三上山
滋賀県野洲市三上にある三角形の美しい山
その姿から「近江富士」と呼ばれる………


富家(登美)に伝わる出雲の伝承の歴史では、
183年頃、第一次九州物部族の東征で大和を
追われた大王家の大彦(父:クニクル大王「孝霊天皇」
・母クニアレ姫)の軍が琵琶湖東南岸へ総退却して、
そこで銅鐸祭祀を広め久那土ノ国(狗奴国)と
呼ばれたと伝わる……

「大彦関連記事を参照」…


この野洲川から見た三上山の裏側に「大岩山
という丘陵」があり、そこからは明治〜昭和
の時代に合計24個の銅鐸が発見され、内一つ
には134.7cmという「日本一大きな銅鐸」が
ある………これが、どうも大彦が作らせた
物の様だ……

出雲の伝承による歴史での大彦の時代は
二世紀後半で中華民国の複数の史書に
記される「倭国大乱」の時期に重なる…

フトニ大王(孝霊天皇)の御代に九州の饒速日
を祖とする物部族が大和東征の準備ありとの
一報が大和大王の耳に入る…

当時最新の鉄製武器を持つ物部東征軍を恐れ
フトニ大王は自ら大和を出て御子の吉備津彦
らと共に鉄を求めて吉備へ侵攻する……

この時、出雲族(富家)との共存を拒否して
播磨に勢力を持っていた新羅王家の
ヒボコ族をフトニ大王(磯城家)の親族で
丹波を根拠地としている海族(海家)が攻撃
に参加して淡路島や糸島へ追い払った……

吉備中山を拠点にした吉備津彦らは、そこ
から、なんと親族の出雲を攻撃した……

これが出雲に伝わる第一次出雲戦争である
吉備津彦率いる軍勢は暗闇で襲ってくる
出雲の人達を恐れ「隠(オヌ)→鬼👹」と
呼んだ……この出雲戦争が「桃太郎」の
民話として語り継がれる……


出雲の富王家は大和の親族に攻撃された
事を大変悲しみ…怒り、レガリアを銅鐸
から銅剣に変えた……荒神谷遺跡や
加茂岩倉遺跡から出土の銅剣の✖️印は
出雲王の富家の印で、これは四隅突出型
墳丘や富家の家紋で龍鱗枠交差紋(六角形
の枠に銅剣が交差し✖️印を示した紋)に
繋がる……

この様な経緯から大和でも磯城王家と富
(大和では登美)家と海家(尾張家、海部家)
の内紛が始まり、これを勝機とみた物部族
は九州から大和への東征を開始する……
四国の南を経由して熊野に上陸するが
山中のゲリラ戦に苦戦して川を防衛線に
中洲(現、熊野大社跡)に留まる……

少し話は逸れるが
第一次物部東征軍の経路である高知県には
船で立ち寄った地に留まった物部族がいた
ので物部川の源流に物部町の地名が残る…

話を戻して
大和の内乱を治めるには物部族を味方に
付ける他無いと熊野から大和へ内密に
引き入れたのが登美家で、これに物部族
が敬意を込めて登美(トビ)の名が「鳥」
に似ている事から自分達のルーツの大陸
の思想書に出て来る太陽の鳥「八咫烏」
と呼んだ……

初代天皇が苦戦している時に敵を蹴散ら
した「金鵄(キンシ)」…いわゆる金色に
輝く「トビ」もまた登美家を表す……
登美家が三輪山を遥拝した鳥見山(トミ
ヤマ)に鎮座する等彌神社(とみじんじゃ)
の社紋は金鵄である……外山(トビ)の
地名も残っている……

布都御魂(フツノミタマ)の剣を奉ずる
物部族は東征時に船の運搬で運びやすい
道教の鏡をレガリアに変えて、登美家の
導きで大和に入ると大和族の信奉する
銅鐸を壊してまわったので、大和の人々
は、それを地中に埋め隠した……

