①前編 シャルトリューズ修道院 行って来た | 西新宿 Bar BenFiddich(ベンフィディック)

西新宿 Bar BenFiddich(ベンフィディック)

BenFiddichの店名は店主の鹿山博康から由来【Ben】→【山】【Fiddich】→【鹿】
畑を持つ農家バーテンダーであり『Farm to glass』を提唱
日本在来種の自生する草根木皮をもカクテルに変える新しい可能性を模索
アブサン、薬草酒、古酒がゴロゴロ転がるBar

BenFiddichの鹿山です


今回は鹿山の大好きな
シャルトリューズについて書きたい


シャルトリューズは大きく区分けするならば
修道院系の薬草酒だ

修道士が目的は薬として調剤する為に採取された
草根木皮が原型であり、それが現代的には嗜好品として分派したものだ

鹿山はこのドラクエ的世界観が好きだ


BenFiddichには様々なシャルトリューズがある
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Chartreuse vep Jaune 1960's
Chartreuse vep Vert 1960's
Chartreuse taragona Jaune1980's
Chartreuse taragona Vert 1980's
Chartreuse taragona Vert 1970's
Chartreuse taragona Vert 1930's
Chartreuse Vert 1960's 
Chartreuse Jaune 1960's
Chartreuse Vert 1940's
Chartreuse Jaune 1940's
Chartreuse Jaune 1950's
Chartreuse Vert 250th anniversary
Chartreuse Vert SANTATECLA
Chartreuse orange 1970's 


鹿山の所有しているシャルトリューズの古酒達だ


是非味わってほしい

そして話は戻り
今年の四月に嬉しい事があった


あるお方が、弊社 BenFiddichにシャルトリューズの社長を連れてきてくれたのだ



いや、もう鼻血が出そうで
たくさんの質問をさせてもらった



もちろん社長というのは1930年代以降に
シャルトリューズ修道院は生産を信徒であった
民間に委託しているので修道士ではない


社長のエマニエルさんとは『今年中にあなたに逢いに行く』
と約束した



そう、なので鹿山はフットワークが軽いので
社長のエマニエルさんに逢いに
念願であるシャルトリューズ修道院及び、
シャルトリューズ蒸留所へ行ってきた
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シャルトリューズ蒸留所


シャルトリューズ修道院
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ここだ
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山の麓にあるVoironの街にシャルトリューズ蒸留所はある。
しかし、来年度からは蒸留所が移転 赤矢印の山の中
エギュノワールという場所に蒸留施設が移るのだ。
ここは1800年代 シャルトリューズ修道士達がハーブ保管庫に使っていた跡地があり、その土地を活用するそう

青矢印の山中にシャルトリューズ修道院が存在する

そう名前の通りシャルトリューズ山にあるので
シャルトリューズ修道院なのだ

車で険しい山道を走ると辿り着く
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登る
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山のある程度の頂上部付近に開けた場所ができ
フォトジェニックな
そこにシャルトリューズ修道院はあるのだ
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車を置いて歩けば
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到着だ
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もちろん修道院の中には入れない

今でも
30人の修道士達が
毎日祈りを捧げている



毎週月曜日は外出を許されるが
基本的に世俗と隔絶した生活を送っている為寡黙だ




シャルトリューズ修道院の生い立ちは
1084年
ブリューノ聖人が建立した





まずシャルトリューズのボトルにも描かれている
シンボルについて
説明しよう



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Stat crux dum volvitur orbis (ラテン語)

直訳: 十字架は動かず地球は回る

意味
地球は常に自転し、その地球上で起こる全ての物事、全ての生物、全ての感情も変化し続けるいわゆる
諸行無常

その中で唯一無二、十字架=神のみが永遠に不変でありそれは恒久的に倒れることはない




1084年シャルトリューズ修道院を設立した
ブリューノ聖人が作った理念だ
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真ん中に座っているのがブリューノ聖人だ



そもそも、修道院とはなにか
キリスト教においてイエスキリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活をする場所だ
俗世から離れて共同生活のなかに神を希求する
もといそこから
修道士は、修道誓願を行い、厳しい規則にのっとり
禁欲的な修道生活を送る人々




これは現代でも続いている



中世の修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院の一員が手分けして行っていた。そこから、新しい技術や医療、薬品も生まれている。


ではなぜ修道院から新しい技術が生まれたのか


中世の修道院は王権の保護があり、
それによって修道院を建てることができた
これは信徒だけの寄付金のみではまかないきれない
また世俗の地主と違い遺産配分など分散されることもない為、長年をかけて広大な土地を収める地主にもなっていく

そう、経済力があった

経済力があればある種なんでもできる

一般の人が手に届かない、水車、風車を作り
製粉業を行なったり、
最新の農耕具を購入
(この時代の最新は牛を使って畑を肥やす牛耕などのことだ)
生産性も他に比べれば大きかったはずだ

