自分の歩幅以上に大股で歩き続ければ、

バランスを崩しやすいし、

すぐ疲れてしまって長い道のりは歩けない。

 

かといって小幅な歩みでは、

なかなか前へ進めない。

 

やはり大切なのは、

自分にあった歩幅で無理をせず、

一歩一歩たゆまず歩むこと。

 

お互いの目標を立てる場合にも、

そんなところに十分な気を配りたい。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

民之飢、

以其上食税之多、是以飢。

民之難治、

以其上之有爲、是以難治。

民之輕死、

以其求生之厚、是以輕死。

夫唯無以生爲者、是賢於貴生。

 

 

民の飢(う)うるは、

その上(かみ)の税を食(は)むことの多きを以(も)って、ここを以って飢う。

民の治め難きは、

その上の為すこと有るを以って、ここを以って治め難し。

民の死を軽んずるは、

その生を求むることの厚きを以って、ここを以って死を軽んず。

それ唯(た)だ生を以って為すこと無き者は、これ生を貴ぶより賢(まさ)る。

 

 

≪解釈≫

民衆が飢えているのは、
為政者達が税の穀物を収奪し過ぎるからである。
であるから、

飢えた民衆の無法な行為は、
為政者達が干渉しすぎる結果なのだ。
これが民衆の無法の理由なのだ。
民衆が死を恐れないというのは、
民衆がその生活を維持するのが苦しいからなのだ。
これが民衆が死を恐れない理由なのだ。
民衆の生活に干渉しないということこそが、
生活を活気づける賢明なやり方なのである。

 

 

≪後述≫

お上が仕事をすると

その仕事の対価は様々な税制度から支払われる。

国や時代によっては税は、

現金だけではなく、兵役などの労働役務も存在する。

それでは、

本業も出来ないばかりか、僅かな収入の人でさえ

税として支払わねばならない。

民一人ひとりでは出来ないような、

治安、治水、灌漑、道路整備、外交、福祉、等々の公共制度が

公共の福祉として浸透するからこそ、

公共の福祉を享受しているからこそ、

納税する気持ちになれるのであって、

不必要な制度や使途が意味不明なものに対する徴税であったり、

収入に対する過度な割合を徴収されることになれば、

誰だって働く気持ちも失せるし、納税する気持ちも失せるのである。

 

これは何時の世であろうとも、

お上や高位公職者が贅沢をする為であったり、

高貴な身分を維持するのに支払っている訳では無い。

 

国を保つことに必死にならないということ。
当然のことですが、

「国を防備しなければ滅ぶではないか」という考えはあるが、

その前に老子 道経 謙德第六十一

夫兩者、各得其所欲、大者宜爲下。

これらの国々がお互いに望みを叶えようとするならば、

まず力のある大国の側がへりくだるべきである。)

である。

 

まずは

首を垂れ、

謙虚になり、真摯になり、誠実になることが

信頼関係を構築する必須不可欠な要因なのでは無かろうか?!

 

これは何時の時代であろうとも、道理であると思う次第です。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

およそ願わずして事が成ることは、

まずあり得ない。

 

エベレストの頂に立つことができるのは、

やはりエベレストに登りたいと願った人だけであろう。

 

もちろん願いを実現するためには、

周到な準備と最後までやり遂げる努力がいる。

 

しかし、それもまず願うこと、

志を立てることなしには始まらないのである。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

民不畏死、柰何以死懼之。

若使民常畏死、而爲奇者、

吾得執而殺之、孰敢。

常有司殺者殺。

夫代司殺者殺、是代大匠斲。

夫代大匠斲者、希有不傷其手矣。

 

 

民、死を畏(おそ)れざれば、

奈何(いかん)ぞ死を以(も)ってこれを懼(おそ)れしめん。

もし民をして常に死を畏れしめば、而(すな)わち奇(き)を為(な)す者は、

われ執(とら)えてこれを殺すを得るも、孰(た)れか敢えてせん。

常に殺(さつ)を司(つかさど)る者有りて殺す。

それ殺を司る者に代わりて殺すは、

これを大匠(たいしょう)に代わりて斲(けず)るなり。

それ大匠に代わりて斲る者は、その手を傷つけざる有ること希(まれ)なり。

 

 