孝霊天皇が大和を出た後の第七代クニクル
大王(孝元天皇)は物部のウツメシコを妃と
する事で和解となるが、登美家のクニアレ姫
を母にもち孝霊天皇の後の第一皇位継承者
であった大彦は由緒ある登美家の血筋で
ある誇りから、銅鐸祭祀を護るために
徹底抗戦の道を選ぶ事になった……

大和は登美家のクニアレ姫の皇女で大彦
の妹のモモソ姫(倭迹迹日百襲姫)が三輪山の
司祭者となり大変な人気で例祭には全国から
沢山の人々が纏向に集まったので内乱が
治った……三輪山の司祭者を「姫巫女
(ヒメミコ)と言ったが、中華民国の史書
には「卑弥呼(ヒミコ)」と記される……

三世紀に親魏倭王の称号が与えられた
卑弥呼は大和の三輪山の姫巫女ではない
九州の宇佐族の月神を奉じる姫巫女の
豊玉姫であり、物部イニエ王(崇神天皇)
との婚姻で子に豊入姫(豊鍬入姫)がいて
これが三国志に記される「壹與(トヨ)」
である……

記紀では親魏倭王などと中華民国に朝貢し
た豊国の宇佐の月神は無かったものと、
記紀編纂の中心人物、藤原不比等によって
その存在を消される……

豊鍬入姫は宇佐女(ウサメ)と呼ばれ、古事記
では太陽の女神…天照大御神の前で裸踊り
をするアメノウズメ(ウサメ)として貶め
られている……また、月読命の記事も一切
無い……神宮の外宮は保食神と言われるが
この月読神である……

また、話が逸れたが
大和の磯城王家は出雲王家の登美家より
後から大和葛城の高尾張村に入ってきた
海族の尾張家が次第に勢力が大きくなり
代々登美家の三輪山の司祭者の姫を妃に
する事で起った大和大王家……

初代、天火明を祖とする海(天)之村雲大王
(神武天皇)から始まる磯城王家だが、代々
登美家の姫が輿入れするので磯城王家は
登美家の血が濃くなり大彦の様に登美家
の出身である意識が強くなっていく……

この事件が古事記に描かれる神武東征時の
逆賊、登美ノ長髄彦のモデルとなった……

さて、大彦の人物像が見えて来たところで……

出雲の伝承の歴史をみて考察すると大和の
三輪山によく似た形の山で「三上」とはおそ
らく「三神」で三輪山の狭井神社の大神様
「幸ノ神(サイノカミ)三神」の久那土大神、
幸姫大神、猿田彦大神を表してると
考えられる……

大彦は、この美しい三角形の山を故郷の
三輪山に照らし合わせて見ていたのでは?
と感じる……


この三上山の周辺の地形を見ると西には
大きな琵琶湖があり、南には琵琶湖に流れ
込む大きな川「野洲川」、三上山から大和の
東に向けては大彦の御子「沼河別」の安倍族
の勢力の甲賀、伊賀なので大きな湖と大きな
川、そして深い山で大和を囲むように防衛戦
が張られている事が解る………軍事的に
見ても良いところである……

画像の大きな野洲川を防衛戦に「登美ノ
長髄彦」が大和からの物部の追討軍と戦う
光景が目に浮かぶ……



三上山の麓には「御上神社(ミカミ)」神社が
鎮座していますが、この神社の御神体は
「三上山」……

記紀では大彦は「孝元天皇の御子」となって
いるが、出雲の伝承の歴史では「孝霊天皇の
御子」で桃太郎伝説の吉備津彦とは異母兄弟
となっている……

偶然か、御由緒には孝霊天皇の御代六年六月
八日に三上山に「天之御陰神」が御降臨され
神孫の御上祝等が三上山を神体山として鎮祭
した……と孝霊天皇に関係する地である事が
見られる……

