また、もうすぐ月末 | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

また、月末がやってくる。

今月は半分寝込んでたようなもんだったので、とりわけ過ぎるのが早い。

…いや~…寝込んでただけでなく、後半の半月は「は?」「へ?」「?!」ということが連続して起きたもんだから…。
余計に展開が早くて。


状況の変化に自分がついて行けない、という感じは全然ないのだけどもね。
ついて行けないのは資金だね~(笑)



がんばって、今、投資すれば、先には戻ってくる…とか。
そういうのは、私は、まーーーーーーったく信じてないし、アテにもしてません。

私がするべきことをちゃんとすれば、そして、設定されたラインを越えることができれば。

回収できる部分ってのは、あるのかも知れない。

けど、そんなの。
結果論でしかない。


それをアテに…それを願って、そのために動く…とかいうんじゃあ…私は、ヤル気出ない。


生きていくために、資金はあって困ることはなくて、なくて困ることばかり。
だから、戻ってくるなら、ありがたい。

だけど私は、自分がそれによっては満足しない、ということを、もう、熟知している。



人の幸せなんて、人の数だけ、その姿がある。

多くの人の公約数的幸せというのは、確かに、あるとは思うけど。

その大部分は、メディアや風潮によって作られた仮枠でしかない。

一人一人、突き詰めていけば、同じものを望んでいる人なんて、ほとんどいない。



私のそれは、かなりスキマに位置してるだろうな~とは、思うけど(笑)

自分がやりたいことってのがすでにスキマだから…それは、仕方ない。



私は別に何も目指してない。
どうなりたい、という目標もない。

今の自分は、刻々と過ぎ去る。
その、過ぎ去る自分が描く目標など、その後の自分には意味ないこと。



ただ、「自分に何ができるのか、見てやろう」という…己への観察欲というか…。

「実際に動く自分」を、「俯瞰視点カメラの主自分」が、観賞する…と。
そういう構造が、私の基本にある。


できること、できないこと。
できるようになっていくこと。
しなくなること。
いらなくなること。

そういうものを、俯瞰視点の自分=主たる私は、単に観察し続ける。


どんなに楽しく、大笑いしていても。
必死にがんばってても。
ドツボにはまって凹んでいても。

観察する俯瞰視点は、何も変わることなく、単に観察する。


どうして自分が今、あれもこれもあっちもこっちも…とやり続けられるのか。

大してヤル気もないのに。


その理由は、俯瞰視点からの記録には、ちゃんと、「これが理由」とラベルがついていて。

主観の私、実際にうごく私には、「そこにある」ことがわかっている。


わかっているから、見えてなくてもかまわない。
掴めてなくても、かまわない。


主観の自分に、理由はいらない。

解釈もいらない。

ましてや、第三者からのメッセージなんか、もっともっと…最も不要なもの。

それが、神からでも。






以前…神域に近い領域に関わる仕事をすることで、自分の代替えの効かない何かを対価として出すことになるのかも…ということを、考えていたのだけど。

つい先日、もしそういう事態になったとしても、それは自分が設定していることに間違いないのだ…っていうことが実感としてわかった時があった。

特別なことがあったっていうわけじゃなく。
何気ない時に、すとんと、それが肚に落ちた。


その時は、本当に次の段階に行く時ってこと。

そのための設定が起動する、ということ。



一時はあれほどまでに大事に思えていたある事が、今は、全く気持ちも興味もわいてこない…そういうことが、いくつもある。

手放したんだね、とか、業界の人は言うんだろうけど。

単に、通り過ぎただけの話。


妙な意味づけは、それこそ、無意味。




んー、なんかもう、こんな時間…?
とっとと寝ます。