時代は移る・昨日の講座から | ネコに学ぶ・・うちにはいないけど

ネコに学ぶ・・うちにはいないけど

昭和23年生まれ。
太極拳を稽古したり、韓氏意拳を学んだりしています。
ヒモトレを知り、マンサンダルまで来て、
面白いことを探す毎日の忘備録

ネコはワガママに見える。

ネコは好奇心で動いてる。

そこが私と似てるところ。
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米粉でブラウニーの試作をしながら、

昨日のzoomの講座について考えてました。

すぐ反応できないのは歳のせいもあるけれど、

やっぱり四則和算をよく理解できてないということだと思います。

そしてこのブログは読んでも、

訳がわからない内容だと思います。

私自身の忘備録です。

 

労働と余暇と聞いて、

まず思い出したのは、

もう40年前に訪れた、

ハンガリーの養護学校で私が衝撃を受けたことです。

今は変わっているでしょうが、

その頃のハンガリーは貧しかったと思います。

毎日ジャガイモと豚肉、

青菜が恋しくなりました。

ハンガリーのコダーイシステムの見学ツアーに参加しました。

コダーイシステムというのは、

音楽の方ならご存知でしょう。

民族音楽から始める音楽教育で、

日本では藤田先生が伝えておいででした。

 

保育園から始まるコダーイシステムは、

見ている子も参加しているという考えで、

入ってきたらそのまま入れるのです。

ずっと見ていても良いのです。

今考えれば見取り稽古ですね。

 

そして何より衝撃となったのは、

養護学校でのことでした。

この学校の方針は、三つ。

I、身辺自立

(それは日本も同じでしょう)

2、社会参加

(これも日本でも目指しているでしょう)

そして、

三番目がなんと「余暇を楽しむ」でした。

障害児と言われるこどもが、

ピアノを弾いてくれました。

ピアノが苦手で、コダーイシステムに助けを求めた私は居場所がありませんでした。

障害児教育の柱が余暇を楽しむ、

それに呆然としてしまいました。

 

共済で借金して行ったのですが、

そこそこ苦しくない暮らしをしている(と思っていた)自分は、

余暇を楽しんでる?

まわりの会社員たちは余暇を楽しんでる?

疲れ果てた週末に、

癒しとか、ストレス解消とかは聞くけれど、

余暇を楽しむってあまり聞かなかったのは、

私の周囲だけのことだとは思えなくて、

満員電車の通勤とか、

サービス残業とか、

良い暮らしをする為に当然のことかと思ってました。

 

 

その後、

私は太極拳に出会い、

楽しむものに出会ったのでした。

そこから今、韓氏意拳にまで繋がっています。

仕事はそのための資金源になったので、

いよいよ耐えられなくなるまで、

仕事を続けられました。

 

 

昨日のzoom講座でお聞きし損なったのは、

命と経済という言葉は、

誰の命、誰の経済なのか?ということでした。

命はもちろん個人の命でしょうが、

経済と言ったら、

誰の経済か?国の経済か?家計のことか?

上手く言えなくて質問できませんでした。

 

それと、労働と余暇に分けて、

余暇が消費ということでしたが、

坂口恭平や市来顯は、

その分け方ではなく、

どういう暮らしを生きるかに目を向けていると思いました。

そこから派生する(いわゆる)労働は、限定的なことが多いと思います。

つまり、アルバイトもそれ自体が目的でなければ、

私の実体験としても案外できると思います。

お金が必要ならそれを得る作業をする、

必要なだけあればしなくてもできる。

 

そして暮らしの作業や遊びは、

プリコラージュだなぁと思います。

この言葉は小倉ヒラクが発酵について語っています。

私は炊事も縫い物も掃除、洗濯もその場であるものでしてます。

私の知り合いは竹細工や木工をします。

作れるものは買わないと言います。

売ることがあっても、

売るのが目的ではありません。

コンビニや電化製品が無くても生きて行ける、

(コンビニにも行きますけれど)

私の知るところは少ないかもしれませんが、

坂口恭平や市來顯は暮らしを大切にすることから、

働いたり、

断ったり、

作業したり、

絵を描いているのではないかと思いました。

 

私は卒論で教育の機会均等について、

貧しい文を書いたのですが、

福沢諭吉のいう平等についてでした。

今思えば、国から見た人財発掘だったと思います。

でも、卒論を書いた時には、

個人の側から見たことか、

社会や国から見たことか、

ぐちゃぐちゃに見てました。

 

さて今年、

私は今までの肩がき(という程のもんではないけれど)を捨てました。

居たくない場から離れたかったから。

講座の中のA氏や坂口恭平のいう居心地の悪さを感じたから、

その場から離れました。

大企業を辞めるとか、

大きな収入を失うとか、

に比べたら大したことではありませんが、

ここまで来て、

(残り時間を考えても)

場を選ぶことは、

私にとって大事なことだと思います。

私の居場所など、誰にも影響はありません。

それでも、この歳になっても、

選択することができたのです。

 

 

最近、ミラノから日本人へ、

レプリコンのことを発信してくださっている、

荒川央先生の言葉が私を勇気づけてくれます。

「本当のことを見抜くのに、

 学歴も知識も要りません。

 素直な子供の目で見れば良いのです」

 

残りの時間、

いろんな景色を、

暮らしから見ていこうと思います。

もう、いつ終えても寿命といえる私と、

これから社会で働く若者とでは、条件も景色も違うので、

なかなか言葉が出ませんでした。

若者に役立つことはができませんでした。

 

若かった頃の母親たちのなんと必死だったことか、

いつの時代も、

親はその当時で判断しているけれど、

時代は移っているから、

この先20年後はどう変わるか分からない。

しかしどんなに時代が変化しても、

今にしか生きられない。

というわけで、

ブラウニーを焼いたり、

縫い物したりの日々を味わっています。

 

結局私は、

私は四則和算が分かってない。

それが分かって、

複素数に初めて出会った高校生の時と同じ気分です。

必死で考えているのに、

迷子になった気分です。

 

朝ごはんにナメコの醤油煮にしました。

煮物という程煮ません。

あっというまに出来上がりです。

 

焼き上がったブラウニー。

米粉にしただけでなく、

豆乳も入れず、

レーズンではなく、

カランツにしたり、

プルーンの代わりにバナナにしたり、

もう、別レシピです。

でも、土台は寺田聡美さんのレシピです。

 

振り返って、

何の役にも立てなかったけれど、

自分の感じたことを整理してみました。

今日も空の雲は流れて、

風が吹いて、

木々の芽が膨らんでて、

私は幸せです。

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同じような毎日、

でも、変わらないものは無い。

又明日も何かを見るから書きます。