和大怨必有餘怨。

安可以爲善。

是以聖人執左契、而不責於人。

有徳司契、無徳司徹。

天道無親、常與善人。

 

 

大怨(たいえん)を和すれば必ず余怨(よえん)あり。

安(いずく)んぞ以(も)って善と為(な)すべけんや。

ここを以って聖人は左契(さけい)を執(と)りて、而(しか)も人を責めず。

徳有るものは契(けい)を司(つかさど)り、徳無きものは徹(てつ)を司る。

天道は親(しん)無し、常に善人に与(くみ)す。

 

 

≪解釈≫

深刻な怨みから来る争いを

無理やり和解させたとしても、

必ず火種が燻り続けているものだ。

どうしてそれが善い事だと言えるだろうか。

だからこそ道を知った聖人は、

例え契約や法によって正義が自分にあろうとも

相手を責めたりはしない。

徳のある者は債券を管理するだけ、

徳の無い者は無慈悲に取り立てを行うと言われるのである。

天のやり方には依怙贔屓が無く、

いつも善人の味方をするのである。

 

 

≪後述≫

勝てば官軍という言葉があるが、

勝てば良いというものではない。

 

どのような争いであろうとも、

必ず落とし所というものがある。

 

躾であろうが、

討論であろうが、

口論であろうが、

武力を用いた戦争であろうが、

必ず適切な落とし所は存在するのである。

 

ただ単に自らの正しさ、正義を頼りに

相手をコテンパンに何処までも追い詰めることを

傲慢と云わずして何と言うのであろうか。

 

仲裁とは、

有徳な人にとっては解決させるためのものであり、
悪徳の者にとっては相手を罪に追い込むためのものである。

 

本章の文末に

「天道は親無し、常に善人に与す」は、

老子 道経 虚用第五では、

多言數窮。不如守中。

仁愛を幾ら言葉で言い表そうとも

実行出来ずに終わるのならば、

余計な事は言わない方が良い。

 

適切な落とし所が見出せないなら、

仲裁をしなければ良い。

 

それでも仲裁をしなければならないならば、

その仲裁に仁愛を示すために、

その登場人物、経緯、経過等々について

真摯に、謙虚に、誠実に、公正に

見つることから始めなければならないであろう。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

「棚からぼた餅」という言葉があるけれど、

棚からぼた餅が落ちてくるようなことは、

そうそうあるものではない。

 

物でも情報でも、

あるいは仕事の成果にしても、

得たいものを得るためには、

やはりまず強く求めること。

 

求めずして得られることは、まずあり得ない。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

和大怨必有餘怨。

安可以爲善。

是以聖人執左契、而不責於人。

有徳司契、無徳司徹。

天道無親、常與善人。

 

 

大怨(たいえん)を和すれば必ず余怨(よえん)あり。

安(いずく)んぞ以(も)って善と為(な)すべけんや。

ここを以って聖人は左契(さけい)を執(と)りて、而(しか)も人を責めず。

徳有るものは契(けい)を司(つかさど)り、徳無きものは徹(てつ)を司る。

天道は親(しん)無し、常に善人に与(くみ)す。

 

 

≪解釈≫

深刻な怨みから来る争いを

無理やり和解させたとしても、

必ず火種が燻り続けているものだ。

どうしてそれが善い事だと言えるだろうか。

だからこそ道を知った聖人は、

例え契約や法によって正義が自分にあろうとも

相手を責めたりはしない。

徳のある者は債券を管理するだけ、

徳の無い者は無慈悲に取り立てを行うと言われるのである。

天のやり方には依怙贔屓が無く、

いつも善人の味方をするのである。

 

 

≪後述≫

勝てば官軍という言葉があるが、

勝てば良いというものではない。

 

どのような争いであろうとも、

必ず落とし所というものがある。

 

躾であろうが、

討論であろうが、

口論であろうが、

武力を用いた戦争であろうが、

必ず適切な落とし所は存在するのである。

 

ただ単に自らの正しさ、正義を頼りに

相手をコテンパンに何処までも追い詰めることを

傲慢と云わずして何と言うのであろうか。

 

