初めに前回の記事で両刃の剣ウメガイを
クマガイと誤記していましたので訂正させて
頂きます❗️
実はブログ記事を書いている時に
ク・マ・ガ・イさんから電話がありまして
ゴッチャになってしまいました❗️
風主さんは、よく天然と言われます!
さて……
行って参りました❗️
三重県伊賀市一之宮に鎮座します
伊賀一ノ宮 敢國神社 (あへくに)
御祭神は大彦命 (おおびこ) なんです❗️
敢國神社の立派な両部鳥居!
記紀によると大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子
で皇族と記されています❗️
日本書紀より第10代崇神天皇の時、北陸、東海
西道、丹波を平定する為に将軍の印綬を
授けられた内の一人が大彦命ですねー❗️
四道将軍と派遣地
北陸 → 大彦 (孝元天皇第一皇子)
東海 → 武渟川別 (大彦の御子)
西道 → 吉備津彦 (桃太郎伝説、五十狭芹彦)
丹波 → 丹波道主 (彦坐王の御子)
手水舎の水が美しい!
大きな拝殿へ長い階段を登ります!
長い階段を登り拝殿に着くと
丁度、御祈祷が始まりました❗️
ヤッパリ
大彦に呼ばれたのかなぁ〜〜⁉️
と姫と顔を合わせます❗️
セリーさんのブログ記事から
地図を見ての発見でした!
セリーさんに感謝です!
あまり聞いた事がない変わった御祈祷です❗️
そこには何と⁉️ 大彦命と合わせて少彦名命が❗️
普通は何故、出雲の神話に出て来る神様が❓
ですよね〜〜❗️
少彦名命とは三輪山の大物主大神様‼️
これはスゴイ事ですよ❗️出雲の伝承が繋がります!
ここで出雲の伝承を確認❗️
出雲王国は2王制で、主王を大名持、副王を少日子
と言い、東出雲と西出雲が交互に王を出しました❗️
この出雲王朝は日本海沿岸と四国、九州北部を
支配して紀元前6世紀に成立し約700年続きます❗️
(縄文文化は出雲文化と言ってもいいのでは❓)
第8代大名持 (出雲王の意) ▶︎
八千矛 (大国主)▶︎神門臣家(高鴨家)
(西出雲王家)
八千矛が宗像家のタギリ姫を娶りできた 御子にアジスキ高彦
・高(照)姫でアジスキ高彦は今は大御神と言われる!
アジスキ高彦は御梶姫との間にエンヤ彦、多岐都彦、大屋姫
をもうけ、この神門臣家の多岐都彦が富家の奇日方を頼り
大和へ 進出し、高鴨神社、葛城御歳神社を建てました!
(※ 宗像家は6代大名持オミズヌ王の御子アタカタスが筑前
に進出 して起こした家系です!
桜井市外山(トビ)、登美家の根拠地に宗像神社がある
のは登美家と親戚なので納得します!
火明(海家)と八千矛王の娘 高照姫との間にできた御子
五十猛(海香語山) !
その五十猛がアジスキ高彦の娘 大屋姫を娶りできた
御子が高倉下で、この五十猛が筑後の饒速日(物部)の娘の
穂屋姫を娶り 大和の初代大王 海村雲をもうけます!
(これで纏向遺跡にある神社から多氏の謎も解けました!
これは、藤原氏(鎌足)の出自にも繋がりましたよ!)
第8代少日子(出雲副王の意) ▶︎
八重波津身 (大物主大神・事代主)
向家(富家亦は登美家・出雲臣家・鴨家)
(東出雲王家)
▶︎御子 奇日方は大和開拓の祖、葛城を開拓し鴨都波神社に
父、積羽八重事代主(八重波津身)をお祀りし、後に三輪山
に大物主大神(八重波津身)を祀りし ました!
鴨都波神社は大神神社の別宮といわれる事からも
御祭神が同じだという事が分かりますね!
静岡県三島市にある伊豆一ノ宮の三島神社は実は大彦に
深く関係していて御祭神は積羽八重事代主なんですよ!
奇日方の母、活玉依姫の実家は摂津国三島(高槻市富ノ里)!
活玉依姫の亦の名を三島溝杭姫といいます!
日本書紀では事代主の后、 古事記では大物主の后から
みても大物主大神様と事代主(八重波津身)は同一神
だと分かりますね!
風主の自宅の神棚には三輪山の大神様をお祀りしていますが
大神神社で少彦名命の御神符を見つけ神主さんに大神様と
一緒にお祀りするには右?か左か?お聞きしたら……
「大神神社の御祭神、大物主大神、大己貴神、少彦名神は
みんな同じ神様なので右も左も関係ありませんよ!」と
教えて下さりました!
(なるほど!納得が出ます!)
大彦命と共に少彦名命と金山比咩命!
