ある書き物をしていたら、以前に書いたこんな自分の文章が出てきた。
前のエントリーに共通するものなので、この文章をそのまま載せようと思う。
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夫の病気による退職後、私と夫は、茨城県内の人口三万に満たない町に居を移した。一九九一年の冬であった。
『東京から東北線で一時間半、駅から車でほぼ一時間、電車の通らない、いわば陸の孤島のような町です。
でも、ただいま町は白菜の青臭い香りに包まれ、農道には収穫したそれを市場に運ぶトラックが行き来し,都市暮らしでは知らなかった活気があります。夏には田畑の殆どをメロンが占め、甘い香りが町中に漂うようです。
遠くに名山、筑波山を擁し、いかにも豊かな田園の村、いえ一九七二年から町になっています。ぜひ、遊びにおいで下さい』
私は友人たちにこのような便りを送った。
『のどかな田舎暮らしを楽しんでいるのですね。羨ましいなぁ。必ずお訪ねしますね』
友人の一人が、こう返信してきて、数年経って遊びに来てくれた。
そして、この友人は、都会に帰る前に町の感想を訊いた私に、滞在中に案内した田畑や筑波山や筑波大学やつくば市の街並みなどには触れず、妙なことを言ったのである。
「いたる所に、箱型の小さな建物があるのが印象的だわ」と。
私はこの後、“箱型の小さな建物”を意識して探した。それは探すまでのこともなく見つかった。日常的によく見ていたものだった。六畳間ぐらいの小さなプレハブの建物である。
私はこれを、「農家の納屋」と何の怪訝な思いなく思っていた。
友人のひとことから私は、この小さな箱型の建物が、白菜やメロンを作るために外国から来る研修生の“家・住まい”であることをやっと知ったのである。
私は今、豊穣の実りの町の住民の一人として、小さな箱型の建物の存在と実態を、息苦しい思いで見ている。
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この短文に加えて行政の在り方を含めた『農業研修生、外国人の暮らしを受け入れるということ』について書いておきたいのだが、これから継母の昼食であるし、その後用事もあるのでひとまずここで止めておきたい。