Kaz の景色

Kaz の景色

ちょっとした日常の記録

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 はじまりは、おととしの冬。「ゆず、たっか!!なんでこんな値段してるの!?」(例によって例のごとく、実家では庭にゆずが大量に実っていたので、ゆずを買ったことがない…)というわけで、主人と相談して木を植えまして。これがとてもいい子で、若木なのに毎年必ず実をつけてくれるんです。

 今年は庭で採れたゆずが7個、一個は正月のお雑煮などに入れて、残り6個。お風呂に入れるには少ないし、だからと言って料理にそんなにも使わないし…。というわけで、ハチミツに漬ければ長持ちするしいいだろう、と思い立ったわけですよ。

 今日は、ゆずハチミツを作ります。これをゆず茶と呼ぶ人もいます。

 

 作り方は簡単。半分に切って種を取り除きます。果汁は包丁で切る時にこぼれてもったいないので、ある程度絞ってビンの中に入れておきます。その後、残りの部分をひたすら刻んで、刻んで、刻んで、刻んで、刻み続けること三十分。刻んだゆずはビンに入れて、ハチミツを投入します。以上。

 これが意外としんどい。

 完成品がこちら↓ わたし、がんばったよ。

 

 さすがにこれはゆずの割合が多すぎて、全く甘くありません。甘めが好きなら、ゆずの嵩の倍ぐらいの量のハチミツを入れてもいいんじゃないかしら。

 

 

 


 

 少し前に、ある人と出会いまして。lineを交換したんですよ。

 で、それからほぼ毎日のように、日記のような内容のlineが送られてくるんです。

 

 「今日はお友達と○○へ出かけました。」

 

 「今日は□□の鉢植えを買いました。とてもきれいですよ。」

 

 「明日、△△へ出かける予定です。」

 

 うん、それで?

 何と返事するのが正解なのか…。そういうのは、こういうブログに書きこんどくか、もしくは家族に話せばいいのでは?と思うのですが、なぜ私に送ってくるんだ…。

 

 この人、おそらく私の母と同じタイプで、「私も一緒にいいですか?」とか「今度一緒に行きたいです」とか「足はありますか?困っているんなら車出しますよ」などの申し出を言われ待ちしているんだろうな、と思います。まぁこれは想像でしかないのですが。ただ、もしそうだとしてもそうじゃなかったとしても、めんどくさい薫りしかしない…。むしろ、そうじゃなかった場合、なんで日記を個人的に送ってくるのかが余計にわからん。

 

 もう、無視?無視が一番いいのか?

 この時期、こたつに入ってみかんを食べるのが日課となっております。子どものころからみかんは5キロぐらい箱で買ってきて家族で食べてたのですが、必ずと言っていい程話題になるのが、「美味しいみかんの見分け方」です。

 

 面白いことに、美味しいみかんの見分け方、人によって見分けるポイントが違うんですよね。そして未だに正解がよくわからない。たぶん、「美味しいみかん」というよりも「美味しそうに見えるみかん」が違うんですよね。ちなみに私は、お尻の部分が出べそみたいになっていたら美味しそうと感じます。あと、オレンジ色が濃いやつ。

 母は、ヘタの部分で見分けると言っていましたが、彼女の説明は抽象的すぎてイマイチよく解りませんでした(ごめんなさい)。

 

 昔の記憶ですが、小中学生のとき、給食のデザートにみかんが出たことが何度かあります。冷凍ミカンじゃなくて、普通の生のみかん。同じ学校に通っていたクラスメイトが、それを手に取って、「知ってる?みかんって、柔らかいやつが美味しいんだよ」と言いながら、みかんをマッサージしてやわらかくしていました。なんか違う気がする…と思いながらも、本人が真剣にやっているので、何も言えずに終わった覚えがあります。

 

 まぁ、なんやカンや言ったところで、この季節のみかんが美味しいことは、間違いない。

 

 

 蛇足ですが、私、焼きミカンも結構好きです。ストーブで、皮ごと20分~30分焼いてから、皮をむいて食べます。子どものころ、寒い中家に帰ってくると、おばあちゃんがよく焼いて待っててくれてたなぁ…。

 イチョウが黄葉(こうよう)し、きれいな景色が見れるようになりました。

 

 名古屋市をはじめ、イチョウの木を街路樹として植えている町が多いのですが、いかんせん、葉が黄葉し始めると実がなって臭いんですよね…。臭いんですが、この実の中にある種が、この季節にしか食べれることができない貴重な食材となっています。スーパーで買うと高級品。私は地元の近くに銀杏の産地があるので、卸売で販売されているのを比較的安価に買ってきます。