≪解釈≫

民衆が死を恐れなくなるまで追い詰めてしまったら、

どのような刑罰をもって彼らを恐れさせる事が出来るだろうか。

もし、

人々が生を楽しみ死を恐れるような世の中に、

秩序を乱す輩がでたならば、

私はその者を捕えて殺すことが出来よう。

だが一体誰がその刑を実行するのか。

人の生死はそれを司るもの(処刑人)が殺すのだ。

生死を司るもの(処刑人)に代わって人を殺すというのは、

素人が大工に代わって木を削るのと同じことなのだ。

そのような無理をすれば、結局自らが傷つく事になる。

 

 

≪後述≫

この章で老子は賞罰の罰における死刑について、

命の与奪は人が扱うべき範囲を超えているので、

死は天に与えさせよとおっしゃっておられます。


当時、支配者は刑に裁量権があった。

しかし、地位がある限りは裁量権は委ねられていたのだが、

その地位から外れてしまうと、

それ以前の支配者や権力者から新しい権力者に移譲されてしまう。

 

死刑を悪戯に頻発すると、

やがて自分の身に返ってくることになる。

罪人を殺さないのは自分の為でもある。

 

老子 道経 任德第四十九では、

善人は善人として認め、
悪人にもまた善人として接する。
それは本性では善だからである。
正直者にはその正直さを認め、
嘘つき者であろうともその人格を認める。

その本性には、信(まこと)があるからである。

聖人は世の中に平和であり、良く調和して住む。
世の人々は精神的連帯の中に結び合わされて、
聖人はそれら全ての人々を

まるで自分の子どもとして扱うのである。

とそのお考えを述べられている。

 

老子はこの世に悪人はいないと考えており、

老子 道経 巧用第二十七では、

善人は悪人の師であり、悪人もまた善人の反省の手本になる。 

自分の師を尊ばず、

手本を大切にしなければ、

自分は智者と思っていていたとしても、本当は愚かなのだ。

このようなことを「極意」という。 

とも述べられている。

 

罰することよりも、

その悪が蔓延った原因を探求することこそが、

聖人と云われるような為政者であり、

聖人たる為政者が行う政治を

果てしなく目指していくことここそが

為政者であることが述べられている。

と拝察する次第です。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

慣れることの効用は大きい。

 

初めは

ぎごちなかった仕事への取り組みも、

慣れるにしたがって要領がよくなり、

スムーズに運ぶようになる。

 

が、

そこで大事なのは慣れても基本をはずさないこと。

はずせば思わぬミスをよぶ。

 

常に基本を見直し、

基本に戻ることを忘れぬようにしたい。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

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勇於敢則殺、勇於不敢則活。

此兩者或利、或害。
天之所惡、孰知其故。

是以聖人猶難之。
天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。
天網恢恢、疏而不失。

 

 

敢えてするに勇なれば則(すなわ)ち殺され、

敢えてせざるに勇なれば則(すなわ)ち活かさる。

この両者、

或(ある)いは利あり、或いは害あり。

天の悪(にくむ)む所、孰(たれ)かその故を知らん。

天の道は、

争わずして善く勝ち、

言わずして善く応じ、

召さずして自ら来たし、

繟然(せんぜん)として善く謀る。

天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして失せず。

 

 

≪解釈≫

何事も積極的にやっていけば、殺されることになり、

積極的にならないように勇気を出して戒めていくと生かされる。

この両者には、一方に利があり、一方に害がある。

しかし、天が何を嫌うかについては、誰にその訳が分かろうか。

道と一体である聖人でさえ、それを知ることは難しいのである。
天の「道」は争わずに上手く勝つことが出来、何も言わないのに上手く応答し、

招かなくても自分から来させることができ、ゆったりとしていても、

上手く謀(はか)ることが出来る。

天の張った網はとても広大で、網の目は粗いように見えるが、

何も漏らすことはないのである。

 

 

≪後述≫

何事も積極的にやっていけば、殺されることになり、

積極的にならないように勇気を出して戒めていくと生かされる。

この両者には、一方に利があり、一方に害がある。

しかし、天が何を嫌うかについては、誰にその訳が分かろうか。

道と一体である聖人でさえ、それを知ることは難しいのである。

というこの言葉だけ見たとしても、

どうすれば良いのか?!
と途方に暮れる次第である。

 

「是以聖人猶難之」の言葉は、

老子 道経 恩始第六十三にも出ており、

種々の出来事が問題になる前に

小さな出来事をひとつひとつ、

謙虚に、真摯に、誠実に向き合い、

解決、対処出来る人は結果としてそれに勝る大切さが

述べられているのである。

 