また、出雲の伝承による系図では天之御影
は、初代天之村雲大王(神武天皇)と登美家
踏鞴五十鈴姫の御子で御兄弟の第二代大王
沼川耳(綏靖天皇)と五十鈴依姫の御子に
第三代玉出見(安寧天皇)に八井耳(多臣家)
となっている……

出雲の伝承を元に検証すると妙に納得が
出る……



御神体の三上山と御上神社


境内は大変広く、楼門も大和天理の石上神宮
より大きなもの……


本殿の裏には大きな扉があり元々御神体の
三上山を拝む向きに建てられていた様だ……
これは、大和三輪山の大神神社によく
似ている……


境内は大変広く、三輪の大神神社の様に
穏やかな感じ……


千木は縦削ぎなので出雲系(富系)を表す…
俗説では縦削ぎが男神、横削ぎが女神を表す
と言うが……横削ぎは大陸から来た秦族が
出雲の屋敷を真似て使ったものである……

出雲の屋敷は纏向遺跡にも見られる大黒柱
を中心とした漢字の「田の字」型で入口
より時計回りの奥が御神座となるために
出雲大社の神様は横を向いている……

「大黒柱」とは出雲屋敷の造りから屋敷
を支える中心という意味で使われた…


銅鐸博物館では大岩山で見つかった巨大銅鐸
のレプリカが見られる……その大きさに大彦
の思いが伝わる様に感じる……

大彦は北陸で沢山の子孫を残し、その子孫達
は竹内宿禰の子孫達と大船による貿易に
よって中央大和に勝る、大きな経済力を持ち
蘇我・道連合国家を形成している…

やがて、この北陸三国の蘇我家から蘇我刀自
に出雲の富家から養子に入ったオホド王が
大和の大王(継体天皇)として迎えられる……

大彦の御子、沼河別の阿部族は伊賀から関東
へと転進して埼玉稲荷山古墳の鉄剣にあった
銘文には「意富比垝(大彦)」の子孫が作った
と記され……

この子孫達は東北で合流して「日の元(本)
の国」という強力な国を形成して中央大和
から蝦夷と呼ばれ怖れられた……
常陸、日立の地名は日出ずる国という
意味である……

後に大和中央は「倭国」という字を嫌い
「日本国(ひのもとのくに)」と改めた…


この奥は撮影出来ない…


さて、最後に御上神社の境内に「やはりっ!」
と思うものがあった……

「鎮魂殿」

御朱印を頂くのに少し神職の方にお伺い
したが、少し困った様子で「祈祷が
なんとか〜」で、あまり深くは
聞かなかった……


実は物部氏の御先祖様…饒速日命を祀る
東大阪市の石切劔箭神社の上社には
「登美霊社」という鎮魂社がある……

第一次物部東征では結局物部族は大王に
なれず大和に同化して失敗に終わったが…

約百年後の物部イクメ王(後の垂仁天皇)を
中心とした宇佐族、ヒボコ族の連合軍の
東征は出雲王家が消滅する程の凄まじい
ものだった……

物部の石切神社が鎮座する山は「生駒山
(イコマ)」……物部軍が磯城王家の
ヒコミチウシ(丹波道主)の抵抗で、長く
止まった山に物部イクメ王の名が
付けられた……

物部イクメ王が生まれた宮崎県には
生目(活目:イキメ)神社がある……

物部軍がたむろした生駒山系の交野には
饒速日命が降臨したとされる磐船神社
がある…


大彦が護り続けた銅鐸祭祀の神…久那斗大神
は道祖神に、幸姫大神は弁財天に、三輪山の
大物主大神は恵比寿様として姿を変え現代人
にも、最も近く愛される神として生き続けて
いる……


今回は時間的に行けなかったが、三上山周辺
には三輪の纏向で海家(尾張家)が奉じた武人神
…兵主神社や天火明命を祀る鏡作神社がある
事も分かっている……

少し北に行けば大彦を祀る沙沙貴神社も
あり、ここは大彦の子孫…沙沙貴山ノ君の
所縁ある神社であるので注目する所だ……