラモ優ク覚へ候者哉」 

 

『太平記』巻八・持明院殿行二幸六波羅一事

 

そして、壮絶な場面での「やさし」は、「武士の情け」に通じる「やさしさ」でしょうか。敵に首を取られるなら、味方のお前が我が首を落とせと悪源太は言います。弓取=武士の習いほど「あはれにやさしきことはなし」と。

 

「敵に頚ばしとらすな、御方へとれと、悪源太のおほせなり。」といへば、「さては心やすし。」とて頸をのべてうたせけり。弓取のならひほどあはれにやさしきことはなし。

 

『平治物語』頼政 心替り の事

 

さらに、その「情け」は幼い武者にかけるときにも使われます。

 

サテ芳賀八郎ハ被二生捕一タリケレドモ、幼稚ノ上垂髪ナリケヨレバ、軍散ジテ後二、人ヲ付テ被薦ケルトカヤ。優ニヤサシトゾ申ケル

 

 『太平記』芳賀兵 衛入道 軍事

 

生け捕られた芳賀八郎は、まだ幼い上に垂れ髪(髷を結わない普通の髪)たったので、いくさが終わった後、人を付けて帰された。みなが「すばらしい情けのあること」と言っている…ということで、「優にやさしとぞ」と強調されています。このあたりから現代の「やさしい」に近くなってきます。

 

 

ー ー  ◎   ー ー

 

 

さて、『万葉集』の「やさし」から『太平記』まで、約600年くらいをかなりはしょりながら綴ってみました -- これだけでも世界最古の自然国家、日本ならではです。一つの言葉は一つの意味に限定して使いましょう、なんていうのは理系の考え方ですけれど、「やさし」という、たった3音から成る言葉の意味の奥深さ、歴史的文脈を踏まえた重層的な味わいは格別です。とても一意に確定できないし、確定すれば意味が壊れてしまいます。「万感込めて」という言い方がありますが、「優し」には「万感」があります。

 

そもそもは、シナには優しいと言う概念がない、という話から漢字の「優」と、やまとことばの「やさし」を追いかけてみました。これでやっと現代に入れます。たぶん、もう一回続きます。

 

書くにあたってむろんタネ本はあり、奈良教育大学国文学会の1996年発刊の学会誌に掲載されている琴智恵氏の『「やさし」の意味の変遷 -- 古代より中世期前期まで --』という論文を元に、いろいろ加えたり引いたりしてみました。論文のPDFは公開されていて、下記参考文献に貼ってあります。良い論文だと思います。興味のある方はどうぞ。

 

 

【参考文献】

『「やさし」の意味の変遷 -- 古代より中世期前期まで --』、琴智恵

『「やさし」の底流」、池田敬子CiNii公開論文

平凡人さんのブログ『山田惟行』(Ameblo)

Santa Lab's Blog『「太平記」芳賀兵衛入道軍事(その9)』(Excite Blog)

『源平時代の最強武士は源為朝でOK?』、BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

駒澤大学『大鏡』テキスト

Weblio 掲載:「三省堂大辞林」

Wikipedia日本語版

 

 

 

Crystal Green ft. Wil Boulware, "Feel Like Makin' Love"(1976)

 

春の歌です。上の話とはあまり関係なくてすみません。マイケル・ブレッカーのサックスが気持ちいい。コーネル・デュプリーの、ちょっといなたいソロが際立ちます。

 

 

Good Luckクローバー