民不畏威、則大威至。
無狎其所居、無厭其所生。
夫唯不厭、是以不厭。
是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。
故去彼取此。
民、威(い)を畏(おそ)れざれば、則(すなわ)ち大威(たいい)至る。
その居る所を狎(せば)めること無く、その生くる所を厭(あつ)すること無かれ。
それ唯(た)だ厭せず、ここを以(も)って厭せられず。
ここを以って聖人は、自ら知りて自ら見(あら)わさず、
自ら愛して自ら貴(たっと)しとせず。
故に彼(か)れを去(す)てて此(こ)れを取る。
≪解釈≫
民が支配者の威を畏れなくなれば、大乱が起きるだろう。
民の生活を軽く考えることは止め、民の生活を押さえつけるのは止めなさい。
ただ押さえつけないだけで、民は従うことを厭(いと)わなくなる。
だから、聖人は自分の行いに間違いがないかを知ることはあっても、
自分を知って貰おうと見せびらかしたりせず、
自分をしっかり愛することはあっても、尊敬されようとはしない。
だから、威を捨て、道を取るのである。
≪後述≫
権威で人々を抑えこむことの難しさを教える章である。
人々が為政者の権威を認め、
法と罰による統治を受け入れるのは、
ひとえにそれらが彼らの生活を堅持することになるからです。
しかし、
為政者が
人々の生活を脅かすようになったり、
人々の生活を脅かす危険性が高ったなら、
誰もが為政者の権威を認めるはずはない。
だから、
為政者は自らを弁えて自らを律し、
自らを愛するように人々を愛して、
余計なことをしないようにせよ。
とおっしゃっておられます。
今日という日が
あなたにとって最善、最良の日となりますように!
祈
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≪老子とは?!≫
老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。
「老子」と書いた場合、
人物としての老子を意味することもあれば、
その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。
人物としての老子に関しては、
確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。
また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、
複数の著者がいるのではな
いかという説もあります。
道家(どうか)の思想の原点は、
いうまでもなく老子が著したといわれる
『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。
それでは、
老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。
老子は、
司馬遷の『史記』によると
「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、
姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」
となっています。
また『史記』には、
老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。
走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。
であるが、
風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。
今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。
だから、
もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、
紀元前五世紀頃の人だということが云える。
実在する人物であったならというのは、
老子は生没年代も明確ではなく、
また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、
一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、
その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。
しかし、老子が実在の人物でないとしても、
それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。
逆に、
儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、
老子道徳経は、
多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、
真理をついた思想ということができる。
この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。
これは
「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、
小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。
つまり、人間などというものは、
宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、
人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。
しかし、人間はそういうことも分からずに、
さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。
人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、
自分のものなど何もない。
このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、
人生はもっともっと楽しくなる。
これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。
これまで日本では、
この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。
孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。
それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。
封建時代という階級社会では、
修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、
「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が
受け入れられるはずがなかったのである。
しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。
それはなぜだろうか。
それは、
今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、
精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。
人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、
はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。
富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。
その答えはただ一つ。
「健康で楽しく生きること」ではないのか。
それが人間としての生き方の原点ではないのか。
それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。
まさしく老子は生きているのである。
今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、
宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、
万物はその道から本性(徳)が与えられる。
というところから出たものである。
モラルの意味ではない。