 

 

 銀杏の種です。「ぎんなん」ないし「ぎんなんの実」と一般的に呼ばれていますが、実際はこれは実の中にあるタネです。実自体は外側のドロドロの部分で、素手で触ると高確率でかぶれます。

 ぎんなんを調理するための専用の器具が売っているらしいですが、地元の人でそんな専用器具を持っている人はまずいません。私の地元で一般的な食べ方が、①ペンチで殻を割り、②茶封筒に入れて口を折り曲げ(茶封筒に入れないと爆ぜたぎんなんが電子レンジ内を破壊する可能性大)、③電子レンジで約1分。爆ぜるような音がしたら充分です。

 これをやると簡単にぎんなんを調理できますが、電子レンジ内にぎんなんの臭いにおいがつきます。もしやるなら自己責任でお願いします。

 

 新鮮なぎんなんは光沢のある黄緑色です。モチッとしていて、独特の臭みがクセになります。少し塩をまぶして食べるのがお勧めです。

 健康にいい食材とされていますが、食べすぎには要注意。一回に10粒ぐらいがめやすです。

 

 

↓ペンチで殻を割る。ペンチの根元の丸いくぼみにぎんなんをはめ込んで割ります。ペンチの先に挟んで割るとぎんなんが完全につぶれるので要注意。

 

↓電子レンジで温めたら、冷める前に薄皮を剥きます。冷めると薄皮が貼りついて剥きにくくなります。

 秋めいた季節になってきましたね。数日前からわが家の金木犀の花が咲き、いい香りが漂っています。私の住んでいる地域では、庭木のひとつや生垣として金木犀を利用することが多く、私が通っていた中学や高校でも金木犀が生垣として植えてありました。なので、この時期には町のどこにいても、風がふけば金木犀の香りがフワッと漂ってきます。この小さなオレンジ色の花の香りがしてくると、「あぁ、秋だなぁ」という実感がわきます。

 ちなみに、わが家には一本だけ銀木犀の木がありますが、未だ花をつけた事はありません。昨年夏にネキリムシに根をやられ、弱っていたのですが、一年かけて持ち直してくれました。今年の秋こそは…と期待をしていたのですが、どうもそこまでの気分にはなってくれなかったようです。早く銀木犀の香りを嗅いでみたい…。

 

 金木犀の花が終わったら、今度は銀杏に舌鼓をうつ番です。

 日本では、血液型占いと言うか、血液型によって性格に差が出ているという考え方が一般的に定着しています。

 ですが、私は正直言ってこの考え方は好きではありません。

 確かに、同じ血液型の人たちで雰囲気が似ているようなところがあるなと感じる所はありますし、性格や物事の捉え方・行動規範となる考えの根底部分にある物にはある程度の共通性はあるかもしれません。ですが、「A型の性格は○○だ」「B型は△△な人物だ」という型にはめてその人を決めつけて捉えようとする考え方ややり方が、とても嫌いです。

 

 例えば、私はA型なのですが、「A型は物事をきっちりやる性格だから。」と言われています。そのせいで、他の誰よりも完成度の高い仕事をするように押し付けられることが個人的には多いです。完成度が相手の想像を少しでも下回れば「A型なのに」と非難されることも少なくありませんでした。また実家に住んでいた時には、私個人の私物、しかも自室の机の引き出しの奥に隠すようにしまってある物を、勝手に持ち出され処分されるということもよくあったのですが、それに対して抗議をすれば「A型だから神経質すぎる。周りを疲れさせるだけなのを自覚しろ」と散々叩かれました。これ、A型でなくともされれば嫌だと思うんですよね。

 血液型ありきで相手の性格を決めつけ、自分がその人に対して何をやったのかをふり返れないって、最低だと思います。

 

 他にも、「O型は大雑把な性格だ。」とよく言われていますが、私の周りではO型の人自身が自分で言い訳のように言うのをよく見かけます。私の周りだけかもしれませんが、これ、本当に腹が立つんですよ。「O型だから」を理由にして、中途半端で適当な仕事をするのを自分に許可しているだけにしか思えないんですよね。

 一度、O型の人(夫)が自作の木製ラックをつくるところを見ていたのですが、まず計画を立てない。サイズを測らない。全部目測と推測。板や支柱もまっすぐ切らない。こんなの組み立てたところで、使い物にならないのは火を見るよりも明らかなのに、本人はそのことに気がつきもしない。というか、『O型だから』それだけ雑なことをやっても大丈夫、と自分に言い聞かせてるんですよ。