天網恢恢、疏而不失。の文末の言葉は、

天網恢々疎にして漏らさずという諺である。

 

天は悪人を捕える為に、

張り巡らせた網の目は粗いが、

悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃さない。

天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがある。

と云う意味なのだが、

もしも捕まらないのなら、

何らかの善性や善行があるのだろうか。

 

天はいつも見ている。

陰日向なく、天に恥ずることのなく、

小さな出来事をひとつひとつ、

謙虚に、真摯に、誠実に向き合い、

解決、対処出来るような人でありたい。

と思う次第である。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

未来はこのようなものになるだろうと予測をしても、

必ずしもその通りになるものではない。

 

好ましい未来をひらくためには、

将来のビジョンを描き、

その実現に向かって、

なすべきことを着実になしていかなければならない。

 

未来は、

予測すべきものではなく、

みずから創造していくべきものなのである。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

民不畏威、則大威至。

無狎其所居、無厭其所生。

夫唯不厭、是以不厭。

是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。

故去彼取此。

 

 

民、威(い)を畏(おそ)れざれば、則(すなわ)ち大威(たいい)至る。

その居る所を狎(せば)めること無く、その生くる所を厭(あつ)すること無かれ。

それ唯(た)だ厭せず、ここを以(も)って厭せられず。

ここを以って聖人は、自ら知りて自ら見(あら)わさず、

自ら愛して自ら貴(たっと)しとせず。

故に彼(か)れを去(す)てて此(こ)れを取る。

 

 

≪解釈≫

民が支配者の威を畏れなくなれば、大乱が起きるだろう。

民の生活を軽く考えることは止め、民の生活を押さえつけるのは止めなさい。

ただ押さえつけないだけで、民は従うことを厭(いと)わなくなる。

だから、聖人は自分の行いに間違いがないかを知ることはあっても、

自分を知って貰おうと見せびらかしたりせず、

自分をしっかり愛することはあっても、尊敬されようとはしない。

だから、威を捨て、道を取るのである。

 

 

≪後述≫

権威で人々を抑えこむことの難しさを教える章である。

人々が為政者の権威を認め、

法と罰による統治を受け入れるのは、

ひとえにそれらが彼らの生活を堅持することになるからです。

 

しかし、

為政者が

人々の生活を脅かすようになったり、

人々の生活を脅かす危険性が高ったなら、

誰もが為政者の権威を認めるはずはない。

 

だから、

為政者は自らを弁えて自らを律し、

自らを愛するように人々を愛して、

余計なことをしないようにせよ。

とおっしゃっておられます。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

“もっとこうしてくれたらいいのに”と、

自分が他人に思うのと同様に、

他の人も自分に対してさまざまな要望を抱いている。

 

面と向かっていわれる忠告もある。が、

無言の要望も少なくない。

 

そうしたいわば声なき声をも敏感に察知し、

それに応えるよう心がけたい。

 

察しあい、応えあいが豊かな人間社会を築くのである。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

知不知上。

不知知病。

夫唯病病、是以不病。
聖人不病、以其病病。

是以不病。

 

 

知りて知らずとするは上、知らずして知るとするは病(へい)なり。

それ唯(た)だ病を病とす、ここを以(も)って病(へい)あらず。

聖人は病あらず、

その病を病とするを以って、ここを以って病あらず。

 

 

≪解釈≫

知っていることを知らないとするのはよろしい。

知らないことを知っていると言う人は具合が悪い。

ただ、具合が悪い人も、

具合の悪さを自覚できれば、快復に向かうだろう。

聖人に不具合がないのは、知らないことを知らないと言えるからだ。

だから、欠点がない。

 

 

≪後述≫

老子は知っていることであろうとも、

知らないとする。

孔子は他人に対して知ったかぶりをするな。

と述べられているのだが、

老子は、

「何でも知っている」と思い込みたがる

虚栄心、立場上知らないとは言えない。

などの遣り取りについて指摘しているのであろう。

 

そもそも人間の知識や理解は、

知っている、知らないの二者択一で語れるものではなく、

一度、聞いたことがある。

何度となく聞いたことがある。

何となく知っている。

人が話しているのを会話として聞いたことがある

    ・

    ・

    ・

 などなど。

 

得てして人は、

「何となく知っている」をいつのまにか「知っている」と思い込みがちである。

常にそのような回答をする人に対して、

自分が知っていると思っていることであろうとも、

まだ知らない。

と人に対する謙虚に答える姿勢を推奨されている

章でありました。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。