わたしたちはなぜ祈るのか ◇ 説教  (石田 学牧師)         2021年1月24日 | なぜぼくらはおいていかれたの 

なぜぼくらはおいていかれたの 

地球はみんなの星 猫も犬も大きな動物も小さな生き物も人間も 心に感じる思いをまげず ゆうゆうとのうのうと生きる星 

 

きょうの福音書からどう説教すべきか。

わたしにとって悩ましい箇所、

そして読むごとに心の痛みを感じる箇所です。

イエス様の言葉が、

わたし自身に対する叱責のように、

わたしをとがめる批判のように、

わたしには思われる箇所だからです。

牧師になる前にもありましたが、

牧師として小山教会に赴任してから、

これまでいろいろな方たちのために、

癒しを祈り、病の回復を祈り、

朝から晩まで、時には夢の中まで、

癒しを必要としている方のため、

祈り続けてきました。

それらの方たちの中には、

回復して元気になられた方がおられます。

祈りが聞かれたからなのか、そうでないのか、

わたしにはわかりません。

人の知るべきことではないのでしょう。

しかし、心からひたすら祈って、

祈りの甲斐無く天に召された方の方が、

ずっと多いのが現実です。

何年経ったとしても忘れることはなく、

どきどき、あるいはしばしば、

それら召された方たちを思い起こして、

心がうずくことがあります。

若くて前途ある方が病に倒れ、

その方の癒しを神に願い、祈り、

結局、その方を天の御国に送りました。

この会堂での最初の葬儀でした。

念願がかなって教育者となり、

希望を抱いて新たな働きを始めた方が、

病にかかりました。

わたしたちはひたすら祈り、

神に癒しを願い求めました。

しかし天に召されてゆきました。

幼い子どもたちを抱える方の癒しを祈り、

祈り、祈りました。

摂子と二人でこんな会話をもしました。

「きっと癒されるね、

そういう確信が与えられたから」。

しかし、この会堂で葬儀をしました。

苦労の多い生涯の後、やっと、

平安に満ちた幸せな日々を得た方が、

重い病を患いました。

朝に夕に祈り、

訪ねて行っては祈り、

最後まで神は癒してくださると願い、

天の故郷に帰ってゆかれました。

母胎内で肝炎ウィルスに感染した、

わたしの弟のため、

日々祈ってまいりました。

ウィルス性肝炎が肝臓ガンに進んでからは、

心から癒しを祈り、祈り求め、

しかし天の神の許に送りました。

その他にもいったい幾人の方の癒しを祈り、

祈りが聞かれなかったことでしょうか。

いや、祈りが聞かれなかったのでしょうか。

あるいは、こう言うべきでしょうか。

願ったとおりには聞かれなかったと。

イエス様と三人の弟子たち、

ペトロ、ヤコブ、ヨハネが、

高い山に登ってゆきました。

他の弟子たちはふもとの村で待っています。

山の上でイエス様の姿が変わり、

まっ白に光り輝く姿を見た三人の弟子は、

驚きに包まれ、恐れを抱きます。

すると彼らは父なる神の声を聞くのです。

 

  これはわたしの愛する子、

  これに聞け。

 

見ればそこには普段通りのイエス様がいるだけ。

もう光り輝く姿ではありません。

いつもどおりのこの方が、

天の父なる神の愛する子なのか?

この方に聞き従えということか?

三人はその疑問を抱き、

戸惑いながら山から下りてきます。

すると、ふもとでは騒動が起きていました。

山から下りてきた一行が見たのは、

残っていた弟子たちが群衆に囲まれ、

律法学者たちと議論している場面でした。

いったい何があったのでしょうか。

ある人が悪い霊に取り憑かれた息子を、

弟子たちの所に連れてきたというのです。

悪霊を追放してもらおうと願って。

怪しげな霊に取り憑かれた息子は、

口がきけなくなり、

地面に倒れてひきつけを起こすのです。

イエス様がその場におられないことに、

弟子たちは不安を覚えたことでしょう。

しかし、以前イエス様から派遣されて、

悪霊を追放した経験があります。

だから弟子たちは悪霊追放を試みます。

弟子たちが何をどうやって試みたのか、

マルコは何も伝えていません。

結果だけはわかります。

弟子たちにはできませんでした。

そのことを知らされたイエス様は、

怒りを含んだ嘆きの言葉を口にします。

 

