自分が目指す政治家としての未来は? | 川松真一朗の「日に日に新たに!!」

川松真一朗の「日に日に新たに!!」

川松真一朗が日々思い感じた事を記していきます。主に日本政治、ラグビー、相撲。それ以外にも、書きたいことは何でも。東京都議会議員、都議会自民党報道室・事務総長。ジョージタウン大学日米リーダーシップブロクラム修了。

東京都議会議員の川松真一朗(墨田区選出・43歳)です。
 
今年は今まで蒔いてきた種を発芽させ、花を咲かせていく重要な一年になると考えています。コロナが日本で流行した2020年直前まで政治経済に刺激を与えるためのエンタメ、スポーツに力を入れるべきと動き回っている中で、突然の都市封鎖となりました。
 
それでも、コロナが落ち着き始めてからは、様々なところに行き色々な人と出会い、日本や東京の経済を高めるヒントを探り、日本や東京のプレゼンスを上げるために何が出来るかを考え抜いた日々でした。2023年5月にコロナ感染症分類が変更されてからは、とにかく動き続けました。その結果、年末にはかなり重症の体調不良で、私には珍しく忘年会をキャンセルする日が出てくるほどでした。ようやく本調子かなと思っていたら、また年末年始のバタバタ感ですね。
 
さて、私は新年にあたり今年の目標をXでポストしました。
2023年やること
①政治家として自分の進むべきを定める。
→混迷の時代、自分がたとえ1人になってもやらなきゃいけない事があり、今の枠組みでは難しい事を痛感しているので大きな決断の必要性を感じている。
②信頼回復。
→個人としては多くの方に誤解されていること、所属する自民党としても課題を抱えている事からあらゆる手法で取り組みます。
③日本、東京のプレゼンスを高めるために、各種プロジェクトに取り組みます。
④個人としては、この数年間、止まっていたブログ等の文字情報発信を取り組みます。
→X等では、言葉足らずで、多くの皆さんの不満を抱いた事もあったので、ブログ発信を再度力を入れます。
⑤日本大学ラグビー部総監督として
→昨年4月以来精進してきましたが、土壌が腐っているという指摘を拭いきれませんでした。よって、根本的な改革としてラグビー部の解散をも視野に、日本大学ラグビー部再生会議を立ち上げます。
⑥スポーツで日本や東京を元気に。
→私がリングに上がっているDDTプロレス、顧問を務めるブラジリアン柔術のみならず、様々なご相談を頂いているので1つ1つ形にしていくお手伝いに注力します。
⑦エンタメで日本や東京をアピール。
 
以上のような目標を立てました。
それに対して1つずつ掘り下げていきたいと考えております。
 
①政治家として方向性を定めるという点について。
政治に触れた学生時代
私は学生時代から多くの政治家、経済人との交流の機会を得てきました。学生時代には日本大学・岩井奉信ゼミ1期生として、恩師のメディア出演に同行したり、小泉政権時代には21世紀臨調の皆さんと共にする機会が多々ありました。当時は学生であり、恩師の鞄持ちでしたから、ただただその場では、たまに発言の機会があるくらいですが、見聞きした経験は相当に貴重なものでした。学生時代の研究テーマは「政策決定過程論」です。おりしも、従来の手法を壊す小泉政権でしたが、私は郵政民営化反対の立場で、当時の政策攻防を科学的にアプローチしてはレポートをまとめていたものです。
 
その後、テレビ朝日に入社してからは、更なる刺激を求めて若手官僚(外交官含む)や政治関係者で構成される勉強会に参加。この勉強会事務局の方と、桜美林大学・小沢一彦教授の下で「政治参謀学」を学びました。このメンバーから、国会議員や首長になった方も多く、これはこれで私の財産です。

導かれる縁にしたがい
そして、ラグビー協会の会合で、森喜朗ラグビー協会会長と雑談をしている中で「政治の勉強を心底から学びたいのなら、小野晋也に弟子入りしなさい」と言われました。これは2007年の事です。小野さんが松下政経塾1期生、小沢教授が3期生という関係から、森会長の紹介状をもって小沢教授と直ぐに小野事務所を訪ねました。その後、小野さんは2009年の総選挙には不出馬で(とりあえず)政治家引退となるまで、毎週のように小野先生から宿題を頂き、それに対して回答を模索する日々を送っていました。安岡正篤、伊庭貞剛、王陽明などから「アラン、ラッセル、ヒルティ」の幸福論や寺山修司の幸福論など、とにかく政治をやる上でリーダーの心構えを鍛えられた日々でした。今でも、自分が迷走しそうになれば、この時のノートや小野さんから提示された資料を読み込んでいます。
(小野さんは現在愛媛県で後進を育てながら、ご自身の発信も繰り返し行っています。)
元衆議院議員小野晋也の「在野の活動・発想イラ短日記」 (cocolog-nifty.com)
 
