偏愛と妄執と、幸・不幸 | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

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神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

2009年に、NLPをベースにしたコミュニケーション講座を受けた。
その講座が、今の私へ繋がる最初の目に見える転換ポイントだった。


その中で、ヴィジョンマップを作った。


私は、一部の人には知られてるけども、蔵を偏愛している。
その偏愛は、まさしく偏愛で、私にしかわからない(というか、実は自分でもよくわかっていない)謎の基準があって。
白い壁ならいいかと言うと、そうでもなく。
漆喰ならいいかと言うと、そうでもなく。

必ずコレ、という法則がない。


見て、めちゃくちゃボロな蔵でも、ものすごいツボにはまる時もある。

見向きもしない時もある。


自分でも、その基準がどこにあるのか、よくわからない。


ただ、蔵が装備している「分厚くて小さな窓」…それも、特に観音開き…それがあると、テンションが跳ね上がるというのは、わかっているポイントではある。



で。

蔵がどう好きか…というと。


住みたい。


もともとそういうためのものじゃないから、人が快適に住めるようには出来てないのだけども。
それを、住めるように改装して、住みたい。

それは、かなり昔からずっと、思っていること。

一時期、少しその願望が遠のいたことがあったのだけど、結局は、戻って来た。


今は、単に住むというよりは、仕事場として使いたいのかも、と思っている。

仕事場とセカンドハウスを兼ねる…的な設定。
おそらく、それが一番、願っていることに近いのだと思う。



2009年に作ったヴィジョンマップには、当然のように、蔵の写真が貼ってある。

その時の「蔵をどう使うか」の設定は、すでに今思っているものと同じ。
住居兼仕事場。

その頃は、自分の絵の制作で仕事するとはカケラも思ってなかったので…私が考えていた「仕事」は、主として、インストラクトであり、場所貸しであり、プロデュースであった。
アート系の出版物のコーディネートとかも、視野に入っていた。

(今は、それらの設定が無くなった、ということではない)



そこに書いてあることって、こういうことだ。


「ギャラリーや講座に使える場所を蔵を改装して作る。オフィスも兼ねる」
「半分くらいそこに住む」
「場所貸しは、自分が気に入った相手にしかしない」
「面白い内容のものを企画してきてくれたら、タダで利用してもらって、その代わりに自分を参加させてもらう」


今も、そのまま、それを実行できるようにしていこうとしている(笑)

蔵ではなく、一般的な民家に代わったけど。


蔵を、というのは、今も諦めずに継続中の願望。




蔵。


なんだろうな、この偏愛は。




今直結してるらしい江戸時代の絵師のおっさんは、最後の頃はお堂に籠もっていた。
蔵じゃないし…しかも、楽しい籠もり方ではなかった。


この偏愛のルーツは、また別のところにあるのかも知れない。





過去生とか異次元生ってのを考える時、どうしても、「今の自分の中にある、不合理に思えるような感覚」の元をそこに求める…というのが、出てくる。

それを求めるのは間違いじゃないとは、私は自分の感覚から、思うことだけども。

でも、それは、「絶対にそうだった」ということを保証するものではない。


何か、見える系の人から「○○だったんですよ」と言われたとしても。
その○○に、自分の実際の感覚で、符号することがあるとしても。

だからって、それが「事実」として確定するわけじゃないし。

歴史的に、それらしいものが符号して登場したとしても、だからって、それを「事実」として認定できるとも限らない。


よほどの、第三者以上の人からも「これはそうだな」と認定されるほどのことならば、かなり確率は高くなるだろうけど。

だからって、それが「現実にあったこと」かどうかは、誰にも、何とも言えないこと。



外堀を埋めていくように出てくるいろんなデータを、そのまますぐに「証拠だ」と位置づけてしまうのは、やはり、危ういと思う。

人は、願ったものを見るように出来ている。

そうでありたいという願いが、「それっぽい」ものを「間違いない」と、思わせる。



私みたいに何でもとにかく疑え、というのも、人には勧めないけども。

信じすぎるのも、危ない。



自分の中でだけ信じている…なら、別にいいけども。


たとえば、「あの頃、私に危害を加えた××な奴はオマエだったのか!」なんてことを勝手に断定して、「今の現実」に存在しているその人に対して害意を持つ…とか。
害意まで行かずとも、突然一方的に交友を断つとか、断罪にかかるとか…。