  なんと信仰のない時代なのか。

  いつまでわたしは

  あなたがたと共にいられようか。

  いつまで、あなたがたに

  我慢しなければならないのか。

 

身を縮めてすまなそうにする弟子たちの姿が、

目に浮かんできます。

弟子たちにとって厳しい言葉ですが、

この叱責の言葉はわたしにもこたえます。

祈っても癒されない体験を繰り返す、

わたしに対する叱責にも聞こえますから。

幾人もの兄弟や姉妹が癒されず、

天に召されたのは、

わたしの信仰が足りなかったからでしょうか。

わたしの祈りが熱心さに欠けたからでしょうか。

だからこの福音書の箇所は、

わたしには重い箇所でした。

ずっと、長いこと、

イエス様が怒って叱責したのは、

弟子たちが不信仰だからだと思っていました。

イエス様の怒りと嘆きの対象は、

悪霊を追放できない弟子たちなのだと。

皆さんもそう思われるでしょう?

違いますか。

・・ほんとうにそうでしょうか。

そうではないのではないか。

わたしがそのように考え始めたのは、

14節のマルコの記述に目を留めてからです。

マルコはこう説明しています。

 

  一同がほかの弟子たちのところに来てみると、

  彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、

  律法学者たちと議論していた。

 

いったい何を議論していたのか、

マルコは議論の中身を伝えてはいません。

しかし、議論の内容は容易に推測できます。

彼らは弟子たちが悪霊追放に失敗した、

その理由について論じていたに違いありません。

なぜ弟子たちは悪霊を追放できないのか、

そのことで弟子たちは追及されていたのです。

弟子たちには力が無い。

悪霊を従わせることができないから、

弟子たちは偽預言者、偽教師、偽伝道者だと。

群衆も律法学者も、

祈りが聞かれるなら力のある証拠であり、

悪霊追放の力を発揮できれば本物だと信じ、

弟子たちはそれができないから偽物だ、

あるいは力不足だ、そう考えて、

みんなで取り囲んで追及している最中でした。

弟子の失敗は先生の失敗でもあります。

イエス様の教えも偽りだと言われたとしても、

不思議ではありません。

そこにイエス様が戻ってまいります。

事情を聞いたイエス様が嘆きます。

何を嘆いたのでしょうか。

弟子たちに対して怒り、嘆いたのでしょうか。

たぶん違うのでしょう。

イエス様の嘆きは弟子たちに向けてではなく、

「信仰のない時代」に対してでした。

願いどおりになり、祈りが聞かれるかどうかが、

本物の信仰だと考える世の常識、

この世の風潮をこそ、

イエス様は嘆かれたと考えるべきです。

だからイエス様は、

「なんという情けない弟子たちだ」ではなく、

「なんと信仰のない時代なのか」と嘆きました。

信仰が本物なら神は聞いてくださる。

熱心な祈りは必ず聞かれる。

イエス様の時代の世間の人々だけでなく、

今の時代もそう考える人は多くいます。

わたしたちクリスチャンも、

そのように考えていないでしょうか。

こうした考えからは、

しばしば逆の論理が生じてまいります。

神が聞いてくださらないのは、

信仰が本物ではないからだ。

祈りが聞かれないのは、

熱心に祈っていないからだという論理が。

祈っても癒されない時、

わたしたちは不安になります。

祈りが聞かれないように感じる時、

わたしたちの信仰が揺らぎます。

サタンのささやきが聞こえてきます。

「おまえの祈りが聞かれないのは、

おまえの信仰が足りないからだ。

おまえが不信仰だから、

祈っても癒されないのだ」。

願いが切実であればあるほど、

わたしたちは祈りが聞かれないと感じると、

困惑し、なぜかと問い、

信仰など無意味なのではないかと不安になり、

信仰を失う危機にさえ陥ります。

そういう考え、そういう風潮、