 物を置くと転がり落ちていくラック。かろうじて自立しているけれど…って感じのラック。さすがにムダ過ぎて叱りました。すると、「O型だから大雑把なのはしょうがないじゃん」とこきよりましたよ。もうね、何かを作る時にサイズを測らないのは「大雑把」のレベルを超えすぎてます。でも、それを自分に許可している。そうであってもいいと思っている。だってO型だから。これ、大雑把なんじゃなくって、ただただ計画性もなく無責任で自分に甘いだけでしょうが。そしてこの無謀な性格はO型だからじゃなくて、「O型だから」を言い訳に自分を甘やかし続けて来た個人の性格だと思いますが。さすがにアホアホすぎてげんこつ落としました。最初からなんとかするつもりが微塵もないもの、「大雑把だからそうなった」わけないでしょうや。

 

 血液型占いって、そういう考え自体は面白いとは思います。でも、それを言い分けに使ったり他者を責めるために持ち出したりするのはただの非常識です。血液型以上に目の前の相手をきちんと見てほしいです。

飛騨高山へ行ってきました!

子どものころから何度も旅行で訪れている土地ですが、時間の流れ方が日常とは異なり、のどかな雰囲気が心を和ませてくれます。

 

第二次世界大戦の戦火を逃れ、昔ながらの家屋が今も残るこの地域ならではの風景です。

 

もう少し足を延ばすと、「合掌造り」と呼ばれる茅葺き屋根の家々が立ち並ぶ白川郷があります。

昔、一度だけ宿泊したことがあるのですが、風通しがよいため、夏でも涼しく過ごせます。

 

↓展示されていた昔ながらの道具

 

 

夏に避暑を兼ねて高山へ行くことが多いのですが、何よりも楽しみなのは、食べ物とお酒!

私の生まれ育った地域と同じ水源の水を使っているためか、ここの土地で作られたお酒や野菜は、私の口にはとても美味しく感じます。しっくりくるというか、体に馴染むというか、細胞にしみわたるようなというか、そんな感じ。一時期全く別の地域に住んでいた期間があるとなおさら、地元の水は重要だなと思えてきます。

 

ぜひ岐阜に来た時は、この記事を読んでいる皆さんにも、岐阜県産の美味しい日本酒と美味しい野菜を楽しんでほしいです!

 

↓ぶどう盛り盛りサワーと、大ナスの丸焼き

 夜勤明けで帰宅した主人が開口一番、私に尋ねてきました。

 「あの…、玄関先に、盛り塩がたくさんしてあったんだけど……えっと、何か…出たの?」

 「盛り塩…」

 何のことかわからず、聞き返す私。

 「なんか、ピンク色の盛り塩が…」

 

 それでピンときた私。出ました出ました、もうたくさん出ましたよ。その「盛り塩」をやったのは私です。雨上がりの日にはよく出ますよね。ヌメヌメと這いずり回って農作物を食い散らかしてくれるので、もう迷惑しているんですよ、やつらには。うちの農作物をしょっちゅうタダ食いしていらっしゃるのか、親指ぐらいの太さにまですくすくとお育ちになって、ホントに腹立たしい。玄関ドアにテラテラとした筋が光っているのも気色悪い。壁のあちこちに糞をこびりつけていくところは猶更許せないです。

 

 というか盛り塩って(笑) 確かにその塩の下にはナメクジのご遺体があるので、あながち間違いではない、のかな?

 

 念の為書いておきますが、ピンク色の盛り塩の方が効果があるとかはないです、たぶん。というか私は「盛り塩」をしたつもりはないんですが(笑) 料理で塩をほとんど使わないわが家には、ピンク岩塩ぐらいしかないんですよ、鼻うがい用の。で、致し方なく、ピンク岩塩で退治しました。ナメクジ用に安い味塩を準備しといた方がいいかなぁ…。

 1868年、それまで海外との交易を制限し、閉ざされた環境の中で独特の文化を築いてきた日本が開国し、欧化主義政策をとり始める。それは西洋列強とも称される国々に取り込まれないよう、西洋からの技術を取り込もうとした日本の必死の抵抗とも言えるだろう。この変革は、日本が1200年の長きにわたって築き上げてきた独特の文化の消滅を示唆するものでもあった。

 

 イギリス人冒険家であるイザベラ・バードが日本に降り立ったのは、日本が開国してから10年ほど経った頃である。彼女は日本独特の生活様式を残している地域を中心に旅をし、当時「蝦夷」と呼ばれていた北海道へと渡り、アイヌの生活の調査をする。

