リズムについて その7 | a day in my life

リズムについて その7

そもそも(これも前回も述べたことだが)、現代おいて音楽の「グローバル・スタンダード」のような顔をして世界中に繁殖している「4拍子」、実は決して人類の音楽の基本ではない。

それは「英語」に似ている。確かに英語は、現時点で「世界的な汎用言語」であり、国によっては「公用語」。しかし、それぞれの民族が昔から話しているのは(現在でも)それぞれの民族の言語であり、英語だけが世界を記述する言語ではない。

同じように、現在、欧米のポップスが広く世界中で聴かれているため、その基本となる「4拍子」の音楽が汎世界的に広がっているが、多くの民族音楽は決して「4拍子」を基本としていない。

日本にこの「4拍子」が入ってきたのは、おそらく明治時代。それ以前の民謡や祭りのビートは(4つに数えるなど思いも寄らない)違ったリズムで出来ていたことは間違いない。

実際、何度か日本の伝統芸能や民謡や踊りの音楽に接したとき思い知ったのは、「世界は4つになど数えていない音楽だらけである」ということであり、「よそ者にはどういうビートで数えているのか分からない音楽」にあふれているということだった。


かつて、アジアやアフリカなど非ヨーロッパ文明を植民地化するに当たって、西洋諸国(スペインやイギリスといった国々)は、キリスト教の布教に専念したり、タバコや嗜好品などで懐柔したりした。

それでも、なかなか伝統的な民族的宗教観や価値観を西洋化するのは難しい。そこで多くの血が流されたわけなのだが、20世紀になって、奇妙な「全世界西洋化」のアイテムが、非ヨーロッパ文明を懐柔し破壊するのに一役買うことになった。


その「最強」の武器が「4ビート」の音楽なのだとか。


なにしろどんな未開の文明の住人(特に若い世代ほど顕著なそうだが)も、ラジカセでビート音楽を聴かせると、3日でその虜になる。そして、100年続いた自らの伝統音楽をすっかり忘れてしまうのだそうだ。

その破壊力を「武器」と呼ばずして何と言うべきだろう。

1960年代にロック・ミュージックが登場した時、(自分の国の伝統音楽などほったらかして)熱狂し、新しい時代の汎世界音楽が生まれた。しかし、当初は旧態依然の古い音楽に対する新しい世代の台頭だったこの「ビート音楽」は、その後、コンピュータによるデジタル・ビートが登場してからは、ある種の「汚染」と呼んでも良いような侵食を世界中の文明に対して見せ始める。

そして、気が付くと、テンポの変化(緩急やフェルマータ!)が全くなく、一定のパルスを延々と刻み続けるだけの音楽が世界中に蔓延し、それ以外の音楽を見つけるのがほぼ不可能になった現状がある。これはちょっと由々しき事態なのかも知れない。


もちろん、リズム(ビート)が生み出すこの「音楽の力」は、「世界中の民族、すべての人類が同じ音楽によってひとつになる」という言い方をすれば、素晴らしくも理想的な「夢の実現」と言えなくもない。

しかし、「それ以外の音楽をすべて忘却(絶滅)させる」という側面があることに思い至ると、「ちょっと待てよ」という気になる。


いわく「音楽に国境はない」
いわく「音楽は世界の共通言語である」


この美しくも素晴らしいテーゼは、実は恐ろしい裏の部分を秘めている。

そのことに気付くと、音楽は「怖い」側面を帯びてくるのである。