衝撃をもってニュースを聴いた。
私は西部さんを語る知識、教養、社会観への深さなどとうてい持っていないが、ひとつ忘れられないことがある。
朝から生テレビがはじまったばかりの頃のことだから相当昔のこと。
当時私は児童文学を学ぼうとある場所に通っていた。
そこで、誰かが朝生のことを話題にした。
集まっていた数人みんなが、「観た観た」と言っていたと思う。
この時、著名な作家の方が、「西部という人はへんだね、平和もなにもわかっていない」という意味のことを言われた。
するとそこにいた殆どの人が、次々に西部さんの発言を批判というのか見下したような言葉を出された。
私はその時、朝生のテレビを観ながら西部さんの意見に感銘と信頼を感じたのを思い出し、それを言いたかったが言えず口をつぐんでいた。
私はそこにいた方々と異なることを知られたくないと思ったのだ。「西部さんの意見はへんじゃない、まっとうだと思った」と言ったら仲間外れにされると恐れたのだ。
私は自分に自信がなく、自分をごまかしてみんなについていくことで、自分を認めてもらいたかったのだ。
私はこのことを忘れたことはなかった。
大事な記憶である。こうした記憶をもたらしてくれる人とたとえテレビを通してであれ出合えたから、こんな自分でもいまだ生きていられるのだ。
その原風景をもたらせて下さった一人である西部さんが、冷たい冬の川に飛び込まれて亡くなられた。
どうしてだろう、ごめんなさい、ごめんなさい、という気持ちが濁流のように心に流れてくる。