仲裁とは、

有徳な人にとっては解決させるためのものであり、
悪徳の者にとっては相手を罪に追い込むためのものである。

 

本章の文末に

「天道は親無し、常に善人に与す」は、

老子 道経 虚用第五では、

多言數窮。不如守中。

仁愛を幾ら言葉で言い表そうとも

実行出来ずに終わるのならば、

余計な事は言わない方が良い。

 

適切な落とし所が見出せないなら、

仲裁をしなければ良い。

 

それでも仲裁をしなければならないならば、

その仲裁に仁愛を示すために、

その登場人物、経緯、経過等々について

真摯に、謙虚に、誠実に、公正に

見つることから始めなければならないであろう。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

竹は節があればこそ、しなやかで強い。

 

ともすれば、とりとめもなく流れゆく日々、

ときには立ちどまり、

自分なりに時の節目をつくり大切にしたい。

 

年に一度、月に一度、週に一度、日に一度、

身辺を整理するもよし、反省を加えるもよし。

 

そうした時の節目の積み重ねから

長い人生に耐える知恵と力が次第に生まれてくる。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

天下莫柔弱於水。

而攻堅強者、莫之能勝。

以其無以易之。
弱之勝強、柔之勝剛、

天下莫不知、莫能行。
是以聖人云。
受國之垢、是謂社稷主、

受國不祥、是謂天下王。
正言若反。

 

 

天下に水より柔弱(じゅうじゃく)なるは莫(な)し。

而(しか)も堅強(けんきょう)を攻むる者、これに能(よ)く勝る莫し。

その以(も)ってこれを易(か)うるもの無きを以ってなり。

弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。

ここを以って聖人は云(い)う、国の垢を受く、これを社稷(しゃしょく)の主と謂(い)い、

国の不祥(ふしょう)を受く、これを天下の王と謂うと。

正言(せいげん)は反(はん)するが若(ごと)し。

 

 

≪解釈≫

この世に水よりも柔らかく弱々しいものは無いが、

それでいて固く強いものを打ち破ることにおいて

水に勝るものも無い。

その性質を変えることのできるものが存在しないからである。

弱いものが強いものに勝ち、柔よく剛を制すとは世によく知られたことだが、

それを行うとなると難しい。

そこで道を知った聖人は言うのだ、

「国家の屈辱を甘んじてその身に受ける者、その人が国家の主であり。

国家の災いを甘んじてその身に受ける者、その人が天下の王である」と。

本当に正しい言葉は普通とは逆の様に聞こえるものだ。

 

 

≪後述≫

柔軟で平静であり、

平穏を保ちながらも、

強く固い石をも打ち破る水に例えて、

柔軟に遜り、

時として様々な屈辱にも耐え得る処世術の教えの章であろう。

膾炙(かいしゃ)する諺には、

臥薪嘗胆と云う言葉があるが、

薪の上に寝て苦いきもをなめる意から。将来の成功を期して苦労に耐えること。​​​​​​​

このような言葉は見聞きしてはいても、

実際に自分が屈辱を受けるとなると、

怒りで我を忘れてしまうのが人間というもの。

老子が生きた春秋戦国時代は戦乱の時代であったが、

覇権を目指し、

領土の維持、拡張を目的とした戦闘だけではなく、

国家や君主の権力を維持することが

主たる目的になっていることであり、

余り有用な戦闘では無かったことが

多過ぎたことは事実なのです。

 

無価値な争いで生命を失い、

失った生命の数が増えれば増えるほど

国家を滅亡させることに直結していることは

当然の報いだと思うのです。

 

強くあるためには弱くなくてはいけない。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

”棒ほど願って針ほど叶う”という諺がある。

 

棒ほどに大きな願いを抱いてこそ、

針ほどのことが実現する。

 

それが世の常の姿であるということであろう。

 

お互いに、

たとえ厳しい現実の日々にあっても、

常により高い志を抱き、大きな夢を描き続けたい。

 

