また、月末がやってくる。
今月は半分寝込んでたようなもんだったので、とりわけ過ぎるのが早い。
…いや~…寝込んでただけでなく、後半の半月は「は?」「へ?」「?!」ということが連続して起きたもんだから…。
余計に展開が早くて。
状況の変化に自分がついて行けない、という感じは全然ないのだけどもね。
ついて行けないのは資金だね~(笑)
がんばって、今、投資すれば、先には戻ってくる…とか。
そういうのは、私は、まーーーーーーったく信じてないし、アテにもしてません。
私がするべきことをちゃんとすれば、そして、設定されたラインを越えることができれば。
回収できる部分ってのは、あるのかも知れない。
けど、そんなの。
結果論でしかない。
それをアテに…それを願って、そのために動く…とかいうんじゃあ…私は、ヤル気出ない。
生きていくために、資金はあって困ることはなくて、なくて困ることばかり。
だから、戻ってくるなら、ありがたい。
だけど私は、自分がそれによっては満足しない、ということを、もう、熟知している。
人の幸せなんて、人の数だけ、その姿がある。
多くの人の公約数的幸せというのは、確かに、あるとは思うけど。
その大部分は、メディアや風潮によって作られた仮枠でしかない。
一人一人、突き詰めていけば、同じものを望んでいる人なんて、ほとんどいない。
私のそれは、かなりスキマに位置してるだろうな~とは、思うけど(笑)
自分がやりたいことってのがすでにスキマだから…それは、仕方ない。
私は別に何も目指してない。
どうなりたい、という目標もない。
今の自分は、刻々と過ぎ去る。
その、過ぎ去る自分が描く目標など、その後の自分には意味ないこと。
ただ、「自分に何ができるのか、見てやろう」という…己への観察欲というか…。
「実際に動く自分」を、「俯瞰視点カメラの主自分」が、観賞する…と。
そういう構造が、私の基本にある。
できること、できないこと。
できるようになっていくこと。
しなくなること。
いらなくなること。
そういうものを、俯瞰視点の自分=主たる私は、単に観察し続ける。
どんなに楽しく、大笑いしていても。
必死にがんばってても。
ドツボにはまって凹んでいても。
観察する俯瞰視点は、何も変わることなく、単に観察する。
どうして自分が今、あれもこれもあっちもこっちも…とやり続けられるのか。
大してヤル気もないのに。
その理由は、俯瞰視点からの記録には、ちゃんと、「これが理由」とラベルがついていて。
主観の私、実際にうごく私には、「そこにある」ことがわかっている。
わかっているから、見えてなくてもかまわない。
掴めてなくても、かまわない。
主観の自分に、理由はいらない。
解釈もいらない。
ましてや、第三者からのメッセージなんか、もっともっと…最も不要なもの。
それが、神からでも。
以前…神域に近い領域に関わる仕事をすることで、自分の代替えの効かない何かを対価として出すことになるのかも…ということを、考えていたのだけど。
つい先日、もしそういう事態になったとしても、それは自分が設定していることに間違いないのだ…っていうことが実感としてわかった時があった。
特別なことがあったっていうわけじゃなく。
何気ない時に、すとんと、それが肚に落ちた。
その時は、本当に次の段階に行く時ってこと。
そのための設定が起動する、ということ。
一時はあれほどまでに大事に思えていたある事が、今は、全く気持ちも興味もわいてこない…そういうことが、いくつもある。
手放したんだね、とか、業界の人は言うんだろうけど。
単に、通り過ぎただけの話。
妙な意味づけは、それこそ、無意味。
んー、なんかもう、こんな時間…?
とっとと寝ます。