去り行く2011年
年も瀬ですね。
2011年。皆さんは自分にとって良い年でしたか?
個人的には初っ端、出鼻を挫かれて。
そして震災があって。大切なものが何かと言うことを改めて考えさせられて
夏にようやく今まで積み上げてきたモノが形になってきて、
けどある一定のレベルから抜け出せず、酒に逃げ
酒を飲み
リズムについて その7
それは「英語」に似ている。確かに英語は、現時点で「世界的な汎用言語」であり、国によっては「公用語」。しかし、それぞれの民族が昔から話しているのは(現在でも)それぞれの民族の言語であり、英語だけが世界を記述する言語ではない。
同じように、現在、欧米のポップスが広く世界中で聴かれているため、その基本となる「4拍子」の音楽が汎世界的に広がっているが、多くの民族音楽は決して「4拍子」を基本としていない。
日本にこの「4拍子」が入ってきたのは、おそらく明治時代。それ以前の民謡や祭りのビートは(4つに数えるなど思いも寄らない)違ったリズムで出来ていたことは間違いない。
実際、何度か日本の伝統芸能や民謡や踊りの音楽に接したとき思い知ったのは、「世界は4つになど数えていない音楽だらけである」ということであり、「よそ者にはどういうビートで数えているのか分からない音楽」にあふれているということだった。
かつて、アジアやアフリカなど非ヨーロッパ文明を植民地化するに当たって、西洋諸国(スペインやイギリスといった国々)は、キリスト教の布教に専念したり、タバコや嗜好品などで懐柔したりした。
それでも、なかなか伝統的な民族的宗教観や価値観を西洋化するのは難しい。そこで多くの血が流されたわけなのだが、20世紀になって、奇妙な「全世界西洋化」のアイテムが、非ヨーロッパ文明を懐柔し破壊するのに一役買うことになった。
その「最強」の武器が「4ビート」の音楽なのだとか。
なにしろどんな未開の文明の住人(特に若い世代ほど顕著なそうだが)も、ラジカセでビート音楽を聴かせると、3日でその虜になる。そして、100年続いた自らの伝統音楽をすっかり忘れてしまうのだそうだ。
その破壊力を「武器」と呼ばずして何と言うべきだろう。
1960年代にロック・ミュージックが登場した時、(自分の国の伝統音楽などほったらかして)熱狂し、新しい時代の汎世界音楽が生まれた。しかし、当初は旧態依然の古い音楽に対する新しい世代の台頭だったこの「ビート音楽」は、その後、コンピュータによるデジタル・ビートが登場してからは、ある種の「汚染」と呼んでも良いような侵食を世界中の文明に対して見せ始める。
そして、気が付くと、テンポの変化(緩急やフェルマータ!)が全くなく、一定のパルスを延々と刻み続けるだけの音楽が世界中に蔓延し、それ以外の音楽を見つけるのがほぼ不可能になった現状がある。これはちょっと由々しき事態なのかも知れない。
もちろん、リズム(ビート)が生み出すこの「音楽の力」は、「世界中の民族、すべての人類が同じ音楽によってひとつになる」という言い方をすれば、素晴らしくも理想的な「夢の実現」と言えなくもない。
しかし、「それ以外の音楽をすべて忘却(絶滅)させる」という側面があることに思い至ると、「ちょっと待てよ」という気になる。
いわく「音楽に国境はない」
いわく「音楽は世界の共通言語である」
この美しくも素晴らしいテーゼは、実は恐ろしい裏の部分を秘めている。
そのことに気付くと、音楽は「怖い」側面を帯びてくるのである。
完
リズムについて その6
多くの場合、4(2)拍子と3拍子の混合(複合)。つまり「2+3」なら「5拍子」、「4+3」なら「7拍子」になる。
一見ひどく複雑そうに思えるが、例えば民族舞踊のダンスの中で「手をパンパンと叩いて(2拍子)、ぐるっと回る(3拍子)」というようなアクションを考えた時、これは「1・2」+「1・2・3」の「5拍子」こそがきわめて自然であることに気付く。
前にも書いたように、人間にとっての基本は「1、2、3」まで。そして踊る振付の基本は「直線的なステップ」と「回転するステップ」の組み合わせである。
とすれば、リズムの基本が「踊る」…という点にある以上、振付やアクションと密接に関わるリズムが、複合拍子になることは、別に不自然でも何でもない。
さらに、この複合の具合が、民族独特の「踊り」と「音楽」に結びつくことも当然と言うことになるだろうか。
この複合拍子をアンサンブルとして複数組み合わせると、「ポリリズム(複リズム)」になる。
この「ポリリズム」というのは、現代音楽の手法としてはストラヴィンスキーが「ペトルーシュカ」で全面的に取り入れた例が有名。これは、例えば4を刻んでいるリズムの上で、5拍や7拍単位のメロディやパッセージを重ねて鳴らす手法。複数のリズムがポリフォニックに複合して同時進行するわけである。
これも、2つの並行ポリくらいなら一種の崩しリズムに聞こえるが、3つ4つと重なってゆくとある種のカオスに聞こえてくる。(実際、ストラヴィンスキーが目指したのも、様々な舞曲があちこちから聞こえてきて雑踏になってゆく描写であり、その点では見事な使い方だ)
そのさらなる進化形として、近代(現代)になって登場した特殊なリズムに「変拍子」というのがある。
これは「4拍子」「3拍子」「5拍子」ところころ拍子を変える作曲法で、いわばリズム崩しの究極に当たるもの。
演奏者にとっては、1小節ごとに拍子が変わるので、安心できず大変な音楽だが、それもそのはず。その裏には「ずっと4拍子や3拍子が連続すると演奏する方もルーズになるので、緊張感を保つため」リズムを変則的にする…という作曲者の思惑もあったりする。
ある意味では、人間にとっての「1、2、3まで」という限界を超えた音楽への挑戦と言えなくもない。
もっとも有名な、そして凄まじい変拍子の例は、かのストラヴィンスキーの「春の祭典」だろう。
1970年代のプログレッシヴ・ロックと呼ばれるジャンルでも一世を風靡したリズム技法だが、リズムというもっとも「直感的」な世界に、数学的な「知性」を持ち込んだギャップが、人間の音楽のある種の臨界を感じさせて秀逸だった。