本屋でかみさまからの一言を受け取った話。
これは、その続き。
私は、自分の絵に、長い間…本当に長い間、強固な無価値感を持ってきた。
ただ、今は、そこには確かに、ある種の力がある、ということを確信できるようになった。
だから、無価値感自体は、かなり払拭された。
それでも尚、どうしても、なんだか納得いかないことっていうのが、いくつかあって。
そのうちの一つが。
なぜ、わざわざ安くないお金を払ってまで、私の絵を求めに来て下さるのか。
ということであり。
そんな風に感じているのにも関わらず、「じゃあ無償で差し上げます」とは、どうしても言いたくない自分…というものが、なんだか受け入れづらい感じであり。
私は自分のことは大好きだ。
昔はそうでもなかったけど、今は、小難しい理屈を並べてグタグタ言ってる時でも、そういう自分も好きだと言える(笑)
面倒くさいヤツだな、と我ながら思うこともたくさんあるけど。
自分では、そういう感覚もまた、楽しんでいる。
とは言ってもね。
100%違和感が無くなる…ということは、私にはおよそ、あり得ないことで。
あり得ない、という風に確定してしまうこともまた、「あり得ない」ことだけど(笑)
ともかく。
己自身に対する様々な疑問は、一つ解消すればまた次が出てくる…という具合に、尽きることはない。
絵についても、同じ。
一つ納得すれば、二つ三つ、新しい疑問が登場する。
そのうちの一つが。
今日、本屋で聞いたたった一つのセリフで。
流れて行った。
その疑問は、かなり大きな疑問だった。
なぜ、対価をもらって、絵を描くことを望むのか。
趣味でいて、なぜいけない。
もっともっと上手い人、達者な人、いい絵を描く人…あまたの、そういう方達のうち、一体どのくらいの人がお金と引き替えの絵を描いているというのだ。
私は自分が、上手い絵を描く者でないことは、イヤというほど知っている。
また、後世に残るシロモノでないことも、知っている。
そして、特に残って欲しいとも思わない。
お金の授受に「悪いもの」「汚いもの」といったマイナスイメージを持っているわけでもない。
まあ、お金に関するメンタリティは、かなり、ネガティブなものではあるけども。
それも、昔に比べれば相当、軽くなったし。
悪いことだとは思っていない。
ただ。
金銭授受が発生するからには、「それ相当の価値のあるもの」でなくてはならない…とは、思っていて。
根の深い無価値感は、なかなか、その水準にあることを認めなかった。
だからこそ、私は、正当な理由がほしかった。
今日、本屋で不意打ちしてくれた一言は。
私のそういう「理由が欲しい」意識に吹き込んできた。
ほんの一瞬だったとしても。
気持ちが救われるのなら。
それでいい。
「救われる」という表現は好きじゃない。
救うとか、救われるとか。
その表現はイヤだ。
でも、言わんとしていることは、わかる。
私はその方のために時間を、エネルギーを、技術を、物質としての材料を、使う。
それに対価をいただくことは、もちろん、正しいことで。
それもまた、循環の一つであると。
そこまでは、納得していた。
そこまでは、ずいぶん前にクリアしている。
でも、その「価値」と等価交換できるほどのものなのか…ということは。
ずっと疑問だった。
そう感じる方が来て下さるのだから、それでいい。
それも、理屈ではクリアしていた。
そう。
残るは。
私自身の、自身への疑問だけ。
一体、そこにどれほどの価値があるというのか。
だけど…「ほんの一瞬でも」その人が、満たされた気持ちであったり、楽しい気持ちであったり、幸せであったり、感激であったり…なんでもいい。
ほんの一瞬でも。
そういう、エネルギーをチャージしていただけるような瞬間を提供できれば。
もう、それでいいじゃないか。
その一瞬のためにだけ存在する絵であって、いい。
それで、いい。
それ以上の何かを成し得なければムダである…という思いは。
それこそが、思い上がりではないのか。
しょせんは、小さな存在だ。
宇宙から見たら、一片の塵にすぎない。
その小さな存在が、他の誰かの気持ちをほんの一瞬であってもチャージできるなら。
それはもう…奇跡と言ってもいい。
一瞬分、その方をチャージしたら。
その方は、その分だけ…あるいは、それ以上に、別の方の「一瞬分」何かでチャージできるのかも知れない。
そして、また、別の人の「一瞬分」のチャージが、別のところで行われる。
そうやって、続いていく。
ほんの一瞬。
それでいい。
それで、十分。
よし。
オーライ。
これで、自作カードの刷新に本腰いれて取りかかれる。
ほんの一瞬分のチャージ。
そのために、自分にできることは、やっていこう。
うん。