私の「興味」も、「関心」も、全ては最終的に、絵…というか、表現の道に集約される。
あらゆる「興味」「関心」は、全てが手への滋養であり、そこから外へ出るものに、反映される。
(描き終わって出来上がった「絵」に対する執着は、ほとんど無い。そこんとこは、比較的理解されにくいのだが、私には完成品を「自分の分身」とか「子どもみたい」とか思う感覚は、ほぼ、皆無に近いくらいに、ない。…もちろん、だから大事にしない、っていう意味では無い)
遊んでますか?
と聞かれ、意味がわからなかった。
それなら、遊んでないんですよ。
と言われ、更に意味不明。
グタグタした時間、睡眠、カフェで一息する時間。
映画や本。
博物館や美術館。
単に歩き回ること。
夜空や雲や、川沿いの風景。
ネットが見せてくれる、世界の人達の作品。
そうした日常の全てが、最終的には絵を筆頭にした手の道に集約される。
「遊ぶ」を、そこから分離する…それは、無意味という以上に、成立しない考え方。
むしろ、全てが遊び…の方が、しっくり来る。
お金の話もしていたけれども。
「今、その道で収入を確保できてるかどうか」ということと、「道」とは、相関関係はあるにしてもイコールではなく。
喰えれば尚よし、という程度の問題。
アナログオンリー時代のデザイン業界に入る頃、たたき込まれたのは「1年や2年で喰えるようになれると思うな」ってことだった。
もちろん、そういうシステムになっていること自体どうなんだっていうのはあるけど、それを言っても始まらない。
その業界の末席にでも連なる気なら、そういう覚悟をしていかないと続かない…ということだ。
今、どういう感じになってるか知らないけど「IT土方」なんて単語があるくらいだから、状況は変わってないところも多々あるのだろう。
個人で作品展をする…という時、会場費諸々の経費を「売り上げでペイできるか」なんてこと、そもそも最初から、考えない。
そんなことを考えてたら、何一つできやしない。
遊びだから、それでもいい。
それがもっと切磋琢磨されて、人に対価をいただけるようになって、喰えるようになっていく…というのは、一つの理想のカタチではあるけども。
(もちろん、そこを視野に据えていくわけだし)
喰えるようになった時でも、その全体が「遊び」だということは、変わらずにいきたいと思う。
遊びたいけど、どうしたらいいのかわからない…とか。
それは、非常に、虚しい生き方に思える。
何をしていたって、遊ぶ要素はある。
生真面目というのは、プラスに働く時はよくても、ひとたびマイナス要素になると、これほど自分を苦しめる気質も、なかなかない。
…そういえば、前に、「遊びが少ない」って指摘したらキレられたこともあったなあ…。
別の人だったけど。
余裕がない…焦りすぎ…という感じのことを総合的に、そう言ったんだけど。
その人には、「手抜きしろ」って言われたみたいに感じたらしく。
それは双方誤解だとすぐ、解消はできたけれど。
遊ぶ、っていうことに、いささか偏向した観念があるのは、猛烈会社員二世時代な私達の年齢層には、めずらしくないのかも…。
折れやすい世界観だと思うよ、その生真面目な感覚は。
すべきことをする、ということと、ガチガチの枠にいっぱいいっぱい、振り回されてしまうということは、全く別の話。
できあがる成果にも差が出るし。
「遊び」のない車なんか、恐ろしくて運転できない。
なんだけど、多くの人が、今でも、遊びのないギチギチ仕様で動いている気がする。
だから窮屈になるんだよ。
重荷があれば、なおのこと。
深刻になりすぎる生真面目さは、緩めた方がいい。
それは、自分のためだけじゃなく、他人のためでもある。
いや、むしろ、他人のために緩めたほうがいい。
あー…もちろん、自分勝手にユルユルすぎる…っていうのは、また別の話だけど…。
…もう一つ補足しとくかな…。
私の場合、感情的にはほぼ、どのようなことにでもフラットな状態の方が多いので、「全て遊び」って言っても、「楽しい~♪」というハイテンションな状態が平常ということではないですよ。
平常が全体で遊び…ということは、遊び自体がフラット、っていうこと。
ハイテンションな楽しさとか、ワクワク感とかを「遊び」という感覚にセットでなきゃおかしい、とか思う人には、ちょっと、意味がわからないかもです。