そしてその実現に、地道な努力を重ねたい。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

天之道其猶張弓與。

髙者抑之、下者擧之。

有餘者損之、不足者補之。

天之道損有餘而補不足。

人之道則不然、損不足以奉有餘。

孰能有餘以奉天下。

唯有道者。

是以聖人、爲而不恃、

功成而不處、其不欲見賢。

 

 

天の道はそれ猶(な)お弓を張るがごときか。

高き者はこれを抑え、下(ひく)き者はこれを挙(あ)ぐ。

余りある者はこれを損(そん)じ、足らざる者はこれを補う。

天の道は余り有るを損じて而(しか)して足らざるを補う。

人の道は則(すなわ)ち然(しか)らず、

足らざるを損じて以(も)って余り有るに奉(ほう)ず。

孰(た)れか能(よ)く余り有りて以って天下に奉ぜん。

唯(た)だ有道の者のみ。

ここを以って聖人は、為(な)して而も恃(たの)まず、

功成りて而も処(お)らず、それ賢を見(あら)わす欲(ほっ)せず。

 

 

≪解釈≫

無為自然の天の道は、弓に弦を張るときと似ている。

上の部分は下に引き下げ、下の部分は上に引き上げる。

弦の長さが長すぎれば短くし、短すぎればつぎ足す。

この様に天の道は余った所を減らして足りない所を補っているのだ。

しかし人の世の道はそれとは逆で、

足りない所からさらに奪って余っている所に補っている。

自らに余るものを人々に分け与える者は誰であろうか。

それは道を知った者だけである。

そうして「道」を知った聖人は、何かを成し遂げてもそれに頼らず、

過去の功績に何時までもしがみつかず、自分の賢さを人に誇る事も無い。

 

 

≪後述≫

自然の働きは、

弓を天に向かって引いた様子に似ている。

頂点であるほどに下に戻ろうとする力が強く、

底辺であるほどに上に上がろうとする。

余分に持っている者が損することで、

足りていない者に補われるのが自然なのである。

 

聖人は分配しても見返りは求めず、

成功しても目立つ場所にはおらず、

名声が高まることを望まない。

 

富の分配を適正に行うことは、

政治の重要な仕事の一つである。

人間の歴史は、

富の分配方法を巡る闘争の歴史である云っても過言ではない。

 

重要であることは、

富の分配方法と富のバランスなのである。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。

 

 

この人生、

運がよい、悪いはたしかにある。

 

しかし、

すべてが運だけで決まってしまうのかといえば、

決してそうではない。

 

努力を尽くし、

人事を尽くして実力を養い高めるためるうちに、

自分の運がひらけてくることも少なくない。

 

努力が運を生かすのである。

そう考えて日々を送りたい。

 

追伸

野村克也元野球監督

「自分は運が悪いなあ」と嘆くのは簡単。

 

しかし

不運(良い結果が出ない)には必ず、

それなりの理由がある。

 

そして幸運にも、

それ相当の過程がある。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

日に日に

多様化する顧客のニーズに対応するため、

さまざまな才能や個性が求められている。

 

意見あるものは意見を言い、

能力ある者は

その能力を存分に発揮しなければならない今日は、

“出るクイは打たれる”の時代ではない。

 みんながそれぞれに、

 “出るクイ”をめざす時代になっているのである。

 

追伸

「平静の祈り」「静穏の祈り」とも呼ばれる、

ニーバーの有名な言葉です。

 

自分の力でできることを精一杯行い、

自分の力ではどうしようもない運命は受け入れる。

 

そんな賢い生き方をするためには、

何が自分にできて、

何ができないのかを見極めることが大切です。

 

人生に悩んだ時は、

静かな部屋でそっとこの言葉をつぶやいてみましょう。

 

あなたの行くべき道が見えてくるかもしれません。

 
 

本日もあなたの貴重なお時間を頂戴し、

ありがとうございます。

 

今日と云う日が

あなたにとって最良の日となりますように

 

                       祈

 

苫米地英人集大成メソッド『オールライフコーチングプログラム』

 

