さあ、今週もまいりましょう!
読み応えたっぷりですよ
【但馬オーロラめぐり】
#48 の今回は
株式会社
ビトーアールアンドディー
BITO R&D
の後編です
株式会社
ビトーアールアンドディー BITO R&D
代表取締役社長
美藤 定(びとう じょう)さん
1972年 沖縄で出会った
自分とそう年の変わらないアメリカ兵
彼らの言葉にショックを受けた定さんは
自分がどれだけ恵まれていたか
どれだけ幸せだったか
ただ不幸と思い込んでいただけだった
ということに気づきます
無知は愚かなことだと知り
もっと世界を見ないといけない
もっと世界を知らないといけないと考え
単身アメリカに渡ることを決意しました
と、ここまでが前編のお話
ラジオはアーカイブやタイムフリー機能がないため
もう聞くことは出来ませんが
詳しくはこちらのブログ記事でご確認ください↓
お待たせいたしました!
今回は、後編 -アメリカ編-
へと突入します
1976年
アメリカを旅する方法としては
電車や飛行機
グレイハウンド(長距離バス)
などがありますが
定さんには、自力で行きたい!
という強い思いがありますから
そこはもうオートバイしかないでしょう
テントやらなんやらと共に梱包したバイクは
神戸港からロサンゼルス港へ出航しました
定さん自身は飛行機でロスに向かいます
さあ、まずはイミグレーション、移民局ですね
一応、文教府のふもとにある教会で
日曜ごとに英語のレッスンを受けていたはずですが
しゃべるスピードは速いし
もうまったく意味が分からない!
そこで初めて
言葉が通じない事実に直面
困った~
しかし、人とめぐり合わせたら
最強の定さんですから
たまたま居合わせた英語のできる日本人が
通訳をしてくれます
ま、こんなの
めぐりあいの序の口ですね
滞在期間は?と聞かれ
観光ビザで滞在できる最大の6か月と言うと
何のためにそんな日数がいるんだ?
何をするつもりなんだ?
と根掘り葉掘り聞かれます
まあ、移民局の方の気持ちも
分からなくはないですよね
でも何とか
その日本人の通訳のおかげもあって
無事にビザを取得
ですが、バイクはまだ海の上
テントもありません
仕方なくダウンタウンの安ホテルへ
バイクが到着するまでの数日間
英語のレッスンを受けたのですが
(アメリカは移民が多い国なので
無料でレッスンを受けられる学校が
たくさんあるんですって!)
日本で勉強していた頃は
困ってないから全然身につかなかったけれど
今は困ってるなんてもんじゃなくて
英語が出来ないと何も始まらない
生活できないという極限状態!
そんなときの定さんの集中力はすごいですよ
それはもう、ぐんぐん吸収します
環境というのは大事ですね
時には自分を追い込むことも必要なのかも
定さんの場合、過酷すぎる気もしますが…
そしていよいよバイクが到着
ロングビーチ港まで
バスとヒッチハイクで向かい
税関で引き渡しの手続き
今度は日本人の通訳さんはいません
でもロスの空港に着いた時の定さんと
今の定さんは違います
苦労はしたものの
アメリカを見たいんだ感じたいんだという
熱い思いを伝えて
「お前みたいなやつは見たことがない」と言われつつも
手続きを完了し
ようやくオートバイとの再会
梱包するのにバラバラにしていた部品を組み立てて
いざ、出発!