金山比咩(彦?)は海家の信仰する神様ですね!
吉野の山にもお祀りされています!
伊賀の分かりにく〜い所にある神社ですが
皇室に所縁ある神社なんですね❗️
そして、姫とビックリしたのが……
境内に桃太郎岩!!!
吉備津彦の桃太郎❗️
大和フトニ大王(孝霊)の後継はクニクル大王(孝元)❗️
出雲の伝承関係の本では二説あるのですか❓
大彦、モモソ姫はフトニ大王とクニアレ姫の間に
生まれた御子となっています⁉️
これってクニクル大王と大彦は親子ではなく
また、吉備津彦(桃太郎)やモモソ姫も含め
フトニ大王を父とする異母兄弟となりますね‼️
登美家直系の方が書かれている本の方が正解かな?
この辺のお話は学説にも興味深いものがありますが
混乱すると思うのでまたの機会に……
何れにせよ重要なのは……
大彦の母はウツシコメではなく、モモソ姫
と同じ登美家のクニアレ姫だという事です‼️
興味を引く桃太郎岩!
桃太郎岩!
さて、吉備津彦らが吉備国に行った後の大和では
第7代クニクル大王(孝元天皇)は物部勢力に妥協し
物部のウツメシコを后としていました❗️
登美家のクニアレ姫は大彦、大日日(開化天皇)
モモソ姫をお産みになり長兄の大彦は王位継承者
でした❗️
物部勢力が拡大し道教の神獣鏡を祀るその圧力で
大和の人々が農耕神の銅鐸を埋め隠し銅鐸祭祀が
終わりを告げていく事を大彦は深く悲しみ戦う事
を誓います‼️
大彦は出雲王の登美家の血筋である事を誇りとしていました!
自らトミ彦と名乗り、御子には八重波津身(第8代少日子
大物主大神、事代主)の妃の奴奈川姫から
ヌナカワワケ(武渟川別)と名前を付けています!
大彦は第1王位継承者であったので支持者が多く
大日日に勝る大きな勢力を持っていましたが
ハニヤス彦が加わった物部勢力は増大しこの軍勢
に大彦が襲われます❗️
彦クニブク勢に間一髪助けられた大彦勢は北の
琵琶湖東南岸へ総退却しました‼️(183年頃)
滋賀県の野州町(琵琶湖東南岸)の三上山から出土した
見る銅鐸と言われる特大の銅鐸は大彦がここで
銅鐸祭祀を広めた名残なんですよ!
ハト胸の狛犬!
琵琶湖東南岸で銅鐸祭祀を広めた大彦勢ですが
大和の物部勢力がまたしても襲ってきます‼️
大彦勢は野洲川で交戦しますが、ここでも劣勢
に立たされ後退❗️
日本海沿岸に後退し北陸へ向かいます❗️
追われた大彦勢力は磯城王朝とは分けられてクナ王国と
見られました!
いわゆる魏書に出てくる狗奴国です!
阿部一族の久努臣には久々智彦(狗古智卑狗)がいます!
クナの名は三輪山に祀られる幸ノ神三神の主神である
クナト大神からきています!
大神神社の三ツ鳥居は幸ノ神三神を表しています!
勝てば官軍!負ければ賊軍!
大彦は長髄彦と蔑称で呼ばれ後の記紀編纂時に
神武天皇東征での賊軍として描かれました!
大彦は出雲王国の富王家に行き親戚である事
を訴え援軍を求めるのですが戦乱の中、出雲も
軍を分散させる余裕が無いと断られます❗️
そして大彦には登美家の姓を使わない事を
求め、日本海沿岸(クヌガの国)の同盟国を頼る
様に紹介されたと言われます❗️
大彦は以後、登美家の根拠地となっていた
摂津国三島の阿武山(アブヤマ)から阿部家の
苗字を使いました❗️
北陸へ後退する大彦はこの時
御子のヌナカワワケ(武渟川別)
と二方向に分かれヌナカワワケの軍勢は
伊賀国から東へと転進していきます‼️
この過程で伊賀に残った大伊賀彦の子孫が伊賀臣
を名乗る事になりました❗️
これを見ると武渟川別が伊賀敢國(アヘクニ=阿部国)に
父の大彦をお祀りしたのかなぁ❓
珍しい大型の灯篭!
手水舎のお水はこの御神水です❗️
墨坂神社にあったお面と同じものが⁉️
頭が像 (ゾウ) !!!
この他、楠社というのもあり……
やはり出自の分かりにくい楠木正成が、この伊賀
の忍者の系統に関係するのでは❓
と考えます……
この後、大彦の御墓と言われる御墓山古墳へ
そこには何と‼️……
大彦が命を懸けて守ろうとした
銅鐸祭祀の名残が‼️……
……続く