人之生也柔弱、其死也堅強。

萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。

故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。

是以兵強則不勝、木強則折。

強大處下、柔弱處上。

 

 

人の生まるるや柔弱(じゅうじゃく)、その死するや堅強(けんきょう)なり。

万物草木(ばんぶつそうもく)の生まるるや柔脆(じゅうぜい)、

その死するや枯槁(ここう)なり。

故に堅強なる者は死の徒(と)にして、柔弱なる者は生の徒なり。

ここを以(も)って兵強ければ則(すなわ)ち勝たず、木強ければ則ち折る。

強大なるは下(しも)に処(お)り、柔弱なるは上(かみ)に処る。

 

 

≪解釈≫

人の身体は生まれた頃は柔らかくて力が弱く、

老死に近づく頃には固くて強い。

どんな植物でも若木は柔らかくて潰れやすいが、

死ぬ間際は枯れて節くれ立つ。
つまり、

堅くて強い者は死に近く、柔らかくて弱い者は生に近い。

だから、兵を増強しても勝てない。

強い木はたわめれば必ず折れる。

強さと兵力を頼るのは下策とし、

力を控えめにして柔軟に対処するのが上策とする。

 

 

≪後述≫

生命すなわち自然の法則は、

自然界は強ければそれで生き残れるという単純なものではなく、

自然の法則に則って、

たとえ弱くとも環境に適応、順応する為の能力を高めることの

必要性について語っておられる章なのである。

 

人も自然界の中で生きている一員。

 

人も自然界の御一員であることを自覚、認識し、

自然界をよくよく知った上で自然界の法則に基づいて、

柔軟に生きよ。

 

老子 道経 道化第四十二では、

「強梁なる者はその死を得ず。

吾れ将に以って教えの父と為さんとす。

(強梁者不得其死。吾將以爲教父。)」とご教示されており、

老子は、肝に命じて教えの根本にしようと思う。

と述べられておられます。

 

 

今日という日が

あなたにとって最善、最良の日となりますように!

                        

                             祈

苫米地英人集大成メソッドオールライフコーチングプログラム』

 

 

 

≪老子とは?!≫

老子とは春秋時代(B.C.770~B.C.403)の思想家で、道教の始祖です。

「老子」と書いた場合、

人物としての老子を意味することもあれば、

その学説を記した書である『老子』を意味することもあります。

 

人物としての老子に関しては、

確かな記録に乏しく、実在を疑う人もいます。

また、書物としての『老子』は老子単独で書いたものではなく、

複数の著者がいるのではな

いかという説もあります。

 

道家(どうか)の思想の原点は、

いうまでもなく老子が著したといわれる

『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。

それでは、

老子とはどんな人物であり、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。

老子は、

司馬遷の『史記』によると

「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人であり、

姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」

となっています。

また『史記』には、

老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。

走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。

であるが、

風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。

今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。

だから、

もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、

紀元前五世紀頃の人だということが云える。

実在する人物であったならというのは、

老子は生没年代も明確ではなく、

また、老子道徳経の内容や文体を考察するならば、

一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、

その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。

しかし、老子が実在の人物でないとしても、

それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。

逆に、

儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、

老子道徳経は、

多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、

真理をついた思想ということができる。

この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。

これは

「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、

小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。

つまり、人間などというものは、

宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、

人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。

しかし、人間はそういうことも分からずに、

さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。

人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、

自分のものなど何もない。

このことに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、

人生はもっともっと楽しくなる。

これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。

これまで日本では、

この老子の思想というものはあまり重要視されて来ませんでした。

孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。

それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。

封建時代という階級社会では、

修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、

「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が

受け入れられるはずがなかったのである。

しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。

それはなぜだろうか。

それは、

今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、

精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。

人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、

はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。

富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。

その答えはただ一つ。

「健康で楽しく生きること」ではないのか。

それが人間としての生き方の原点ではないのか。

それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。

まさしく老子は生きているのである。

今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、

宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、

万物はその道から本性(徳)が与えられる。

というところから出たものである。

モラルの意味ではない。