そういう信仰についての勘違いが、

この世界、この時代に溢れています。

そのような勘違いに満ちた時代、

そのような風潮が広まる世界のことを、

イエス様は「信仰のない時代だ」と指摘し、

怒りを込めて嘆かれたのだと思います。

神による奇跡は起きると信じます。

実際、聖書にはたくさんの奇跡があります。

わたし自身にも、

神の奇跡だと思う出来事や体験があります。

しかし、奇跡は自動販売機とは違います。

祈るとぽん、とはなりません。

もし信仰をもって祈れば必ずかなうとしたら、

それは奇跡ではなく、一種の自然現象です。

奇跡は、ふだんは起きるはずのないことが、

神の介入によって特別に起きることです。

神の奇跡も、神による癒しも、

人の力が及ばないことに対して、

神が介入することで起きます。

人の力や能力で成し遂げることのあり得ない、

特別なことが起きる出来事。

それは神が御心をおこなわれることであり、

神が人の理解を超えて御心をおこなわれることを、

わたしたちは奇跡と呼んでいます。

弟子たちにはできなくても不思議ではありません。

時として神は、弟子つまり信仰者の祈りを聞き、

奇跡をおこなわれることはあることでしょう。

でも、いつも必ずではありません。

では、どうしてイエス様は必ず奇跡をおこない、

癒しや悪霊追放を必ずできたのでしょうか。

それは、イエス様が神の御子だからです。

イエス様の意志、イエス様の願いは、

神の御心そのものですから。

しかし、弟子たちはそのことが理解できません。

だからイエス様に尋ねました。

 

  なぜ、わたしたちはあの悪霊を

  追い出せなかったのでしょうか。

 

イエス様がもしその時、

「それはきみたちが神ではないからだ」

そう応答したならすぐ納得したことでしょう。

でも、イエス様の答えは謎めいています。

わたしにとって、長く謎の言葉でした。

 

  この種のものは、

  祈りによらなければ追い出すことができない。

 

まるで祈れば追い出せると言うかのようです。

そうではないはずです。

この言葉は、

信仰によって熱心に祈れば聞かれる、

という意味ではないはずです。

この言葉を理解するためには、

祈りとは何かを考えなければなりません。

わたしたちはなぜ祈るのでしょうか。

自分でできることを、人は祈りません。

ある人は車を運転する前に祈ります。

「事故のないように守ってください」。

そう祈りますが、その人は、

「運転できるようにしてください」とは祈りません。

運転は自分でできるからです。

自分でできないこと、自分の力を超えること、

事故に遭わないよう守ってくださいということを、

祈りとして祈ります。

祈りとは、自分の力を超えること、

人の力や意志や思いを超えることを、

それゆえに神に信頼して委ねることです。

わたしたちはなぜ祈るのか。

神に信頼して、

わたしたちの直面する課題、困難、苦難を、

神に信頼して御心に委ねるためです。

「この種のもの」とイエス様が言われたのは、

人の知恵、能力、手の及ぶ範囲を超える種のもの。

それらをわたしたちは、

神に信頼して御心に委ねます。

だから祈ります。

その祈りを神は聞いてくださるでしょう。

わたしたちの願い通りにかなえてくださるか、

あるいはわたしたちの願いとは違う仕方で、

神が応えてくださるか。

それはわたしたちには分からず、

わたしたちが決めることもできません。

ただ、わたしたちは信じています。

パウロが確信を込めて語ったあの事実、

きょう使徒の手紙で読んだ、

コロサイ3:12の言葉を。

「あなたがたは神に選ばれ、

聖なる者とされ、愛されている」。

この事実に全幅の信頼をおいて、

わたしたちはこう確信します。

神はあなたに悪をなさることはなく、

むしろすべてを益となしてくださる、

そのように神は働いてくださると。

 

 



(以上)