そういうケースも現実に見てきたし、実体験している人たちから話を聞いたこともあるし。

そういう風になりかかっている人、というのなら、もっといろいろ見てきたし。

そういう風に相手を誘導している人、というのも、見てきた。




でも。

今生きている自分が、「かつて敵だったらしき」人だと…自分ではそう思えたとしても。
その相手への判断を、「その時代からの感覚」を軸にして決めてしまう…っていうのは。
ちょっと、待ってほしいな…と。

思うわけ。


また敵対するために、同じ時間枠を選んできた…それは、ちょっと、悲しいよね。
どうせなら、今度はうまく手を取り合うため…と、思った方が、ずっと意味があるように私には思えるし。

がっつり組むため…というのでもなく、通り過ぎざまに「いつぞやは失礼!」って挨拶だけして、それで完了…ということだって、あると思う。


今の自分が、どうしたいのか。
今の自分が、何をしていきたいのか。
今の自分が、どう思うのか。
今の自分が、どう行動するのか。

軸は、あくまでも、そこに在る…というのが、本来生まれて来ている意味だと思うわけだ。


あまりにも、過去生や異次元生からのテーマとか、積み重ねてきた想いとか。

それを、重要視しすぎたり、思い込み過ぎたり…そういうのは、結局。

今、自分がここに居ることの意味…することとか、会う人とか…そういうのを、ないがしろにすることなんじゃないのか…と。

思うのだなあ。


引き継いでいるものは、あると思う。
それは、私も感覚があるから、あると言える。

だけど、それが全て…というのは、違う。


今回から始まる縁ってのも、当然、あるし。
これで終焉する縁ってのも、当然、ある。


強すぎる執着は、妄執で。
それは、今の自分を幸せにはしない。

あまりにも強い妄執は、それを手に入れたら解消できる…という程度ではなくなっている場合が、ある。

満足できない。
もっと、満足感は高いはず。

そう、思ってしまう。



妄執を追っている時間が長いほど、強いほど。

手に入れても、認められない。


そうなると…一体何のために「引き継いできた」のか…根本的なところで、わからなくなってしまう。

それは、悲しいし、不幸だと思うわけだ。




私の蔵偏愛は…現実になったら嬉しいと思う。

けど。

別に、必須ではない。

蔵は、蔵のあるところに行けば、いくらでも見られるし、今は活用されてカフェやギャラリーになっているところも、たくさんある。
なにも、自分のものとして手に入れる必要はない。

手に入れたら入れたで、維持費がどうだの、修理がどうだの…と、メンドクサイことがくっついてくるってのは、わかってるし。

そういうことは、人間関係にも言えることで。


あらゆることが全て、「引き継いだもの」を手に入れるとか実現するとか叶うとか…そのことによって、「よいこと」しか起こらなくなる…なんてわけはなくて。

そのマイナスを補って余るほどのプラスがあるかどうか、ということさえも、結局は、

「自分がそれをどう受け止めるか」

次第で、いくらでも変化する。



あれば幸せ。
なくても幸せ。

自分の付属品によって幸せになろうとする…という時点で、なんかちょっと、違うように思う。




ま。
別に、幸せでなきゃならない、ってこともないんでね。

どういう受け取り方して、どういう風に満足できなくて、だから不幸で…と。
それはそれで、体験の一つには違いないので。

それを経験するために生きてる、っていうのも、アリですから。


無理に幸せになろうとしなくてもいいんじゃね?
とは、思うよ。

不幸な自分ってのも、悲劇の主人公でいたい人にはマストアイテムだろうし。
それはそれで、一つの幸せのカタチかも知れないしね。


ちゃんちゃん。