その地盤があれば
医療、学問にも力を注ぐことができる


この時代の医療とは草根木皮からなる生薬だ





これがシャルトリューズの原型だ



ではいつからシャルトリューズ修道院で
シャルトリューズがシャルトリューズになったかというとこと


1605年  
パリからスタートする
パリのシャルトルーの修道士
(シャルトリューズの修道院にいる修道士達と同じ考え方を持ち、信仰する一派
彼らは修道生活には入らない)
が、
Francois Hannibal d’ Estrées 
(フランソワ・アンニバル・エストレ)という軍事外交官より、エリクサーのレシピを寄与される
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このエリクサーがシャルトリューズの信徒に渡り
リキュールの女王と謳われるシャルトリューズの起源だ

しかし、このシャルトリューズの原型の起源は謎のままだ


時系列的にはこの1605年は大航海時代ど真ん中だ


世界中の草根木皮が手に入りやすくなり、
流通が用意になった時代

この時代に更にエリクサーといわれる世界観の材料は使用範囲の幅が広がり研究が進む
その折に誰かが完成させたレシピなのだろう




そこから
この様々な薬草を調合したレシピが100年の時を経て
1735年
シャルトリューズの本山であるグルノーブルの街に伝わり
1737年シャルトリューズの修道院に蒸留所が開かれ、蒸留開始される

この時にできたのが
アルコール度数69%
Elixir Vegetal de la Grande Chartreuseだ




基本的に薬として作られていたエレクシールベジタブルだが、やがて薬としてではなく
美味しいと評判がつき
飲用として嗜好品として飲むものが増える



そこから飲みやすく改良されたのが

1764年 
みんな大好き
グリーンシャルトリューズが誕生だ

これは度数を55度に下げ飲みやすく改良され
今日に至る



そこからはヨーロッパ史でも名高い市民革命



フランス革命1789年勃発

絶対王政、封建的な社会構造に対する蜂起で
フランスの社会構造が壊れた革命である



その一環として
反教権主義な非キリスト教化が推し進められた



なぜか



当時の教会の汚職や上級聖職者の富の占有に対する
抗議から
そこに目をつけ
フランスにおいてカトリック教会が保有していた大量の土地、権力、財産の公的な接収を実現させた


この時代、国家財政がジリ貧だったのでその接収した土地を担保に財政を立て直したのだ



 この時、カトリックであるシャルトリューズ修道院の修道士達も身の危険を感じ国外へ亡命
又は捕まった修道士もいた



事実上解体


しかし、シャルトリューズの修道士でレシピ、製造を担当していた修道士は製法を記した写本を作り秘伝のレシピを守ろうとした
レシピ及び製造を担当していた修道士はその後捕まったが
そのレシピを友人のドムさんに託す



がしかし、ここでドムさん
    

フランスで秩序が戻る気配がないと悟ると
グルノーブルの薬剤師にレシピを手放す&売却



次にグルノーブルの薬剤師は
1810年に古文書として保管するよう帝国内務省に送付した
しかし保管の懸案は内務大臣により却下、
古文書にするほど価値がないとの判断が良くも悪くも下された
またグルノーブルに返還されたので現地の司祭が保管する


そこから時を経て
1789年フランス革命の混乱期から
軍事クーテダーを起こし皇帝に即位した
ナポレオンが失脚する1815年


その翌年


1816年にようやくシャルトリューズの修道士達は
シャルトリューズ修道院に帰ってくることができたのだ
そしてレシピも返却をしてもらう



そして時間をかけて落ち着いた頃に
修道士がこの写本をもとに1835年に再び製造を始め

そう、46年間空白の期間があったのだ



そして1838年
シャルトリューズ.イエローが誕生する



そしてあまり有名ではないが、
1840年
シャルトリューズ.ホワイトが誕生だ
生産期間は1840年~1900年
1880年に一度生産停止
1886年より再開
1886~1900年の期間生産再開するが、またも1900年に生産停止。
アルコール度数は30度である。



話は戻り
1860
蒸留施設を
フルヴォワールという場所に移転

フルヴォワールはシャルトリューズ修道院から少し山を下った場所にある
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もちろん鹿山行ってみた

フルヴォワールのシャルトリューズ蒸留所の跡地
1860〜1935年
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こういった廃墟が建ち並ぶ
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この1860年 蒸留施設をフルヴォワールに移してから生産力が拡大し、
ここから世界のシャルトリューズとして有名になってゆく


そう海外進出を本格的に始めるのだ



シャルトリューズ社長エマニエルさん曰く
1862年 イギリスへ輸出を皮切りに

1865年アメリカ

1867年ロシア

そして日本へは
1890年代に輸出をしていたという事実


シャルトリューズはこの時代に大きく繁栄する


が、ここでまだフランス国内の政変が起きる


1905年に制定されたフランス国内での政教分離法


いわゆる国政、国家と表裏一体だった宗教を完全に分離させることだ


信仰は完全に私的領域として国からの宗教予算を一切廃止とし
無認可の修道会は強制的に閉鎖させられた
例に漏れずシャルトリューズ修道院も解散だ


1903年以降、シャルトリューズ修道会はまたもや解散


問題のシャルトリューズはフランスから離れ
スペインはタラゴナに移る

長々と書いたので続きは後編に書く