でも肝心のガソリンが入っていない
「ガソリン無いんですけど、どうしましょう?」
「お前ってやつは…」と
呆れられながらもガソリンを入れてもらいました
定さんと関わる人ってみんないい人だなぁ
それも定さんの人柄ですね
早朝に出てきたはずなのに もう夕方
フリーウェイを走りながら見た
地平線に沈む夕日は
そりゃあもう ドラマティックだったそうです
そして半年間
メキシコやカナダにも足を延ばし
アメリカを縦横無尽に満喫した定さんは
出発地点のロサンゼルスへ戻ってきます
ともに走ったバイクもいろんな所にガタがきていて
日本から持ってきていた部品ももう底をついていました
そこでハリウッドのKAWASAKIのディーラーを訪ねるも
そんな日本のバイクの部品は置いていない
すると、もう少し北のノースハリウッドに
日本人のチューニングショップがあるから
そこならあるかもしれないと教えてくれた
そのノースハリウッドの日本人というのが
オートバイのマフラーで有名な
ヨシムラジャパンの創業者
故吉村 秀雄さんだったのです
部品を手に入れた定さんは
ふつうに自分で修理するわけですが
それを見た吉村さんが
「お前、バイク いじれるのか?ならウチでバイトせい!」
ということで
チューニング技術者としても知られる
日本のオートバイ界の草分け
ヨシムラのオヤジさんの元で
修業することになるのです
何という奇跡の出会いでしょうか
しかし
年末12月から働き始め
年も明けた2月の中旬
なんと会社が火事に見舞われます
フロリダ ・ デイトナビーチで行われるレースまで
あと半月ほどのタイミングでの火事
しかしヨシムラのオヤジさんには
どうしてもレースに出ないといけない理由がありました
一度は挫折したものの
それでは死んでも死にきれないと
リベンジのレースだったのです
チームのみんなと不眠不休で働き
何とか仕上げたバイクで出場した
レースの結果は3位でした
定さん一人の力ではないものの
働き始めて日も浅く
こんな満身創痍の状態での3位
これはもっと真面目に修業したら
1位も夢じゃない
自分でも世界を目指せると確信したそうです
ヨシムラのオヤジさんの元
さらに修業を重ね
その後、定さんは
アメリカホンダのメカニックにスカウトされます
1982年のワールドグランプリでは世界を転戦
その年、本拠地だったベルギーブリュッセルで
出会った女性と恋に落ち
レースなんかしてる場合じゃないと
ふたりで会社を辞め
そのまま世界一周へ出発
突然のロマンスにびっくりしましたが
何だかこのエピソードも
自由な定さんらしいですね
豊岡に戻ってきた定さんが
立ち上げたのが ビトーアールアンドディー
チューニング及びレーシングパーツの
研究及び製造販売を始めました
なにせ商売するのは初めてですから
試行錯誤しながら手探りです
苦労もたくさんありました
大ロマンスの女性との別れもありました
新たなパートナとの出会いもありました
そんななか開発されるのが
二輪車鍛造マグネシウムホイール
通称マグ鍛です
当時マグネシウムホイールの世界一は
イタリアだったそうです
最初は定さんもイタリアに発注していたそうですが
豊岡の弱小企業には
なかなか納品してくれなかったそうで
向こうがミケランジェロの末裔なら
こっちはゼロ戦を作った日本人の大和魂だと
自分で造っちゃったんですね
出来た軽量ホイールを
川崎重工に持って行ったら
「え?日本の豊岡なんて田舎の企業が
こんなん造れるのか?」とびっくり仰天
そこからあれよあれよと
ビトーアールアンドディー は
日本だけでなく世界へ羽ばたいてゆくのです
豊岡ではダメだダメだと認めてもらえず
決められた枠からは
落ちこぼれてしまった定さんですが
バイクと出会ったことで世界が広がり
アメリカに渡り 様々な人との出会いや経験から
少しずつ自信を身につけ
それを心で培養して
さらに大きく育て力にしていきました
定さんのお話を聞いていると
可能性は無限なんだということが
よく分かります
素敵な奥様と二人
これからも夢に向かって
走り続けてください
ちなみに今の夢の一つは
みんなが憩える
庭園を造ることだそうです
5年かかるか10年かかるか分かりませんが
楽しみにしています
2週に渡っての楽しいお話
本当にありがとうございました