2010年には「第1回丸川珠代を励ます会」で内田茂都連幹事長(当時)と初めて名刺交換し、2011年にテレ朝退社時には、あらためて森総理の推薦で内田門下生に。そういえば、私の今となっては宝物の1つが、私の入党申し込み書です。紹介議員は内田茂となっています。
 
加えて、それ以前から親しく知遇を得ていた高島なおき都議会自民党特別顧問(当時)と3人で過ごす機会を沢山頂きました。11年には墨田区長選挙に出馬も次点で落選したのち、夏頃だったか自民党都連に内田・高島両氏呼ばれて、当時の都連事務局長と4人で話し合わせて頂きました。内田さんから「何ための政治に足を踏み入れたのか?」「誰もやった事がない事をやるためじゃないのか」「政治はダイナミックでなければいけない」「役人は専門家、この人たちが最大限に力を発揮できるように方向性を示し、全ての責任を腹括るのが政治家」などなど、様々なご教授を頂き、アカデミックではない実地レベルでの「政策決定過程」を学んだ時間でした。

突然、都議会議員への道が開かれる
そんな中、2013年6月の選挙を約2週間後に控えた時、私がコーチをしていた日大ラグビー部のグラウンで物置きの掃除をしていたら内田さんが電話が入ったのでした。「あのさ、都議選の世論調査をやったら墨田区で2議席取れそうなんだよ。今から、大至急、準備出来るか。墨田の滝沢さんと調整に入る。」そう突然に言われたのです。この時、私は複雑な気持ちでしたが、自分は時の流れに身を任せようと思っていました。おかげさまで、この選挙ではトップ当選。しかも、既に自民党墨田総支部の体制は準備してきた候補者で固まっているから、自前で選挙をやって欲しいという事になりました。結果として、この時に立ち上がった「川松青年部」は何事も代えがたい私の同級生達を中心としたチームです。
 
この時、自民党の獲得議席は57議席。私は最後の候補者であり、かつ最年少ですから、正に57番目の議員でした。そこから私の議員生活は始まりました。それから2016年の小池知事誕生後は、正面きって小池知事を批判する人がいなくなってしまったので、私がメディアに出て語る事も多くなりました。が、ドン内田批判の流れで私も週刊誌に取り上げられることも多々ありましたが、2017年選挙で次点と103票差で再選。今度は、都議会定数127で、「ミスター103」「127番目の男」とも
呼ばれましたが、今では3期目で都議会自民党政調会長を務めています。

この10年で感じていた自分の限界点。
首長と議会はチェックアンドバランスの関係ですが、これはあくまで議会であり、議員ではありません。その意味では、私が都議会議員としてやれる事は連日めいっぱい動いています。それでも乗り越えられない壁があります。これまでも、東京都の各種事業の問題点を指摘しました。昨年は、「若年被害女性等支援事業」の不備を指摘し続けました。それでも、あと一歩届かない1議員の葛藤の連続でした。この空虚を乗り越えるためには、手法・アプローチを変えないといけません。

おりしも、今は、世間の空気は「政治刷新」の気運。私も、自民党員の端くれとして思うところは多々ありますが、今までとは違う動きをしなければ、墨田区のみならず多くの皆さんの期待にはお応えできないと考えています。様々な決断を迫れる年になるし、そうならなければいけないなと強く感じています。
 
結論になりますが、今こそ、
「自分はなぜ政治家を目指したのか?」「自分で歩んできた道はなんだったのか?」「真のリーダーとは?」と自問自答し、なにものにも依らず、圧に屈せず、正義を貫く事。それで選挙で評価されないなら自分の不徳の致すところ。という根本精神を奮い立たせたのです。

今一度、「政治は無限の理想への挑戦」という先人の言葉を胸に1月1日新春の誓いを立てた事をご報告致します。
今年もどうぞ、皆様宜しくお願い致します。
次回は、↓について記します。
②信頼回復。個人としては多くの方に誤解されていること、所属する自民党としても課題を抱えている事からあらゆる手法で取り組みます。