 彼女がその眼で見て記した、消える直前の日本の生活文化の記録が、この書籍である。

 都市部では西洋風の生活文化と旧来の文化とが混在している様子、一方で山間部の非常に貧しい昔ながらの暮らしを続ける農民たちの様子などが生き生きと描写してあり、今まさに忘れ去られようとしている「たった一昔前」の日本の様子が非常に鮮烈に映る。加えて、イギリス人女性という「他者」の視点を通して見るからこそ、日本人ならば不思議にも思わないような些細なことに対しても細かい考察や分析を加えてあり、「そこまで大層な分析を加えるほどのものでもないと思うんだけど…」と思わず謙遜してしまう部分もしばしばある。

 

 ルース・ベネディクトの『菊と刀』もそうだが、外国人の目を通して見る日本は、私達が知る日本とは違うものにも感じられる。それは、彼らが興味を持つ部分や視点が違うからそう感じるのかもしれない。よくよくかみ砕いて考えると確かにそういうところがあるかも、と納得する部分もあるが、それは違うと言いたくなる部分もある。「他者」という立場である外国人が見るからこそ、より客観的に物事を捉えることが出来る部分もあれば、外国人からはこういう風に見えているのかと感じる部分もある。どちらにせよ、日本人では気がつかないような部分にも焦点を当てることが出来るのは、外国人だからこそだろう。

 書いたのが日本人であれば、わざわざ気にも留めないようなありふれたものも、ここでは多く描写されている。これらの些細な事柄の中には、今の日本には残っていない風習や、今まさになくなろうとしている風習もある。そう考えると、このバードによる日本の記録は、特に日本に暮らす庶民の生活文化の記録を記した珍しいものであり、古くから連綿と続いてきた「日本文化」に関する貴重な歴史的資料でもあるだろう。

 日本語の文字をローマ字で記載することがありますよね。このローマ字での綴りですが、幾種類かあります。

 ひとつが、ヘボン式と呼ばれるもので、ヘボンという人物が始めた書き方です。英語母語話者が発音しても、実際の日本語の発音に近くなるように綴りを変えているため、例えばサ行であれば、sa/si/su/se/so ではなくsa/shi/su/se/so のように、「し」の綴りが工夫されています。

 二つ目が日本式と呼ばれるものですが、あまり知られてはいません。五十音図を前提として子音と母音を組み合わせて綴りを決める方式のものです。発音の正確さよりも、規則として一貫しているかが重視されてた綴り方です。

 三つ目が訓令式と呼ばれるもので、ローマ字の綴り方を統一しようと、日本政府が定めた綴り方です。訓令式は、日本式のものと表記が同じ部分が多いです。システマチックな組み合わせに基づいた表記なので、元々の音声に基づいた表記ではありません。なので、この表記通りの発音を英語話者が発音すると、だいぶ違う音、というか、明らかに日本語にはないような音になります。

 この三つで、一番綴りに差が出るのが「ぢ」と「ぢゃ」行です。ヘボン式だと、ぢ・ぢゃ・ぢゅ、ぢょ は  ji・ja・ju・jo、日本式だと di・dya・dyu・dyo、訓令式だと zi・zya・zyu・zyo となります。まぁ、「ぢ」なんて文字、滅多に使わないやつので、だからどうって感じですが…。


 京都市バスでは、アナウンスが日本語だけではなく、英語でもアナウンスがなされます。ボーカロイドというのでしょうか、機械なんですけど比較的機械っぽくないように自然なイントネーションをつけて発音しているので、初めて聞いた時は「機械も進化したなぁ」と感動しました。ですが、特に西大路四条の案内をする ”The next stop is NISIOZI-SIZYO.” というアナウンスだけは非常に耳に触ります。私の耳には「にしおーじ・しじょー」ではなく、「にすぃおぅずぃ・すぃぢょぉ」って聴こえるんですよ(すみません、ちょっと盛ったかもしれません(笑))。特に、「すぃ」の部分と「ずぃ」の部分が、すごく気持ち悪い。私以外にも同じように感じている人はいて、外国語に親しんでいる人を中心に、この発音はすごく気になるという話を結構耳にします。

 この原因はおそらく、訓令式のローマ字綴りで地名を入力しているせいだろうと思います。この訓令式ですが、先にも書きましたが、実際の日本語の発音と違うんです。訓令式の英語表記に忠実に発音すると、日本人が普段発音しないような音になるので、すごく気持ち悪くなるんです。文字表記通りの発音をすると、先ほどの例のように「si」は「すぃ」、「zi」は「ずぃ」となります。実際の音に近づけたいのなら、「し」は「shi」、「じ」は「ji」とヘボン式で記載するのがよいです。

 

 なんで政府はこんな実際の発音に基づいていない綴りを公式に定めているのか、すごく不思議ですね…。